序
砂漠の民に伝わる神話の中で最もよく知られているものといえば、オドナス王国起源に関するアルハ神の伝説だろう。
アルハは月を司る神である。
遥か昔、広大なこの砂漠を渡る途中で方角を見失い、飢え乾いて砂に倒れた旅人がいたという。
旅人はアルハ神への信仰がたいへん厚い人間であったので、ちょうど東の空から昇ってきたこの神はそれに気づき、瀕死の彼を憐れんだ。
アルハの涙は天空に懸かる満月から滴り落ちて、その地に澄んだ湖を造った。それで旅人は命を取り留めた。
水で喉を潤した後、湖畔で感謝の祈りを捧げる旅人にアルハは告げた。
おまえの信仰心に報いるためにおまえの命を助け、この湖を与えよう。
おまえが我を信仰する限り、我はおまえとおまえの血族を加護するだろう。
子々孫々の代までこの地に留まり、この湖を守るがいい。
だが、おまえとおまえの血族が我の心に背き非道な行いをした時は。
その時は、この湖を黒く濁らせ波を炎に変え、再び砂の中に消すだろう――。
旅人はその地に留まり、水を求めて集まってきた人々をまとめて国を興した。
これがオドナス王国建国にまつわる伝説である。
「ひどうなおこないってどういうこと?」
父親の語る伝説を聞いて、少年は素直に疑問をぶつけた、
訊かれた父親は傍らの幼い息子に目をやって、優しく微笑んだ。
「裏切ったり嘘をついたり家族を傷つけたり、この国の人を不幸にすることだよ」
彼もまた息子と同じ年頃に父親へ同じ問いかけをし、やはり同じ答えをもらったことがあった。
「ふうん……」
少年は繋いだ父親の手を握り締めて、好奇心に満ちた黒い瞳を宙へ向けた。
石造りの高い天井に開いた大きな天窓から、ちょうど中天に懸かった丸い月が見える。月は濃い蜂蜜のような色をしているのに、そこから降り注ぐ光は冷たい銀色だった。
少年と父親の目の前、天窓の真下に当たる位置には白い立像があった。
月光を一身に浴びて佇むその像は、人間の等身大よりもやや大きい。身長と同じ高さの台座に乗っているため、下から眺める者はそれを仰ぎ見る姿勢になる。少年と父親もそうしていた。
月神アルハの像である。
緩やかに波打つ頭髪も痩躯に纏いつく長い衣装も、水を掬うような形で胸の前に掲げられた両手も、白い石で作られているとは信じられないほど精巧だ。
月明かりが石に刻まれた陰影をくっきりと浮かび上がらせ、今にも息をしそうに見える。ひとつの国を造り、いずれ裁きを下すとされる神は、しかし優しげな表情で彼らを見下ろしていた。
何て綺麗なんだろう、と少年は素直に思った。お月様が人の形を取ったら本当にこんな姿になるんだろうか……。
「ちちうえ」
少年は頬を紅潮させて父親を呼んだ。
「いつかアルハ様に会えるかな?」
息子の声に幼いながらもひたむきさを感じて、父親はその場にしゃがんで目線を合わせた。
「アルハ様はいつでも月のお姿をして空にいらっしゃるよ。我々を見守って下さるのだ。もちろんおまえのこともね」
それから息子の肩に手をやって、立像に向き直った。
「もしアルハ様がこのお姿で現れたら、その時は――この国が滅ぶ時だ」
この湖を黒く濁らせ波を炎に変え――。
その光景を思い浮かべようとしたが、少年にはうまくいかなかった。物心ついた時から見慣れている青い湖が黒く濁って砂に沈んでゆくところなど想像できるはずもない。
父上にはそれができるのだろうか。だからいつも心を配って、皆が幸せになれるように自らの務めを果たしているのだろうか。
少年は再びアルハ神の立像を見上げた。
会うのは怖い。でも、本当に神様がいらっしゃるなら、会ってみたい。そう思った。
少女の手の先には赤い小鳥がいた。
先に行くほどに細くなる木の枝、細長い葉が濃く茂る枝の先端近くに、その鳥は止まっている。鮮やかな緋の色をした羽は艶やかで、背景の緑の中で目に沁みるようだった。
少女は枝に跨って、懸命に身を乗り出す。
小鳥は少女の部屋の鳥籠から逃げ出したのだった。籠の扉が開いた一瞬の隙にそれは外へ飛び出してしまった。大切に世話をして飼っていたのに、少女はとても悲しくなった。それに、一度人に飼われた鳥が外の世界で生きていけないことも分かっていた。
追いかけて部屋を出て、中庭の木の上で小鳥を見付けた時、少女はためらいなくその木に登った。自分の腕と足の力には自信があったから、屋根よりも高い位置にある枝に辿り着いても別に怖くはなかった。
「危のうございます! 下りて来て下さいませ!」
「いえ駄目です! そこから動かないで」
「梯子を! 早く梯子を!」
足元で、女たちが騒ぐ声が聞こえる。後で怒られるな、と覚悟したが、ここで諦めるわけにはいかなかった。
小鳥は枝の先で羽繕いなどをしながら、時々澄んだ声でさえずっている。初めて見るはずの外の世界に戸惑うふうもない。
「おいで……ほら、帰っておいで」
少女が囁いて手を伸ばすと、小鳥は不思議そうに首を傾げる仕草をした。
あと少しのところで手が届かない。もうちょっと、もうちょっとだけ先へ――。
「わ!」
いきなり枝がたわんだ。思わず声を上げた少女が転落することは、しかし、なかった。後ろから伸びてきた手が少女の衣服を掴んだのである。
振り向いた少女の目と鼻の先に、見知らぬ少年がいた。いつの間に登ってきたのか同じように枝に跨り、少女が落ちぬように左手で彼女の身体を支えている。
少女はまじまじと少年を見た。自分と同年代の異性に会うのは珍しく、また彼が身に纏っている衣服にも興味を惹かれた。少年の衣服は、彼女の小鳥と同じような鮮やかな緋色をしていた。
物怖じしない少女の視線を受けた少年は、少し微笑んだ。凛とした顔立ちと日に焼けた頬が清々しかった。
少年は右手を伸ばして軽く口笛を吹く。すると、その先にいた小鳥はぱたぱたと羽ばたき、あっさりと少年の指に止まったのだった。
「あ……ありがとう!」
「あまり大きな声を出すと鳥が驚くよ」
少年は初めて口を利いて、そっと小鳥を少女の手に乗せた。言葉の抑揚がわずかに少女とは異なっていて、彼がどこか遠い地からやってきたのだと感じられた。
小鳥はもう逃げる素振りもなく、少女の手の中できょろきょろとしている。少女はその赤い羽を優しく撫でて、明るく笑った。少年もまた安心したように笑う。
木の葉を柔らかく揺らして、彼らの間を光る風が心地よく吹き抜けていった。