持たざる者の咆哮【前編】
「……あいつ、また辞めるんだってよ。要領が悪すぎるっていうか、なんというか」
ダッシュの町の夕暮れの喧騒に紛れて、背後から元同僚たちの囁きが聞こえた。カズマは振り返ることなく、ただ俯き加減で歩幅を広げた。
一年間、死に物狂いで食らいついた事務仕事だった。だが、魔法による情報伝達が当たり前となったこの近代ファンタジー世界において、カズマの魔法適性ゼロという事実は、あまりにも致命的だった。
周りの人間は善人ばかりだった。だからこそ、自分のせいで仕事が滞り、皆が愛想笑いでフォローしてくれる空気に、カズマの心は完全にすり減ってしまったのだ。
(剣の才能もダメ。魔法のセンスもゼロ。……型のある拳法すら、俺の不器用な体は一つも覚えちゃくれない)
独白は、西の空に沈む夕日よりも暗く重かった。
カズマは人気のない路地裏に入ると、鍛え上げた右拳を、コンクリートの壁に力任せに殴りつけた。
ドンッ、と鈍い音が響き、拳から少し血が滲む。
才能が何一つなくても、唯一やめられなかったのが「体を鍛えること」だった。だが、ただ岩のように筋肉を硬くしたところで、アサルトライフル一丁の「効率」に勝てないのがこの世界の常識だ。努力は、魔法と近代兵器の前ではただの自己満足に過ぎない。
「おい、そこの不景気な顔してる兄ちゃん。いいもん持ってんじゃねぇか」
不意に、路地裏の奥から粘り着くような声が響いた。
現れたのは、魔力で強化された最新式の軍用アサルトライフルを肩に掛けた三人の男たち。スラムに巣食う、ハイエナのような盗賊たちだ。
カズマはゆっくりと壁から拳を離し、男たちに向き直った。震えそうになる膝に力を込め、わざと不敵な笑みを口角に貼り付ける。
「退職金も入った俺に目を付けるとは……いいところに目をつけやがる。一攫千金も夢じゃねぇが、俺の拳がそれを許すかな?」
虚勢だった。銃口を向けられた時点で、実力差は絶望的だ。それでも、全てを失っても、この空っぽの拳のプライドだけは守りたかった。
「はっ! 拳だと?」
リーダー格の男が、腹を抱えて嗤った。
「魔法も使えねぇような雑魚が、銃口の前で何言ってやがる。遊ぶ価値もねぇな。おい、蜂の巣にしちまえ!」
男たちが一斉にライフルの構えを取り、チャージングハンドルを引く金属音が路地裏に響く。
(やっぱり、ダメか……。俺は結局、何一つ持っていないんだ)
カズマが目を閉じ、死を覚悟したその時だった――カチャリ。
男たちが一斉にライフルの構えを取り、チャージングハンドルを引く冷酷な金属音が路地裏に響く。
(やっぱり、ダメか……。俺は結局、何一つ持っていないんだ)
カズマがギュッと目を閉じ、己の無力さを呪いながら死を覚悟した――その時だった。
「弱い者いじめは趣味じゃないんだ」
凛とした、けれどどこか気怠げな声が、路地裏の入り口から響いた。
「「「あぁん?」」」
男たちが一斉に銃口を声の主へと向ける。
そこに立っていたのは、オーバーサイズの紺色のパーカーを羽織った、二十代半ばほどの女性だった。
フードの奥から覗く、透き通るような長い金髪。だが、なぜか一部だけ、夜の街灯に照らされて目立つ銀色の束が混じっている。そして彼女の瞳は、この路地裏の泥水よりも深く、ひどく寂しげな色をしていた。
「なんだお前、いいねーちゃんじゃねぇか」
「こいつから盗るもん盗ってから、じっくり遊ばない?」
盗賊の一人が下卑た笑いを浮かべ、銃口を女性へと向ける。
「お前ら、発射準備だ! 2人ともあの世へ送ってやるよ!」
その言葉を聞いた瞬間、女性は心底呆れたように小さく息を吐き、フードのつばをぐっと引き下げた。
「――雷鳴拳」
彼女が静かにそう呟いた瞬間だった。
路地裏の薄暗闇が、目を開けていられないほどの黄金の閃光に塗りつぶされた。鼓膜を破るような、凄まじい轟音。空気が急激に焦げた、オゾンの匂い。
彼女は「雷の矢」そのものだった。
銃声が鳴るよりも早く、彼女は空間を蹴り抜け、三人の盗賊の間を駆け抜けた。
ただ、それだけ。
だが、次の瞬間には、最新式のライフルは飴細工のように無惨にへし折られ、三人の男たちは白目を剥いて壁にめり込んでいた。
「……大したことないね」
パーカーの裾を揺らしながら、彼女は何事もなかったかのように立ちすくむ。
カズマは、呼吸をすることすら忘れていた。
現代兵器を、「速さ」と「暴力」だけで過去の遺物に変えたその姿。
心の底から、魂が震えた。
「た、助けていただいて、ありがとうございます! 自分、カズマって言います。あなたのその戦闘技術は……一体何ですか!?」
興奮冷めやらぬカズマがすがりつくように問うと、彼女は面倒そうに視線を向けた。
「別に礼をもらうほどではない。私は雷知。よろしくな。……これは雷鳴拳という拳法なんだが、私が開発したんだ」
「す、すごい! こんなにすごい拳法をあなたが……俺を、私を弟子にしてください!」
勢い余って土下座せんばかりに頭を下げるカズマ。
しかし、雷知の返事は冷酷だった。
「ダメだよ」「ダメだよ。これは持たざる者が頼る、最後の手段さ。それにこの技、一見派手だが反動があってね。まさに自傷行為さ。それでもやるのかい?」
雷知は言葉を切り、鋭い視線でカズマを射抜く。
「でも、私は物には釣られないよ」
取り付く島もない拒絶。カズマが言葉に詰まった、その直後だった。
『ぐぅ〜〜〜……』
シリアスな空気を切り裂いて、雷知の腹から、ひどく間の抜けた音が響き渡った。
「…………」
「…………」
数秒の沈黙の後、カズマはここぞとばかりに叫んだ。
「ご、ご飯、好きなだけ奢るのでお願いします!」
「……っ、高くつくよ?」
「自分は剣も、魔法も、拳法も全てダメでした。剣と拳法は型を覚えられず、魔法は自分の属性が市販の属性検知器では検知すらされず……。でも、強くなりたいんです! お願いします!」
必死なカズマの訴えに、雷知は「チッ」と舌打ちをしつつ、少しだけ考える素振りを見せた。
「……わかった。それと、ちゃんと属性は調べな。属性が合わないとこれは使えないからね。市販のではなく、少し値が張るが魔道具店で精密なやつを買え。話はそれからだ」
大通りの裏手にある、怪しげな骨董品や呪具が並ぶ魔道具店。
カズマと雷知が足を踏み入れると、埃っぽいカウンターの奥から、片眼鏡をかけた初老の店主が顔を出した。
「ほう。市販のやつでは満足できんかね。なら上位版の『魔力検知器』はどうだい。これは対象者の属性だけでなく、詳細な魔力量まで正確に示してくれる」
カズマは箱を見つめ、財布を握りしめた。退職金を奮発してくれたおかげで、手元には百二十万ウーロンある。だが、上位の魔道具は目が飛び出るほど高いのが常識だ。
「本来なら百万ウーロンだが……君、見込みあるかもだから、唾つけさせてよ。半額の五十万ウーロンでいいよ!」
「ほ、本当ですか!? ありがとうございます、早速試してみます!」
カズマは震える手を検知器のクリスタル部分に置いた。
カァッ、と淡い光が漏れ、機械の上空に立体的な文字が浮かび上がる。
『属性:雷 / 魔力量:5』
「…………え?」
店主が何かの間違いかと思い、片眼鏡を拭き直した。
「あれ? 魔力量が『5』って……属性は雷っていうすごい希少なものなのに、それを使いこなす魔力が全くないじゃないか……」
魔力量5。それは、魔法学園に入学する前の幼児ですら持っている最低限の数値。魔法を使うどころか、魔道具を起動させることすらままならない、絶望的な結果だった。
だが、カズマは強く拳を握りしめた。
「なんかごめんなさい。でも……俺、強くなるよ。またその時が来たら、俺の強さ、見せてやるぜ!」
「……いい目だ。楽しみにしてるよ」
店を出ると、夕闇が迫る空の下で雷知が待っていた。その口元には、わずかに笑みが浮かんでいる。
「まずはおめでとう。私の雷鳴拳は、見ての通り雷属性でないと扱えない。後は、気合いと根性。そして苦痛と痛みに耐える強い心と体だ。いいのか?」
「男に二言はないよ! 俺は強くなりたい!」
「……わかったよ。覚悟は伝わった」
彼女はいつもの気怠げな調子に戻り、歩き出した。
「だが次は飯だぞ! たくさん奢ってくれよ〜」
その日の夜、大衆食堂。テーブルには信じられない高さの空皿がそびえ立っていた。
「……師匠、三万ウーロンって、結構食べましたね……」
「そんなに言うな。明日からあんたは死ぬほど体力を使うんだ。私の分まで栄養をつけてやってるんだよ」
「それ、全然理屈になってないっすよ……」
翌朝。街の外れの荒涼とした岩場に、二人の姿があった。
「いいかカズマ。拳法家の基本は『静』と『動』だ。筋肉を流れる川のようにしなやかにし、攻撃を柳のように躱すのが『静』。岩石のように堅くし、攻撃や防御に転じるのが『動』だ」
カズマは腕組みをして唸った。不器用な彼にとって、最も苦手なのが「理論を体に落とし込む」作業だ。
「ダメだ……。そういう頭を使う理屈は、俺には向かねぇ」
「あんた、すでに『動』は出来ているよ。殴る瞬間に筋肉を硬直させる、その感覚だ。課題は『静』だね」
カズマは奇妙なタコ踊りのように体をくねらせた後、ピタリと止まった。
「……わかりません!」
「仕方ないね。私を殴りなさい。背中で見せてあげるわ」
カズマは巨岩をも砕くようなストレートを放った。しかし、雷知の体は羽毛のようにフワリと流れ、拳は虚しく空を切る。
「わかったか? 力を抜け。そして流れる水の如く、私の拳を避けてみろ」
だが、現実は甘くない。「痛っ!」「ぐっ!」「またかよ!」
雷知の容赦ない拳が次々とめり込む。力を抜こうと意識すればするほど、カズマの体は強張り、格好の的となった。
「もう日が暮れる。今日は終わりだ。……フッ、全く才能がないな」
全身打撲で地面に大の字になるカズマを見下ろし、彼女は呆れたように笑った。
しかし、カズマは血の滲む口元を拭い、ニカッと笑い返した。
「言っただろ、何も持ってないって。……また明日も、教えてくれるのか?」
「お前の心か、体が折れるまで付き合うさ。……飯の約束は絶対だからね」
それから一ヶ月。修行は泥沼の様相を呈していた。
ある夕暮れ、極限の疲労でカズマの集中力はついに限界を迎えた。
(あ……やばい、意識が……)
雷知の鋭い右フックが迫る。カズマの脳は完全に思考を放棄し、体は糸が切れた操り人形のように、ふらっと横へ崩れ落ちた。
――ブンッ!
拳が、鼻先を掠めて空を切った。
「……あ、今。避け……た?」
雷知は突き出した拳を下ろし、隠しきれない笑みを漏らした。
「……はは、今のよ。あんた、器用な真似しようとするからダメだったんだね。その、限界を超えてだらしなく力が抜けた瞬間。それがあんたの『静』だよ」
「ここからが本番だ。雷鳴拳とは、肉体に魔力を介して雷を纏う技。だが、お前の魔力量では精々『一秒』持てばいいところだろう」
「え? 一秒?」
雷知の顔つきはこれまでにないほど真剣だった。
「いいか。魔力を雷に変換したら、強い意思で『痛み』に耐えろ。全身を焼かれるような苦痛が襲うが……耐えろ!」
カズマは足を肩幅に開き、体内の奥底に眠る「5」しかない微小な魔力をかき集めた。それを神経の束に乗せ、筋肉へと流し込み、属性である『雷』へと強制変換する。
バヂィッ!!!
「が、あぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
カズマの絶絶叫が響いた。
血管に沸騰した油を流し込まれたような激痛。細胞が内側から弾け飛ぶ錯覚。
青白い火花が体を包んだのは、わずか『〇・五秒』。
直後、カズマは白目を剥き、地面に突っ伏した。
「……その程度でも、魔力が尽きるだろ。低級だが、ポーションだ
お前なら1口でいいはずだ。」
雷知が差し出した小瓶の中身を喉に流し込む。冷たい液体が胃に落ちた瞬間、枯渇していた「5」の魔力が満ちていく。
「……あはは。ポーションと聞いて身構えてたけど……なんか、こんなところでお安く済むの、悔しいや。それに……意外と甘ぇのな」
「嘆いていても進まないぞ。再開だ」
魔力を雷に変え、激痛に焼かれ、倒れ、甘いポーションを啜り、また立ち上がる。
狂気とも呼べる反復練習。才能のなさを、純粋な根性と命を削る痛みで補っていく。
「……おおぉぉぉぉっ!!」
何度目かの挑戦。カズマの体を覆う雷光が、これまでよりも強く輝いた。
痛みに歪む顔。血を流すほどの力で食いしばられた歯。
「静」と「動」の土台が、暴走しようとする雷をギリギリで肉体に留めていた。
光が弾け飛び、カズマが膝をつく。雷知は手元のストップウォッチを止めた。
「……一・〇秒。到達したね」
たったの一秒。
だがそれは、魔法を使うことすらできない持たざる者が、初めて自分の力で雷鳴を轟かせた、偉大な一秒だった。




