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経済ノワール小説『血の配当』  作者: 如月妙美


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第一章 腐肉を啄(ついば)む者たち

小章① 死神への依頼

 西麻布の交差点から路地を一本入った雑居ビル。看板のない重厚な鉄扉を開けると、そこには紫煙とアルコールの匂いがよどんだ、外界とは隔絶された空間が広がっていた。  

会員制バー『G』。  金融ブローカー、政治家の私設秘書、そして表の経済活動からは弾き出された「掃除屋」たちが、夜な夜な密談を交わす場所だ。

 氷室透ひむろ・とおるは、カウンターの隅で琥珀色のバーボンを揺らしていた。  三十八歳。オーダーメイドのチャコールグレーのスーツに身を包み、整えられた黒髪と縁なしの眼鏡が、冷徹なインテリヤクザのような印象を与える。表向きの肩書きはM&Aアドバイザーだが、業界で彼をそう呼ぶ者は少ない。  『死神』。  それが、氷室に付けられた通り名だった。彼が関わった企業は、骨の髄までしゃぶり尽くされ、解体されるか、あるいは跡形もなく消滅するからだ。

「待たせたな、氷室さん」

 背後から、しわがれた声がした。  氷室は振り返らずに、隣の空席を顎で示した。  座ったのは、還暦を過ぎた小太りの男だ。佐久間さくまという名の、悪徳弁護士。主に海外のペーパーカンパニーを使った資金洗浄のスキーム構築を専門としている。

「単刀直入に言おう。仕事だ」

 佐久間は、マホガニーのカウンターに分厚い封筒を滑らせた。  氷室はグラスを置き、封筒の中身を検めた。中には企業の登記簿謄本と、数枚の写真が入っている。

「『株式会社 赤城あかぎ中央百貨店』……?」

 氷室は眉をひそめた。  聞いたこともない名前だ。登記簿によれば、北関東の地方都市・赤城市にある老舗百貨店らしいが、直近の決算書は惨憺たるものだ。赤字垂れ流し、債務超過寸前。典型的な「死に体」の地方企業だ。

「こんな粗大ゴミをどうしろって言うんです? 解体して更地にして、ショッピングモールでも建てる気ですか?」

「いや」

 佐久間は、氷室のグラスに自分の指を映しながら、低い声で言った。

「買収だ。株式の100%を取得してほしい。提示額は、三十億円」

 氷室の手が止まった。  三十億円。  この百貨店の純資産価値は、良く見積もっても五億円程度だ。土地代を含めても十億はいかない。相場の三倍以上。異常な高値だ。

「クライアントは誰です? 酔狂な篤志家か、それとも数字の読めないボンボンか」

「依頼主の名は明かせない。だが、金払いはいい。君への報酬は十億円だ。手付金として既に一億が用意されている」

 佐久間は懐から小切手を取り出し、氷室の前に置いた。  氷室は小切手には目もくれず、佐久間の目を覗き込んだ。眼鏡の奥の瞳が、冷ややかに光る。

「条件があるんでしょう?」

「……さすがだな」

 佐久間はニヤリと笑い、声をさらに潜めた。

「買収完了後、即座に実行してほしいことがある。百貨店の地下二階にある『第3倉庫』。その区画の所有権を、指定する別法人に移転登記すること。それだけだ」

 地下倉庫。  氷室は、封筒の中にあった一枚の写真を取り上げた。薄暗い通路の奥に、錆びついた鉄の扉が写っている。扉には厳重な南京錠がかけられ、『立入禁止』の札が貼られていた。

「ただの倉庫に、三十億の価値があると?」

「中身については聞くな。知れば、命が縮むぞ」

 佐久間は脅しではなく、忠告として言った。その目には、微かな怯えの色が見えた。  氷室はバーボンを一気に煽り、空になったグラスを置いた。

「面白い。受けましょう」

 金になる仕事だ。それに、相場の三倍の値を付けてまで欲しがる「何か」が、その地下室にはある。  腐肉の匂いがした。  氷室が最も好む、金と欲望と、そして血の匂いだ。


小章② 腐りかけた城

 翌日。氷室は愛車の黒いジャガーを走らせ、北関東へと向かった。  赤城市は、かつては製糸業で栄えた地方都市だが、今は見る影もない。駅前の商店街は「シャッター通り」と化し、野良猫が我が物顔で歩いている。  その中心部に、時代に取り残されたように鎮座しているのが『赤城中央百貨店』だった。  昭和四十年代に建てられたとおぼしき七階建てのビルは、外壁の塗装が剥がれ落ち、屋上の看板は錆びて傾いている。

 氷室は近くのコインパーキングに車を停め、百貨店の中に入った。  一階の化粧品売り場。客の姿はまばらで、店員たちは手持ち無沙汰に立ち話をしている。照明は節電のためか薄暗く、カビ臭いような空気が漂っていた。  まるで、巨大な棺桶だ。  氷室はエスカレーターで上階へ向かった。二階、三階……どのフロアも活気とは無縁だ。

 最上階の七階にある社長室。  アポイントは取ってある。氷室は秘書らしき中年女性に名刺を渡し、重厚な扉をくぐった。  執務机の奥に座っていたのは、白髪の老人だった。  大黒重蔵だいこく・じゅうぞう。この百貨店のオーナー社長であり、地元の名士としても知られる人物だ。年齢は七十代後半だろうか。頑固そうな顔に、深い皺が刻まれている。

「M&Aアドバイザーの氷室です」

 氷室は丁寧に頭を下げた。  重蔵は、氷室の名刺をじろりと見て、鼻で笑った。

「東京のハゲタカが、何の用だ。うちは身売りなどせんぞ」

「身売りではありません。救済です」

 氷室はソファーに腰を下ろし、単刀直入に切り出した。

「御社の経営状態は限界に近い。メインバンクも融資の引き揚げを示唆していると聞いています。このままでは倒産は時間の問題だ。……従業員や取引先を守るためにも、賢明な判断をすべきでは?」

「余計なお世話だ!」

 重蔵が机を叩いた。

「この店は、ワシの親父が戦後の焼け野原から築き上げた城だ! どこの馬の骨とも知れんファンドになんぞ、絶対に渡さん!」

 典型的な同族経営者の反応だ。会社を私物化し、客観的な判断ができなくなっている。  氷室は表情を変えずに、鞄から書類を取り出した。

「提示額は三十億円です」

 重蔵の動きが止まった。  怒りで震えていた手が、ピクリと止まる。

「……なん、だと?」

「三十億円。キャッシュで即金払いです。負債もすべて我々が引き受けます。社長の手元には、十億近い現金が残る計算になりますよ」

 破格の条件だ。断る理由はどこにもない。  しかし、重蔵の反応は予想外だった。  彼は顔を真っ赤にして、さらに激昂したのだ。

「金の問題ではないと言っておる! 帰れ! 二度とその薄汚い面を見せるな!」

 氷室は冷静に観察した。  重蔵の目にあるのは、怒りだけではない。  恐怖だ。  彼は、何かを恐れている。この百貨店を手放すことで、何かが露見することを恐れているのだ。

「……分かりました。本日はこれで失礼します」

 氷室は書類をしまい、立ち上がった。  引き際も肝心だ。押してダメなら、搦め手を使うしかない。

 社長室を出て、エレベーターホールに向かう途中、氷室は奇妙な男たちとすれ違った。  ダブルのスーツを着た、ガラの悪い男が三人。  先頭を歩く男は、頬に長い刀傷があり、異様な威圧感を放っていた。彼らは氷室を鋭い目つきで睨みつけながら、社長室の方へと歩いていった。

(……同業者か? いや、あれは)

 氷室は直感した。  あれは、カタギではない。  暴力団のフロント企業か、あるいは半グレ集団。  この腐りかけた百貨店に群がっているのは、自分たちのようなファンドだけではないらしい。

 氷室はエレベーターに乗らず、非常階段を使って地下へと降りた。  目指すは地下二階。『第3倉庫』だ。

 地下の食品売り場を抜け、さらに奥の業務用通路へ入る。  湿った冷気が肌にまとわりつく。  突き当たりに、写真で見た通りの鉄の扉があった。  赤錆びた扉には、厳重な南京錠が二つ。そして、扉の前には監視カメラが設置されている。  さらに、扉の前にはパイプ椅子が置かれ、警備員の制服を着た男が一人、座り込んでスポーツ新聞を読んでいた。  ただの倉庫にしては、警備が厳重すぎる。

(中に、何がある……?)

 氷室が物陰から様子を窺っていると、不意に背後から声をかけられた。

「おい、アンタ。そこで何してる?」

 振り返ると、作業着を着た初老の男が立っていた。清掃員だろうか。

「いや、トイレを探して迷ってしまって」

 氷室は人当たりの良い笑みを浮かべた。  清掃員は怪訝そうな顔をしたが、それ以上追求はしなかった。

「客用トイレは上の階だ。ここは関係者以外立ち入り禁止だよ。特にあの奥はな」

 清掃員は顎で鉄の扉をしゃくった。

「あの倉庫には何かあるんですか?」

「さあな。昔から『開かずの間』って呼ばれてて、社長以外は誰も中を見たことがねえんだ。……噂じゃ、戦後のドサクサで隠された旧日本軍の隠匿物資があるとか、死体が埋まってるとか、ろくな噂を聞かねえよ」

 旧日本軍の隠匿物資。  よくある都市伝説だ。だが、三十億円の値を付ける理由としては弱すぎる。  氷室は礼を言って、その場を離れた。

 地上に出ると、雨はさらに激しさを増していた。  車に乗り込み、エンジンをかける。ワイパーが視界を拭うたびに、赤城中央百貨店の巨大な威容が現れては消える。  この古びたビルの地下に、昭和の亡霊が眠っている。  そしてその亡霊は、令和の今もなお、血の匂いを漂わせているのだ。

 氷室は携帯電話を取り出し、調査会社に連絡を入れた。

「俺だ。調べてほしいことがある。……『東雲しののめ興業』。それと、赤城中央百貨店の土地の登記履歴だ。戦後直後まで遡ってくれ」

 電話を切ると、氷室はアクセルを踏み込んだ。  ジャガーのエンジンが唸りを上げ、雨の国道を滑り出した。  ゲームは始まったばかりだ。


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