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水面の月を抱く国  作者: 橘 塔子
第二章 鳥籠は開かない
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夜明けの湖畔

 朝の太陽はアルサイ湖を様々な色彩に染め変えてゆく。

 夜の空を支配した満月が西の沖へ沈むより先に、東の空の底が白々と明け始め、やがて薄い紫色から茜色へと華やかに変わってゆく。

 少し遅れて、アルサイ湖の水面が鏡のように同じ色を映す。日の出のわずか前、空と湖はひとつに溶け合うのだ。

 その後すぐに太陽が顔を出すと、今まで裾を広げていた赤い色彩は幻のように消え失せて、白く柔らかな光がすべてから色を奪う。

 しかしその空白も一瞬の出来事で、あっという間に世界は本来の姿を取り戻すのだった。


 空は空の色に、水は水の色に、そして砂は砂の色に――オドナスの一日の始まり。


 何もかもの輪郭が明瞭すぎるこの砂漠において、光と物体の境界が曖昧になる夜明けのひと時が、彼女はとても好きだった。

 砂漠の民は朝焼けの空を太陽の女神のベールになぞらえる。目覚めたばかりの太陽神クザクが、鮮やかで薄いベールを東の空に残してゆくのだという。

 実際は、入射角の浅い太陽光が長い距離大気層を通過するために、より長い波長の赤や橙の光線だけが色として空に留まっているというだけの単なる自然現象で、彼女もそれは知っている。

 だが知識はあってもやはり朝焼けは美しいし、この国の人々が信じているように女神のベールだと思った方が感情的には理解しやすい。 


 何はともあれ、今月も長い満月の夜が明けた。


 彼女は立ち上がると、今までその上に座っていた分厚い敷布を手に取り、軽く振るって埃を払った。飾りのひとつもない切り髪が風にそよぐ。

 アルサイ湖の湿度に守られているとはいえ、夜はやはり冷える。羊毛を重ねて織られたこの敷布と、体全体を覆う厚手の外套は、月に一度のこの務めには必需品であった。


 彼女がいるのはアルサイ湖畔の一角、岩場になった岸辺である。

 湖畔はほぼ平坦な地形だが、一箇所だけ小高い丘陵地が湖に迫り出していて崖を作っている。その崖の下にある平たく大きな岩の上で、彼女は満月の晩を過ごさなくてはならないのだった。

 その岩は人の手が磨いたように滑らかで、大人が五人は寝られるほどに広い。よほど風が吹かない限りは波が上がってくる心配もなかった。

 岸壁には自然の岩をそのまま利用した祭壇が設えてあって、金属の小さな鐘が台座に乗せられている。

 この鐘を鳴らしながら空を行く満月を見送るのが、彼女の大切な仕事なのである。


 彼女は目を擦りながら、朝のアルサイ湖に向かって大きく伸びをした。


 すっかり明るくなった青い湖面の向こうのアルハ神殿は、ひどく近くに見える。昨日の日没前、彼女をここに送ってきた神殿の舟が、務めを終えた彼女をまた迎えに来るまでそう時間はかからないだろう。


 彼女はおもむろに外套の内側から小さな硝子瓶を取り出した。

 岩の端に膝をつき、水面に手を伸ばして瓶の中に湖水を掬う。蓋を閉めて瓶を軽く振ると、水はごくごく薄い赤に変色した。

 瓶を朝日に翳して色を確認するように見て、彼女は肯いた。とはいえ満足や安堵の様子はなく、決まりきった作業を終えただけというふうな、面白くもなさそうな表情だ。

 それから瓶をまた懐に戻して、彼女は手慣れた様子で祭壇を片付け始めた。鐘は丁寧に布でくるんで袋にしまう。神殿の宝物である。


 引き上げの支度が整った頃、小さな水音が鼓膜を震わせた。風が生む小波の音とは明らかに異なる、もっと質量のある物体が水面を乱す音。

 水鳥だろうか、とも思ったがなぜか気になって、彼女は岩から身を乗り出した。

 視界に入る所には何もない。澄んだ水が朝の陽光をキラキラと跳ね返しているだけだ。


 また、水音が響いた。


 彼女は崖の壁面に手を添えながら、祭壇の岩から隣の岩へ移動した。上で夜明かしができるほど巨大な岩は一つきりだが、他の岩を渡ってある程度崖下を進めることは知っていた。

 彼女は滑りやすい濡れた岩の上をそろそろと渡って、音のした方へ進んでいった。

 崖下は緩い曲線を描いているので、祭壇の岩は徐々に隠れて視界から消える。


 岩を二十個ほども越えただろうか。湖水で少し濡れてしまった彼女の足元に、淡い水色の布がふわりと置いてあった。

 しゃがんで手に取ると、軽くたたまれた衣服である。男物らしい。上着、下着とも一式揃っている。

 それから大きめの浴布が一枚と、皮製の靴。


 パシャ、と一際大きく水音が響いて、顔を上げた彼女の目に衣服の持ち主の姿が映った。

 少し離れた岩の上へ、裸の男が水から上がってきたところだった。

 真っ白い皮膚に水滴が流れ落ち、日差しがそれらを輝かせる。彼は裸身に光そのものを纏っているように見えた。


「……おや」


 彼は髪から頬へと滴る水の玉を拭いながら、彼女を見て声を上げた。サリエルである。

 おや、とは言ったもののそれほど驚いた様子はない。体を隠すでもなく軽く頭を下げて、 


「おはようございます、ユージュ神官長猊下」


 と挨拶をする。

 宮廷楽師がこんな時間にこんな場所でこんな格好をして――不審極まりない状況ではあったが、彼女もまた動揺しなかった。もともと感情の起伏の少ない性質だ。


「おはようございます、楽師様。水は冷たくありませんか?」

「ええ少し。畏れ入りますが、お足元の服を取っては頂けませんか。このような格好ですので」


 彼女――アルハ神官長ユージュは、衣服をひとつにまとめてたたんで、ゆっくりとサリエルの方へ投げた。

 受け取ったサリエルは、浴布を取り上げて濡れた体を拭き始めた。


「神官長猊下にお見知りおき頂いていたとは光栄です」

「猊下はおやめ下さい――ユージュで結構。何度か王宮でお見かけしました」


 ユージュは彼の様子を眺めながら言った。無機質な声ではあるが不機嫌そうなわけではない。こういう喋り方なのだろう。若い男の裸を見ても平気でいるのは、よほど肝が据わっているのか、何も感じないのか。

 サリエルもまた落ち着いた様子で衣服を身に着けた。


「……なぜここで水浴びをなさっていたのかは存じませんが、この辺りは神殿の領域、立ち入りは禁止されています」

「これはご無礼を」


 サリエルは上着の前をきちんと合わせて、水気を含んだ頭髪を拭きつつ、ユージュのいる岩まで渡ってきた。危なげのない足取りだ。

 ユージュは辺りを見回して、船影の一つもないことを確かめた。


「ここまでどうやって?」

「あ、ええ。上から」


 靴を履きながら答える楽師に、


「上……」


 ユージュは岩壁伝いに視線を上げた。切り立った崖の上から垂れる縄の類は確認できない。あったとしても、ごつごつと険しい岩肌を辿って垂直に降り、また登るのは至難の業だろう。

 しかし彼女はそれ以上の追及をやめ、


「とにかく早々にお立ち去り下さい。他の者に見られたら面倒なことになります」


 とだけ事務的に告げた。


「申し訳ありません。お気遣い感謝します」


 サリエルは丁寧に頭を下げてから、若い神官長を正面から見詰めた。

 線の細い、人形のような質感のユージュの顔立ちは、やはりオドナスの民とは違う。厚手の防寒着で全身を覆ってはいるが、その黄味がかった頬は朝の冷気でわずかに紅潮していた。


「……私の顔に、何か?」

「いえ、これほどお若い神官長にお会いするのは初めてだったものですから。東方のご出身とお見受けしますが」


 不躾とも取れるサリエルの問いに、ユージュは気分を害したふうもなく肯いた。立ち入り禁止と言いながらさっさと追い払おうとしないのは、それなりにこの楽師に興味があるのかもしれない。


「元々の出自は東方だと聞いています。私が生まれた時には、すでに我々は流浪の生活を送っていました。今の国王の庇護を受けてこの地に定住するまでは」


 我々、とは湖の中島に建つアルハ中央神殿の神官たちだろう。セファイドは即位してすぐ、アルハ神官の大規模な人事異動を行い、都の神官にはユージュたちの一族を登用したのだという。


「あなた方を神官に登用した国王陛下のご判断は正しかったようですね」


 サリエルはそう言いながら、濡れて頬に貼りついた髪を払った。まだ体が乾ききっていないのにまったく寒そうな素振りは見せない。


「現在の中央神殿の神官は、王都の祭礼を司るだけでなく、国王の技術顧問の役割も担っていると聞き及びます。オドナスが短期間にこれほど豊かになったのも、あなた方の知識と技術があったからこそとか――巷では魔法だと言われているようです」

「魔法、ですか」


 ユージュの口元が少し上がった。微笑、なのだろう。


 彼らが神官として中央神殿を仕切るようになってから、国王はその助言を受けながら街を整備し、アルサイ湖での漁獲高を増やし、作物の栽培法を改良した。

 また国内の度量衡を統一したり、暦を計算しなおしたり、工部や文部の職務にも彼らは深く介入している。

 神の意を受けた神官が、不思議な力でオドナスを導いている――王都の住人は、誇らしげにそう語る。

 もっと分かりやすい言葉にすれば、魔法、と呼ばれるのだろう。


 ユージュはすぐに笑みを消した。


「確かに私たちはオドナスとは別の知識を持ってはいますが、それは決して魔法などではありません。ただ少し、世界の理を多く知っているだけ」


 湖面からの風が、彼女の黒い髪と長い外套の裾をたなびかせた。その姿は若くして国内の聖職者の長を務めるに相応しく、理知的で清廉だった。


「アルハ神は、人間が天候の変化を読むことはお許しになっても、それを捻じ曲げることはお禁じになっています。人間の手による魔法や呪いの類についても同じことです。神の定めた大原則を変えられるのは、他ならぬ神のみなのですから」


 不毛の砂漠に広大な湖を出現させたように――。


「ですから、神官である私が安易に魔法云々と口にすべきではありません。どんなに不可思議に見える現象でも、そこには神の原則が必ず働いています」

「重ね重ね、非礼をお許し下さい」


 サリエルはそっと目を伏せて詫びた。


「お心を探るようなことを申し上げました。あなたは紛れもなくアルハ神信仰の統括者でいらっしゃる」


 ユージュは無言で風に乱された外套の襟元を押さえた。

 左手の中指できらめいた指輪は、黒い下地に金色の装飾が施された珍しいものだった。彼女が身に着けた唯一の装飾品だ。


 沈黙した二人の間に、遠くから櫓を漕ぐ音が流れてきた。穏やかな水面を小舟がゆっくりと進む音。

 ユージュは顔を上げて、眩しそうに太陽を見た。


「迎えが来たようです。もう戻らなくては」

「ええ、そのようですね。足元にお気をつけて」


 神殿からの迎えの舟は、あの祭壇の岩に着くのだろう。

 湿った岩の上を移動し始めたユージュに、サリエルは手を差し出した。その手をためらわずに取りながら、


「冷たい手をしていますね」


 と、彼女は呟く。


「それにとても綺麗です。指の皮膚も柔らかくて、弦楽器奏者とは思えません」

「思えませんか」

「あなたの身体には――」


 至近距離でサリエルの顔を写したユージュの瞳が、きらりと光った。対象を観察する研究者の眼差しに似ている。


「傷の一筋、黒子のひとつ、日焼けの跡すら見受けられませんでした。灼熱の砂漠を渡ってきながら、これはいったいどういうことなのでしょうね」


 指摘通り、今しがた彼女が目にした楽師の皮膚には、後天的についたと思われる跡が一切なかった。石で刻まれた彫像のように、全身の表皮が均一な質感だった。


「あなたの身体は生まれてから一度も日の下へ出たことのない人間のそれです。そんなことがあり得ない以上、新陳代謝の速度が異常に速いとしか考えられない。なのに、こんなに冷たい手をしている。あなたこそいったい何者なのです?」


 迎えの待つ祭壇の岩からここは見えない。

 人気のない早朝の湖畔、得体の知れない男と二人きりで、しかもその素性に踏み込もうとしている。何かが起こっても誰にも知られることはない。


 この繋いだ手をどうされても――。


「ただの楽師ですよ、神官長様」


 ユージュが隣の岩に移り、姿勢が安定したのを確かめてサリエルはゆっくり手を離した。

 二人の間に緊張の気配はなかった。


 若い神官長は振り返った。日を背にして陰を宿したその顔は、少し物憂げだ。


「あなたが何のためにこの国へ立ち寄ったのかは知りませんが、ここで果たすべき役目があるのならば早くお済ませ下さいますよう」

「なぜ、そう思われます? 私に役目があると」

「さあ……ただ、あなたのような方が長くひとところに留まるのは、あまりよいこととは思えません」


 ユージュは外套をしっかり身体に巻きつけると、危なげのない足取りで、もと来た岩を戻って行った。


 サリエルは深く頭を垂れ、神官長の後ろ姿を見送った。彼女の華奢な背中は、朝日の中に溶けていくようだった。

 再び顔を上げたサリエルの銀色の両眼には、不思議な色が宿っていた。

 彼が初めて見せる、それは、懐かしさに似ていた。





 祭壇の岩に戻ると、すでに神殿からの舟が到着し、迎えの神官がおろおろしていた。


「ユージュ! どこへ行ってたんだ?」


 神官が彼女を見つけて駆け寄った。少し年上の、ひょろりと背の高い青年である。


「湖に落ちたかと思ったじゃないか」

「そんなわけないでしょう。馬鹿にしてるの、カイ?」


 ユージュは冷たく言ったが、カイと呼ばれた神官はホッとした表情になった。彼女のぶっきら棒さは、仲間内でもいつものことだった。


 彼らの喋る言葉はオドナス語ではなかった。辺境の方言でも、スンルー語でも、西方の大国アートディアスの言葉でもない。国際色豊かな王都でも耳慣れない、不思議な響きの言語だった。


「寒かっただろ。帰って風呂入れよ」

「これ」


 舟に向かうカイに、ユージュは右手を差し出した。親指と人差指で何かを摘んでいるようだ。

 黒い糸のようなものが1本、風によそいでいる。カイは戸惑いながらもそれを注意深く受け取った。


「何これ? 髪の毛?」

「そう。一本しかないから気をつけてよ」


 ユージュはさっさと舟に乗り込みながら言う。二、三人乗ったら満員の小舟だが、船首の部分に三日月の紋章が掘り込まれた優美なものだ。


「神殿に帰ったら、それ、調べて」


 ――サリエルの毛髪である。先ほど彼の衣服を手にした時に、そこに一本だけ付着しているのを見つけて採取したのだ。


「あ、ああ、分析室に回しとくけど……誰の髪なんだ?」


 カイはその髪を大事そうに懐へしまってから、ユージュに続いて舟に乗り、櫓を手にした。


「私にもまだ分からない」


 舟の中に積まれた毛糸の膝掛けを肩から被ったユージュは、それきり黙って目を閉じた。不確定な事象について、彼女が想像や推測で語ることは決してないのだ。

 次の瞬間、もう穏やかな寝息が聞こえ始めた。

 カイは溜息をつきながらも優しい眼差しで彼女を見下ろす。そして揺らさないように細心の注意を払いつつ、ゆっくりと舟を漕ぎ始めた。


 神殿までわずかな距離ではあるが、徹夜明けの神官長のまどろみを妨げないように、なるべくこの平穏な時間が長く続くように、彼にできる精一杯の気遣いだった。

ここまで読んで下さってありがとうございます。

ご感想などお待ちしております。

次章、建国祭です。


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