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水面の月を抱く国  作者: 橘 塔子
第二章 鳥籠は開かない
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南洋からの土産

 リリンスはアノルトから手渡された髪飾りを見て、思わずうわあと声を上げた。

 みだりに大声を出すことははしたないと、女官長や義母であるタルーシアから口をすっぱくして言われてはいるものの、どうしても驚きや感激を隠すことが苦手だ。


 兄は妹の素直な反応が嬉しいようだった。


「どうだい、綺麗だろう? リリンスに似合うと思って職人に作らせた。今日できあがって届いたばかりだよ」

「綺麗だわ……とっても! 兄様、この白い宝石は真珠?」

「そうだよ、よく知ってるね」


 リリンスが手にした髪飾りは、花と鳥を精緻に模った金細工で、十個以上の大ぶりの真珠が散りばめられた豪華な品だ。彼女の小さな手にはずっしり重い。


「姫様、おぐしにおつけいたしますわ」


 侍女のキーエがさっそく櫛を用意したが、リリンスは首を振って、


「ううん、ちょっと待って。もっとよく見てたいの」


 と、しげしげと髪飾りの細工を眺める。

 アノルトは口元に笑みを浮かべて好奇心旺盛な妹を見詰めた。

 先月までの南方遠征の土産ともいえる品だった。オドナス領となった港町ドローブでアノルト自身が買い上げた真珠を使い、王都の宝飾品職人に発注したものである。


「真珠は大きな貝の中でできるって聞いたわ。海で採れるんでしょう? 私、海って見たことない」

「リリンスは王都から出たことがなかったな」

「海ってどんなふう? 真珠の入った貝がごろごろしてるの?」

「海は……そうだねえ、何と言えばいいかな」


 アノルトは瞼を半ばまで閉じて、南方の風景を脳裏に思い浮かべた。


 風に乗る潮の匂い、騒がしい鴎の鳴き声――眼前に広がるのは一面の青。

 空よりも深く眩しい青。見慣れたアルサイ湖よりずっと力強く凶暴な青――。


「……砂漠の砂が全部青い水に変わった感じだよ。砂丘のように大きなうねりがどこまでもどこまでも続いていて、ずっと動き続けてる。水は塩辛くて飲めない。すごく深い」

「深いの? アルサイ湖より?」

「深いよ。そこへ漁師たちは潜って貝を採るんだ。貝を開けてみないとどんな真珠が入っているか分からない。潮が悪いと潜ったまま流されて命を落とすこともあると聞く。危険な漁だよ」 


 リリンスは顔を曇らせた。怯えたように。

 怖がらせてしまったか、とアノルトは後悔した。妹はまだ世間知らずの子供なのだ。


「だから真珠はとても価値があるんだよ。王女の髪を飾るに相応しい――ほら、つけてごらん」


 キーエがリリンスの背後に回って櫛で髪を梳かし始めた。

 やがて少女の髪を豪華な金と真珠が飾った。艶やかな黒い髪の上で、それはますます美しく映えた。


「よくお似合いですわ、姫様」

「鏡をご覧なさいませ」


 侍女たちの楽しげな声に促されて、リリンスは手鏡を覗き込む――髪の一部を結い上げただけなのに、いつもより少し大人びた顔の自分がそこにいた。

 彼女には髪飾りがひどく重く感じられた。しかも重さを感じるだけで自分では見ることができない。


「うん、よく似合うよ」


 屈託のないアノルトの笑顔に釣られて、リリンスはようやく微笑んだ。


 その時、入口に吊られた布の向こうに人の気配が湧いた。


「失礼いたします。こちらにアノルト殿下はいらっしゃいますか」

「どなたです?」


 キーエが少し布を開くと、隙間にナタレの顔が覗いた。


「あ、ナタレ!」


 リリンスが声を上げて立ち上がった。

 キーエが入口を開き、ナタレはその場に跪いた。


「お寛ぎのところ申し訳ございません。アノルト殿下、国王陛下がお呼びでございます。執務室での会議にご出席下さいますよう」

「……分かった」


 アノルトは肯いて、リリンスの頭を撫でた。


「行ってくるよ。今日の夕食は一緒には摂れないな」

「はい。お仕事お疲れ様です」


 リリンスは行儀よくお辞儀をして、部屋を出てゆく兄を見送った。

 それから急いで部屋の奥へ駆けてゆくと、鏡台の横に吊るした鳥籠を抱えて戻ってきた。アノルトに続こうとしているナタレを呼び止める。


「あの、ナタレ、ちょっと」


 振り向いた同年代の少年に、籠の中の赤い鳥を見せながら、


「この子また最近ちょっと元気がないの。この前のあの……何とかっていう草、また採ってきてくれないかしら?」

「ハマト草ですか?」

「うんそれ。お願いできる?」


 ナタレは籠の中を覗き込んで、隙間から指を差し入れてみた。止まり木のインコは軽く羽ばたいて籠の内側に留まり、指をつついてさえずった。

 少し緊張していた彼の表情が和らいで口元に優しい笑みが浮かぶのを、リリンスはじっと眺めていた。


「それほど心配はないと思いますが……近いうちにお持ちしますよ、姫様」

「ありがとう! 助かるわ」


 リリンスはほっとしたように笑って、それから髪の毛の先をいじった。


「じゃあ……ナタレもお仕事頑張ってね」

「はい、ありがとうございます」


 彼女にしては珍しく目を伏せて、気まずげにしている。

 まだ何か言いたい雰囲気を感じてナタレは待っていたが、リリンスは黙ったままだ。こちらから話しかけようかとも思ったが、気のきいた言葉が思いつかず、結局ナタレはそのまま一礼して部屋を後にした。


 その後ろ姿を眺めながらリリンスは大きな溜息をついて、侍女たちはお互いに顔を見合わせた。





 先を歩くアノルトに追いつこうと小走りで回廊を進んでゆくと、アノルトはナタレを振り返った。

 その目つきがぞっとするほど冷たくて、ナタレは思わず立ち止まった。 


「言っておく、ロタセイ王太子」


 アノルトは静かな声で告げた。


「リリンスに二度とあんな親しげな口をきくな。立場を弁えろ」


 ナタレは答えられずに立ちつくした。

 わずかに涼しさを含んだ夕刻の風が、対峙した二人の間を通り抜けて行く。


「彼女は大国オドナスの王女だ。本来おまえごとき下賤の民は近づくことすら許されん」


 アノルトの言葉は明らかな侮蔑を含んでおり、それは鋭い刃のようにナタレを刺した。

 感じたのは痛み――すぐに腹の底が熱くなった。


「何だ、その目は」


 ナタレの眼差しが黒い焔を帯びたのに気づいて、アノルトの表情も怒気を含んだ。


「……お言葉ですが、殿下、ロタセイは下賤の民ではありません」

「口答えするな。ロタセイなど砂漠の果ての田舎者――ましてやその王子など。オドナスの支配を受けられたことを光栄に思え」

「支配しているのはあなたのお父上です。あなたはまだ王太子ですらない」


 アノルトが一歩踏み出し、ナタレは身構えた。

 避けようとしたが、アノルトはそれを見透かしたように利き腕と逆の左手でナタレの襟首を掴み、足を払った。

 一瞬で天地が逆転し、ナタレは仰向けに倒れて背中を床に打ちつけた。

 アノルトは素早くナタレの左肩を踏みつけて、その喉下に剣を突きつけた。鞘に入ったままではあるが、喉が潰されるほどの強さで押しつけられて、ナタレは身動き取れずに首を仰け反らせた。


 いちばん腕の立つ留学生を瞬時に捻じ伏せたアノルトは、ふっと笑って見下ろした。

 横から夕日に照らされて、端整な顔立ちが半分だけ赤い。剣にかける力を緩める気配はなかった。


「俺のいない間に父上に可愛がられて調子に乗っているようだが、おまえの誇りに思うものは自分自身の力で手に入れたものでなかろう。全部、他人から与えられたものだ。現実のおまえはこの程度よ」


 撥ねのけることができない。圧倒的な腕力の差だ。

 踏みつけられた肩はぎりぎりと痛み、喉は容赦なく硬い鞘で圧迫される。呼吸すらままならず、ナタレは空気を求めて喘いだ。


 殺される、と感じた時、心を支配したのは悔しさではなく恐怖だった。

 目を見開いているのに視界が黒く染まってゆく。


「お……お許し……下さ……い……」


 意識が遠くなる中で搾り出すようにそう言うと、数秒おいて、すっと圧迫が消えた。

 ナタレはうつ伏せになって激しく咳き込んだ。いきなり新鮮な空気が肺に流れ込んできて、開放された喉が悲鳴を上げている。

 そんな様子を蔑みの眼差しで見ながら、アノルトは剣を腰に戻した。


「たかが属国の王子一人、俺の一存で好きにできる。よく覚えておけ」


 とだけ吐き捨てるように言い残して、それ以上は一瞥もくれず、彼は回廊を歩き出した。


 長身の体躯が黄昏色の向こうへ消えていっても、ナタレは起き上がれなかった。固く固く握り締めた拳は小刻みに震えていた。

 祖国に対する誇りと、従属への屈辱感――その狭間で窒息しそうになりながらも、最近やっと自分に自信が持てるようになってきていた。少し楽に呼吸をし始めていた。

 だが今、鈍く疼く体の痛みとともに感じているのは、深い水底に沈んでゆくような無力感だった。





 多忙な兄が部屋を去ってから、リリンスは床の絨毯に寝そべって両足を長椅子の上に投げ出した。

 侍女たちが渋い顔をしたけれど気にしない。キーエをはじめリリンス付の侍女たちはみんな年若く、王女のお転婆な振る舞いにあまりうるさく言うことはない。


 リリンスは頭からそっと髪飾りを外して掌に載せた。

 貝が作ったとは思えないほど完璧な白い球体。これが南の海から自分の手元に届くまで、いったいどれほどの時間と手間と労力がかかったことか、と考える。

 海に潜った漁師が採り、仲買人が選別して買いつけ、市場に並び…これは兄様が直接買ったものらしいけど、そうでなければ宝石専門の貿易商が買い取ってこの王都まで運んだかもしれない。長い長い旅路の間には盗賊に襲われることも砂嵐に巻き込まれることもあるだろう。

 命を落とす漁師もいるという――だから価値があるとアノルトは言った。

 そんなものを私がつけていいの? 私にこの真珠ほどの価値があるの?


「姫様……姫様!」


 長椅子の向こうでキーエの声がする。


「起きて下さいませ。そのような格好、はしたないですよ」

「何よう、いいじゃないのどんな格好でも。ここは私の部屋なんだからね」

「でも姫様……」

「うるさいなあ、もう」


 リリンスは勢いよく起き上がった。

 長椅子の脇には、ヴィオルを抱えたサリエルが侍女とともに立っていた。

 彼は口元を押さえていた。笑いをこらえているらしい。


「ご機嫌よう、リリンス姫様」

「サっ……サリエル……!」


 リリンスは自分の格好に気づいて慌てて衣装の裾を直し、乱れた髪を撫でつけながら立ち上がった。


「やだキーエ、サリエルが来てるんならそう言ってよね!」

「でもここは姫様のお部屋ですから、姫様のお好きな格好でと思いまして」


 キーエは棒読みで言い返した。それから丸顔にとびきりの笑みを作って、サリエルへ、


「どうぞごゆっくりなさって下さいませね。姫様のお行儀がよくなって助かります。今お飲み物をお持ちしますわ」

「ふーんだ」


 リリンスは続室に消えるキーエに顔を歪めて見せて、サリエルに向き直った。


「どうぞ、かけて」

「突然お邪魔して驚かせてしまいましたね」

「ううん嬉しいわ。なかなか遊びに来てくれないんだもの。サリエル人気があるから仕方ないけど」


 二人は並んで長椅子に腰を下ろした。


「昼間はいつもどなたかのご招待でお出かけだし、ここのところ通訳や翻訳のお仕事も忙しいでしょう? お父様ったらあなたをこき使いすぎよ」

「私は皆様のお役に立てて嬉しく思っていますよ」

「サリエルはいつもいい子だからつまんない」


 リリンスは運ばれてきた硝子の杯を手に取って、中に入った赤い液体を飲んだ。

 柘榴の実を絞って砂糖を加えた飲み物だ。甘酸っぱい口当たりがお気に入りだった。それから色とりどりの砂糖菓子。


「あまりたくさん召し上がるとお夕食に響きますよ」


 キーエはそう釘を刺して、隣室に戻って行った。

 そんな釘などまったく気にすることなく菓子を摘んで、至福の笑みを浮かべるリリンスの膝の上に真珠の髪飾りが乗っている。

 サリエルはそれに目をやって、


「綺麗な髪飾りですね」

「あ、これ……」


 リリンスはほんのわずか顔を曇らせて、左手でそっと髪飾りを持ち上げた。右手には砂糖がついていたからだ。

 サリエルは楽器を置いてそれを受け取った。窓から差し込む日光に翳しながら、


「立派な真珠ですね……歪みも傷もない。これほど大粒の花珠はとても貴重ですよ」


 と、微笑む。


「アノルト様のお土産ですか?」

「よく分かったわね。そう、兄様がドローブの真珠で作って下さったの」


 手を拭った王女は、返された髪飾りを大事そうに撫でた。


「すごく価値のあるものなんだって」

「アノルト様はリリンス様をとても大事にお思いなんですよ」

「うん……六年前にお母さんが死んで、一人でここに来た私にいちばん優しくしてくれたのは兄様だった」


 父は可愛がってくれたが多忙だった。慣れない王宮で知る人もおらず、寂しくて不安で幼いリリンスは泣いてばかりいた。そんな妹を常に庇い、優しく励まし続けたのは同じく幼いアノルトだった。

 彼女が王宮での暮らしに慣れ、のびのびと過ごせるようになったのはアノルトの支えがあったからだ。

 少なくとも彼女自身はそう感謝し、兄に心を寄せている。


「ねえ、サリエルには家族いるの?」


 リリンスは興味深げに尋ねた。


「家族と言えるかどうか……血の繋がりのある者はいます。もう長らく会っていませんが」

「そう……ずっと独りで旅してて寂しくない?」


 サリエルは王女を見た。翳りのない黒い瞳はひたむきに答えを待っている。


「……寂しいと思ったことはありません――ずっとそうしてきましたから。それに旅先ではいろいろな人たちと出会えます。リリンス様のようなお優しい姫君にも」

「サリエルは強いんだね…私は独りぼっちになるのはもう嫌。誰かに傍にいてほしい」


 リリンスの声は硬かった。年若い少女の身ながら、孤独の意味を思い知っているのかもしれない。

 楽師は膝に乗せたヴィオルの弦を軽く弾いた。


「どんな曲をご所望ですか?」

「じゃあね、海の曲。南の海の。外出ましょうか」


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