月下の顔
「あっさり仲直りできたみたいねー」
キルケは肉桂の木に腰掛けた二つの人影を眺めて、息をついた。
「何を話してるのかは聞こえないけど、もう心配なさそうよ。ナタレも意外とうまいことやったわね」
「覗きっていうのは感心しないな。そっとしておけばいいのに」
「よく言う。あなたが誘ったんでしょうが」
彼女が呆れて振り返ると、背後のサリエルはあさっての方向を向いた。
中庭の一角である。リリンスとナタレの登った肉桂の木から少し離れた場所で、月明かりに二人の姿がよく見える。
リリンスを気にして夜中に王女の部屋近くへ赴いたキルケをサリエルが呼び止め、ここへ案内したのだった。
「あなた、ずっとここでリリンス様が木に登るまで待ってたの?」
「さあ?」
「まあいいけど。これで安心したわ。若いっていいわねえ」
キルケは小さく伸びをした。
「……自分にとっていちばん大切なものは何か、選択を迫られる時がそのうちきっと来る。その時のために今は、自分の気持ちと正直に向き合ってほしいと思うわ」
キルケは小声ながら教師のような口ぶりでそう言ってから、少し声音を変えた。
「どれを選んだって結局は後悔してしまうものなんでしょうけど」
珍しく感傷的な言い回しに、サリエルはキルケの横顔を見た。
歌姫はずっと月に目をやっているが、その遥か向こうにある別のものを見詰めているかのようだった。
「君も選んで後悔を?」
サリエルに問われたキルケは微笑んで見せた。口が滑った、とでも言いたげな苦味の混じった笑顔だった。
奴隷の烙印を背負った身でオドナス最高の歌姫と賞されるようになるまで、彼女はいったいどれほどの運命の選択を越えてきたのか。
「歌を捨てるっていう選択肢もあったわね。昔のことよ」
「歌と引き換えに諦めたものがあるんだね」
「仕方がないわ。歌い続けることが、私にできるあの方へのご恩返しだから」
あの方とは国王のことだろうか。仕方がないとは言いつつも、キルケは誇らしげであった。
彼らはもう一度肉桂の梢に止まる二つの人影を眺めて、その場を後にした。
建物の中へ戻ろうとして、ふと、流れてくる煙に気づく。
不思議な香りの煙の元へ視線を送ると、回廊の先に人影が見えた。
セファイドはゆっくりと煙管の煙を燻らせながら、空に浮かぶ満月を眺めていた。
巨大な天体が放つ冷たい光はあまりにも眩しくて、こんな夜には後宮の女たちの所へ行く気にもならない。
真昼のギラギラした陽光が強引に陰を奪い世界を平坦にするのとは対照的に、月光の静けさは濃い陰影を生む。世界を深くする。何層にも折り重なった陰の中から、昼間には気づかれない何かが姿を現してくる。
中庭の樹木も今は墨の色だ。それが風に揺らされて、ざわと鳴った。
彼方から、澄んだ金属音が小さく聞こえてくる。
あれは満月の夜の鐘――アルサイ湖を渡る風が運ぶ祈りの鐘音だ。凛とした音色でありながら、どこか寂しげに耳に響く。
息とともに吐き出された煙管の煙が、水に溶いた白い絵の具が流れるように、薄闇の背景に漂った。
煙は徐々に拡散して薄まりながらも、ある形をとってセファイドの視界に留まった。
若い男の顔――彼にはそう見えた。
煙の顔は苦悶の表情を浮かべていた。
完全に掻き消えるまでほんの数秒間、しかしセファイドは眉一筋動かさずにそれを眺めている。
「……どうした、俺を呪い殺すんだろう?」
そう呟いた瞬間、左足首に冷たい強い力を感じた。まるで誰かに渾身の力で握られたような。
彼は足元を見ようともしなかった。そこに何もいないことは分かっている。
月が満ちる度に甦ってくる感触だ。二十年前から繰り返し繰り返し――これは記憶なのだと、セファイドは知っていた。満月に浮かび上がった影絵のような記憶。
慣れた痛みに、彼は少し笑った。
「まだこの命をくれてやるわけにはいかんな」
次の呼吸で立ち上った煙は、恨めしげに彼を見詰める顔になって、すぐに風に流された。
同時に足首の感触も消えて、薄闇の中には何の気配も感じられなくなった。
その名残を惜しむようにセファイドはしばし立ち尽す。
夜風に身体が冷えてきたようだ。もう寝室に戻ろうと思った。
煙管の中の最後の煙草を吸い込んで、紫煙を吐き出し終えた時、かすかな衣擦れの音が彼の耳朶に届いた。
振り向くと、回廊の向こうから二つの人影が近づいて来る――キルケとサリエルである。
楽人たちは何やら話しながら歩いている。
肌の色も顔立ちも対照的な二人ながら、なぜかとても調和の取れた光景に見えた。恋仲なのではないか、と勘繰りたくなるほど似合いの二人だ。
彼らもすぐにセファイドに気づき、立ち止まって深く頭を垂れた。
ゆっくりと顔を上げたサリエルの頭上に、皓々と月光が降り注いでいる。白い皮膚がますます冴えて、まるで新品の磁器でできた人形のようだ。
太陽と砂の国の昼間においては異質だが、夜の世界にあってはこれほど似つかわしい存在もないように思えた。
声をかけようとして――セファイドは動きを止めた。
背筋をひんやりとした風が駆け抜けた気がした。
思い出した。この男、やはり以前に会ったことがある。いや、見たことがある。
足先がじわじわと引き攣ってくる。先刻足首に感じたあの痛みよりも、もっと不快な何か。心ではなく身体の感覚だ。
青い薄闇の中、一面に飛び散った真紅の液体。生温かい感触。
そしてそれを穏やかに見下ろしていた白く美しい顔――忘れていた訳ではないのに、記憶の奥底へ封じ込めていた映像だった。
楽師を初めて見た時に胸を過ぎった不安の理由がやっと分かった。数え切れぬほどの戦いを制しオドナスを大国を育て上げた王は、それを恐怖とは思いたくなかった。
己の中に生まれた衝撃と変化を悟られまいと、セファイドは努めて軽やかに話しかけた。
「こんな遅くに楽人二人が何をしている? 逢引か?」
部屋着姿のセファイドにからかうように訊かれて、キルケとサリエルは顔を見合わせた。
キルケは優雅に身を屈めてからにっこり笑う。
「陛下こそ、今宵はどなたの元へお渡りなのかしら?」
冗談めかしているとはいえ、王の問いに対して問いで切り返すのがこの女だ。
「満月の晩を共に過ごされるお相手には興味がありますわ」
「期待に添えなくて悪いが、独りで身を慎んでいるよ」
冷たい月明かりの中、セファイドは苦笑して答えた。
満月の晩はアルハ神が最も砂漠をよく見渡せる。だからオドナスの民は平素より慎重になるのだった。満月の下で交わした約束は何があっても守らねばならないとされる。
そんな夜を共に過ごす相手が、セファイドにはいないということか。
「また殊勝なことをおっしゃって。老け込むにはまだ早うございますわよ」
キルケはかしこまりもせずに笑い飛ばした。
セファイドは笑みを深くして、わずかに無精髭の伸びた顎をさすった。
「いや本当に、もう女はたくさんだよ。おまえたちの歌と演奏を聴いていた方がずっと気持ちが安らぐ」
キルケは一瞬複雑な表情になった。誇らしさの中に、一抹の寂しさが混じったような。
だがすぐにそれを消し去って、
「ご冗談ばかり」
と、サリエルを見やった。
同意を求められたサリエルは曖昧に微笑んで、
「では今宵は私どもでお相手を、と申し上げたいところですが……陛下は本当にお疲れのご様子ですね」
「まあな、今日はもう休む。おまえたちもあまり夜更かしするなよ」
平素の自らは棚に上げて、セファイドはそう忠告してから身を翻した。
キルケはほっと胸を撫で下ろした。中庭の木の上にはまだリリンスとナタレがいる。やましいことがないとはいえ、父親に見つかるのはまずいだろう。
再び一礼する二人に背を向けたまま、彼は呟くように言った。
「……若い者がいろいろと面倒をかけているようだが、ま、見守ってやってくれ」
夜風が煙の匂いを掻き流した。
あとは無言で立ち去って行く。キルケとサリエルは主人の後ろ姿が室内に消えるまで身を屈めて見送った。
やがて、キルケの大きな溜息にサリエルは顔を上げた。
「……さすがに地獄耳でいらっしゃるわ」
リリンスとナタレの間に起こったことを、詳しくではなかろうがセファイドは察しているようだった。
「砂漠の彼方にある隣国の内情から、ご息女の交友関係にまでお気を配られるとは、国家元首とは実に大変な役目だね」
感心しているのか同情しているのかよく分からない口調のサリエルに、キルケはひらひらと掌を振った。
「今のは父親の顔でしょ。リリンス様が可愛くて仕方がないのよ。姫様の母上は、陛下が唯一本気で惚れた女だもの」
軽く肩を竦め、
「噂だけどね」
と付け足す。
平民の身でありながらオドナス王の子を生み、それでいて後宮に上がることを拒み続けた女――早世したリリンスの母親について直接知る者は少ないが、半ば伝説のように語られている。羨望と侮蔑を同じだけ含んで。
どこか気の抜けた表情になったキルケをサリエルは穏やかに見詰めた。
「君が歌と引き換えに諦めたものは……」
「え?」
「どうして君がシャルナグ将軍の求婚を受けないのか、分かった気がするよ」
「そう?」
歌姫は艶然と微笑んだ。心の内を見透かされようと、少しも怯むところがない。
その態度で答えを得たと思ったか、サリエルはそれ以上何も言わなかった。
煙管は長時間吸えるものではないんですが…大目に見て下さい。