痣と焼印
夕映えの茜に染まる回廊から中庭に下りる階段に腰掛けて、サリエルは王女の希望通り南洋の島唄を奏でた。
初めて耳にする曲ではあったがなぜか懐かしく、リリンスは大きな波に揺られるように目を閉じて聴き入った。兄の言っていた『砂漠の砂が全部青い水に変わった感じ』、それが分かるような気がした。
弦の音の向こうで波音が聞こえる。潮の香りが漂う。キラキラと波に反射する陽光で肌が痛い。
この水の砂丘の奥深くに、真珠を抱いた貝が眠るのだろうか――。
ふと、透明感のある声がヴィオルの音に被さった。
リリンスは思わず目を開けた。いつの間にかキルケがやって来ていて、サリエルの隣で歌っていたのだ。
もちろん歌詞はないが、サリエルの奏でる音程に完璧に合わせて、彼女は自分の声を乗せていた。何度か繰り返される旋律の型を聴くうちに曲の構成を覚えてしまったのだろう。
キルケの声はかなり抑えられていたがよく通った。海面を走る潮風のように自由で明るい。彼女の声が加わることで、曲にまた新しい情景が加わったかに思えた。
即興で繰り広げられる共演にリリンスは身震いをした。私は今、オドナス随一の歌姫と楽師の演奏を間近で聴いているのだ、と。
そう長い曲ではなかった。
やがて曲が終わると、キルケはゆっくりと息をついた。
「……演奏のお邪魔をしたかしら」
「とんでもない。さすがですね、キルケ」
サリエルは軽く目礼をする。キルケは笑って、
「姫様、通りすがりに素敵な音楽が聞こえましたので、つい歌ってしまいました。お許し下さい」
「得しちゃったー。私一人で聴くの勿体ないわ」
リリンスは素直に喜んだ。実際、この二人の協奏を耳にしたのは、この国で彼女が初めてだったのである。
「一人ではないようですよ」
辺りの様子を確かめたふうもないのに、サリエルはヴィオルを脇に置いて、視線を回廊の先へ向けた。
その先に赤い人影がうずくまっていた――ナタレである。
彼は柱に背を凭せかけて石の床に座り込んでいた。立てた片膝に額をつけて顔を伏せた姿勢は、音楽に聴き入っているようにも、眠っているようにも見える。
「ナタレ? ずっとそこにいたの?」
リリンスは立ち上がって、少し離れた彼の方へ近寄っていった。どことなく嬉しそうだ。
「もうお仕事終わったんだね。こっち来ればいいのに……」
明るい声とともに彼女があと数歩の距離まで近づいた時、ナタレは顔を上げた。
リリンスの足が止まる。
茜色から群青色へと変化してゆく夕闇の中でも、彼の喉元に染みついた赤黒い痣ははっきりと見て取れた。
しかしそのことよりもリリンスの歩みを躊躇させたのは、彼の目に宿った鈍い光だった。暗く冷たい、どろりとした質感の光――そんな眼差しを向けられたことに、彼女はなぜだかとても傷ついた。
だからこそ気になって、
「ど……どうしたのその首? 顎の下のところが真っ赤よ」
と、足を踏み出した。
その目の前でナタレはのろのろと立ち上がった。
「……何でもありません。お気遣いなく」
紙に書いた台詞を読むように言う。彼女との間に舞台と客席ほどの距離を感じさせる、よそよそしい態度だった。
リリンスは怪訝な表情になった。態度も変だが、動作もどことなく緩慢だ。首以外にも怪我をしたのだろうか。
「何でもないことないでしょ。どこか痛めてるんじゃない……?」
目を逸らしたナタレに、リリンスの胸が痛んだ。
たぶんこのまま話していたら私はまた傷つく――そんな予感がしたが、放っておけなかった。
「ねえ……」
逃げられるかも、と思いつつ、リリンスは手を伸ばした。
その手は、鞭で弾かれたような鋭さで振り払われた。
「俺に触るなっ……」
ナタレは低く言った。言ってから、一瞬、動揺の表情になった。自分自身の感情の発露に驚いたように。
リリンスは跳ねのけられた右手を見ないようにした。全身の血液が集まっているのではないかと思えるほど、そこが激しく疼いている。それほど強い力で払われたわけでもないのに。
強張った彼女の顔からナタレは再び目を逸らした。
「私のことは放っておいて下さい、姫様。あなたに憐れみをかけられるいわれはない」
「憐れみって……そんなつもりじゃないわ。この王宮で……ナタレと私は同じだと思ったから、だから……」
「姫様と私が同じ? ご本心からそんな馬鹿げたことを? あなたは大国オドナスの正統な王女で、私は辺境の小国から連行された人質です。非力で矮小な……」
彼は怒りと自嘲が強く混じった声音で言い放った。
言葉の内容よりもそんな声を、リリンスは聞きたくなかった。
「……まるで鳥籠の鳥だ」
「ナタレ、私は……」
「同情や好奇心なら、もう構わないで下さい」
リリンスは眉根を寄せた。口に出したい千の言葉をこらえた。今何を言っても眼前のナタレには届かない気がして、勇気が出なかった。
「ごめんなさい……」
彼女はやっとの思いでそう言うと、顔を伏せてその場を離れた。
サリエルとキルケのいる横を通る時も立ち止らなかった。菫色の衣装の裾を閃かせながら、無言で足早に去って行く。
その細い後ろ姿に、ナタレは何か声をかけようとする素振りを見せたが、すぐに唇を噛み締めて俯いた。後悔に似たものが頬に滲んだ。
キルケは黙って見ていたが、ふいに立ち上がり、すたすたとナタレに歩み寄っていった。
顔を上げるナタレに対し、
「ロタセイの王子様はずいぶん幼稚な八つ当たりをなさるのね」
と、ごく平静な口調で言う。
ナタレの目つきが怒気を孕んだ。リリンスへの態度に後味の悪さを感じていただけに、感情が揺れた。
「あなたに何が分かる――オドナスの歌姫に」
「ええ、私にはあなたのことなんて何ひとつ分からないわ。でもあなたにだって姫様の気持ちは分からないでしょう?」
キルケは眼前の少年の首下に目をやった。
「あなたが誰に何をされたかは知らないけれど、姫様とは関係ないはずよ。自分を気遣ってくれる相手に対して、よくあんなことが言えたわね」
「王女が人質の俺をどんなに気遣ったって、所詮そんなのは無責任な憐れみだ。捨て犬に餌をやるのと変わらない。俺に利用価値がなくなったら、この国は躊躇なく俺を切り捨てる。王女は可哀想にと泣くかもしれないがそれだけのことだろうよ。王女と俺の立っている立場は全然違うんだから」
いきなりナタレの左頬が鳴った――キルケが張り飛ばしたのである。
「甘ったれんじゃない、このクソガキが」
言葉とは裏腹にキルケは微笑んだ。しかしその目はきりりとナタレを見据えている。
「あんたみたいにわざとらしく不幸ヅラしてる奴、イラッとくんのよ。自分だけが辛い苦しいって顔して、他の人は皆幸せだとでも思ってんの?」
激昂するでもなく、低く淡々とした口調だった。だからこそナタレは口を挟むことができなかった。
「立場なんか皆違って当たり前よ。あんたの立場が弱いのなら強くする努力をしなさい。誰に何を言われたって堂々と言い返せるほど強くなればいい。それを全部環境や他人のせいにして、ましてや関係のない姫様に当たって――いちばんあんたを憐れんでるのはあんた自身じゃないの?」
「……あなたや姫様のように恵まれた人に言われたくない」
押し殺したようにやっと答えたナタレに、腕組みしたキルケは鼻で笑って見せた。過分に意地悪な仕草だ。叱り飛ばすというよりも、鬱屈した若い王子を苛めて楽しんでいるふうでもある。
「恵まれた、ねえ……あんただってこの国の庇護を受けて、何不自由のない暮らしをしているじゃないの」
「でも所詮は人質だ。ここの奴らはみんな蔑んでいる。あの姫様だって……」
「あのね、ひとつ教えてあげる」
全部を言わせず、キルケは顔を近づけた。ナタレは少したじろいだ。
「リリンス様はね、身分は王女だけどお生まれは王宮の外なのよ。国王陛下と平民の女性との間にお生まれになったお子なの」
ナタレは大きく目を見開いた。意外だったらしい。
「お母様は王妃の一人として後宮に入ることを頑として拒んだそうよ。それでリリンス様は八歳まで市中で過ごされたの。ご自分の本当の身分もご存じないままにね。でも六年前にお母様が亡くなられて、ここへ引き取られたのよ。たったお一人で、まったくの別世界へ」
ナタレと私は同じだと思った――リリンスの言葉の意味を、ナタレはようやく理解した。
王の娘とはいえ平民の女が生んだ子を、温かく迎え入れる者ばかりとは限るまい。母親を亡くしたばかりの八歳の少女は、広く壮麗なこの王宮でどれほどの孤独を感じただろうか。
明るく天真爛漫で、大きな声で笑ういつものリリンスの姿がナタレの脳裏に浮かんだ。一点の曇りも翳りもない、まさに生まれついての姫君だとばかり思っていた。
アノルトに侮辱された時以上に、ナタレは打ちひしがれた。体の痛みなど忘れるほどにいたたまれない気持ちになった。
「そんなの初めて聞いた……」
「辛くて寂しいのは自分だけだと思ってたんだもんねえ。でも姫様はもうあんたには関わらないかもね。よかったんじゃない? あんたがそう望んだんだから」
ナタレは息を飲み込んだ。渦を巻いた出口のない暗い感情は遠く去って、後悔だけが澱のように深く留まっていた。
彼は奇妙に顔を歪ませたまま、無言で踵を返した。
リリンスが去って行ったのとは逆の方向へ歩いて行くその背中を、キルケは冷酷な黒い瞳で凝視している。
夕闇はすっかり濃くなり、蝋台の灯りに照らされた回廊は暗い庭の中でぼんやりと明るい。
「……ずいぶん意地悪だなあ」
呆れたような声に、キルケは振り返った。
回廊から中庭に続く階段に腰掛けたままのサリエルが、薄く笑みを含んでこちらを眺めていた。彼は最初から口を挟まず成り行きを見守っている。
キルケは小さく肩を竦めた。
「泣かせてやろうと思ったのに、残念だわ」
「感情を他人にぶつけられるようになったのは、あれで成長したんだよ」
「サリエルはナタレに甘いわね。あの子はねえ、視界が狭すぎ。自分で檻作ってその中に入って出られないって騒いでるみたい。外から何を言ったって本人が気づかなきゃどうしようもないのよ」
彼女はどこかうきうきした様子で、サリエルの方へ戻ってきた。
「何だか楽しそうだね」
「綺麗な男の子を苛めるのって興奮するじゃない」
「君の嗜好はよく知らないが」
サリエルは彼女の趣味については深く追求せず、ゆっくりと立ち上がった。
一度ナタレの去っていった方向に目をやって、それからキルケに視線を戻す。
「己の境遇を嘆くあの子に、君は本気で腹を立てていた。リリンス様の出自を引き合いに出していたけれど、君自身も過去に何か辛い思いをしたんじゃないのか? それこそ、あの子の不遇など話にならないほどの」
「どうしてそう思うの?」
「君の、その、背中の」
キルケはハッとしたように自分のうなじに手を当てた。
一瞬、敵意に似た感情が涼しげな眉の辺りに浮かんだが、すぐに緩んだ。
「油断がならないわね」
と、笑う。
「うなじから見えた」
「まあ隠してるつもりはないけど、露出の多い服の時は気をつけないと駄目ね」
彼女はサリエルに背を向けて、身に纏った萌黄色の衣装の肩口を大きくはだけて見せた。
半分ほど露わになった褐色の背中――艶やかな木肌を思わせる美しい背中であったが、左肩甲骨の上あたりの皮膚に、拳大の円い焼け焦げがあった。
ただの火傷ではない。赤黒く壊死した皮膚が人工的な模様を描いているのを、薄明かりの中でもはっきりと見て取れた。
「……焼印だね」
「ええそう、奴隷の証」
痛々しく残る傷跡は、子供の頃につけられたものらしかった。模様は成長に伴ってやや歪に広がってはいるが、決して消えることはないのだ。
呪いで咲く花のように――。
「現王の御世になってから、オドナス領土内での奴隷制度は廃止されたと聞いた」
「だから私はここでこうしていられるのよ」
キルケは焼印の跡を隠して衣装を整えると、サリエルに向き直った。
卑屈さの欠片もない、いつもと変わらぬ凛々しい表情で。
「十八の年まで私はいつも誰かの所有物で、それなりに酷い目にも遭ってきたわ。でもその境遇を今さら嘆いたり誰かを呪ったりしても仕方がない。自分が卑しくなるだけ」
「それができるのは君が強いからだよ」
「私にとってはこの国が故郷なの。ここで私は、私に自由を与えて下さった方のために生きていこうと決めたのよ」
彼女は晴れやかに誇らしげに言った。
サリエルはしばらく無言で歌姫を見詰めた。
――王宮で持てはやされていい気になってるあの女、元は異国の奴隷なのよ。しかも娼館で働いていたと聞いたわ。少しばかり歌が上手いからといって、そんな汚らわしい女を王宮にお入れになるなんで、陛下は何を考えておいでなのかしら。
招かれた貴族や高級官吏の邸宅で、彼が一度ならず耳にしたキルケへの誹謗中傷だ。もちろん賛辞はその十倍も聞いている。
味方は多いのだろうが、彼女も戦っているのだ。
「そんな綺麗な目で見詰めないでよ。何か変な気になるじゃないのよ」
キルケは豊かな胸を押さえて笑った。
「さっさと姫様の所に行ってあげて。あなたが行った方が喜ばれると思うわ」
王女の自室の前では、キーエと数人の侍女がおろおろした様子で立っていた。
サリエルに気づくと急ぎ足で近寄ってきて、
「いったいリリンス様に何があったのですか? 部屋へ帰ってくるなり独りになりたいとおっしゃって……お顔の色が真っ青で。サリエル様、何かご存じなんでしょう?」
と、少々非難めいた口調で問う。
楽師と連れ立って出て行った姫君が、ほどなく尋常ならざる様子で戻ってきたのだから当然かもしれない。いつもは愛嬌のあるふっくらした顔が、今は翳っている。
サリエルは不安げなキーエを押しとどめた。
「私がお話ししてみます。どうかご心配ならさぬよう」
彼は侍女たちの返事を待たずに、入口の布を押し上げて中に入った。
部屋の内部はすっかり暗くて、蝋燭の暖かな光に薄く照らされている。リリンスの姿は長椅子にも鏡台の前にもなく、サリエルは奥へ進んだ。
湖に向かって開いた窓の下に天蓋のついた寝台があって、その上に人型の膨らみが見えた。
うつ伏せに寝そべったリリンスである。
サリエルが近づくと、彼女は顔を背けて窓の方へ向いた。黒い髪の房が乱れて枕に散らばっている。
「姫様」
「……ナタレを責めないでね。悪いのは私なの」
リリンスは向こうを向いたまま、細い声で言った。
「簡単に他人を理解した気になってはいけないって、お父様がよく言うの。誰しも他人には見せない部分を持っているものだし、まして私たちのような立場の者はどんな恨みや反感を買っていてもおかしくないって」
そのような者たちをも黙らせるほどの実力と懐の深さを持てばいいだけの話だ――と父王は笑ったのだが、年若い王女にはまだ無理だった。
「ナタレは故郷から引き離されて無理矢理ここへ連れて来られたんだもの、オドナスの人間が嫌いで当然だわ。なのに私、勝手に友達になれるって勘違いして……」
語尾は詰まって消えた。鼻をすすり上げるような音とともに彼女の肩が上下した。
サリエルは寝台の端に腰掛けて、リリンスの背中に話しかけた。
「彼が自分の境遇に苦しんでいるのは確かです。その苦しみは、本人以外には決して分からないでしょう」
「うん……」
「でも彼はその気持ちを初めて他人にぶつけました。自覚があるかどうかはともかく、少なくとも姫様には分かってほしいと望んでいるからではありませんか」
キルケに言わせればそれは甘えなのだろうが。
しばらく沈黙が続いた。リリンスはサリエルの言葉をじっと考えているようだ。