密室の石像
『月神の間』は、礼拝堂の四分の一ほどの広さの、同じく円形の部屋だった。
石造りの高い天井に大きな天窓がひとつあるだけの、ガランとした空間である。
後から入ってきたユージュが、部屋の壁に取り付けられた数基の燭台に蝋燭の火を移してゆく。室内は徐々に明るさを増したが、天窓から十分に月明かりが降り注いでいるため、もともと視界に支障はなかった。
その天窓の真下にこの部屋の主がいた。
「これがオドナスで唯一のアルハ神の像だ」
セファイドがそう言って見上げる。サリエルも彼に並んだ。
人間の等身大よりやや大きい立像である。白く滑らかな石から掘り出されており、同じ石でできた高い台座に乗っている。
――緩やかに波打つ頭髪も痩躯に纏いつく長い衣装も、水を掬うような形で胸の前に掲げられた両手も、白い石で作られているとは信じられないほど精巧だ。月明かりが石に刻まれた陰影をくっきりと浮かび上がらせ、今にも息をしそうに見える。ひとつの国を造り、いずれ裁きを下すとされる神は、しかし優しげな表情で彼らを見下ろしていた――。
「ああこれは……とても古いものですね」
サリエルは立像を凝視しながら呟いた。見入っているのかもしれないが、その横顔からは感情が窺い知れない。
セファイドは頷いた。
「誰の手によるものなのか、記録は残っていない。この神殿が造られた時にはすでにあったとも聞く。案外、神自身が造ったのかもしれんな」
「神というより、人のように見えます」
「俺もそう思う」
彼は腕を組んで、やや感慨深げな目をする。
「まだ子供の頃、父に連れられて初めてこれを見た時、純粋に綺麗な人だと感じたよ。それでいてひどく恐ろしかった。アルハがこの姿で現れる時は、国が滅ぶ時だと聞かされていたから……それでも会ってみたいとは思ったがな」
言いながらゆっくりと後ろへ下がって、立像とサリエルを同時に視界に収めた。
不思議な色が、その表情に浮かぶ。単純な計算間違いに気づいた優等生のような、実に意外そうな、彼にしては珍しい軽い狼狽。
「おや……並べて見るとそうでもないか」
「どうかなさいましたか?」
「おまえを初めて見た時、以前にどこかで会ったことがある気がした。このアルハ神像に似ているのだと、少し前に思い至ったんだが……」
セファイドは苦笑して首を傾げた。
「容姿はあまり似ていないな。どうして似ていると思ったのか……自分でも不思議だ」
「それを確かめに、私をここへ?」
「見事に外したよ」
なぜか安堵したように言う。
彼は腰から剣を外し、上着を脱いで神像の下に広げると、そこへ腰を下ろして台座に背を凭せかけた。
「おまえも座れ。夜が明けるまでここは出られんぞ」
「一晩中お祈りをなさるのでは?」
「その方は神に祈りなど捧げませんよ、絶対に」
室内すべての燭台に火を灯し終えたユージュがやって来て、最後に手に持っていた燭台を神像の前に置いた。
彼女は短い黒髪を首筋に流しながら、
「この国の誰よりも不信心で罰当たりなお方です。月神節の夜でさえ、毎年ここで神官長と雑談をするか、そうでなければ居眠りをして過ごされると、先代から聞いています。さすがに楽師を連れ込んだのは初めてですけれど」
そう言って自分もその場に座り込む。
「は、今更何を。異民族のおまえたちを神官に登用した時から、信仰など捨てている」
「それは逆ですね。陛下は王位に就かれた時から、神も、神の戒めも信じてはいらっしゃらなかったはず。だから私たちを登用できたのです。サリエル様、どうぞお座りになって下さい」
「本当に率直に言う女だな、この俺に向かって。サリエル、いいから座れ」
やり取りを黙って眺めていたサリエルは、二人から勧められて腰を下ろした。
石の床は少し冷たい。一晩中ここで祈りを捧げていた先代までのオドナス王にとっては、あまり恵まれた環境とは言えなかっただろう。
天窓があるせいで空気がかすかに流れて、蝋燭の光が揺らめく。
生き物のような妖しい陰影が、車座に座った三人の上半身を行き来した。
ユージュはサリエルの整った顔と白いアルハ神像を交互に見て、薄い唇に笑みを浮かべた。多少、意地の悪い微笑だった。
「なるほど、陛下が似ていると思われたのも分かります。顔立ちではなく雰囲気ですね」
「うん、そうかもしれん」
「今夜この方をわざわざここへ連れて来られた理由……陛下はこの方を見て、不安になられたのではありませんか? 否定したはずの神を思い起こされて」
彼女は笑みを深くした。
「アルハが人の姿を取って現れるのは、オドナスが滅ぶ時だとされていますから」
おまえとおまえの血族が我の心に背き非道な行いをした時は。
その時は、この湖を黒く濁らせ波を炎に変え、再び砂の中に消すだろう――。
しばらくの張り詰めた沈黙の後、セファイドは声を上げて笑い出した。誤魔化すためではない、本当に楽しげな笑い声である。
「おまえを後継に選んだ先代は見る目があったな。その洞察力は驚嘆に値する」
彼は皮肉かどうか分からない賛辞を述べたが、怒ってはいないようだった。対してユージュも平気な顔をしている。
初めて、サリエルが口を挟んだ。
「なぜ不安になられたのでしょう?」
「何?」
「滅びの時にアルハ神が降臨するというのなら、まず先に罪があるはずです。陛下が私をご覧になって神のお姿を思い起こされたとは光栄ですが……そう思われる原因はご自身の中におありなのでは? 裁かれるべき罪のお心当たりが」
セファイドの顔から笑みが消えた。
黒い強い眼光が正面から楽師を射る。
再び沈黙が落ちる。
澱のような、重苦しい静寂だった。室内の空気の密度が増す。気の弱い者ならその場を逃げ出していてもおかしくない。
サリエルは視線を逸らすこともなく、穏やかにセファイドを見返している。ユージュもまた興味深げに耳を傾けた。二人とも神経の太さが常人とは違うのだろう。
「罪……か」
セファイドは低い声で呟く。
「それを聞いてしまったら、サリエル、ユージュ、おまえたちを生きてここから出すことはできなくなるぞ」
ゆらり、と蝋燭の炎がひときわ激しく揺らめき、セファイドの彫りの深い顔立ちに大きな影を落とした。
神殿の中ではあるが、正装の彼は帯刀しており、その気になればいつでも抜くことができる。
サリエルはそっとヴィオルを撫でた。
「無理にお聞きしようとは思いません。ただこの部屋は……血の臭いがします」
ユージュの目が鋭く細まる。何か思い当たる節があるのか――。
セファイドは――大きく息を吐いて台座に凭れた。
殺気が抜けている。
「何年経とうと、分かる者には嗅ぎ分けられるのか…」
彼は疲れたように目を伏せた。
快活で悠然とした平素の様子とはずいぶん違う。楽師と神官を前にして初めて見せる、物憂げな表情だ。
「まあいい。長い話になるが、夜伽には丁度いいかもしれん。サリエル、静かな曲を弾いてくれるか」
「はい」
ヴィオルから艶やかな音色が響いた。人の声を妨げない程度の音量で、心地よい旋律が流れ始めた。
セファイドは天窓から覗く濃紺の空を見上げた。
「二十年前、俺はここで、このアルハ神像の前で、実の兄を殺したのだ」
先のオドナス王シェダルには、三人の男児と一人の女児がいた。
正妃との間に長男ミルジムと王女タルーシア、二人の側室の子としてそれぞれ次男フェクダと末子セファイドである。
当時まだオドナスは砂漠の数ある都市国家のひとつにすぎず、シェダルも周囲の国と協調して大国と距離を取ることに腐心していた。娘のタルーシアを歳の離れた隣国の王に嫁がせたのも、自国の安寧を守るためである。
聡明で気の強い少年だったセファイドは、小国の王としての父の苦悩を理解しながらも、そのような弱腰の外交に歯がゆい思いを抱いていた。もし自分が父の立場なら、と考えずにはいられなかった。
しかし、オドナス王家の慣例に従って王太子に指名されたのは、嫡男であり正妃の子でもあるミルジムであった。
ミルジムはセファイドとは違い、内向的な性格だった。頭は良かったが、大勢と交わるよりも独りで読書をしたり植物を観察することを好んだ。
もしもオドナスが絶対の平和と繁栄が保障されているような大国なら、一代くらい彼のような人間が王位にあってもそれほど問題ではなかっただろう。
だが当時のオドナスは、細心の注意を払って他国と付き合わなければ瞬く間に侵略されてしまう小国であった。次代の王が国の舵取りに失敗することは許されず、シェダルはミルジムに後継者としての厳しい教育を施した。
よく言えば物静かで心優しく、悪く言えば気が弱くて自己主張のできない性質のミルジムは、それでもその優しさゆえに父の期待に応えようと必死で努力していた。
彼は三つ年下の弟であるセファイドとは幼い頃から仲が良く、王太子となってからも胸の内を語ることが多かった。後継者の責任と重圧、それは彼の内向的な気質とは到底相容れないもので、自己矛盾に苦しんでいる兄の気持ちがセファイドには手に取るように分かった。なぜ自分ではないのか――兄を慰め励ましながらも、湧き上がってくる嫉妬心を抑えるのは難しかった。
兄弟の中で自分がいちばん優秀だという自負が、セファイドの中にはすでにあった。勉学でも剣術でも、また王宮の中での人望でも、誰にも負けていない。
事実、明るく活発で人懐こいセファイドの周囲には自然と人が集まるのだった。
ミルジムの教師として、王宮には軍師や学者や芸術家や様々な種類の人間が訪れる。彼らともセファイドはすぐに打ち解けて、熱心に話を聞いていた。
自分が王位に就けば、きっと兄上より優れた王になれる。いやもしかすると今の父上よりも――それなのに末子の自分には許されないのか。
才気ある若者らしい思い上がりが大きくなるのと反比例して、セファイドは日増しにミルジムを冷めた目で見るようになっていた。
後継者に指名された時点で思い悩んでいる気の小さい男に、国家元首が務まるはずがない。ただ長男に生まれたというだけで――。
しかし決して憎んでいるわけではなく、力尽くで王位を奪うなど考えられなかった。父のことも兄のことも、セファイドは心から愛していたのだ。
表面上は謙虚に兄を支えながら、彼は自身の野心と愛情の間で常に煩悶を続けていた。
「あのまま兄が国王の座に着いていれば、俺は摂政になって兄を補佐しながら、案外うまくやれたかもしれない。だが俺が十七歳、兄が二十歳の時、あれが起こってしまった」