闘技会・2
右から繰り出されたナタレの一撃を盾で防ごうとしたが間に合わず、ぎりぎりで体をかわしたものの、フツは重心を崩してよろめいた。
何とか踏みとどまって、逆に至近距離に入ったナタレに向けて木剣を振り抜いたが、ナタレはそれを掻い潜ってフツの胸元へ突きを入れた。
「うわっ」
「そこまで!」
フツは思わず瞑ってしまった目を、審判の声で開けた。
ナタレの木剣は当たっていなかった。フツの鎖骨に触れるか触れないところで止まっている。
そのまま後ろにひっくり返りそうになった彼の腕を、ナタレは素早く掴んだ。
「戦いの最中に目を瞑るなっていつも言ってるだろ」
「くそー、またやられてもうた」
フツは額から流れ落ちる汗を拭いもせずに悔しがる。これでナタレに何連敗だろうか。
「勝者ナタレ、ロタセイ王太子!」
審判役の教官が高らかに宣言した。
「よって展覧試合の優勝者はナタレとする!」
闘技場を取り囲んだ観客から割れるような拍手と歓声が巻き起こった。
今回の展覧試合はナタレが圧倒的な強さで勝ち進み、決勝戦では一回りも体格の大きいフツを破った。彼の同胞たるロタセイの民はこの場にいなかったが、観客はこの小柄な少年の健闘に感動したようだった。
ナタレとフツは木剣を腰に収めて、国王の座すテラスの前で跪いた。
シャルナグが立ち上がって二人に近寄る。将軍は国王侍従から受け取った白い紙の包みをナタレに差し出した。
「取りなさい、陛下からの褒賞金だ」
中身は王都でしか流通していない高額紙幣である。
ナタレは戸惑って、
「いえ、これはあくまで展覧試合なので……」
「構わん。学舎の仲間に何か奢ってやれ」
「もろとけや、くれる言うてはるんやから」
フツが小声でせっついた。ナタレはいったん学友を睨みつけてから、押し頂くようにして褒賞金を受け取った。
セファイドは椅子から立ち上がって、テラスの端まで出てきた。
「見応えのある戦いだったぞナタレ。楽しませてもらった。さすがは武勇に優れたロタセイの王子よ」
「畏れ入ります」
「お父上がこの場にいればな」
最後の一言は小さく、優しかった。ナタレは素直に肯いた。
「……はい」
「アノルト」
彼は自分の嫡男の名を呼んだ。笑みはそのまま、目つきが厳しくなっている。
素早く立ち上がって隣へ歩み出た息子を横目で確認し、
「これもかなり腕が立つ。どうだ、ひとつ手合わせをしてみないか?」
ナタレとアノルトは同時にセファイドを見た。
本人たちだけはない。周囲も観客も国王の提案に驚き、動揺の気配が広がっていく。
セファイドだけが悠然と、テラスの手摺に肘をついてナタレを見下ろしていた。その穏やかだが拒否を許さない支配者の視線を真正面で受けながら、ナタレは唾を飲み込んだ。
常識人のシャルナグがこめかみを押さえて口を挟む。
「陛下、お戯れが過ぎますぞ。このような場でオドナス第一王子とロタセイ王太子を戦わせるなど」
「もちろん真剣は使わせない。ただの余興だ。どうだ二人とも?」
ナタレは背中を伝う冷たい汗を感じた。
国王から目を逸らし、隣に立つ王子を見る。アノルトもまたナタレを見ていた。
アノルトの表情は当惑からすぐに好戦的なそれに変わる。彼の緊張を見抜いたような侮蔑を感じて、ナタレの頭の奥が熱くなった。
「お受け致します」
二人はほぼ同時に答えていた。
セファイドは満足げに肯く。それからテラスの奥を振り返り、
「神官長のご意見は? 予定にはない試合だが、アルハ神のお許しは頂けるだろうか」
「ああ、別に問題はないと思いますが」
ユージュの表情は変わらないが、口調は投げ遣りだった。もう勝手にやってくれと言わんばかりである。
「では少し休憩を挟んで試合開始としよう。シャルナグ、仕切れよ」
「……丸投げですか。かしこまりました」
旧友でもある主の気紛れには慣れている。将軍は諦めて試合の段取りを考え始めた。
ナタレはしばらくアノルトを睨みつけるように凝視していたが、さすがに険悪な雰囲気に気づいたフツに促され、いったんその場を離れていった。
こちらも険のある眼差しで見返していたアノルトは、異邦の王子の後ろ姿からようやく視線を外して父王に向かい合う。
「父上はあの留学生が俺と互角に戦えるとお思いですか?」
セファイドはゆったりと、笑う。
「あの子が実戦で使い物になるかどうか、確かめてみてくれ」
「俺は手加減はしませんよ。腕の一本や二本潰してしまうかもしれない。侍従の仕事ができなくなってもご立腹なさいませんよう」
アノルトも笑ったが、その笑みは少し残酷だった。
彼は着ていた長い上着と飾り帯を取り、闘技場へ出て行った。
「えらいことになってもうたなぁ」
闘技場の脇で汗を拭くナタレを眺めながら、フツはぼやいた。
留学生同士の展覧試合で三連戦したナタレの回復を待つため、会場はしばしの休憩に入っている。だがその場を離れる観客は一人もおらず、休憩時間とは思えない張り詰めた空気が満ちているようだった。
支配する国とされる国、その王子同士が戦う――奇妙な好奇心と期待感が観客を静かにさせている。
フツは居心地が悪そうにきょろきょろした。
「何で受けたりしたんや、こんな試合?」
「何でって、国王がそう言ったからだ」
「断ったらよかったやん!」
「俺もちょっとやってみたくなった」
ナタレは掌を丁寧に拭って、滑り止めの粉を塗りつける。連戦での消耗を考慮して、武器の木剣は新しいものに取り替えていた。
フツは顔を歪めて、
「おまえはアホか? アホなんか? アノルト殿下いうたらシャルナグ将軍の直弟子で、南方の侵攻作戦では先頭に立って敵兵をバサバサ斬り倒しまくって、俺らとは比べもんにならんくらい経験積んではんのやで。おまえ下手したら殺されるぞ」
「そうかもしれないな」
「今からでも行って謝ってこい。えろうすいませんでした、言うて断って……」
「フツ、静かにしてくれ」
ナタレは低い声で言って、フツを見た。
「もう皆の所へ戻れよ」
何を感じたのか、饒舌なフツは口をつぐんだ。
小さく舌打ちをして、それでも心配そうに友人の傍をうろうろしたが、ナタレが完全に彼を視界から外してしまったものだから、諦めて観客の方へ戻って行った。
中庭から回廊に上がる所で、先ほどの展覧試合に出場した選抜選手とその他の留学生が揃ってフツを迎えた。皆、不安げではあるがどこか興奮した様子で、闘技場に残ったナタレを窺っている。
「どうだ、ナタレの様子?」
「緊張してるか? か、勝てそうなのか?」
フツは苦々しい表情で首を振った。
「あかん、あいつ完全にぶちキレとる」
「え、だって見た感じは冷静だぞ……」
「いやいや目ぇ座っとるし。あの王子様と何があったか知らんけど、これは荒れるでぇ」
そんな大袈裟なと、いつもならここで誰かが笑うところだが、ただならぬ状況に置かれたナタレの心中を想像して少年たちは黙り込んでしまった。
やっては来たものの、人の多さにリリンスは唖然としていた。
中庭の様子を見ようにも、人が溢れて回廊から降りていくことができない。しかも男ばかりだ。すでに酒類が振る舞われているらしく、ほろ酔い加減で歓声を上げている客もいる。
これが恒例の闘技会か……男ばかりが集まるとこういうことになるんだな。
熱気に圧倒されながらも、リリンスは嫌悪感は覚えなかった。何だか少しわくわくする。
飲み物を配る女官も少しは配置されているから、まったく女性の姿がないわけではない。うまく潜りこめるかも、と思った。
リリンスは柱の陰で羽織っていた袖なしの上着を取り、頭と肩にくるりと巻いた。これで顔はばれないはずだ。あとは酔っ払い連中の隙間に潜り込むだけ。
彼女は拳をぐっと握って気合を入れて、強行突入しようとした。
しかし、柱の陰から飛び出す前に、その腕を後ろから掴まれた。
「え?」
振り返るリリンスの目に映ったのは、困ったように曇ったサリエルの白い顔だった。
「姫様……無茶をなさらないで下さい」
「お、お人違いですわ」
高い声を作ってしらばくれるリリンスの頭から、彼は被り物をあっさり剥ぎ取った。
「……正妃様の茶会を抜け出してきましたね?」
「だってあっち退屈なんだもの。闘技会を一度見てみたかったの。お母様にチクる?」
「私がチクらなくてもすぐにばれます。とりあえずこちらへ。揉みくちゃにされますよ」
サリエルは自分の身体の陰にリリンスの姿を隠すようにして、彼女の手を引いた。
いったん回廊へ戻り、中庭を迂回して反対側に進んで行く。
美しい楽師に気づいた観衆から次々に声がかかった。昨日の音楽会で、国外からの訪問客の間でもすっかり彼は有名になってしまっている。おかげでリリンスはあまり注目を引かずに済んだ。
礼を欠かない程度に会釈しつつ、彼は歩みを止めなかった。その横顔を眺めながら、ほっとするような悔しいような、リリンスは複雑な気持ちになっていた。
休憩中だから、と煙管を燻らせ始めたセファイドに、侍従長が近づいて何事か囁いた。
セファイドは一瞬動きを止めて、それから大きく煙を吐き出した。
「分かった、ここへ」
侍従長は神妙に一礼して、テラスの奥へ戻ってゆく。
入れ替わりにやって来たのは、サリエルに連れられた彼の末娘だった。
悪戯が見つかった子供のようなバツの悪い顔をするリリンスを、セファイドは意外にも嬉しそうに迎えた。
「いつか見たいと言い出すのではないかと思っていたよ。おいで」
「いいの!?」
リリンスは明るい表情になった。感情の分かりやすい少女だ。
「後で母様の小言をもらうのは覚悟しておけよ」
「はい!」
彼女は弾む足取りでパタパタと父の横へ走り寄って、椅子の脇にちょこんと腰を下ろした。侍従が慌てて敷物を持ってくる。
同席した二人の王子も、呆れながらも楽しげだった。
「リリンスは相変わらずだなあ」
「そんなんじゃ嫁の貰い手がないぞ」
普段はそれぞれ任地に駐留しているため滅多に会えないが、兄たちはこの末妹のことを可愛がっている。
セファイドはサリエルに向かって、
「連れてきてくれて助かった」
「たまたまお見かけしまして」
「いくら跳ねっかえりでも、こんな男ばかりの観衆に紛れさせるわけにはいかんからな。おまえもここで見ていくといい」
サリエルは頭を下げて、王と王子たちの後ろに控えた。
ユージュがちらりと見ると、彼は軽く会釈して応える。
何気ないやり取りであったが、楽師と大神官、接点のないはずの二人の間の空気に、セファイドがわずかに眉をひそめた。
「あれ? アノルト兄様はどこ?」
リリンスが辺りを見回して甲高い声で訊く。二人の王子の横の椅子が空席になっていた。長兄の姿はないが、彼の上着が掛けられている。
セファイドは煙を吐きながら、顎で中庭を指し示した。
「ちょうどよいところへ来たな。あそこだ」
闘技場の中央に、木剣を携えた二人の少年が現れた――。
防具も盾すらも身に着けずに登場した第一王子の姿に、観客がざわめいた。もちろん侍従がそれらを用意していたのだか、彼は必要ないと断ったのだ。
アノルトは木剣のみを右手に持ち、礼服の上着と装飾品を取っただけの格好で、対峙するナタレを眺めていた。
身長差以上に、見下ろされている、とナタレは感じていた。
纏った空気の尊大さが父親とよく似ている――飲まれてたまるか。
ナタレは黙って、防具を自らの身体から外し始めた。
相手と同じく軽装になると、革の盾と防具を纏めて闘技場の外へ放った。また観客がざわめき、留学生たちの席の方からはアホかという罵声が飛ぶ。フツだろう。
アノルトは口の端に笑みを浮かべた。
「なぜ素直に勝ち逃げをしなかった? おまえの大事な故郷の誇りとやらにも、泥を塗らずに済んだものを」
「お気遣いなく。無様に負けるつもりはありませんから」
声が少し震えた。緊張しているのが自分で分かる。怖いのではない。滾るように血が熱くなって、身体がついていかないのだ。
そんなナタレの様子に気づいたかどうか、アノルトはゆったりした動作で木剣を振った。重さと重心を確かめている。
「……ひとつ、賭けをしようか」
周囲には聞こえない、ナタレだけに届く程度の声量で言った。
「俺が勝ったら、今後おまえは俺に絶対服従する。どうだ?」
彼は笑っていた。いつも通りの快活な笑顔だ。
薄ら寒いものを、ナタレは首筋の辺りに感じた。
「オドナス王の嫡男を相手にしようというのだ、そのくらいの覚悟は必要だと思わんか」
「かしこまりました、殿下、お受け致します」
ナタレは静かに答えた。
腹は立たない。むしろ望むところだ。ただ、一方的に承諾するするつもりはなかった。
「では、私が勝った時には、お約束頂けますか?」
「俺に条件をつけるつもりか。面白い、言ってみろ」
「殿下の以前のお言葉――ロタセイを下賤とおっしゃったこと、お取り消し下さい」
ナタレは真正面からアノルトを見返した。
意識は冴え渡っているのに、感覚が鈍い。熱に浮かされた時のように、周囲の物音が遠くなった。
「……よかろう」
「ありがとうございます」
「早く整列しなさい!」
シャルナグが闘技場の中央に歩み出た。
「私が審判を務める。よろしいな?」
「もちろんですよ、先生」
「よいか、これはあくまで模擬試合、くれぐれも本気で打ち合うことのないよう。相手が怪我を負うまで攻撃してはなりませんぞ」
二人は肯いて了承の意思を示したが、そんな注意を守るつもりはないことはお互い分かりきっていた。
彼らはテラスの国王に向かって深く頭を垂れると、再び向かい合った。
「ではこれより、オドナス第一王子アノルトとロタセイ王太子ナタレの試合を執り行う」
将軍の声を合図に木剣が構えられる。
先端が、触れる。
「始め!」
ナタレはいっきに踏み込んだ。
木剣の打ち合わされる鈍い音は思った以上に大きくて、リリンスは思わず立ち上がった。兄たちの制止を払い、テラスの端まで歩み出る。
胸がどきどきする。身体の奥が熱くなる。
リリンスは手摺を握り締め、身を乗り出して闘技場を見詰めた。