音楽会・2
ナタレと侍女たちによって客席へ強制連行されたリリンスを、貴賓席で待つ者がいた。
侍女たちが身を屈めてお辞儀をする。ナタレも一瞬遅れてそれに習った。
「兄様、もういらしてたのね」
リリンスはパッと顔を輝かせて、大好きな兄へ駆け寄った。
アノルトは桟敷から降りて妹を迎える。第一王子の臨席に伴い、警備兵の数も大幅に増えており、貴賓席と一般席を完全に隔離していた。
「おまえはまたフラフラと、どこへ行っていた?」
溜息交じりの兄の言葉を気にしたふうもなく、リリンスはあっけらかんと答えた。
「キルケとサリエルの楽屋を覗いてきたの。二人とも全然緊張してなかったわ」
「まあ、一流の楽人とはそんなものなんだろうね――それはともかく、だ」
アノルトはリリンスの頭を撫でて、顔を上げた。彼女の後ろに控える侍女と兵士たちを睥睨する。
「これほど多くの従者がついていながら、王女から目を離すとは何事か!」
凛と響き渡る声の叱呵に、リリンスはぎょっとして兄を見上げた。
随行者たちは一斉に身を低く平伏する。
「いついかなる時でも王女の傍でその身を守るのがおまえたちの務めであろう。それができぬのなら王宮にいる必要はない!」
「申し訳ございません、殿下」
キーエはさらに深く頭を垂れて詫びた。リリンスが勝手に逃げ出したのに言い訳は一切しない。
リリンスは首を振りながらアノルトの腕を掴んだ。
「兄様、キーエたちが悪いんじゃないの。私が勝手に……」
「リリンス」
彼は一転して穏やかな口調で、妹に話した。
「……おまえが傷のひとつでも負えば、大勢が責任を取らされることになるんだよ。おまえはそういう立場の人間だ」
リリンスは大きく目を見開いて、それから背後を振り返った。
私が危険な目に遭えば彼らの責任になる――意外なほど衝撃を受けた。そして恥ずかしくなった。アノルトに指摘されるまでそこに思い至らなかった自分に。
「ご……ごめんなさい、みんな……私、自分のことしか考えてなかった」
彼女は素直に詫びた。キーエは微笑んで一礼した。その温かな笑顔を見て、今までにも私のことで何度も叱責されたのかもしれない、とますます情けない気持ちになった。
そんなことキーエが私に直接言うわけないんだから、私の方で気づいてあげなくちゃいけなかった。
アノルトは目を細めて、
「分かればいい。さ、リリンスの席はそこだ。これからやって来るたくさんの客の挨拶を受けるのが、王女の今日の仕事だよ」
と、柔らかな絨毯が敷き詰められた桟敷席を指した。
リリンスは気を取り直して大きく肯く。それを合図に侍女たちが立ち上がって、急いで席を整え始めた。
「ナタレも……ごめんね、ありがとう」
自分に辛抱強く付き従ってくれたナタレに、リリンスは多少バツが悪い様子で礼を言った。
ナタレは、気にしていない、と答えようとしたが、その前にアノルトがリリンスの手を取って彼女を桟敷に上げた。
「王女の付き添いご苦労」
アノルトは貴賓席と通路の間に立ち塞がるようにして、ナタレを見下ろした。冷ややかだが翳りのない堂々とした態度だ。
「もう下がれ。ここから先はおまえの立ち入る場所ではない」
「……はい」
「陛下が何と仰せになろうと,王女には臣下の礼を尽くすよう。主従の立場を忘れてはならん」
ナタレは顔を伏せたままだった。
まともにアノルトを見ると視線に感情が篭ってしまいそうだった。澱のような怨嗟と恐れが――。
桟敷の上からリリンスが心配そうに見ている。二人の間に流れる不穏な空気を感じ取ったのだ。
「では、これで失礼いたします」
何とか平静を装って一礼して、ナタレは踵を返した。
背中に悪意を感じながらその場を立ち去る。
オドナスの第一王子が自分に対して蔑みと嫌悪を抱いているのは承知していた。悔しいのは、自分が相手を嫌いなだけでなく恐れていることだ。以前に王宮の回廊で完敗してから、恐怖心と劣等感が呪いのように刷り込まれてしまっている。
誇り高いロタセイ王太子にとってはそれが許せなかったが、彼自身にもどうしようもないそのわだかまりは、翌日意外な形で解消されることになる。
夕刻、音楽会が始まる時間には、すべての客席が埋まっていた。
貴賓席には王族と諸外国から招かれた国賓が集まり、寛いだ様子で開演を待っている。
一般席にも、都の住民と建国祭にやって来た外国人が入り混じって賑やかだ。入りきれない観客が広場の隅まで溢れて、湖畔沿いの道近くまで立ち見が並んだ。警備兵も大目に見ているようだ。
最後に国王セファイドが多くの従者を伴って姿を現すと、観客たちは立ち上がって国家元首を迎えた。
軽く手を上げて歓声に応え、セファイドは貴賓席の中央に腰を下ろした。
それに合わせたかのように、舞台の松明が次々と灯されていく。
夕闇の迫る空は凪いで、岸辺はとても静かだ。水上に組まれた舞台は松明の柔らかな灯りに照らされて、そこだけ別の世界のように見えた。
観客がしん、と静まり返り、舞台の下手から、歌姫が登場した。
緑色の衣の裾を優雅に捌きながら、キルケは舞台の中央で立ち止まって客席に向き合う。
彼女は客席の国王に視線を合わせ、黙礼すると、大きく息を吸ってから歌い始めた。
アルハ神への感謝と祈りの言葉を綴った歌である。
オドナスの民なら皆よく知っている。礼拝の際に合唱されるこの曲を、音楽会の第一曲目として、キルケは一切の伴奏をつけず独唱した。
月神節に相応しい荘重な歌を、キルケの艶やかな声音がなぞっていく。歌声はゆったりと力強く、松明に照らされた彼女の表情は女神のように美しかった。
これが『オドナスの黒い歌姫』であった。観客は一瞬で魅了され、呼吸も忘れて舞台に見入っている。
キルケの歌唱方法は、旧来の歌手の伝統的なそれとはだいぶ違って、裏声をほとんど使わない。低音から高音まで驚くほど滑らかに地声で歌う。もって生まれた厚みのある声を最も生かせる技術を、独学で身につけたのだろう。
彼女が王宮付の歌手として頭角を現してきた頃、その歌い方を下品だと眉をひそめる者もいた。
だが、どんな音域の歌でも自在に歌いこなす圧倒的な歌唱力で、彼女は耳の肥えた都人たちから賞賛を受けるようになった。今では、他の若い歌手に技術を模倣されるほどだ。
やがて最後の音を長く伸ばして歌い終えると、キルケはその場で深く一礼した。
静寂から一転、物凄い拍手が湧き上がる。一曲歌い終えただけだというのに観客は熱狂し、あちこちから歓声が上がった。
キルケは客席の隅々まで視線を送って、最後にもう一度国王を正面から見て、舞台の脇へ下がった。
同時に、下手から二人目の楽人が現れる――ヴィオルを手にしたサリエルである。
彼を初めて見る観客はもちろんのこと、王宮で見慣れているはずの貴族や役人ですら、白い礼服に身を包んだサリエルの姿に見蕩れた。
拍手と歓声が嘘のように引いて、会場全体が息を詰めて舞台を見守っている。
サリエルはキルケと同様に舞台の中央でお辞儀をして、準備された椅子に腰掛けた。
彼が演奏したのは、拍子の速い明るい曲だった。
異国風の旋律――集った観客の全員が初めて聴く曲ではあったが、それは舞曲のようだった。楽師の長い指が精緻に弦を押さえると、建国祭を祝福するような華やかな旋律が奏でられる。
どこの国の音楽なのかは分からない。だが、月の神の踊り子を天上から呼び寄せてもおかしくないほどの美しい弦の音色であった。
――一曲弾き終えると、観客の拍手を待たず、サリエルは続けて次の曲を始めた。
今度はよく知られた曲、砂漠で歌われる古い歌だ。
キルケが彼に近づいて、ゆったりとしたその弦の旋律に甘い歌声を乗せた。二人の楽人が公式の場で初めて協奏したのは、去っていった恋人を想う恋歌だった。
艶のあるヴィオルの伴奏に、キルケの高音域の歌声はよく馴染んだ。
歌姫は両手を胸に当て、恋人への気持ちを切なげに歌い上げる。その姿はぞっとするほどの凄みと妖艶さを纏っていて、まさに彼女の真骨頂といえた。
湖の向こう、東の空に月が輝く。満月を翌晩に控えたほぼ円形の姿は濃い蜂蜜色だ。
建国祭の第一夜に開かれる音楽会は、もともと満月のアルハ神をオドナスの空に呼び寄せる意味があったという。
二人の共演はその意味で、旧い信仰の形を呼び起こさせる儀式のようであった。
「素敵ね……」
リリンスは舞台の二人に大きな拍手を送りながら、溜息とともに呟いた。王都の外を知らない王女にとって、今宵聴き惚れた楽の音こそが最高に美しいものであるように思えた。
彼女の隣で同じく拍手をしているアノルトは、少し違った表情をしている。
「あれほどの楽人二人が同じ舞台に立つなど、奇跡のようだと思わないか?」
彼は蒸留酒の入った陶器の杯をゆっくり傾けた。
「彼らだけじゃない。数多くの優れた芸術家がオドナスに集うのは、この国が強大だからだよ、リリンス。強い国には人が集まり、さらに国は強くなるんだ」
「オドナスを強くしたのはお父様ね」
リリンスは蒸留酒の瓶を手にしてくんくんと匂いを嗅ぐ。後ろに控えたキーエが慌てて取り上げたた。
「そうだね」
兄妹は貴賓席の中央に座るセファイドを見た。
父王は愛用の長い煙管をふかしつつ舞台に見入っている。キルケとサリエルの実力はすでに知り尽くしているはずだ。音楽を堪能しているというよりは、手飼いの伶人に対する観客の反応を楽しんでいるようだった。
「……父上は強いオドナスの王だから、この国に集う人と物を守らなければならない。だからこそそれらすべてが父上のものだと言える。それが国王の義務と権利だ」
アノルトは笑みを浮かべて、再び舞台へ視線を戻した。
彼にとって、キルケとサリエルへの賛辞はそのまま父と国への賛辞なのだった。
そしてたくさんの才能が集う強大な王国を、彼は心から誇りに思っている。
「いつか俺もそうなりたいと思う。父上から引き継いで、オドナスを今以上に強くて豊かな国にしたいんだ」
「兄様にならできるわ。兄様は王宮の誰よりも優秀だもの」
リリンスは強く肯く。そうはっきりと口に出せる兄を尊敬し、少し羨ましくも思った。
ナタレは桟敷になった貴賓席から少し離れた場所で舞台を見ていた。
彼ら留学生用に準備された席である。昼間は市街で建国祭見物を楽しんでいた留学生たちの全員が、この音楽会に集まってきていた。
「見事なもんやなあ……」
フツはうっとりした表情で二人の共演を聴いている。
ナタレはくすりと笑って、
「おまえ、音楽分かるのか?」
「分からんけど何か背中がゾクゾクする」
その感想にはナタレも共感できた。松明に照らされた湖の上で歌われ、奏でられる音楽は、本当に身震いがするほど美しい。
若い彼が初めて実感する、それは官能というものかもしれなかった。
「それにあの楽師のきれーなこと……ほんまに人間の男か? キルケ姐さんもそうやけど、オドナス王の傍には凄いのが集まってくるもんやなあ。さすがや」
「そうだな……ここでなければ見られないかもな」
悔しいが、砂漠の東端にある故郷の地にいては一生見られない舞台だった。こんな音楽があることすら知らなかっただろう。
強くなければ美しいものは手に入らないのか――。
ナタレは貴賓席に目をやった。
セファイドの横顔は悠然と穏やかだ。この国の繁栄を作り上げた支配者は、正妃と側室、それに領地から戻った王子たちに囲まれている。
リリンスがアノルトと言葉を交わしているのが見えた。
あれがこの国の核をなす家族。強い父親と美しい妻たちと優秀な子供。
舞台では、甘い弦の調べに乗せて、歌姫が逢えない者への想いを切々と歌い上げている。
胸を締めつけられるような愛おしさと寂しさが空気を満たす。
俺は寂しいのかもしれない、とナタレは王都に来て初めてそう感じた。
今、父親に会いたいと心底思う。ともに今宵この音楽を聴いてみたかった。
父ならこの歌をどう感じただろうか。
キルケとサリエルの共演の後も、砂漠の各地から集まった様々な楽師や踊り子や軽業師が舞台に上がり、音楽会は大いに盛り上がった。
トリを務めるキルケが再び登場して、宮廷楽団の演奏でオドナスを讃える歌を歌い上げる。
大喝采のうちに幕が下りた時、清らかな銀色の月はちょうど中天に懸かっていた。