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水面の月を抱く国  作者: 橘 塔子
第三章 祭礼の情景
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晩餐会

 闘技会はこれでお開きとなり、鳩尾を押さえながら戻ってきたナタレを、興奮した仲間たちが迎えた。


「いい試合だったぞ!」

「やっぱりおまえ凄い!」


 頭を撫でられたり肩を叩かれたり、揉みくちゃにされながらもナタレはどこか上の空だった。

 フツは血で汚れた彼の顔を自分の袖口で拭ってやった。


「大丈夫か、おまえ?」

「ああ……」

「惜しかったなあ。木剣が折れへんかったら……真剣なら勝てたかもやぞ」


 ナタレは目つきを厳しくして友人を見た。


「真剣だったら序盤で負けてたよ。軽い木剣だったからあれだけやり合えたんだ。もう腕に力が入らない」


 唖然とするフツの前で、ナタレは唇を噛んだ。

 見せつけられたのは歴然とした基礎体力と経験値の差。2歳の年齢差があるとはいえ、それ以上の開きをひしひしと肌で感じた。

 まだまだだ……俺はまだまだ足りない。

 だが不思議と悔しくはなかった。今までアノルトに対して感じていた訳の分からない恐怖心と劣等感、それが納得のできる形で自分の中に収まったような気がした。


 ナタレが黙りこくってしまったので、フツは心配そうに顔を覗き込む。


「ほんまに大丈夫か?」

「……大丈夫だ。みんな、応援してくれてありがとう」


 彼にしては珍しく、友人たちに向かって素直に頭を下げた。極度の疲労でいつもの堅い殻が割れ、本来の彼の姿が現れているのかもしれない。


「賞金で何か奢るから」


 少年たちの間から、歳相応の賑やかな笑い声が上がった。





 妹の姿を見つけて、アノルトは少し驚いたが何も言わなかった。彼女のことだから、母親の元を抜け出してきてもそう不思議ではない。


「兄様、お疲れ様でした」


 リリンスはテラスに上がってきたアノルトに上着を指し出す。心から安堵している様子が分かる。兄の強さを信じながらも心配はしていたのだろう。

 アノルトは左手でリリンスの頭を撫でた。右の掌は剣を握っていたせいで汚れている。


「少し危なかったか?」


 セファイドが興味深げに訊いたが、彼は即座に首を振った。


「まさか」

「どうだった、あの子は?」

「基礎は身に着いているようです。未熟ですが、才はあるのでしょう。ただあの剣筋は、兵士ではなく暗殺者向きです」


 アノルトは左の首筋を撫でた。

 ロタセイからの留学生は、力で敵わないと見るや狙いを急所に絞ってきた。確実に一撃で仕留めるために。


「将来ロタセイを治める立場に就くのなら、もう少し従順性を学ぶべきです」


 冷徹な物言いに、セファイドは笑った。


「おまえに本気で向かっていくとは、ずいぶん素直だと思うぞ」

「父上が煽ったからですよ」


 うまく抑えてはいるが兄は不機嫌だ――リリンスは不安げに眉をひそめる。

 兄様、ナタレにとどめを刺せば満足だったの?

 さすがに口には出せなかった。




 闘技会の後すぐに待機していた医師の診察を受けたが、右腕と鳩尾の怪我は打撲で済んだようだった。どうやら骨に異常はないらしい。

 ただ、湿布を貼ってもらっている最中にナタレは嘔吐してしまい、吐瀉物に血が混じっていた。食道か胃の一部が傷ついて出血しているのだ。


「一時的なものですから心配はありません。念のためしばらくは安静に。食事は消化のよいものを」


 医師に忠告され、ナタレはいったん王宮から学舎に戻って休むことにした。昼食は抜いた方がいいだろう。どちらにしても食欲がない。

 フツをはじめ友人たちの付き添いを断って自室に戻ったナタレは、寝台に寝転んで息をついた。


 独りになって神経が静まると、ようやく身体のあちこちが痛み出してきた。

 染み渡る疲労感で全身が重く、布団に沈みこんでいくような感覚を覚える。疲れはむしろ心地よかった。知らないうちに瞼が落ちる。痛みが遠くなった。


 ロタセイからの使節団はまだ到着しない。今日の試合、父上が見たら何とおっしゃっただろう。


 ナタレは故郷のことを思い出していた。

 背の低い草原に散らばる真っ白い羊の群れ、乾いた風の冷たさ、竈から立ち上る夕餉の煙。水源を持つ定住集落を中心に、彼らは家畜を連れて草原を渡り歩く遊牧生活を送っていた。

 彼は王族の子であったから、物心ついてすぐに剣と弓の稽古をさせられた。同年代の誰よりも強くならなければ、父の子としては生きていけなかった。


 いつも稽古の相手をしてくれたのは、三つ上の兄だ。

 強いだけでなく弟妹たちに優しい兄が、ナタレはとても好きだった。

 だから、王太子に選ばれるのが側室の子である兄であっても、ナタレは納得できたはずだ。兄ならロタセイの血を継ぐに相応しいと。

 だが、実際に王太子に指名され王都へ送られたのはナタレの方だった。

 父上は俺がお守りする、おまえは安心して務めを果たしてこい――そう言って自分を送り出してくれた兄は、本心ではどう思っていただろう。


 故郷を出て一年しか経っていないというのに、脳裏に浮かぶ家族の顔は妙に懐かしかった。





 肩に冷たいものが触れて、ナタレは目を見開いた。

 飛び起きるより先に、反射的に手が左腰に伸びる。抜くべき剣はそこになく、彼は我に返った。


「すまない、驚かせたか?」


 目の前にあったのは彼が知る誰よりも端整な顔であった。


「サリエル……」


 ナタレは頭を掻きながらゆっくり起き上がった。室内はもう夕映えの色に包まれている。眠ってしまっていたようだ。


 肩に触れたのはサリエルの手であったらしい。その意外な冷たさよりも、臨戦態勢に入ろうとした自分の反応にナタレは驚いていた。

 楽師に殺気などあろうはずもないのに……やはり過敏になっているのかもしれない。


「何であなたがここに?」


 ナタレは寝台に座ったまま聞いた。神経が覚醒してくると同時に身体の痛みも戻ってくる。鳩尾がズキズキと疼いた。


 サリエルは興味深げに部屋の中を見回していた。寝台と机と椅子と、あとは籐製の衣装箱が数個あるだけの部屋である。十五歳の少年の部屋にしては殺風景なほど片付いている。

 他人のそういう反応には慣れているのか、ナタレは感想を待たずに答えた。


「荷物はあまり持たないんだ。故郷では一年の半分以上を移動して暮していたから」

「ここもいずれは出なければならない場所だしね」

「そう祈りたいけど」

「そろそろ王宮で晩餐会が始まる。呼んでくるように言われた」


 ナタレは慌てて立ち上がった。


「あ、仕事か……寝過ごすところだった」

「違う違う」


 サリエルは笑って首を振った。


「君は客人として国王から招待されたんだよ。お父上の……ロタセイ王の代理だ」


 ああそうか、とナタレは思い至った。

 今夜の晩餐会は建国祭に訪れた客人たちを招いて行われる。父もその中に入っていたのだが、結局到着が間に合わなかったのだ。


「まだ具合が悪ければ断っても構わないと思うが、どうする?」


 ナタレが吐血したことを知っているらしく、そう気遣ってくれるサリエルに、彼は自分の胃の辺りを撫でて見せた。


「寝たらすっきりした。すぐに準備するよ」


 着ていた部屋着を脱ぎながら、衣装箱を開ける。その胸と右腕に巻かれた白い包帯が痛々しかった。背中と首筋にも擦り傷ができている。

 サリエルの視線を感じて、ナタレは少し笑った。


「……頼むから、いい試合だったとか言わないでくれよ。このザマだ」

「でも恥じてはいないようだね」

「自分の未熟さを思い知って、何だか気持ちが晴れた。これからやらなきゃいけない事がよく分かったよ」


 悔しさを隠しているふうでもなく、ナタレの口調は本当に晴れやかだった。開き直ったのとも違う。何かが綺麗に吹っ切れたような。


 サリエルは何も言わず、代わりに服の内側から何かを取り出して差し出した。

 ナタレが受け取ると、小さな紙の包みだった。


「消炎鎮痛剤――神官長に頼んで処方してもらった」

「あのユージュ神官長殿に?」


 ナタレは思わず声をあげて紙包みを見た。中でサラサラと音がする。粉末のようだ。

 アルハ神殿が外には出せない秘密の技術を持っているらしいという噂は、留学生たちの間にも届いていた。どんな医師にも薬師にも調合できない薬を作れるとも。


「そんなこと頼めるなんて、サリエル、神官長とどういう関係なんだ?」

「前に裸を見られた」


 冗談だか何だか分からないことを言って、楽師は部屋の外へ向かう。


「患部がそれだけ熱を持っていれば、今夜一晩くらいはかなり痛むはずだ。寝る前に飲んでおいた方がいい。何か食べた後にね」


 怪我には触れていないはずなのに、なぜ熱を持っていると指摘できたのか――その疑問が浮かんだのは、サリエルが出て行った後だった。





 晩餐会はそれほど形式ばったものではなかった。


 午前中に闘技会が執り行われた中庭が半日で整備し直され、晩餐会の会場に変わっている。背の高い燈台に照らされた広い中庭にはテーブルがたくさん並べられ、料理と酒が用意されていた。

 招待客らは、熱帯の緑と花に彩られた見事な庭を自由に散策しながら食事を楽しめるという趣向だった。

 もちろん、風紋殿や後宮へ忍び込もうとする不届き者に備えて回廊に警備兵が配置されてはいるが、基本的には公用に使われる場所であれば王宮のどこを見ても許される。セファイドが即位してから始めたことだった。


 本当に自慢したがりだなあの人は……公開に備えて警備や掃除がどれだけ大変か。

 裏方の苦労を少し知っているナタレは、招待客に溢れた中庭を見て溜息をついた。


 それでも忙しそうに料理を運ぶ女官や、客の応対に負われる侍従たちは、どこか楽しげでもあった。ここで働く彼らにとっても建国祭は特別なのだろう。


 空はもう暗くなって、燭台の柔らかな灯りに照らし出された中庭は昼間とは違って見えた。日中の強烈な日差しに炙られた原色の世界とは異なる、淡い水彩画のような風景の中を異国からの客人が行き交っている。

 耳を澄ますと、様々な言語のざわめきに混じって、宮廷楽団の奏でる静かな音楽が聞こえた。サリエルもどこかで演奏をしているのだろうか。


 今日の闘技会で注目を集めてしまったから覚悟はしていたが、思った以上に多くの人間にナタレは話しかけられた。

 健闘を讃えられ、故郷のことを聞かれるのは嫌ではなかった。ただ、いちいち酒を勧められるのには閉口した。ロタセイの戒律で未成年の飲酒は固く禁じられている。


「よっ少年! 飲んでるぅ?」


 いきなり背後から細い腕が絡んできて、ナタレはびくっとした。

 顔だけ振り向くと、杯を持ったキルケである。彼女は胸の大きく開いた琥珀色の衣装を身に纏っていた。珍しく息に酒気が混じっている。


「あ……あんた酒は飲まないんじゃなかったのか?」

「今夜だけよう。一年で月神節の夜だけは飲むことにしてんの。旨いんだこれが」


 キルケは杯をくーっと傾けてきつい蒸留酒をあおる。もともとは酒好きなのだろう。


「何してんの、姐さんのが空いたらさっさと注ぐ!」

「え? ああ、はいはい」


 絡み酒だこの人――ナタレはすでにうんざりしながら、傍にあったテーブルから酒瓶を取って彼女の杯に注いだ。今まで飲んでいたのとは違う発泡酒だったが、彼女は気にしなかった。


「ありがと。やっぱ綺麗な子に注いでもらうと美味しいわあ。聞いたわよ、闘技会で大活躍だったらしいじゃない。ますます男前になっちゃって」


 キルケは痣になったナタレの頬を抓った。


「痛い痛い! ちょっ……もうやめてくれ」

「でも酒の相手もできないんじゃ興醒めだわ。ほんとは陛下にお酌して差し上げたいんだけど、いらっしゃらないからね……」


 残念そうな歌姫の言葉通り、主催者たる国王の姿は会場になかった。晩餐会の最初に招待客の前で挨拶をしてから、すぐに席を外してしまったのだ。

 ナタレは辺りを見回して、


「そういえば……どこへ行かれたんだろう?」

「月神節の晩はね、オドナス王には大事なお仕事があるのよ。国王侍従のくせに知らないの?」

「悪かったな。俺はまだ見習いなんだよ!」

「うふふ、よーし、お姐さんは歌っちゃうわよ」


 キルケは発泡酒の残りを干して杯を置いた。

 そしていきなりその場で歌を歌い始める。


 オドナス隋一の歌手がこんな所で、とナタレは止めようとしたが、酔いの回った歌姫の歌は何とも艶っぽく、耳元をくすぐるように心地よいものだった。

 舞台で見せる情熱的なそれとはまた違う、気だるげで穏やかな歌声。

 歌われたのは街でよく聞く軽い流行歌だったが、キルケが歌うと途端に彼女の歌になってしまう。やっぱり凄い、とナタレは素直に感心した。

 気がつくと辺りに人が集まってきていて、皆うっとりと彼女の歌に聴き入っていた。歌姫がいれば、そこが舞台になるのだ。


 ナタレは息をついて、そっとその場を離れた。

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