第二章 昭和の亡霊
小章① 血の警告
東京に戻った氷室を待っていたのは、無言の脅迫だった。 翌朝、マンションの地下駐車場に停めてあったジャガーのフロントガラスが、粉々に砕かれていたのだ。 座席には、血の滴るような生の豚の首が置かれ、その口には一枚のメッセージカードがくわえさせられていた。
『赤城から手を引け』
古典的だが、効果的な警告だ。 だが、氷室は眉一つ動かさなかった。むしろ、口元に冷笑を浮かべた。 これで確信した。あの百貨店には、暴力を使ってでも守りたい、あるいは奪いたい「何か」がある。そして、ライバルたちは既に実力行使に出ている。
氷室は警察には通報せず、馴染みの自動車修理工場に連絡を入れた後、タクシーで調査会社へと向かった。 雑居ビルの一室にある調査会社『リサーチ&ワークス』。所長の田村は、元公安警察の刑事だ。
「派手にやられたな、氷室さん」
田村はコーヒーを出しながら苦笑した。
「東雲興業について洗ってみたぞ。予想通りだ。広域暴力団・相良組の三次団体。表向きは産廃業者だが、実態は地上げとゆすりの専門部隊だ。最近、北関東を中心に強引な手口で不動産を買い漁っている」
「やはりな。あの社長室にいた連中は、東雲の人間か」
「ああ。奴らは赤城中央百貨店の債権の一部を、サービサー(債権回収会社)から二束三文で買い取っている。それをネタに、大黒社長に経営権の譲渡を迫っているようだ」
「なるほど。債権者として乗り込んで、会社を乗っ取る気か」
氷室はコーヒーを啜った。 東雲興業の狙いも、おそらく地下倉庫だろう。三十億円のオファーを蹴ってまで社長が守ろうとし、ヤクザが群がる地下室。
「土地の登記については?」
田村は一枚の古びたコピーをテーブルに置いた。
「これが面白いんだ。あの百貨店が建つ前、そこには大きな屋敷があった。所有者は『帝都物産』。戦時中、軍需物資を扱っていた商社だ」
「軍需物資……」
「そして、昭和二十一年。帝都物産の赤城支店長だった男が、その屋敷の地下で変死体となって発見された。死因は青酸カリによる服毒自殺と処理されたが、当時、彼の周りから大量の金塊と重要書類が消えたという噂があった」
田村は声を潜めた。
「その支店長の名前は、大黒 義一。……現在の大黒重蔵社長の父親だ」
点と線が繋がった。 戦後の混乱期。軍需物資を横領し、隠匿した支店長。そしてその息子が建てた百貨店。地下倉庫は、かつての屋敷の地下室をそのまま利用している可能性が高い。 そこに眠っているのは、消えた金塊か? いや、それだけなら佐久間のようなブローカーが動く理由にはなるが、三十億という金額は大きすぎる。金塊以上の価値を持つ、あるいは危険な「何か」があるはずだ。
「田村さん、もう一つ頼みたい。大黒義一が隠し持っていたとされる『重要書類』についてだ。それが何だったのか、当時の関係者を当たれるか?」
「七十年前の話だぞ? 生き証人なんているかどうか……」
「頼む。金は弾む」
氷室はその場で百万円の束を置いた。 田村はため息をつきながらも、札束を懐に入れた。
「分かったよ。古巣の公安の資料庫も漁ってみる」
小章② 毒を制す毒
その夜、氷室は再び赤城市へと向かった。 今度は一人ではない。ボディーガードとして、元傭兵の男・葛城を雇った。無口だが、腕は確かな男だ。
夜の赤城市は、昼間以上に死の気配が濃かった。 氷室たちは、大黒重蔵の自宅を見張っていた。市内の高級住宅街にある、塀の高い屋敷だ。 午後八時。一台の黒塗りのハイヤーが屋敷から出てきた。後部座席には重蔵が乗っている。 車は市内を抜け、郊外の山道へと入っていく。
「どこへ行く気だ?」
氷室は葛城に運転させ、一定の距離を保って追跡した。 山道を三十分ほど走ると、車は古い洋館の前で停まった。 『聖ミカエル療養所』という看板が出ている。今は使われていない廃病院のようだ。
重蔵は車を降り、一人で洋館の中へと入っていった。 氷室たちも車を降り、闇に紛れて近づいた。 洋館の窓から、微かな明かりが漏れている。氷室は葛城に合図し、窓の下まで忍び寄った。 中の会話が聞こえる。
「……約束が違うじゃないか」
重蔵の声だ。怯えと怒りが入り混じっている。
「三十億だと言ったはずだ。なぜ、東雲のような連中をけしかける?」
「誤解ですな、大黒さん」
答える声には聞き覚えがあった。 佐久間だ。あの悪徳弁護士が、なぜここに?
「我々は東雲興業とは関係ありませんよ。彼らは嗅覚の鋭いハイエナだ。勝手に臭いを嗅ぎつけたんでしょう」
佐久間の声は、バーの時とは違い、冷酷な響きを帯びていた。
「だが、状況は変わった。東雲が動き出した以上、悠長なことは言っていられない。……地下の『荷物』、早急に引き渡してもらいますよ。あんたの命があるうちにね」
「断る! あれはワシの守り神だ! あれがあるからこそ、大黒家は戦後を生き抜いてこれたんだ!」
「守り神? 笑わせないでください。あれは呪いですよ。あんたの親父さんが命と引き換えに隠した、昭和最大の『毒』だ」
昭和最大の毒。 氷室は息を潜めた。
「いいですか、大黒さん。我々のクライアントは気が短い。これ以上渋るなら、東雲に情報を流してもいいんですよ? 地下倉庫の扉の開け方をね」
「き、貴様……!」
「期限は明日までだ。賢明な判断を期待していますよ」
足音が近づいてくる。佐久間が出てくるようだ。 氷室と葛城は素早く闇に身を隠した。 佐久間は迎えの車に乗り込み、去っていった。 残された重蔵は、廃墟の中で一人、頭を抱えて座り込んでいた。
(佐久間と重蔵は繋がっていたのか。いや、佐久間が重蔵を脅している……)
氷室は、事態が予想以上に複雑であることを悟った。 依頼人である佐久間は、正規のM&A手続きを踏むふりをしながら、裏では重蔵を直接脅迫していた。 そして「昭和最大の毒」。それは金塊や隠匿物資といったレベルのものではない。 国家そのものを揺るがすような、危険な秘密。
車に戻った氷室は、葛城に言った。
「予定変更だ。明日の朝、東雲興業の事務所にカチ込む」
葛城が無表情のまま、眉を上げた。
「……正気か?」
「奴らが地下倉庫の鍵を手に入れる前に、こちらが先手を打つ。毒を制するには、毒を盛るしかない」
氷室は不敵に笑った。 眼鏡の奥の瞳は、夜の闇よりも深く、冷たく光っていた。 赤城の夜に、血の雨が降ろうとしていた。




