花火
昼食を抜いているので腹が減っていた。今は歌よりも食い気だ。
湿布が効いているのか、痛みはほとんどなくなっている。医者には消化のよいものをと言われているが、と彼は手近なテーブルを見回した。
建国祭に訪れた各国の使節からの献上品で、普段以上に珍しい料理が並んでいる。実際、どこをどう食べてよいのか見当がつかないものもあって、ナタレは困惑した。
これ、どう見ても亀だよなあ――甲羅を皿にして盛りつけられた肉の塊が湯気を立てている。
彼が気味悪げに眺めていると、視界の端に薄緑色の色彩が揺れた。
「ナンツン湾産の海亀の煮込みよ、それ。美味しいわよ」
にっこりと笑ったのは、若葉色の衣装を着たリリンスだった。
彼女は鼻歌交じりで亀の煮込みを皿に盛り、ナタレに差し出した。
「はいどうぞ。よかった、ようやく会えたわ」
「あ、ありがとうございます……」
ナタレは戸惑いながら受け取って、ちょっと匂いを嗅いだ。香辛料のいい匂いだ。思い切って口に入れると、意外と柔らかくて美味しい。
あっという間に一皿平らげたナタレを、リリンスはにこにこ笑いながら見詰めている。お腹を空かせているのはよく分かっているから、まずは食べさせてやろうと思ったのだ。
「もう怪我は大丈夫みたいね。心配してたの」
リリンスがようやく話しかけた時、ナタレは焼いた鵞鳥の腿肉にかぶりついているところだった。
慌てて口元を拭って、
「ええ、打ち身だけですみました」
「私も見てたのよ、ナタレと兄様の試合。二人とも強くてすっごく面白かった!」
茶会を勝手に抜け出した彼女は、その興奮の代償に正妃から物凄く叱られた――はずだった、本来なら。
実際は、アノルトが闘技会で戦ったという情報が先に正妃の耳に入り、そのことに憤慨した正妃はリリンスへの小言など忘れてしまったらしい。結局リリンスはお咎めなしで無罪放免されたというわけだ。
ナタレは荒事好きの王女を苦笑交じりに見詰めて、
「アノルト殿下は俺の三倍はお強かった。敵う相手ではありませんでした――今はね」
と答える。そこに混じった好戦的な響きを敏感に感じ取って、リリンスは少し表情を曇らせた。
「ねえ……ナタレは兄様と仲悪いよね?」
身も蓋もない指摘に、ナタレは虚を突かれて口ごもった。
「仲悪いとか……俺はそういう立場ではありませんし……」
「こんなこと、私が言うのもアレなんだけど」
リリンスは遠慮がちに前置きをしながらも、迷いのない口調で続ける。
「アノルト兄様はいずれオドナスを継ぐ人よ。王太子の指名こそまだだけど、必ずそうなる。兄様は強くて賢くて寛容で、でもいったん排除すると決めたら容赦がないわ。たぶんそこは……お父様より融通がきかないくらい」
実の兄を冷静に分析する彼女が、ナタレは意外だった。もっとこう、盲信的に兄を慕っているのだと思っていたのだ。
「ナタレは将来ロタセイの王様になるんでしょう?」
「は、はい」
「歳が近いから、どうしたって治世は重なると思うの。あなた自身にとっても、あなたの国にとっても、兄様とは仲良くする方が得策だわ。友達になれとは言わないけれど、少なくとも絶対に敵に回しては駄目」
責任感と自尊心の間で、いつもナタレがもやもやと悩んでいることを、リリンスはバッサリと切り捨てた。
そうなのだ、どんなにナタレがアノルトを嫌っていても、アノルトがオドナス国王になれば服従せざるを得ない。でなければロタセイに未来はないだろう。
「姫様は……ご立派です。俺はなかなかそんなふうには割り切れない」
情けなさそうな顔をするナタレに、リリンスは口元を緩めた。姉のように大人びた笑顔になって、
「お父様がよく言ってるの。好き嫌いだけで人との付き合いを決めちゃいけないって。でも損得だけで判断するのもつまらないって。ちょうどいいところって、難しいよね」
王宮の中で大事に育てられて、天真爛漫に振る舞っているように見える彼女も、実はとても気を遣って生活しているのかもしれないとナタレは思った。王女とはいえ王宮の外で生まれた身――ナタレには想像もつかない苦労があり、嫌な思いも散々してきたのだろう。
「分かりました、姫様。努力してみます」
ナタレにはそう答えるのが精一杯だった。
その時、ドン、という低く大きな音が響いた。
ナタレも他の客も、驚いて辺りを見回す。次の瞬間、北の空に鮮やかな色彩の輪が浮かび上がった。
「あ、花火が始まったわ!」
リリンスが空を指差した。
続けざまに音が響いて、王宮の白い建物の向こうの夜空に、輝く光の花が開いては消える。客の間から歓声と拍手が起こった。
昨年の建国祭はほとんど学舎の中で過ごしていた。こうやって間近で花火を見るのは初めてのナタレは、まずその音に驚き、それから素直に綺麗だと思った。
「アルサイ湖畔で打ち上げてるの。毎年の恒例なのよ」
リリンスは背伸びをして空を見上げている。
「もっとよく見えるとこ行こうよ、ナタレ」
「でも姫様、また勝手に出歩くと……」
「王宮の敷地内だし、今は大丈夫よ。兄様たちもお母様も、お客様の相手で忙しいもの。お父様の代理でね」
華奢で柔らかい手に手首を握られ、ナタレの鼓動が速まった。
年頃の少年らしい相手の戸惑いなどまったく気にせず、リリンスは予想外の力強さでナタレを引っ張って中庭を駆け出した。
「代理って……陛下はいったいどこで何をなさってるんですか?」
晩餐のテーブルと植栽の間を擦り抜けながら、ナタレは先導のリリンスに尋ねる。
「お父様はアルハ神殿に行ったわ」
「神殿に?」
「そう。今夜は建国の満月だから、国王は中央神殿に篭って一晩中祈るのがしきたりなのよ」
もうすでに月は出ているはずだ。建物があって今は見えないが、もうすぐ中庭からでも眺められるくらいに昇ってくるだろう。
二人は中庭を抜けて、それから王宮の建物を突っ切って、裏庭に出た。
裏庭の先には堤防がある。学舎の造りと同様である。
「こっち。ここから登れるの」
リリンスは迷わず堤防の一箇所に近付く。見たところ階段らしきものはない。
彼女が衣装の裾をたくし上げるのを見て、ナタレは慌てた。よじ登る気か。
「お、俺が先に登りますから」
「何で? 私いつも登ってるよ?」
裾を捲くった王女の後を登れるはずがない。どうしてそういうことに無頓着なんだろうか、この子は。
ナタレはちょっとこめかみを押さえて、それから先に堤防を登り始めた。
堤防の壁はぴったりと石が詰まっていたが、所々に指と足先を掛けられるだけの隙間がある。リリンスの指示した場所から登ると、ちょうどいい具合にその隙間が続いているのだった。
意外と楽に上まで登り詰めて、ナタレがリリンスに手を貸そうと振り向くと、彼女はすぐそこまで自力で辿り着いていた。いつも登っているというのは本当らしい。
「わあ、ほら綺麗!」
リリンスは感嘆の声を上げた。
堤防の上からは、濃紺の空と黒い湖が一望できた。何も遮るものがなく、花火はより大きく鮮やかに視界に飛び込んでくる。
打ち上げ場所は昨日音楽会が開かれた浜の辺りらしい。爆音が腹腔を震わせて、その度に巨大な光の輪が夜空に咲いた。
パッと開いてすぐに消えるのや、長く尾を引いて火花が流れるのや、光の粒に分かれてあちこちで輝くのや、色も白、赤、青、緑、と実に様々だった。
東の空の低い位置には、ひときわ大きな赤味がかった月が悠然と姿を見せている。花火は、その通り道を華やかに演出するかのようだった。
二人は並んで堤防の上に腰を下ろして、しばし無言で花火を眺めた。
リリンスの顔は、花火が上がる度にそれぞれの光の色に照らされる。とても、美しかった。
「……あと何回、この花火が見られるのかなあ」
ふいにリリンスが呟いて、その横顔を見ていたナタレは急いで目を逸らした。
「何回、とは?」
「あと何年かで、私はお嫁に出されちゃうでしょ。国外へ嫁いだらそうそう戻って来られないから」
リリンスの口ぶりは軽やかだった。それが当然、といったような。
だが本当にそれを受け入れているのなら、わざわざこうやって口に出さないだろうとナタレは思った。
「姫様はいいんですか? その……国策で結婚が決まるっていうのは」
「どこの王族でもだいたいそんなもんじゃない」
普通はそうなのだろうが、この姫君に限っては違うような気がしていたのだ。周囲がどう言おうが、自分の相手は自分で決めると言い張りそうだった。
気持ちが顔に出ていたのか、リリンスはナタレの様子を見て笑った。
「王族の結婚は外交なのよ。私は外交官として行くの。行き先は選べないけど、そこで自分の力が生かせるのならやりがいがあると思わない? 今までオドナス国民の税金で美味しいものを食べて綺麗な服を着て……だからそのぶん国のために働く義務がある」
人の上に立つ覚悟、大勢の者に傅かれる人間の義務――この若い王女は、すでに理解しているようだった。
王侯貴族の中でさえ、一生それに気づかずに生きる者も多いというのに。
「……俺もそういうふうに考えることができれば、もっとロタセイのためになることができたのかも」
ナタレは大きく溜息をついた。何よりも自分に対して。
人質だ、などと卑屈にならずに、この場所で見識と人脈を広めればよかった。
実際は人質なのだとしても、心の持ちようで世界は変わる。自分の置かれた状況を、もっと柔らかく前向きに受け止めるべきだった。
自分の内ではなく外側を見てみなさい。世界はすぐそこにある――以前にサリエルから言われた言葉の意味を、ナタレは少し理解した。
「ナタレもいずれここを出て行くのよね」
リリンスはちょっと寂しげに言った。大きく開いた花火の青い色が、彼女の黒髪を同じ色に染める。
「じゃあ、今夜私たちがここで一緒に花火を見ているのって、凄く貴重なことだね。王都で過ごすお互いの時間が重なって、その一瞬で出会えて仲良くなれたんだから」
ロタセイが落ちるのがもう数年先なら、あるいは王女の結婚がもっと早ければ、二人は砂漠どころか大陸さえ隔てて、お互いの存在すら知らずに一生を送っていたかもしれないのだ。
リリンスの言葉は不思議とナタレの胸に響いた。
彼女との出会いに何か意味があるなどと大それたことは考えないが、ただこの時間が宝物のように大切に思えた。
砂漠の中からたった一つの宝石を見つけ出したかのように。
二人はお互いに笑顔になって、それからまた空を見上げた。
この宝石を心の中にしまっておけば、この先何があっても進んで行ける――若い彼らはそんなふうに信じた。
この章はちょっとベタな展開になってしまいました。
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