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水面の月を抱く国  作者: 橘 塔子
プロローグ
2/57

邂逅

 砂丘の連なりは金色の海原だった。


 どこまでもどこまでも、視界の続く限り、世界の続く限り、日を浴びた金色のうねりが覆いつくしている。

 そしてびょうびょうと吹き付ける強い風が、その波頭の形を刻々と変えつつあった。遥か高み、鳥の目で見れば、ひとときも止まらぬその変化が見て取れたかもしれない。だが一片の雲もない明るい空を行く鳥はなかった。


 明るい光に満ちた、不毛の砂漠――。


 その海原を、ひとつの影法師が進んでいた。

 砂丘から砂丘へ風とともに渡る細かい砂の粒を全身に浴びながら、ゆっくりと歩を進める者がいるのだ。空の青と砂の金色しかない世界で、その姿だけが際立って異質に見えた。

 全身をすっぽり覆うような木綿の長い上着は、砂漠の民の一般的な旅装束だ。吹き付ける砂から呼吸器官を守るために同じ木綿の布で頭部と顔を覆っているため、男か女かすらも定かではなかった。

 背負った袋はたいして大きくもないが、その袋の上に何やら丁寧に布で巻かれた丸い包みが括りつけられている。それと、腰に携えた一振りの短剣――旅人の荷物はそれだけであった。

 果てがないように思えるこの砂漠で、旅人の存在はそれだけ――。


 旅人の残した足跡を、瞬きをする間に風が掻き消してゆく。

 過去も未来も持たないような影法師でありながら、しかし旅人は怯むことなくしっかりとした足取りで焼けた砂の上を歩んでいる。


 熱い風をよけてやや俯き加減になっていた旅人の顔が、ふと、上がった。歩みが止まる。

 旅人が今越えてきた背後の砂丘から、凄まじい量の砂が滑り落ちてきた。


「そこの! 止まれ!」


 この地方の方言での怒号は、野太い声だった。同時に、人間のものではない足音。それも1つや2つではない。

 旅人はゆっくりと振り返った。


 砂丘の上から駱駝の群れが駆け下りてきていた。二十頭はいるだろうか。

 騎手はいずれも旅人と同じような格好をした男たち。ただ違うのは、全員が長い蛮刀や手斧を背負っていることだった。

 彼らは瞬く間に旅人を取り囲んだ。金色の埃が波のように舞い上がった。

 旅人は動かない――動けないのかもしれない。


 やがて一頭の駱駝が前に進み出た。

 乗っているのは大柄な体つきの男だった。まだ若いようだが、日に焼けた浅黒い顔は硬い髯に覆われている。髯と同じこげ茶色の目は、狡賢い獣のような光を帯びていた。

 統制された駱駝の手綱さばき、護身用にしては大仰すぎる武器――砂漠に数多く存在する盗賊の一集団らしい。オアシス都市間を行き来する隊商を襲っては生計を立てている連中だ。 


「こんなところを一人で歩いているとはな。隊商とはぐれたのかい?」


 髯の男――盗賊団の頭目は旅人の全身を値踏みするように見下ろした。

 旅人は答えない。顔のほとんどは布に覆われて表情が伺えないが、わずかに覗く両眼は明るい灰色をしていた。銀色――と言ってもいいかもしれない。

 その瞳の色に気づいたのか、頭目は、


「異国人だな。これはいいもんを見つけた」


 と、笑った。


「異国人は高値がつくんだよ。おまえが商人か逃亡奴隷か知らねえが、こんな砂漠のど真ん中を一人で彷徨ってるんだ。干からびて死ぬより売られた方がマシだろ。来な」


 頭目は腰につけた片刃の蛮刀を引き抜いて、駱駝から降りた。刃は分厚く、力でぶった切る粗暴な刀だ。持つ者のいかつい体型と相まって、その武器を振るう前にほとんどの相手をひるませてしまうだろう。

 立ち尽くす旅人もそんな相手の一人と見て、頭目は警戒のない素振りで近付いて来た。もちろん他の仲間が標的が逃亡しないよう注意深く取り囲んでいる。


「ツラを見せな」


 蛮刀が上がり、肩の高さで止まった。その先に旅人の顎があった。

 顔を覆った布に、切っ先が触れる。


「傷物にはしたくねえ。大人しく……」

「……道を開けてくれないか」


 一瞬、頭目の動きが止まった。発せられたその声が眼前の旅人の喉から出たと理解するまで少しかかったからだ。

 武器を向けられている人間のものとは思えないほど落ち着いた、若い男の声だった。風の音にも消されず低く通る。


 何だ男か、と落胆するより先に、頭目の神経をふと冷たいものが撫でた。戦いと略奪を繰り返してきた盗賊の太い神経を、だ。理由は分からない。

 同じ感情を覚えたのか、取り囲む仲間がそれぞれに武器を抜いた。不穏な空気が流れる。

 それを掻き消すように、頭目は声を上げて笑った。


「いい度胸だ! それともただの馬鹿か? いいからツラ見せろ!」


 蛮刀の切っ先が横薙ぎに動いた。

 もし旅人が怯えて身をかわしたりしていたら、その顔か喉元に切り傷がついていたかもしれない。だが旅人は微動だにしなかったので、布だけが裂けて風に流れた。


 あらわになった旅人の顔を見て、頭目の笑いが凍りついた。大きく両眼が見開かれる。

 同時に、仲間たちも動きを止めた。

 

「……こりゃあ驚いた……お、おまえにはどんな高値がつくか……」


 頭目は蛮刀を引いて手を伸ばした。旅人の漆黒の髪が揺れている。

 誰が命じた訳でもないのに、仲間たちも次々に駱駝から降りた。本能で火に引き寄せられる羽虫のごとく、円の中央に立ち尽くす旅人へ向かう。

 乾ききった砂漠の空気が、にわかに妖しい湿度を帯びたようだった。


 旅人は動かない。腰の短剣に手を伸ばすこともない。

 ただ――銀色の両眼がわずかに細まった。


 頭目のごつい手が、旅人の肩に触れようとしたその時――新たな足音と砂塵が沸き上った。盗賊たちが現れたのとは逆方向、これから旅人が向かう砂丘の頂上で。

 背を向けていた頭目は弾かれたように振り返った。


「その人から離れろ! 犬どもめ!」


 風を切り裂いて吹き降ろした声は、まだ声変わり前の少年のものだった。

 数にして盗賊たちの倍、数十騎の駱駝が砂丘に並んでいる。金色の砂と青い空の境界に立つその背に乗った者たちは、皆鮮やかな緋色の装束に身を包んでいた。騎乗でも扱いやすい中程度の長さの剣を携えている。

 彼らの中央に、先ほどの声の主らしい、すらりとした小柄な騎手がいた。


「くそっ……」


 頭目は低く唸って、自らの駱駝に戻ろうとし、その前に旅人の腕を掴んだ。いや、掴もうとした。拳は空を握っていた。

 そこにいたはずの旅人は、身じろぎひとつしていないように思えたのに、いつの間にか身長分ほどの距離を取っていたのである。

 その距離を追うには事態は余りにも切羽詰っていた。頭目は舌打ちをしたが、次の瞬間緋色の騎手たちから矢が放たれて、慌てて駱駝に走り戻った。


 騎手たちが剣を振り上げて砂丘から駆け下りてくる。

 数の上で圧倒的に不利と見て、盗賊たちは潔く逃げに回った。慣れた手綱さばきで砂丘を駆け上がる。


「逃がすな! 今日こそ一匹残らず討ち取ってやる!」


 少年の叱咤で、緋色の騎手たちは激しく追撃した。

 駱駝の足音と剣を打ち合わせる金属音と、男たちの怒号が砂を蹴散らした。


「小僧! この借りは返すぞ!」


 頭目は右手の蛮刀で敵を薙ぎ払いながらそう叫んで、それでも未練を込めた眼差しを旅人に送って、仲間たちとともに砂を撒いて走り去った。


 緋色の騎手たちは三分の二ほどが追撃に回り、残りの十数騎がその場に残った。実に統制の取れた動きだった。盗賊とはまったく違う、訓練された兵士の動き。

 そしてこの四十名もの大人を指揮したのは――。


「旅の人、怪我はないか?」


 遠ざかってゆく盗賊たちと自らの兵団を視界の隅に置きながら、少年は旅人に声をかけた。

 大人びた口調だが、見たところ年の頃はまだ十一、二歳。赤銅色の肌と夜空色の瞳。砂漠の厳しい環境を生きる者らしく精悍で端正な顔立ちは、まだあどけなさを強く残している。他の大人たちと同じ鮮やかな緋色の装束だが、少年が頭に巻いた同色の布には金色の刺繍が施されていた。


「今のはこの辺りを縄張りにする盗賊の一団だ。殺す盗む犯すのたちの悪い連中だ」


 盗賊たちとはまた別の特徴を持つ発音でそう言いながら、少年は剣を鞘にしまって、駱駝の首を軽く叩いた。大人しく跪いた駱駝から軽やかに降りてくる。


「無事でよかった。言葉は分かるか?」


 問いかけて、少年の唇が動きを止めた。初めて、旅人の顔を正面から見たのだ。


「助けてくれてありがとう。礼を言う」


 旅人は微笑んだ。静謐に――今までの喧騒などなかったかのように。

 その顔は実に美しい作りをしていた。


 二十代半ばの青年である。灼熱の日差しを浴びながらその肌は象牙のように白い。すらりと通った鼻筋、ごく薄い朱色を帯びた唇、そして長い睫毛に縁取られた二つの目は銀細工の色をしている。


 砂漠の夜を冷たく照らす月が、怜悧な銀色の三日月が人の形を取ったようだ、と少年は思った。彼が思いつくいちばん美しいものがそれだったからだ。


「……異国の人だな。ま、まさか一人でこの砂漠を?」


 少年は平静を装いながら言った。同性を美しいと思うことがとても罪深く感じられたからだ。しかし目は逸らせない。

 旅人は肯いた。


「北の方へ行くつもりだ」

「歩いてか!? そんな無茶な……」


 少年は言葉を切った。この男にとっては無茶ではないのかもしれない。現にこの砂漠の真ん中をこうして歩いているではないか。隊商はおろか駱駝の一頭も連れず。

 少年は少し考えて、旅人をぼうっと眺めている部下の一人に何やら指示を出した。心ここにあらずといった風情を咎める気にはならなかった。


「なら、せめてこれを」


 少年は部下から受け取った袋を旅人に差し出した。羊革製の、水の入った水筒である。

 旅人は目礼し、それを手に取った。


「お心遣い感謝する」

「北へ行くのならオドナスの領土を通ることになる。あの大王国は交易が盛んで異国人に寛大だ。安心して行くといい」


 それは、ここ十年ほどで急速に領土を広げてきた国の名だった。点在するオアシス都市国家を次々と併合している。砂漠の北の果てにそそり立つ急峻な山脈から、南は海岸線まで、この乾いた大地の全域を掌握しつつあった。


 少年の言葉にわずかな口惜しさの響きを感じ取って、旅人は優美な眉根を寄せた。


「あなた方はオドナスの兵ではないのだね」

「違う」


 少年は即答した。


「我々はロタセイの民」


 砂漠の東部、ごく低い草が生い茂る土地で暮らす遊牧民である。家畜を飼う他、砂漠を行く隊商と交易をしたり、また彼らの警護を引き受けることもある。今回の盗賊狩りもその一環であったのだろう。

 その衣装の鮮やかさと誇り高い民族性から『緋色の勇兵』とも呼ばれていた。


「俺はロタセイ王の息子だ。オドナスがどれだけ縄張りを広げようとも、我々の手の届く範囲は我々で守る。これまでも、これからもだ」

「ご立派なお志だ、若きロタセイの戦士よ」


 旅人の賛辞には微塵の厭味も下心も、また子供に向けた適当なあしらいも感じられず、少年は焼けた頬に笑みを浮かべた。

 このわずかなやり取りの間に、彼は旅人に好感を持った。だが――砂漠を行くものは一瞬たりとも立ち止まらない。深い絆など求めてはいけないのだと、この歳でもよく分かっていた。


「では……道中お気をつけて。あなたの旅がよい水とよい風に恵まれますように」


 砂漠での別れの挨拶だった。旅人は黙って頭を下げた。


 砂塵を蹴散らして遠ざかってゆくロタセイの騎手たちを見送って、旅人は足元に落ちた布を拾い上げた。

 砂を払って、風に乱れた髪をまとめるように頭部に巻きつける。


「……あなたの瞳が輝きを失わぬよう」


 呟きは祈りに似ていた。

 再び歩き出した先の空は、もう夕暮れの赤い色に染まっていた。


 もうあとわずかで、砂が血の色に染まる時間だ。

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