肉桂の木の上で
正妃の部屋を出ると、燭台を手にしたエムゼ女官長が待っていた。
サリエルは中庭の空を見上げる。晴れ渡った夜空に満月が明るい。回廊を歩くのに、今夜は灯りは必要なさそうだった。
エムゼは恭しく火の点った燭台を差し出した。それを受け取りながらサリエルは、
「ありがとうございます。ずっとこちらに?」
と、尋ねた。耳を澄ませば室内の会話も聞き取れたかもしれない。
「どうか正妃様を誤解なさいませぬよう」
エムゼは顔を伏せたまま言った。
現在は王宮の女官たちを束ねる立場にあるが、元々はタルーシア付の侍女を務めていたという。まだタルーシアが王女であった頃の話だ。
「誤解とは?」
「正妃様は十五歳の時、国策のために、六十歳を過ぎた他国の王に嫁がされました。けれど夫君が三年後に亡くなると、お子のできなかったタルーシア様は早々に国へ帰されたのでございます。当時はオドナスも小国にすぎず、仕方のないこととはいえ、あの方のお悲しみ、お悔しさは侍女であった私にもよく分かりました」
正妃と同い歳の女官長は化粧がごく薄く、髪の結い方も簡素なので、正妃よりも少し老けて見える。それだけに、飾り気のないその真摯さには凄みがあった。
「タルーシア様が今の国王陛下のご求婚をお受けになったのは、陛下であればこの国を強くできると――二度とあのような思いをせずにすむとお信じになったからでございます。決して正妃としての権力を望まれたからではございません」
「どうしてそのようなお話を私に?」
サリエルは静かに訊いた。正妃の過去を知っても驚いたふうはない。それよりも、エムゼの彼女への想いの方に興味を引かれたようだった。
エムゼは少し間をおいて、
「あなた様はお役目柄、王宮内の様々な噂話を耳にされたかと存じます。その中には正妃様に対する無責任な中傷も含まれているでしょう。あの方はただ、オドナスの繁栄と、ご自身のわずかばかりの幸せを望まれているだけなのに」
彼女の指摘通り、正妃への悪意ある噂話は、主に後宮でよく囁かれていた。
新参の愛妾を苛めて追い出しただとか、自分は贅沢をしておいて他の者の浪費は許さないだとか、果ては、アノルトが王位に就いた暁には国母として息子を陰から操るつもりだとか。
しかし正妃が後宮の責任者である以上、そこで権力を持つのは当然の理なのだ。リリンス王女を最後に国王が子を儲けず、それでいて毎年のように愛妾が入れ替わる現状では、風紀の乱れを防ぐためにも女主人の管理が厳しくなるのはやむを得まい。
そんな正妃の苦労も知らず、のんきに悪口を言っては面白がっている若い愛妾たちに、エムゼは我慢がならないのだ。
サリエルは小さく息をついた。
「確かに正妃様への非難は的外れですね。元を正せばほとんどが国王の責任……陛下は色恋に関して鷹揚でいらっしゃいますから、正妃様のご心労をお察し申し上げます」
「それは……陛下はそういうお方ですから、仕方がありませんわ」
エムゼは諦め混じりに言った。セファイドの女性関係の不祥事については、若い頃からさんざん目にしてきたのだろう。統治者としての手腕はともかく、彼は夫としてあまり誠実とは言えまい。
サリエルは苦笑して、
「あくまで私の印象ですが、タルーシア様は、ご自分が欲深い正妃と陰口を叩かれる程度のことは何ともお感じになっていないようでしたよ。揺るぎない覚悟をお持ちとお見受けしました。あなたのお仕えするお方はそういう女性です」
と、エムゼを見詰めた。
彼女は深々と頭を垂れた。安堵と誇らしさで崩れそうになる表情を隠すかのようだった。本当の感情を漏らさぬよう、王宮で身に着いた習慣なのかもしれない。
普段リリンスのやんちゃを叱り飛ばす厳格な女官長とはまったく違う声で、彼女は礼を言った。
「分かっております。ありがとうございます、サリエル様」
「どうか楽師のことなぞお気になさらずに」
「はい」
「……ああ、今日は月が綺麗ですね」
サリエルは濃紺の夜を皓々と照らす満月を見上げて、目を細めた。
夜半になって、月は中天に懸かった。
静まり返った王宮に、微風に揺れる木々の葉擦れだけが響いている。空気は青く透明で、世界が水に沈んだように静かな夜だった。
リリンスはいつもより少し月に近い場所にいた。
中庭にある大きな肉桂の木――その太い枝に王女は腰掛けていた。自分の部屋の屋根が足の下に見える。控えの間で侍女たちが寝静まったのを確認し、こっそり部屋を出て登ってきたのだった。
楕円形をした深緑色の葉っぱが、リリンスはとても好きだった。指でちぎるとほんのりと甘い香りがする。
リリンスは幹に頭をもたせ掛けて月を眺めた。
あの月は神様なのだという。この国を見守って下さるのだという。
歴代のオドナス王は月神アルハを国神として祭ってきた。
現王セファイドもアルハへの信仰が篤く、即位してすぐに湖の中島にあるアルハ神殿を改修し、百名以上の神官を新たに登用した。現在も度々神殿を訪れては、雑多な祭事について神官たちと意見を交わしている。
普段は恐ろしく現実的で、迷信や言い伝えなど信じているふうもない父が、アルハ神の前では敬虔な信徒になることがリリンスには意外だった。
リリンスもまた、王宮に迎え入れられる前からアルハ神を敬うよう教えられてきた。それは信仰というより道徳に近い。アルハ様の恵みに恥じないよう正直に誠実に生きなさい――さもないとアルサイ湖が干上がってオドナスは滅んでしまう。
見守られているのではなく見張られているみたいだ――リリンスはそんなふうに思う。
だから、こんな満月の夜は少し怖い。
ナタレはきっと違うのだろう。オドナスの民ではない彼は、月には縛られない。彼を縛っているのはこの国と、この国の王族である自分たちだ。
それを思うとリリンスの気持ちはますます沈んでしまう。
アルハ様はそれをよしとするのかしら。オドナスの民ではない彼には恵みを与えて下さらないのかしら。
ふいに、肉桂の枝がギシギシと軋んで、リリンスは我に返った。
慌てて幹に掴まって辺りを見回すと、下の方の枝に、夜目にも鮮やかな緋色の色彩が見えた。まさか――。
「姫様、そちらにいらっしゃいますか?」
葉の間から覗いた顔は、紛れもなくナタレのものだった。咄嗟のことにリリンスは返事ができず、さりとて隠れる場所もなく、おろおろと枝の先の方へ体をずらす。
ナタレは身軽に木を登ってきて、リリンスのいる枝まで辿り着いた。
「……夜分に失礼いたします」
「ど、どうしてここが分かったのよ?」
彼女は目を擦りながら訊いた。少し声が上ずってしまう。
「木の枝からお足が見えましたので」
ナタレは控えめに彼女の足元に目をやった。
木登りの前に靴を脱ぎ捨ててしまったので、衣の裾から覗く二本の足は月明かりに白々と目立っている。
恥じらいを感じなくもなかったが、慌てて隠すのもどうかと思い、リリンスはそのまま素足をブラブラさせた。
「こんな夜中に何の用なの?」
わざとぶっきら棒に尋ねる。動揺しているのがばれてしまいそうだった。
ナタレは彼女の隣までやって来て、腰の革帯に括りつけた小袋の紐を解いた。中には黄緑色の葉っぱが数枚。
「それ、もしかして……」
「仰せつかっておりました、ハマト草です」
差し出されたそれは、今摘んできたばかりらしくとても瑞々しい。
「わざわざ採りに行ってくれたの? こんな遅くに……」
「姫様のお部屋の前に置いておこうと思ったのですが。今夜は月が明るくて探しやすかったですよ」
ナタレは事もなげに言うが、国王の御前会議が終わるのを待って、後片付けをし、それからハマト草を採りに出たのである。この草が生えているのは王宮から見てアルサイ湖のほぼ対岸――馬を飛ばして、ようやく今戻ってきたのだろう。
それが分かって、リリンスは胸が詰まった。小動物の体調不良に効くとされるこの薬草が欲しいとナタレに依頼したのは、会う機会を作るための口実だったのに。
「ありがとう……」
リリンスは薬草を受け取ってようやく言った。
ナタレは夜露に濡れた足元を見せないよう気をつけながら、彼女の横に腰を下ろした。肉桂の枝は少したわんだが、小柄な二人の体重を支える余裕は十分あるようだった。
しばしの間、ふわりとした沈黙が下りた。
リリンスは黙って俯いている。何を言えばいいのか分からなかった。
そんな彼女の横顔にちらちらと目をやりながら、ナタレは唾を飲み込んだ。口の中が乾いている。
「あの……姫様、今日は申し訳ございませんでした」
そう切り出されて、リリンスは顔を上げた。ナタレはすぐに苦い表情で視線を逸らす。
「姫様に対してあのような無礼な真似を……お詫びいたします」
彼は意を決したように再びリリンスを見た。夜気を避けるためか緋色の衣装の襟は立てられ、喉元にあった痣を窺うことはできない。
「実は今日、少し自信をなくすことがあって……それは結局自分の未熟さが原因だったのですが、そのことに思い至らず、お優しい言葉をかけて下さった姫様に当たってしまったんです。本当に愚かでした」
大きな目をますます大きく見開くリリンスの前で、ナタレは深々と頭を下げた。
「姫様がお気にかけて下さることが本心では嬉しいくせに、私……俺は馬鹿な子供でした。あなたに酷い言葉を吐いたことをお許し下さい」
「わっ、私もっ……」
リリンスはナタレが頭を上げる前に思わず彼の手を握った。同じように温かく、少し汗で湿った手だった。
驚いて動きの止まったナタレに向けて、
「私も謝らなきゃ。あなたのこと何も知らないくせに……優しくしてたつもりで、結局は自己満足だったのかもしれない。あなたの孤独な気持ち、都合のいいように解釈して」
「姫様、あの、手を」
「だからね、嫌じゃなかったら、少しずつあなたのこと話して。私も自分のこと話すわ。ゆっくりでいいから友達になろうよ」
ナタレは頬が熱くなるのを感じながら、肯いた。
不思議だった。今日の出来事で、住む世界が違うとリリンスも感じただろうと覚悟し、二度と近づかないつもりでここへ来た。
どんなに罵られようと謝罪だけはしたかったからだが、彼女がこんなにもあっさりと檻を飛び越えてくるとは――。
檻なんて、初めからなかったのか。
「ありがとうございます、リリンス様」
ナタレは小さく言った。彼の手を握り締めるリリンスの手は、柔らかく温かかった。同じ生きた人間の手だ。
リリンスは安心したように表情を崩して、明るく微笑んだ。月を崇める国にあって、太陽を思わせる王女だった。
少し間を置き、なかなか手を離してもらえないのでナタレが当惑していると、
「……ところで、ナタレ、何かいい匂いがするんだけど、食べ物持ってる?」
と、彼女は笑顔のまま訊いた。
「あ……はい、夕食を摂る時間がなくて……学舎の厨房から失敬してきたんです」
ナタレはさり気なく手を離して、帯に結んだもうひとつの袋を外した。中には木の皮に包まれた蒸し饅頭が三個入っている。
「一つもらっていい?」
「え?」
「お腹空いてるんだもん」
「姫様の召し上がるようなものではありませんよ。もう冷めてますし……」
「私もご飯食べてないのっ。いいからよこしなさい」
リリンスは半ば強引に袋を奪い取って、饅頭を頬張った。
奪った饅頭に美味そうにかぶりつく王女とは、まず有り得ない絵図ではある。しかも夜中に木の上でだ。
ナタレは最初呆気に取られて、それからおかしくなってつい笑った。
しかしリリンスが三つ目に手を伸ばした時、自分の夕食がなくなったことに気がつき、ちょっと悲しくなった。