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水面の月を抱く国  作者: 橘 塔子
第二章 鳥籠は開かない
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赤い鳥

 いつもは鏡台の横に吊るされている鳥籠が、今夜は寝台の脇にある。中で小鳥が羽音を立てた。

 リリンスはもそもそと起き上がって目元を擦るような仕草をした。濡れた頬に数本の髪が貼りついている。

 泣いていたことを隠すでもなくしょんぼりしているリリンスを、サリエルは優しい目で見詰めた。


「お父上のおっしゃる通り、理解できたとたやすく結論づけてはいけないのでしょうが、理解しようと努力することは大切だと思います。他人のことも――自分のことも。歩み寄ろうとした姫様は、ナタレより少し大人でしたよ」

「そうかな、私なんかいっつも子供っぽいって叱られるのに」


 彼女はまた鼻をすすって笑顔を作った。声が少し元気になったようだ。

 安堵の表情を浮かべるサリエルの前で、リリンスは鳥籠に手を伸ばした。


「この鳥がね……逃げたの」


 目を細めて、古い御伽噺を思い出すように話し始める。


 東方の商人から献上された鮮やかな赤いインコだった。

 リリンスは大切に飼っていたが、餌をやろうと籠を開けて逃がしてしまったことがある。1年ほど前の出来事だ。

 インコは部屋の中を低く飛びまわり、慌てる侍女たちの間をすり抜けて、中庭へと出て行ってしまった。追いかけて部屋を飛び出したリリンスは、彼女の部屋のすぐ前に生えた肉桂の巨木の枝に、彼女の鳥が留まっているのを見つけた。


「で、登ったの、仕方ないから」

「登ったんですか? あの高い木に」


 サリエルはやや呆れて訊き返した。王女が衣装の裾をまくり上げて木登りをする姿は、他の国ではまず見られない。


 下で大騒ぎする侍女たちを気にも留めず、リリンスはすいすいと登っていって、やがてインコのいる枝まで辿り着いた。枝に跨って精一杯手を伸ばしたが、もう少しのところで届かない。

 危険を冒してもう少し枝の先まで行ってみるか、と決心しかけた時、彼女の後ろからもう一本別の腕が伸びてきた。


「それがナタレだったわ」


 彼は王都に来たばかりで、その日はちょうど国王への謁見が許された日だった。謁見室へ向かって回廊を歩いている途中、梯子を抱えて右往左往する侍女たちに気づいたらしい。


「彼はロタセイの赤い正装を身に着けていて……それが肉桂の緑の葉っぱの中で物凄く鮮やかに見えた。王宮で同年代の男の子に会うのは珍しかったからびっくりしたわ」


 ナタレはリリンスが落ちないように彼女の衣装を掴んで支えながら、小さく口笛を吹いた。するとインコはためらいもなく彼の伸ばした指先に留まったのだった。

 思わず歓声を上げるリリンスの手にそっとインコを返して、ナタレは、この鳥は風切羽根を切ってあるみたいだから遠くへは逃げられない、大事に飼ってやってくれ、と言った。


「それから、こんな大きな肉桂の木は初めて見た、やっぱりここは水がいいんだね、って笑ったの。私が王女だと知らなかったみたいで、だからとっても親しげな感じで」


 地上に降りてきたリリンスを、鬼のような形相の女官長が待ち構えていてこっぴどく叱られたのだが、彼女の気持ちが萎むことはなかった。すぐに去っていった赤い服の少年のことばかりを考えていた。

 彼が属国からの留学生だと知り、父王の侍従見習いとして再び王宮に現れた時、だからリリンスは小躍りして喜んだものだ。


「ナタレはいつも緊張した顔をしてて、ああ昔の私と同じだなあって思ったの。ここで独りぼっちなんだって。そしたら私、ほんとはこんなこと思っちゃいけないんだけど……」

「嬉しくなった?」

「うん。酷いよね、ナタレが孤独なのを喜ぶなんて。自分と同じだから友達になれると思った。ナタレが故郷に帰らずにずっとここでいればいいとまで思ったわ」


 多少興奮気味に樹上での出会いを話していたリリンスだが、再び声の調子を落とした。

 彼女はサリエルの肩に頭をもたせ掛けた。


「何て我儘なんだろう私は……他人の不幸を願うだなんて」


 サリエルはリリンスの頭をそっと撫でた。その手はひんやりと冷たかったが優しかった。

 リリンスは目を閉じて、


「サリエルの手は気持ちいいね……母さんの手に似てる」


 と呟く。


 彼女が八歳の時に死んだ母親。

 体調を崩して数日寝込み、ある朝リリンスが目覚めると、すでに隣で息を引き取った後だった。幼いリリンスが泣きながら揺さぶっても、母親は目を開かなかった。

 必死に握り締めた母親の手――アルサイ湖の水よりも冷たかった。それを感じた時、リリンスはもう母親が二度と目覚めないと理解したのだ。


 今触れた楽師の掌は、あの時の記憶を呼び覚ました。死人と同じ温度の手――それなのに不思議と気持ちは安らいだ。

 リリンスはサリエルの手に自分の手を重ねた。


「心配かけてごめんね。来てくれて嬉しかった」

「目の上を冷やした方がいいですね。瞼が腫れています」


 涙の跡をなぞるように頬に触れた指は、やはり冷たい。リリンスは微笑んだ。


「泣いてたのがバレるかな」

「鼻も赤い」

「えっ、やだ!」


 慌てて鼻を押さえる彼女がようやく普段の元気を取り戻したのを見て、サリエルも笑顔になった。それは白い花が開くようで、リリンスは思わず見惚れてしまった。

 この人もまたずっとここにいてくれればいいのに――口には出さないが、リリンスはそう思わずにはいられなかった。





 楽師の演奏を聴き終わったタルーシアは、至福の表情で大きく息を吐いた。金色の付け爪の美しい手で拍手をして、椅子の背凭れに身を預ける。


「相変わらず見事です、サリエル。そなたの楽の音があれば、山海の珍味も美酒も宝玉の輝きさえ色褪せるようです」

「本当ですわ。サリエル様がいらっしゃる日は後宮に花が咲いたよう」

「皆楽しみにしておりますのよ」


 鳥のさえずりのような侍女たちの賛辞を聞きながら、サリエルは深く頭を垂れた。


「勿体ないお言葉でございます」


 夕食後、正妃の自室である。

 彼女の好みの薄紫色に統一された豪奢な部屋で、後宮の女主人であるタルーシアは演奏に聴き入っていた。ずいぶん寛いだ様子で、時折軽い果実酒で喉を潤す。


 王族以外の人間が後宮に入るにはまず彼女の許しを得る必要があるのだが、サリエルの出入りについては全面的に許可されていた。

 彼が信用されているということもあるが、許可しなければ後宮の女たちが外へ聴きに出てしまうだろうと懸念されたからだ。王宮の風紀の乱れは防がねばならない。


「今日はリリンスを訪ねてくれたようですね」


 タルーシアはゆっくりと足を組み直した。王妃に相応しい品があるのに、匂い立つような色香が漂う。


「ご存じでしたか」

「あの子は何やら伏せっているそうではありませんか。夕食も摂っていないと聞きました。珍しいこともあるものです」


 彼女の言葉は義理の娘を気遣っているようで、しかし声の響きは冷ややかだった。同じ女として、王女の動きを牽制しているようでもある。

 サリエルは少し笑った。


「そのようですね。ですがご病気というわけではなさそうですから、正妃様がお心を煩わされる必要はないかと」

「あの子も年頃です。そろそろよい嫁ぎ先を探さねばなりません」


 タルーシアは手に持った扇を開いて、さわさわと振った。


「私のような者が申し上げるのも僭越ですが、リリンス様はオドナスの王女に相応しくご聡明にお育ちです。正妃様のきめ細やかなご教育の賜物と拝察します」


 そう言うサリエルに、彼女は薄く笑って見せた。


「口のうまい楽師だこと。私がリリンスにひとかけらの愛情もかけていないことなど、そなたならとうに分かっておりましょうに」


 扇の向こうに半分隠れた正妃の顔の中で、澄んだ黒い瞳が揺れた。少女のように無邪気で、それでいて熟成された葡萄酒を思わせる妖しさを含んでいる。

 サリエルの透き通った銀色の眼差しが、それを穏やかに受け止めた。


「ではなぜリリンス様を王宮に迎え入れられたのです?」

「知れたこと、それが正妃としての義務だからですよ、サリエル。どこの女が生んだ子であろうと、陛下の血を継ぐ者であれば、王族としてこの国の繁栄のために尽くすよう教育せねばなりません。私個人の感情など関係ないのです」

「あなた様もリリンス様も、王族はオドナス国王の意志に従うのが義務だと?」

「私たちは巨大な鳥籠の中にいるのです。でもそれは国王も同じ――あの方はこの国の呪縛に誰よりも囚われているのですよ」


 奇しくも夕刻ナタレが口にしたのと同じことを言って、タルーシアは扇を畳んだ。

 ぱちんという音を聞くと、周囲の侍女が立ち上がる。人払いの合図だったらしく、彼女らは涼やかな衣擦れの音とともに部屋を出て行った。

 広々とした部屋の中に、タルーシアとサリエルだけが残った。


「今宵そなたを招いたのは頼みたいことがあったからです」


 タルーシアは閉じた扇を膝に置いた。


「サリエル、近う」


 命じられて、サリエルは正妃の椅子の脇に歩み寄り、繻子の敷物の上に腰を下ろした。


「楽の音を献じる以外に、私が正妃様のお役に立てますでしょうか?」

「ほほ、その謙虚なところも気に入っていますよ。頼みとは他でもない、我が子アノルトのことです」


 タルーシアの笑顔が、ふっと、真摯なものに変わった。冷徹で責任感の強い王妃の顔に、母親の顔が重なった瞬間だった。


「アノルト殿下の?」

「あの子は親の贔屓目を差し引いても、王子の中ではいちばん優秀です。政の知識も戦の才も申し分なく、何より陛下の嫡男にあたります。臣下の間でも、王太子の指名を受けるのはアノルトに違いないと、そう囁かれているようですわ」


 サリエルは肯いた。


「おっしゃる通りです。セファイド陛下もアノルト殿下を大変ご信頼されているご様子で」


 実際今も、執務室での会議にアノルトは同席している。セファイドは様々な務めを間近で見せて、アノルトを後継者として教育しているようであった。

 タルーシアは眉根を寄せて、扇を手に取った。畳んだまま、掌に軽く打ちつける。


「それなのに、未だその指名がないのです」

「アノルト殿下は……確かもう成人されているはずですね」

「ええ、昨年」


 オドナスの男子の成人年齢は、通常十六歳である。利き腕に刺青を施し、これを成人の証とする。


「ですからおそらく今年の月神節に合わせて陛下から王太子の指名が下るものと思い込んでおりました。でも月神節が一ヶ月後に迫った今になっても、陛下からは何の音沙汰もないのです。陛下はもしや、まだお心をお決めになっていないのやもしれませぬ」


 彼女の苛立ちがサリエルにも伝わってきた。最愛の息子の行く末を案じる母の気持ちと、世継ぎが決まらぬことに対する正妃の義務感と、どちらがそうさせているのか。


「それで、私に何を?」

「速やかにアノルトを王太子に指名するよう、そなたからも陛下に推してもらいたいのです」


 予想された依頼であった。サリエルは苦笑を浮かべた。


「お戯れを。大国オドナスのお世継ぎをご推薦申し上げるなど、一介の楽師にそのような大それたことができようはずもございません」

「一介の楽師だからこそ頼むのです。もちろん私から何度も進言してはおりますが、陛下は、生母であるおまえは口を出すな、と。その点、そなたは王宮で中立の立場でしょう。それに……」


 言葉を切って、タルーシアは扇をサリエルに向けた。先端で、彼の白い頬に触れる。


「陛下は殊のほかそなたをお気に入りのご様子――いえ、あの馬鹿げた噂を信じるわけではありませんが、お心を許されているのは確かでしょう。そなたの言葉であれば聞き入れるやも――」


 褐色の肌に映える化粧を丁寧に施したその顔を、タルーシアはサリエルに近づけた。

 サリエルは身を引くことなく、無言で正妃を見詰めた。


「褒美は望みのものを望むだけ差し上げましょう。何より、ここで私とアノルトに貸しを作っておくのは、そなたの将来にとって得策ではありませんか?」


 滴り落ちるように濃密な空気が、二人の間を流れた。

 大国オドナスの正妃は、それに相応しい威厳を纏ってきらびやかに微笑んでいる。

 美貌の楽師は天空の月のように冷ややかに見詰め返している。


 三つ呼吸をするだけの時間が流れて、サリエルが答えた。


「誤解をしておいでのようですね、タルーシア様。陛下は私に決して政の話はなさいませんし、私もまた伺おうとは思いません。陛下が私をお傍に置こうとなさるのはそのせいでしょう」


 タルーシアは息を詰め、サリエルは微笑んだ。


「王が楽師風情の意見に左右されるようになっては、その国は滅びます」

「……もっともです」


 正妃の全身から毒が抜けた。

 彼女は身を離して、再び椅子の背凭れに寄りかかった。疲れたような笑みが口元に浮かんでいる。


「忘れてくれますか、サリエル」

「はい」

「アノルトにも内密に。母がこのような愚かな頼みをしたと知れば、あの子は怒るでしょうから」


 サリエルは何事もなかったかのように肯いた。

 タルーシアはそんな彼を横目で見ながら、大きく息を吐いた。


「不思議な男ですね。富や権力どころかこの世のすべてに興味がないといった風情――そなたを見ていると自分が私欲に塗れた人間に思えてきます」

「己の欲するところをよく知る者こそ優れていると存じます。少なくともそれから目を背けている者よりは」


 タルーシアは扇で口元を隠し、声を上げて笑った。


「ではこの国で最も優れた者はセファイド陛下ということになるわね!」


 サリエルが王宮に来て初めて耳にする、正妃の心からの笑い声だった。鈴を振るように明るく、だがどこか投げ遣りな気だるさを含んでいる。

 彼女は笑いながら、


「希代の名君と謳われてはいますが、あの男の本性は冷酷なケダモノです。己の欲するところをよく知り、そのためにならどんなことでもできる者ですよ」


 と、躊躇なく言った。妻が夫を評するにはあまりにも辛辣な言葉だった。


「私とセファイドが腹違いの姉弟であることは存じておりましょう?」

「はい、そのように伺っております」


 片親の異なる兄妹、姉弟同士の婚姻は、この国ではそう頻繁ではないが珍しいことではなかった。特に王族においては、その血筋を拡散させない狙いでしばしば繰り返されている。


「私の母は先王の正妃であり、実の兄は嫡男でした。二十年前、セファイドはその王太子たる異母兄を討って王座についたのです。私を娶ったのは王位の正統性を顕示するため――自らは妾腹の子ですからね」


 サリエルの耳にもすでに断片が聞こえてきている、それは二十年前の惨劇であった。

 全様を正確に把握するものは少なく、ましてやそれを語る者はもっと少ない。バラバラになった事件の部分部分が、多くの人々の想像や推理を付け足した形になって、新参の楽師に届いていた。


 曰く――乱心した当時の王太子が、父王を惨殺した挙句に王宮から遁走した。

 王位継承権者の中で、いち早く王太子の居所を突き止めたセファイドが、親殺しの大罪人となった彼を征伐し、王位を手に入れた――。


 タルーシアは細い指先でこめかみの辺りに触れ、息をついた。


「父と兄の血に塗れた王座に、あの男は平気な顔で座っているのですよ。もっとも、兄を殺した男の妻になった私も……同じケダモノなのでしょうが」


 過去の記憶と激情が去った後に、自嘲だけが残ったような気だるげな呟きだった。


「陛下を憎んでおいでですか? 正妃様」


 サリエルは優しい声で訊いた。どのような感情も受け入れるが、決してそこに巻き込まれることがないのは、彼の中に強靭な何かがあるからか――それとも何もないからか。

 タルーシアは口元を緩めた。


「不躾な質問ですね。とうに答えが分かっているとでも言いたげな」

「お気に障ったならお詫びを」

「今宵は喋りすぎました」


 彼女は食卓から磁器の杯を取って、果実酒の残りを飲み干した。


「もう一曲、弾いておくれ。静かな曲がいい」


 サリエルは静かにその場を退き、もと座っていた場所に戻ると、ヴィオルの弦を爪弾き始めた。

 ふくよかな音色が部屋を満たし、タルーシアは椅子に凭れて眠るように目を閉じて、それきり口を閉ざした。

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[一言] 思わず「肉桂 写真」でググってしまいました。私の見た写真では登るの大変そうな木という印象です。わりと真っすぐで。物語の中の文章では、もう少し横に這って枝が多い印象だったのですけど。 肉桂とい…
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