神の島
晩餐会が始まってすぐに退席したセファイドは、迎えに来た三名の神官とともに王宮の裏へ向かった。
途中、風紋殿近くの回廊に差しかかった時、弦の音色がふと耳朶に届いた。
この辺りは招待客の立ち入りは禁止されている。
薄暗い回廊の先に、サリエルの姿があった。楽師はヴィオルを弄ぶようにその弦を指で弾きながら、空を眺めていた。月が昇るのを待っているのかもしれない。
セファイドに気づくと、彼はそっと頭を下げた。
「どうした、こんな所で? どこかの馬鹿にしつこく言い寄られたか?」
「いえ」
サリエルは少し笑った。
「某国の大使に、国に来てくれたら領地をやるとは言われましたが」
「ふん、おまえを間者としても使うのも面白いかもな」
セファイドは足を止めて何事かを考え、再び歩き出して、
「今から神殿へ行く。一緒に来い」
と短く命じて先へ進んで行った。
唐突な命令に当惑することもなく、サリエルは後を追う。神官たちは顔を見合わせたが、結局何も言わずに従った。
回廊は風紋殿の裏手まで繋がっていて、その先に湖と王宮を隔てる堤防が見えてきた。
石積みの堤防の一部分に鉄製の門扉がついていて、松明を持った衛兵が二人立っている。兵士は王の姿を認めると恭しく一礼して、門を開けた。
門の向こうには緩やかな傾斜の浜が広がり、湖に突き出した桟橋が造られていた。木製の桟橋の端には東屋のような瀟洒な屋根がついていて、数艘の小舟が舫われているのが見える。
楽器を抱えたサリエルは、湖面から吹いてくる微風に目を細めた。
西の空と湖の境界をわずかに紅く残して、夜はすっかり天空を覆っていた。東の低い位置に赤金色の巨大な月が浮かぶ。
「ああ、もう月が昇るな。急がないと」
言葉とは裏腹に、セファイドはそれほど焦ったふうもない。彼の白い上着の裾が風に軽くはためいた。
桟橋では、三人の衛兵と二人の神官が灯りを手に待っていた。セファイドが近づくと兵士は脇に避け、神官たちは接岸した白い小舟に乗り込んで彼を迎えた。
ここは王宮と神殿を繋ぐ渡し舟の乗船場なのだろう。
セファイドとサリエル、随行する神官三名、船頭役の神官二名を合わせて合計七名の大人が乗っても、舟にはまだ余裕があった。従者の多い王族が利用するため、若干広めに設計されている。
船艫の部分に作り付けられた柔らかい布張りの椅子に、セファイドは慣れた様子で腰を下ろした。低い櫓の軋みとともに、舟はゆるゆると水面に滑り出す。
桟橋では兵士が深々と頭を下げている。彼らはこの先は同行できないのだ。
彼らの持つ灯りが、少しずつ夕闇の向こうへ遠ざかっていった。
舟が静かに接岸した時、対岸の浜で花火の打ち上げが始まった。
鮮やかな色彩の光の花が暗い夜空に大きく開き、少し遅れて低い破裂音が響き渡る。ここからはかなり遠いが、そのぶん花火の全景が見渡せた。
黒い布の上に輝く宝石を撒き散らしたような眺めは、王宮から見るのとはまた趣が異なっていた。爆音と硝煙からは距離を置いた、どこか静謐な光景である。光を映す湖面も穏やかだ。
まさに神聖な島からの眺めに相応しい――。
神殿側の桟橋には、ユージュ神官長をはじめ数名の神官たちが出迎えに来ていた。
ユージュは舟から降りてきたサリエルに気づいて、それからセファイドを見た。無表情な彼女の眼差しからわずかに非難を感じて、セファイドは息をつく。
「今年はこれも同行させる――そんな顔をするな」
「陛下がそれをお望みならば、私どもから申し上げることは何もございません」
これ以上ないくらいに素っ気なく言い放って、ユージュは背を向けた。
神殿へと続く石畳の道を歩き始めながら、セファイドは小声でサリエルに言った。
「我が国で最も優秀で、最も可愛げのない女だ。幼い頃から知っているが、泣いたところなど見たことがない」
「聞こえていますよ」
先導するユージュは前を向いたままぼそりと釘を刺す。
相変わらずの固い声ではあったが、周囲の神官たちの空気が少し和んだようだった。皆、慣れているのだろう。
道は緩い勾配で小高い丘へと伸びている。道の脇には一定の間隔で松明が燃えていて、足元ははっきりと見えた。
ユージュの隣を歩く若い神官がサリエルを気にしてか、ちらちらと振り返る。そのため何度か躓きそうになって、ユージュに窘められていた。カイ、と呼ばれている。
丘の上の木々の間に、やがてアルハ中央神殿が見えてきた。
白い石で造られているはずの神殿は、いまは夕闇に紛れてくすんだ色合いをしている。木立との境界線すら曖昧だ。だがもう少しして月が高く昇れば、皓々とした月光の下で白く輝くように存在感を増すはずだった。
円い礼拝堂を中央に、三階建ての建物が左右対称にそびえ立つ姿は、大きな鳥が両翼を広げたように見える。
王宮をはじめとする王都の建物とは明らかに様式が違っていた。建造された時期に関する正確な記録は残っていないが、一説によると四百年前の建国時にまで遡る可能性もあるらしい。
「内部の改装はしたが、改築はしていない。たぶんオドナスで最古の建築物だ」
セファイドは近づいてくる神殿の輪郭を指差す。
「中央の礼拝堂は、新月の日にだけ市民に開放している。向かって左側の建物が資料や宝物の保管棟、右側は神官たちの居住棟だ」
「こちらには全部で何名の神官がいらっしゃるのですか?」
「百十三名……だったかな」
ユージュは無言で肯く。それが彼女の一族の人数なのだろう。
近づくにつれ、建物の壁や柱に細かい浮き彫りの模様が刻まれているのが見て取れて、サリエルは感心したようにしばし足を止めた。
模様は人や動物ではなく、抽象的な幾何学模様だ。神学を修めた者が見れば何らかの意味を読み解けるのだろう。
王都の建物のほとんどは、平坦な壁に鮮やかな彩色が施されている。砂漠の眩い陽射しの中で映えるそれらとは対照的に、神殿の立体的な装飾は陰影を引き立てるようだった。
正面の入口は、やはり砂漠の他の家屋とは異なり、青銅製の分厚い扉で閉ざされていた。人の背丈の倍はあるその扉にも、一面に何かの模様が彫り込まれている。
ユージュが前に立つと、扉は重々しい軋みを上げて内側に開いた。
内部は礼拝堂である。
王宮の礼拝堂よりずっと広く、天井も高い。新月の礼拝には毎回たくさんの市民が訪れるが、入りきらなかったことはなかった。
正面奥の祭壇に続く通路に、燭台を持った神官たちが並んでいた。
老若男女様々ではあるが、全員がユージュと同じような異国の顔立ちをしている。一瞬ここがオドナスではないかのような錯覚を覚える、不思議な光景であった。
ユージュの先導で、セファイドとサリエルは通路を進んだ。
礼拝堂の中の空気はひんやりと冷たい。石造りの建物がそうさせているのかもしれない。
通路の先の祭壇は、普段神官が祈りを捧げる場所である。しかしそこには鐘や杯などの祭礼に使う道具は並んでいても、祈りの対象となる神の像や絵は一切なかった。
神の姿を写さないのはアルハ信仰の特徴であった。そんなことをしなくても、月神は常に夜空にある。
彼らは祭壇を迂回して、その裏手に回った。
祭壇の後ろ、礼拝堂の最奥には、さらに奥へ続く小さな扉があった。
ユージュは懐から取り出した金属製の鍵で扉を開ける。扉の向こうには狭い廊下が伸びていたが、真っ暗で先が見えない。
「……これより先は、王族と神官以外立ち入れない場所です」
彼女はカイと呼ばれた神官から燭台を受け取って、念を押した。
「本当によろしいのですね陛下? 楽師様をお通ししても」
「ああ」
「では、どうぞ」
他の神官たちはここで待つらしい。ユージュはセファイドとサリエルを連れて扉を潜った。
蝋燭の灯りに照らされて、廊下の壁と天井がひと続きのアーチ型をしているのが分かる。礼拝堂とは対照的に天井が低く幅も狭く、廊下というより隧道のような雰囲気だ。
彼らの背後で扉の閉まる音が響いた。
蝋燭のほのかな光だけが、心許なく足元を照らす。
セファイドはサリエルの様子を窺ったが、彼は左腕にヴィオルを抱えたまま真っ直ぐ前を向いているようだった。
まさかこんな暗闇の中で見えるはずがない――そう分かってはいても、銀色の両目は闇の向こうの何かをはっきりと捉えているように思えた。
数十歩歩いたところで、また小さな扉に突き当たった。
ユージュは先ほどと同じ鍵で扉を開け、脇へ避けた。
「お入り下さい。『月神の間』です」
暗い廊下の向こうへ消えた三人を見送って、カイは扉を閉めた。
夜明けとともに国王と神官長が戻ってくるまで、誰も通せない。建国の満月の夜に執り行われる国王の祈りは神聖なもので、例え戦争が起こっても妨げてはならない――という決まりになっている。
「何でユージュはあの楽師の同行を許したんだ?」
礼拝堂に集まった神官たちの中から、一人がカイにそう訊いた。
オドナス語ではない、彼らの間だけで使われる言語である。咎めるような口調だった。
「王のお気に入りだか何だか知らないが、まさかここのことまで知られてるんじゃないよな?」
「……僕には何とも言えない。でも知られていちばん困るのは国王だろう。信用できない相手に喋るとは思えない」
カイは低い声で答える。
温厚で頭もいい青年だが、今ひとつ態度に自信が感じられないのが欠点だ。冷静沈着なユージュの傍にいると余計にそう見えてしまう。
案の定、同年輩のその神官も納得できない様子で、
「そんなこと分かるものか。ここと俺たちのことが外にバレたらどうなるか……ユージュは分かっててよそ者を入れたのか?」
「落ち着けよ、リヒト。ユージュだって得体の知れない人間を中には入れないって」
「あの流れ者の楽師の素性が分かってるって言いたいのか? あ……!」
リヒトと呼ばれた神官ははたと気づいて、それから改めてカイに食ってかかる。
「おまえ、少し前にユージュの依頼だとかで、誰かの毛髪を分析に回してたよな? あれもしかしてさっきの楽師のじゃないのか?」
「わ、分からないよ。僕も聞かされてないんだ」
「まったく何のための副官なんだよおまえは! じゃあハル! 分析室の君なら知ってるだろ?」
リヒトは仲間の一人を振り返った。
名指しされたのは、少し年上の女性神官である。彼女は頭に血が上ったリヒトを冷静に見返して、
「確かに依頼されたわよ。でも私たちは分析して、データをユージュに渡しただけ。結果の解釈は彼女にしかできない」
「情けないこと言うなよ。君ならある程度読めてるはずだろ」
「そうね……」
ハルは腕を組んで指で唇をなぞった。ユージュとは違い、薄く紅を引いている。
「普通とは少し違っていた、としか言えないわ」
「普通と違うって……」
「いい加減にせんか!」
彼らの会話に、年配の神官が割って入った。
白い髭で、年齢はカイたちの親の世代より上だろう。背筋はしゃんとしているが、礼拝堂の神官たちの中では最も年長に見えた。
「我々の長はユージュだ。長の語らぬことについておまえたちが余計な推測をすべきではない」
「しかしゼンさん、ここで下手を打つと俺たち全員が危険に晒されるんですよ」
「そんなことはユージュとて分かっておるはずだ。あの子は一族の中でもっとも思慮深く、洞察力に優れている。だからこそ先代はあの子を次の長に選んだ。ユージュがあくまで国王の意思に従うのなら、我々もそれに倣わねばならん」
老神官の声は凛として礼拝堂に響いた。その物静かな迫力に押されて、リヒトも黙り込んだ。
彼はカイたちだけでなく他の神官たちも順番に見渡して、子供を諭す父親のような口調で続けた。
「オドナス王に逆らってこの地を追われれば、我々はまた流浪の民に戻ってしまう。『第二世代』のおまえたちも幼い頃のことを覚えているだろう。王に拾われる前の暮らしがいかに苦難に満ちていたか――我々は何としてもここで生きていかねばならんのだ。それが分かっておるからこそ、ユージュは王に求められるまま我々の知識と技術を提供している。すべて一族を守るためだ」
「……ユージュを信用して下さい、みんな」
カイが、真摯なというより思い詰めたような表情で口を挟んだ。
普段どこか気弱な彼がこういう顔をすると、ひどくひたむきさが感じられる。
「あいつはあんまり考えてることを口に出さなくて、無愛想で冷淡に見えるかもしれないけど、誰よりも自分の責任を分かっています。みんなを危険に晒すようなことをするわけがない」
副官という立場ながら、ユージュの考えは彼にも分からなかった。それでも彼女の人となりは、幼い頃から傍にいたぶん誰よりもよく知っている。
神官たちの間に、受容と諦めの気配が流れた。
カイは扉に向き直り、ユージュの帰りを待った。