音楽会・1
侍従長はナタレが午後から王女に貸し出されていることをすでに承知していた。
申し送りを終えると、彼は急いで昼食を済ませて、リリンスの自室へ向かった。
リリンスは外出の用意を整えて、今か今かと彼を待ち侘びていたらしい。声をかけると侍女が取り次ぐより先に顔を覗かせた。
王女は髪から額に宝石のついた飾りを垂らし、薄く化粧もしていて、いつもより大人びて見える。紅を乗せた唇を凝視してしまって、ナタレは急いで目を逸らした。
「ごめんね、勝手に決めちゃって。怒ってる?」
「いいえ、まさか」
「せっかくの建国祭なのにずっとお父様の付き添いじゃ勿体ないわ」
国王主催の音楽会の会場までは、王宮の敷地を出てアルサイ湖畔をしばらく行かなければならない。
リリンスは馬で行くんだと言い張ったが、キーエはそれを断固許さず、結局は他の王族の女性と同様に輿に乗って行くことになった。
「つまんないなぁ、もう」
四名の武官に担がれた瀟洒な輿の中で、リリンスは退屈そうにしている。
アルサイ湖からの涼しい風と熱帯植物の緑が心地よい道なのに、輿は日除けの長い布で覆われており、中から風景を楽しむことはできない。リリンスが扇子をばたばたと動かすので、絹の薄布が捲れ上がり、輿に付き添って歩く侍女たちが慌てて布を押さえた。
警備兵が大勢同行しているとはいえ、王女の姿が露わになっては大変だ。一般市民が行啓を遠巻きに見物している。
「大人しくなさって下さい、姫様」
馬に乗ったナタレが輿の隣で囁く。
「もうすぐ着きますから」
「ここ、暑いのよ。私も馬がよかった」
「姫君を馬でなど外出させられません」
「何で? お父様も兄様も馬で来るのに、何で私は駄目なのよ?」
「それはあなたが王女だからです。これ以上の理由はありません!」
二人の布越しのやり取りと聞きながら、並んで歩くキーエはくすくす笑った。
普段リリンスには同年代の少年と接する機会がない。だからこそなのか、彼女の態度はまったくいつも通りで、振り回され気味のナタレが可笑しかった。
湖畔の道が開け、絨毯のような白い砂地の広場が見えてきた。
砂浜が道から緩やかな傾斜で湖の岸辺まで続き、その先で午後の陽射しを浴びたアルサイ湖の湖面が眩しく輝いている。
ここが音楽会の会場であった。
水門へと続く精緻な石積みの堤防からはだいぶ離れた、天然の岸辺だ。普段は漁師が小舟を出し網を打ち、子供が遊び回るのどかな浜だったが、一年に一度、この日だけは大勢の客が集まってくる。
前日から波打ち際に木で広い舞台が組まれて、色とりどりの布と花で飾りつけられていた。オドナス中から選りすぐられた楽人だけが上がれる舞台、最高の栄誉がこの場所なのだった。
砂浜の緩やかな傾斜を利用して、舞台を半円に取り囲むようにたくさんの客席が設置されている。舞台の正面、広々とした桟敷が貴賓席で、セファイドをはじめ王族が座ることになっていた。
その他の席もほとんどが国賓用であったが、外側の席は一般市民に開放されている。保安上柵で仕切られてはいるものの、開放部分は十分な広さがある。それでもよい場所を確保しようと、もう多くの市民が集まって弁当などを広げていた。
彼らにとってもこの音楽会は年に一度の楽しみなのだ。
王族の中ではリリンスたちが一番乗りだったようだ。
輿から降りたリリンスは、貴賓席へは向かわずに、一目散に舞台へと駆け出した。
「あっ、姫様!」
「追いかけます」
侍女たちにそう言って、ナタレは急いで馬の手綱を兵士の一人に預けてからリリンスの後を追った。
王女は意外と足が速く、砂浜の座席の間を瞬く間に擦り抜けて、舞台へと辿り着いた。警備兵はいるが、まさか王女が疾走しているとは思わず、しかし身なりから身分のある少女だと分かるので強引に制止できない。
リリンスは舞台脇に設営された天幕へ飛び込んだ。
「姫様っ!」
わずかに遅れて到着したナタレが天幕の入口の布を撥ね上げると、そこには二人の楽人がいた――キルケとサリエルである。
続けざまにリリンスとナタレが入ってきたので、彼らは驚いているようだった。
「遊びにきたわよ」
リリンスは悪びれもせずに言って、物珍しげに天幕の中を見回す。
今日の舞台最初の演者である二人のための楽屋であった。それほど広くない室内が花と荷物で埋まっている。贔屓筋からの差し入れらしい。
「姫様……またこのような所へ。叱られますわよ」
「平気よ。まだ誰も来てないから。それより今日のキルケ格好いい!」
誉められて、キルケはちょっと胸を反らした。
いつもは丸く結っている髪を下ろし、金の細い紐で飾っている。衣装は褐色の肌に栄える鮮やかな緑。金糸の刺繍が煌びやかだ。大きく開いた胸元では翡翠を散りばめた首飾りが揺れている。まさに、国一番の歌姫に相応しい豪華な装いであった。
「すごく素敵よ。ちょっとお化粧が濃いみたいだけど」
「このくらい厚塗りしないと舞台栄えしないんですのよ」
「サリエルなんかまったく普段通りじゃないの」
水を向けられて、サリエルは苦笑した。脇には念入りに調弦済みのヴィオルが抱えられている。光沢のある白い正装を身に纏ってはいるが、彼の装いには飾り立てたところがなかった。
「私は演奏するだけで、歌を歌うわけではありませんから」
「まあねー、サリエルくらいになると何もしてなくても十分映えるわよね。ねっナタレ、そう思うでしょ」
「えっ、ええ、はい……」
ナタレは口ごもった。入口の近くに突っ立ったままである。
リリンスはにんまりして、
「見蕩れちゃったの? どっちに? いやらしい」
「ち、違っ……」
「お暇なんですね、姫様」
サリエルが呆れたように言った。リリンスはむっと唇を歪める。
実際、来客が引きも切れない父や兄や母と違い、まだ独身の身分である彼女は簡単に人と会うことが許されないのだった。好奇心の強い彼女にとって、各地から珍しい客が集まるせっかくの機会に閉じ篭っているなど、不満この上ない。
暇な王女は差し入れの品々を物色し始めた。
「わ、お酒がいっぱい。この帯はサリエルに? デガード卿からね。あのおじさんも好きだなあ……あっこの衣装はキルケ宛てね。あはは、胸開きすぎ。誰からだ?」
「姫様……お願いですから王女らしくなさって下さい……」
ナタレが半ば懇願するように言った。めかし込んだ外見がどれほど大人びて見えようが、この少女の言動は相変わらず無邪気で子供っぽい。
「苦労するわね、少年」
キルケはナタレの肩を引き寄せて囁いた。香水の香りが漂い、ナタレはこめかみを引き攣らせる。
前に叱り飛ばされてから、彼はこの歌姫を少し怖がっていた。それを知っていて、キルケはちょっかいを出しては面白がっている。
「こんな所においででしたか、姫様!」
厳めしい声とともに、楽屋入口の布が持ち上がった。姿を現したのはシャルナグ将軍だった。
「舞台前のお二人の邪魔をなさってはいけませんぞ」
「暇なのは私だけじゃなかったみたいね」
将軍が背中に隠すように持っている花束を目ざとく見つけて、リリンスは小声で言う。キルケのために持ってきたものだろう。
シャルナグは大きな咳払いをした。
「とにかく、姫様は貴賓席へお戻りなさい。ナタレ、お連れして」
「キルケのお衣装、綺麗よね。私もこんなの着たいなあ」
「無視ですか……」
「姫様にはまだお似合いにならないと思いますが」
ナタレはそっぽを向いた。やや意地の悪い口調ではある。
リリンスは自分の胸を見下ろし、キルケのそれと何度も見比べて、
「どうやったらキルケみたいな胸になれるの?」
と、妙に真摯な表情で尋ねる。キルケはフフンと鼻を鳴らした。
「牛乳ですわ、姫様。羊でも山羊でもなく牛の乳をお飲みなさいませ」
「うんうん、牛乳ね」
「それから恋人を作ることですわ。両利きのお相手だと、なおよし」
純真なリリンスとナタレはは意味が分からずきょとんとしたが、シャルナグは髯に覆われた厳つい顔を赤くした。
「キルケ殿! 姫様に何ということを!」
「どうして両利きだといいの、キルケ? サリエル分かる?」
「それはですね、両利きの人間は右手と左手を満遍なく使えますから、こう……」
「サリエル殿も!」
大きな身体に似合わず狼狽するシャルナグを前に、キルケとリリンスは顔を見合わせて笑った。
大将軍はこの二人の楽人に遊ばれている節がある。特にキルケは彼の想いを知っての上だから余計にたちが悪い。
「と、とにかく姫様は早くお戻りなさい! もうすぐアノルト殿下がお見えになります」
シャルナグは半ば強引にリリンスの背中を押した。彼女にこれ以上くだらない知識をつけさせるわけにはいかなかった。
王都の人気を二分する二人ではあるが、深窓の姫君にとっては刺激が強すぎる。
ナタレも我に返って、天幕入口の布を開く。
「参りますよ姫様。楽屋を騒がせて、もうお気が済まれたでしょう」
「ナタレだって楽しそうにしてたくせに、私ばっかり悪者にしないでよね――じゃあ楽しみにしてます。客席から観てるわ。お邪魔しました」
リリンスは神妙に頭を下げて、潔く身を翻した。外ではキーエをはじめとする侍女たちが王女の身柄を確保しようと待ち構えている。
出て行った彼女に続こうとして、ナタレは一度室内を振り返った。
「……お二方の共演、俺も楽しみにしてる。ここに来られて嬉しかったよ。頑張って」
うっすら頬を紅潮させてそう言い、勢いよく出て行く。
ばさ、と入口が塞がると、キルケは口に手を当てて身を捩った。
「見た今の? 可愛い! すっごくいい!」
「キルケは年下が好みなのかい?」
「そうじゃないけど、綺麗な男の子を困らせるのは好き」
「お寛ぎのご様子で何よりだ」
シャルナグは心底呆れた声で言った。
オドナス中の楽人が憧れる建国祭の舞台を前に、この緩い感じは何なのだ。緊張感とか気負いのようなものはまったくないのか。
騒がしい邪魔者がいなくなって、彼がやっと差し出した花束を、キルケはにっこり笑って受け取った。
「ありがとうございます。緊張などするはずありませんわ。私にとっては歌うのは呼吸をするのと同じこと――サリエルはどうか存じませんけどね」
くっきり縁取られた流し目を受けて、サリエルは小さく肩を竦めた。
シャルナグには意味が分からなかった。
キルケが天性の歌姫だというのなら、サリエルもまた生まれついての楽師という他ない。誰もが心を奪われるあの演奏を聴く限り、少なくともシャルナグにはそうとしか思えないのだが――。
キルケは音楽に対する感性で、サリエルが身に纏う異質な何かを、鋭く感じ取っているのかもしれなかった。