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【零構の魔王】 Act.2

挿絵(By みてみん)

【零構の魔王】 Act.2

シニフィアン・グノーソス


『プロローグ:閉ざされた部屋の天才』

御園アマネ、16歳。部屋の窓はカーテンで閉ざされ、外界の音は遮断されている。机の上には数式とコードがぎっしりと書かれたノート。パソコンのディスプレイには、リアルタイムで為替の動きを読む自作アプリの数値が踊っていた。

幼いころから周囲となじめなかった。言葉を交わせば交わすほど、相手の反応は冷たくなっていった。教室では無視され、時には暴力も受けた。中学2年の時、彼は精神科医から「アスペルガー症候群」と診断され、特別支援の対象となった。

だが、誰も彼の“才能”には目を向けなかった。教師も、医師も、家族さえも。

(…本当に、誰も? ──いいや、何かが…見ていた気がする)



『闇に咲く未来』

アマネの父は国家官僚。かつては家庭を顧みる姿もあったが、母親との離婚後、その心は別の場所へと向かっていった。

新しい恋人は、同じく離婚歴のある二児の母親。彼女の子どもたちは成績も優秀で、明るく育ち、父は次第にその家庭に「理想の家族」の幻影を重ねていった。

一方、アマネは放置された。

父はクレジットカードと最低限の生活費を置いて朝早く出勤する。夜になっても帰らない日が多くなり、休日は「出張」と言ってどこかへ消えるようになった。

「どうせ、俺には興味なんてないんだろ」

呟いた声が、自分にだけ返ってきた。

(ほんの一瞬、玄関の向こうに人の気配がした──だがドアは静まり返ったままだった)

アマネはそうして、自分だけの世界に閉じこもっていく。

それは、ネットの深層だった。


ネットで彼が見つけたのは、市場の揺らぎに潜む“美”だった。

数学とプログラムの知識を使い、彼は証券市場のパターンを読み解く計算式を構築していく。日経平均、為替変動、仮想通貨のアルゴリズム。

ある日、ネットの匿名掲示板に“未来を読む方程式”を投稿した。

「f(x)=ΔΣ(φπt) − ψ(logμ) なら、市場の変動は再帰的に近似可能」

投稿して数十秒後──スレッドは消えた。

(……え? どういうこと?消されるなんて、しかも、こんなに速く、….なぜ?)

だが確かに、誰かの目には留まっていた。


──ミスティ・ルナバード。

ミスティの仕掛けはシンプルだった。

ミスティが抱えるPRエージェンシーが何千もの偽アカウントで一斉に通報を叩き込む。SNSの自動監視AIは、通報を受けた数秒のうちに投稿を削除し、「不適切投稿」として闇に葬った。

(……思ったより早かったわね)

画面を見つめるミスティは、薄く笑った。

その名前をこの時点で彼は知らない。ただ、小さな戦慄だけが、身体の奥に走った

後に、彼の人生を変えることになる人物だった。



『探知された式』


 都内の雑居ビルにひっそり掲げられた小さな看板――《吉峰調査事務所》。

 表向きは浮気調査や企業スパイの内偵を請け負う地味な調査会社だが、その実態はもっと別の顔を持っていた。

 その夜、薄暗いオフィスの一角。調査員の一人が青白いモニターを食い入るように見つめ、小さく息を呑んだ。

 「……ありました。例の匿名掲示板ではなく、以前、御園アマネがSNSに投稿していた数式です。

VPNや複数の踏み台を経由していましたが――三層目で破れました。

今回の核心を突いた数式はすでに削除されていますが、そこから逆算して辿れます。」

 調査員は青白いモニターに目を走らせながら、さらに言葉を継いだ。

 「それと……同じIPから、暗号化されたAPIデータが断続的に送信されています。SNSの投稿と同一IPです。つまり――掲示板に書き込んだのと同じ端末で、何らかのアプリケーションを動かしてる痕跡です。」

 主任調査員は目を細め、静かに頷いた。

 「……よし。ログを全部まとめて解析データと一緒に送れ。クライアントに渡す。」

 数分後、重々しい暗号化ファイルが《ミスティ・ルナバード》のスマートフォンに届いた。

 彼女はテーブルに置いたスマホの通知を確認し、指先で画面を軽く撫でる。

 そこには、御園アマネが投稿した数式から辿ったIP、その通信経路、さらにAPIを経由して送られてきた不可解なデータの履歴が克明に記録されていた。

 「……面白いわね」

 ミスティはごくわずかに口角を上げ、画面に映る暗号データの中の特定のフラグに目を留めた。

 そこには、アマネが組んだプログラムが――知らず知らずのうちに、島内の資金洗浄ウォレットに触れていた痕跡がはっきりと残っていた。

 「なるほど……これじゃ島内が黙ってるはずがない」

 そう小さく呟くと、ミスティはもう一度スマホをタップし、吉峰調査事務所へ連絡を入れた。

 「島内をマークして。動き次第で即座に知らせなさい。……面白くなってきたわ。」

 その声は冷たく甘い。

 夜のラウンジの空気すら凍りつかせそうなその囁きには――確実に誰かの運命を弄ぶ者の愉悦が滲んでいた。


一方、アマネは自分の投稿が「異常に速く消えた」ことに気づいていた。

匿名掲示板に書き込んだ数式は、投稿からわずか数十秒で削除された。

(こんなタイムラグ……普通の自動検閲でももっと遅い。誰かが見つけて、消した?)

背筋に冷たいものが流れ落ちる。

モニターの中の数字列が、まるでこちらを覗き返しているように思えた。

(違う……これはただのプログラムだ。そんなはず、あるわけない)

だが胸の奥に棘が刺さったような違和感は消えなかった。

自分が触れた数式は、どこかに連鎖を起こしたのではないか――

そんな根拠のない不安が、心臓を強く締め付けた。

その瞬間、マンションのチャイムが短く鳴った。

反射的に肩が跳ねる。マウスを持つ手が震え、クリック音が乾いた音を立てた。












『仮想通貨とヤクザ』


ミスティが調査会社に調べさせた情報には、御園アマネがネットを使って行っていた“仮想通貨にまつわる小規模詐欺”の記録もあった。

アマネは、試しに組んだアルゴリズムを、ある仮想通貨取引所の脆弱な注文管理APIに仕掛けていた。

わずかなスリップ、板の隙間、取引速度差――そこに微細な利鞘を見出し、資産を転がす。

最初は小さな遊びだった。

だが、数字は加速し始めた。

「……8,000万、か。」

深夜のモニターに浮かぶ数字を見つめ、アマネは口の端をわずかに吊り上げた。

やっていることが、もはや「微小」ではないと分かっていた。

この市場のどこかに、金の出所を説明できない者たちがいる。

裏社会、あるいはもっと汚れた資金の匂い――。

「分かってるさ……でも、止められない。」

指が自然にキーボードを走る。

快感だった。

数字が跳ねる。

思考通りに未来が動く。

冷や汗と興奮が背筋を伝い、全身に鳥肌が立つ。

だが。

──アマネが知らずに触れていたのは、経済ヤクザの資金洗浄用ウォレットだった。

最初は、誰も気づかなかった。

しかし、8,000万円という数字は、どんなに仮想通貨が匿名を装っても、必ず軌跡を刻む。

少額であれば霧散したであろう微細なログも、彼が抜いた額は――充分に“異常”だった。

そのウォレットを管理する経済ヤクザの幹部、島内。

「……妙だな。こっちの金が、少しずつかじられてる。」

島内は顔をしかめ、すぐに部下に調査を命じた。

さらに裏社会のプロを雇い、ログを照合し、何者かを炙り出そうと動き始める。

アマネはその追跡をまだ知らない。

彼は今、飢えたようにモニターを睨み続けている。

心のどこかで、破滅の足音に気づきながら――止めることができない。


──それもまた、ミスティは知っていた。



『拉致』

御園アマネが、自作の数式を使って仮想通貨市場に入り込んでから数週間。

彼の口座には短期間で数百万が入り、やがてそれは8,000万円へと膨れ上がった。

その金の出所は、ある「ウォレットの異常な偏差」から割り出した、半ば放置された仮想通貨アカウント──

実は、経済ヤクザ・島内組が資金洗浄用に使っていた口座だった。

アマネは自分の正体を知られることはないと確信していた。

しかし、その安心は、ある夜──マンションの自室のチャイム音で崩れる。

午後9時過ぎ。

アマネは、PCの前でグラフの動きを眺めていた。

だがその刹那、インターホンの電子音が静寂を切り裂くように鳴った。

──こんな時間に?

液晶ディスプレイには、エントランスに立つ二人の男の姿が映っていた。

宅配便の制服。手には、大きな段ボール。

『御園アマネ様宛て、お届け物です。差出人は──御園ユウジ様。』

その一言で、アマネの指が止まった。

胸の奥が、じわりと冷える。

「……父さん?」

名前を口にした瞬間、懐かしさと怒りが、同時に押し寄せた。

ありえない。だが──本当に?

インターホン越しの男が続ける。

『中身は精密機器とのことですので、できれば室内まで運ばせていただきたいと……』

ほんの数秒の沈黙の後、アマネの親指が“開錠”ボタンを押していた。

カチャリ。

数分後、部屋の前のチャイムが鳴る。

アマネが扉を開けた、その瞬間だった。

「──失礼します」

宅配のひとりが無造作に段ボールを押し込みながら、もうひとりが懐から黒い器具を抜いた。

次の刹那──

バチッ!

「……ッッ!!」

スタンガンの閃光とともに、アマネの体が跳ねる。

その場に崩れ落ちるのと同時に、口元に猿轡、手足には手際よくインシュロックが巻かれた。

まるで慣れた手つきだった。

アマネの意識が霞み始める中、彼はうっすらと見た。

自分の体が、あの段ボールの中に押し込まれていくのを。

(まさかこんな形で式が誰かに触れられるとは──)

「収容完了。運ぶぞ」

手際よく蓋が閉じられ、テープで留められる。

数分後、二人の男はエントランスを堂々と通過し、黒いバンに段ボールを積み込んだ。

扉は何も知らないまま、自動で閉じられる。

その夜、御園アマネは跡形もなく、マンションから消えた。



島内の部下が御園アマネを連れ去った、その直後──

都内の一室。

ミスティのスマートフォンが短く震えた。通知名には、《吉峰調査事務所》。

「ミスティです」

「……島内が動きました」

いつもの落ち着いた低音の声。だが、その抑揚のなさが逆に事態の深刻さを伝えていた。

「尾行、続行中?」

「ええ。彼の車は湾岸エリアへ。別の者に追跡させました。

同行していた別働の黒のバン──例の若手二人の社用車と見られます──は、対象のマンションへ向かいました」

報告者の声は静かだが、どこか鋭かった。

「2人は社用車を降り、宅配業者の制服で、大型の段ボール箱を抱えてエントランスへ向かいました」

ミスティは目を伏せるようにして、机上の端末に視線を落とした。

「住民解錠型のオートロックですね。アマネ本人がエントランスを開けたのでしょう」

「はい。5分後、再び姿を現したとき──その箱はわずかに形を変えていた。

そして2人は、何食わぬ顔でそのまま箱を抱え、車の後部トランクに収めて立ち去りました」

「……その箱の中に」

「間違いなく、御園アマネさんは入れられていたと断定していいでしょう。

拉致の常套手段です。箱のサイズ、動き、タイミング、すべて一致しています」

一瞬、空気が止まる。

ミスティの指先が微かに机を叩くように動いた。

「──工場跡地、ね」

「はい。連絡によると島内が辿り着いたのは……予想通り、あの廃工場です」

ピン、と短く通知音。GPSリンク情報がスマートフォンに届けられた。「……これで確定ね」

「これからどうします?」

「向かうわ。急いで。そっちの尾行はもう打ち切っていい。

ありがとう。あとは私がやる。それからウォレットの移動をお願い」

「了解。……ご武運を」

通信が切れる。彼女はコートを羽織り、短く息を吸い、髪を束ね直した。

目の奥には、冷たい炎のような光が灯っていた。

──“準備は、すでに終わっている”。

彼女は、すでにこの未来を予見していた。



『悪魔と剪定鋏はさみ

御園アマネが気づいたとき、そこはもう自分の部屋ではなかった。

頭には目隠し。口には猿ぐつわ。背後からは誰かが肩をつかみ、無理やり椅子に縛り付けているのがわかる。

ザッ、ザッ。

足音が近づく。コンクリートの床。無機質な蛍光灯の唸り声。かすかに油と機械の匂い。どうやら、どこかの工業ビルの中に連れ込まれたらしい。

目隠しが取られた。瞬間、強烈な光に目が焼かれる。

「おはよう、天才くん」

声の主は、黒スーツにオールバック、鋭い目つきの男。島内だった。ヤクザのフロント企業を名乗りながら、裏では資金洗浄と情報統制を司る“中継地の帝王”。

背後には体格のいい男が二人、黙って立っている。

島内は、軽く頬杖をつきながら尋ねた。

「で──金はどこにあるんだ?」

アマネは口元の猿ぐつわを外されたが、何も言わない。ただ、睨み返すだけだった。

「……黙るか。いい根性してる」

島内は、笑みを浮かべながら立ち上がり、椅子の背に手をかけると、ゆっくりと低い声で続けた。

「おまえにとってはネットの遊びかもしれないが、こっちは命かけてんだ。おじさんはな、子供をいじめるほど性格悪くはないつもりだが──今回は別だ」

島内の指がスナップを鳴らした。

「指、一本ずつ。なくなっていく。そしたら少しはしゃべる気になるだろ」

その合図で、社員の一人が奥から異様な“道具”を持ってきた。両手で抱えるように運ばれたそれは、剪定鋏はさみ──庭木を切る業務用の鋼鉄刃。しかも、真新しい。

「どうだ。TVショッピングで買ったんだ。『どんなものでも切れます!』ってやつな。今どきのヤクザはこういう文明的な道具を使う。効率重視だ」

島内は笑って、アマネの右手を机の上に押さえつけた。暴れようにも、すでに二人が肩と腕をがっちり固定している。

「いい音がするんだ、こういうのって。……ギチッってな」

剪定鋏の刃先が、アマネの中指と薬指の間に入り込む。

島内はにやりと笑い、口元に煙草をくわえながら言った。

「ところでな……映画とかでよくあるだろ。指を切られて“ギャーッ”て叫ぶやつ。──あれ、嘘だ」

アマネがわずかに顔をしかめる。

島内は指で空を切る仕草をして続けた。

「本当に指を切った瞬間ってのはな、不思議と痛みは感じねぇんだ。脳が現実をまだ処理しきれてなくてよ。神経も一部は切れちまってるし、アドレナリンが痛覚を止める。……だからな」

剪定鋏をカチリと握り直す。

「最初に来るのは“痛み”じゃなくて、“音”だ。骨を挟んだ鋼の音。ギチッ──てな。……で、数秒後に“遅れてくる”。焼けるような痛みが、魂に届く。お前も覚えとけ、天才くん」

ギリッ──




アマネの指先からは、すでにじわりと血が滲み出していた。

巨大な剪定鋏が中指と薬指の間に差し込まれ、押さえ込まれた腕はびくりとも動けない。

島内が笑う。

「さて──次は本番だな。全部の指を失ってからじゃ遅いぞ、天才くん」



『魔王降臨』

そのとき、部屋の扉がノックされた。

「……どなたですか?」社員が警戒しながら返す。

「ミスティと申します。島内さんとアポイントがあります」

時刻は夜の十一時を回っていた。誰がこんな時間に訪れる?

社員が島内の視線を仰ぐと、島内は低く呟いた。

「入れろ」

扉が開いた瞬間、部屋の空気が一変した。

黒のロングコートを纏ったミスティが、無言のまま入室する。

細いヒールの音が、コンクリートの床に冷たく響く。

彼女はゆっくりと島内の正面へ歩み寄り、

机の上で拘束されている御園の姿を見て、一瞬だけ表情を曇らせた。

「……やりすぎよ」

島内は薄く笑い、椅子の背にもたれかかったまま言い返す。

「なんだ、お母さんのお迎えか?」

煙草をくわえたまま、ちらと御園を指差す。

「心配するな。まだ息してる。俺は**“すぐには”やらねぇ**んでね。

追い詰めるってのは、こういう順番でやるんだよ」

そのまま視線をミスティに戻すと、わざと間を置いて問いかけた。

「──で、なんでここがわかった?」

ミスティは小さく息を吐き、静かに答える。

「あなたが“始末をつけるとき”に選ぶ場所なんて、パターン化されてるの。

ここは三回目ね。昔から変わらない。……読ませてもらっただけよ」

島内は肩をすくめ、苦笑交じりに呟く。

「ああ……そろそろ場所も変え時かもな」

一瞬、島内の目が細くなる。

だが、その奥に浮かぶのは怒りではなく、試すような色。

「で──何の御用ですか、ミスティさん。

お前には……関係ない話だろ」

ミスティはゆっくりとバッグからタブレットを取り出し、机に置いた。

操作することなく、画面を島内に向ける。

そこには──

アマネのウォレットに入金されたときに使われた、島内の名義が残るトランザクションの履歴が映っていた。

「今、このウォレットにある8,000万円──

あなたが御園のウォレットに入れた“裏金”よね。

私がそこから、自分の管理ウォレットに移したの。

……あなたを信用していないから。ごめんなさい。」

島内の顔から、笑みが消えた。


次の瞬間、社員に目配せし、背後からミスティを押さえようとした。

「その金、今すぐ返せ。さもなきゃ、お前も椅子に座ることになるぞ」

ミスティはまったく動じなかった。

「ええ、そうなると思った。でもね、交渉のカードはそれだけじゃないの」

彼女は一歩前に出て、冷たい声で告げた。

「うまい話があるの。相当、儲けられるわよ。──ターゲットは、為替相場。大野富三郎を利用するの」

室内が一瞬、静まり返る。

アマネの顔がこわばり、島内の視線がミスティに突き刺さる。

「……どういう意味だ?」

ミスティは、それ以上は口を開かなかった。

代わりに、意味深にアマネのほうに目をやる。

「この子がいると話しづらいの。ねえ、彼は解放してあげて。明日、場所を変えて話しましょう。そのとき全部話す。……“金の鍵”も渡すわ」

島内はしばらく沈黙した。

睨み合うようにミスティを見つめたまま、やがて低く答える。

「……明日、俺がおまえの事務所へ行く。逃げたら──終わりだ」

島内は椅子に腰を沈めたまま、煙のように言い放った。

ミスティはその言葉を受け止めるように、ただ静かにうなずき、ゆっくりとアマネのもとへ歩み寄る。

椅子に縛られていた縄を解く。

指先はわずかに震え、拘束されていた手首には赤く痣が残っていた。

アマネは立ち上がろうとするが、足に力が入らない。

ミスティは彼の腕をそっと支え、耳元で囁いた。

「……アマネ君、大丈夫。もう終わったわ。さあ、帰りましょう」

ふたりの姿は、無言のまま、闇の中へと吸い込まれるように廃墟を出ていった。

机に残ったのは、血の染みと、剪定鋏だけだった。



『腐れ縁』

沈黙が戻った室内。

しばらくして、島内の背後から控えていた部下がぽつりと問いかけた。

「……社長、帰して良かったんですか?」

島内は答えなかった。

煙草に火をつけ、ひと口吸い込むと、天井を仰ぎ、くぐもった声で呟いた。

「……あいつとはな。昔から、そういう仲なんだよ。腐れ縁ってやつさ。」

火のついた煙草が、鈍くオレンジに揺れていた。

かすれた声で「腐れ縁」と呟いた島内の脳裏に、ひとつの記憶が去来する。

2008年、ニューヨーク──リーマン・ショックの渦中。

あのとき、島内はまだ米系証券会社の“外資系下請け”として、裏金ルートの構築を任されていた。

日本の地方金融機関から流れた資金を、アメリカの不動産ファンドを経由して洗浄するスキーム。

ババ抜きの最後に“残る”のは、仕組みを知らずに投資した中小企業か──あるいは、何も知らない個人投資家だった。

当時の島内は、**「証券屋の通訳役」**として表向きは合法の顔をしていたが、実際には裏で資金の“逃がし先”を担当していた。

──だが。

ある日、ミスが起きた。

SEC(米証券取引委員会)の査察が入り、日本企業からの不審な資金移動に目が向いた。

島内が仲介した“宗教法人名義の口座”が、資金洗浄の疑いで凍結されかけたのだ。

終わりかと思ったそのとき。

一人の若い女が、まるで“何も見えていないような顔”で、担当官に英語でこう言った。

「これは、私が構築した教育財団の信託ルートです。名義貸しはしていませんし、寄付の意図も記録されています。アナリティクスは提出済みです」

それが──ミスティ・ルナバードだった。

彼女は当時、スタンフォードのMBAを卒業したばかりで、現地の証券会社で**“数式ベースのリスク評価モデル”の開発チーム**に所属していた。

あの日、彼女は何の見返りもなく、島内を救った。

いや──何かの“取引”のために、島内を“救わせた”のだろう。

事実、あの件以降、ミスティは島内の顧客リストをひとつ残らずコピーし、自分用に持っていたはずだ。

島内はあの日から、彼女のことをこう呼ぶようになった。

「命を助けた女」じゃなくて──「命の代償を請求してくる女」

そして、その腐れ縁は、今でも続いている。



『慟哭』

アマネは、選ばされていた。

言えば──島内は金さえ手に入れば、自分を始末する。

言わなければ──指を一本ずつ奪われ、言ったら最後、始末される。

逃げ道など、なかった。

ただ、どちらの地獄を通るか、その順番を選ぶだけだった。

そのとき、アマネの脳は不思議なほど静かだった。

心臓の鼓動も、耳鳴りのように遠い。

まるで、**“今この瞬間が現実ではない”**かのような感覚。

痛みも、恐怖も、遠くに置き去りにされていた。

だから、涙も出なかった。

──けれど。

あの廃墟の部屋から解放され、ミスティと並んで無言のまま車に乗り、

事務所の一室に通され、無人の応接ソファに座ったその瞬間だった。

涙が、落ちた。

ひとつ、ぽつりと落ちたかと思うと、

それはもう止まらなかった。

滝のように、どこからともなく湧き出すように、

次から次へと、ただ落ちていった。

母が家を出て行ったときも、

父と顔を合わせるたびに胸が焼けたあの日々も、

涙は一滴も出なかったのに。

今は、生きているということに身体が追いつき、

その安心が、堰を切ったようにすべてを押し流した。

──これは、安心の涙ではなかった。

今まで我慢してきたすべての感情が、

まるで“今しか許されない”とでも言うように、

容赦なく出口を見つけ、溢れ出していた。

人生で流すはずだったすべての涙が、今、この瞬間に重なっていた。

御園アマネは、ただ膝に顔を伏せ、

声もなく泣き続けた。

泣いて、泣いて、

それでもまだ、泣き足りなかった。



『甘言』

翌朝。

部屋にはまだ夜の名残のような静けさが漂っていた。

ミスティは、毛布にくるまって長椅子に横たわっていたアマネをそっと揺り起こした。

「……体調はどう?」

天井をぼんやりと見つめたまま、アマネは返事をしなかった。

目の奥はどこか遠く、まだ現実に戻りきっていない。

ミスティは言葉を重ねることなく、静かにホットミルクのカップをテーブルに置いた。

「甘くしたいなら、砂糖はそこにあるわ。焦らなくていい。ゆっくりで」

アマネは少ししてからゆっくりと身を起こし、両手でカップを取った。

熱がじんわりと掌に伝わる。

それだけで、少しだけ「生きている」ことが現実に感じられた。

一口、すすったそのときだった。

ミスティが静かに言った。

「アマネ君。私は彼に手を出させる気なんてなかったの。

むしろ、あなたを助けに来たのよ」

「助ける? 誰が? 俺を?」

アマネの声は平坦だったが、その裏には氷のような棘があった。

“助ける”という言葉ほど、彼の人生に縁のないものはなかった。

ミスティはそれを受け止めるように視線を落とし、やわらかく告げる。

「あなたの式を見た。あれは……精度が高すぎるの。

未来予測としては完璧。でも──現実には使えない」

「……なに言ってんだ」

「人は完全な合理性に拒絶感を覚える。未来は未知であるから予言は多少曖昧な方が信じられやすい。

人はね、あまりに正確すぎる未来を信じないの。

本当の予言って、少しだけ間違っている必要があるのよ。

だから、歪ませる。“売る”ために。……それが私の仕事」

アマネの指先が微かに震えた。

理解はできるが、納得はできない。

けれど、心のどこかで「それは本当だ」と知ってもいた。

ミスティはその動揺に優しく乗せて、言葉を重ねる。

「昨夜の件については、条件がある。

私が島内さんの仮想通貨口座に、金額を戻すことを承知すること。処理料も含めて。

それで、すべて不問にする」

そのときだった。

部屋の隅のソファに座っていた島内が、腕を組んでうなずいた。

「ああ。俺は筋は通すタイプでな。……一応な」

その声に、アマネの背筋がピクリと震えた。

カップを持つ手がわずかに揺れて──ホットミルクがひと筋、膝にこぼれた。

「おいおい、そんなにびびらなくていいぞ」

島内は声に軽い笑みを乗せた。

「昨夜も言ったろ? 俺は理由なく子供は苛めねえ。……優しいおじさんだぞ、なあ?」

どこか冗談めいたその口ぶりに、アマネは表情を動かさなかった。

だがカップを握る手は、少しだけ力を抜いた。

ミスティが一歩前に出て、淡く微笑む。

「安心して。島内さんとはもう話はつけてある。

条件をのめば、二度とあなたに手は出さないわ」

「……ああ、ミスティには借りもあるしな」

島内が煙草に火をつけながら、視線を宙に泳がせるように言った。

その言葉には冗談も、威圧もなく、ただ乾いた「事実」だけが含まれていた。

ミスティは、白紙の契約書をテーブルに滑らせた。

「これは“契約書”。あなたの頭脳を、半年間、私に貸してほしい」

アマネはミスティを見た。

言葉も、嘘も、いまはどうでもよかった。

「……見返りは?」

「生活費、部屋、ネット回線、食事。あと──

あなたが誰にも見せてない“あの証券システム”。

一緒に、完成させたいの」

静かに──しかし、はっきりとそう告げたミスティの言葉は、

かつて誰にも“必要とされなかった”少年の胸に、確かな熱を落とした。



『魔王との契約』

「一つ教えて」

「なに?」

「……どうやって、自分のウォレットの金を移動できたの?」

部屋には微かな冷房の音だけが漂っている。

向かいのソファに脚を組んで座るミスティは、薄い笑みを浮かべた。

「どうって……簡単よ。」

「……簡単?」

「あなたが使ってたマーケットデータ取得API。あれ、請いの情報屋ネットワークを通じて、私が作らせた特製バージョンだったの。」

アマネは息を呑む。

「嘘だ……俺は全部、ソースを読んだ。どこにも……」

「見たのは上っ面でしょう?

APIコールの内部、もっと言えばDLLレベルの暗号化ライブラリに、数行だけ追加してあったの。」

「…………」

「君が市場データを取得するたび、

小さくシードフレーズが暗号化されて私のサーバに送られてきてたの。

何度も、何度もね。」

アマネの喉がひくりと動いた。

「そう、偶然よね。

君が最初にGitから落としてきたバージョンが、ちょうど私が撒いていた『改変済みサンプル』だった。

あなたは“未来予測アルゴリズム”に夢中だったから、二度と疑わなかった。」

ミスティは指を組みながら、楽しそうに肩をすくめて見せた。

「いいじゃない、アマネくん。君がこの国の市場を先に“解いて”しまうよりも前に、私が君を見つけられて。」

 その声は吐息混じりで甘く、けれど酷薄な響きを秘めていた。

 アマネは一瞬だけきょとんと目を見開き、それからゆっくりと瞳の光を失っていった。

 顔色が青ざめ、唇からは音にならない息が漏れる。

 ミスティはそんな彼をじっと見つめると、ゆっくり立ち上がった。

 視線を一瞬だけ鋭く走らせ、すぐにその表情を優しげに戻す。

 そして、何の躊躇もなくアマネの真横へ腰を下ろした。

 動いた途端、空気がそっと揺れた。

 ほのかに香るのは、高級なオードパルファム。

 白いワインのように乾いていて、それでいて花の蜜のように甘く――複雑に調香された香りは知的でありながら危うい色気を放ち、場数を踏んだ詐欺師でさえ無意識に警戒心を鈍らせる。

 それは一度かいだら決して忘れられない、記憶に爪痕を残す香りだった。

脳が痺れるような錯覚と、軽い眩暈が同時に襲った。

「……っ」

次の瞬間、ミスティの細い指が彼の手を取った。

抵抗する間もなく、するりとその手は太ももの上に置かれる。

「安心して、アマネくん。」

耳元に唇が触れたかと思うほど近づき、柔らかな囁きが流れ込む。

「君の才能はね、私が誰よりもよく知ってる。」

掠れた声に、アマネの肩がびくりと震えた。

その震えごと楽しむように、ミスティはそっと身体を寄せる。

胸の柔らかな輪郭が薄いシャツ越しに触れ、少年の呼吸は目に見えて荒くなる。

「だからこそ──私が“正しく”使ってあげるわ。」

顎を指で掴まれ、優しく、だが強引に顔を上に向けさせられる。

瞳が合った瞬間、その深い青に射抜かれたようにアマネの全身が硬直した。

「ふ……っ」

喉の奥から子供のように細い声が洩れる。

震えはもう、肩や首筋だけでなく、指先にまで伝わっていた。

ミスティはそんなアマネの顔を静かに撫でると、小さく満足そうに笑った。

「可愛いわね。」

甘く微笑んだその刹那、吐息が耳に落ちる。

熱くて冷たい、決して抗えない支配者の呼吸だった。


アマネは立ち上がった。

カップを置き、契約書を見つめ、そして言った。

「……いいよ」

その瞬間だった。

世界のコードに、微細な狂いが走った。

それは、国家の制度すら欺く詐欺構文の、ほんの始まりにすぎなかった。



『アプリの中核:量子化ブラック–ショールズ構文』

アマネは、ミスティからノートパソコンを借りた。

そして、いつもの手順でGoogleのクラウドへアクセスする。

島内が事務所を去ったあとも、

部屋にはまだ、微かな緊張の尾が漂っていた。

テーブルの上では、ホットミルクの湯気がゆっくりと揺れている。

アマネは無言のまま、ノートPCの画面をくるりとミスティに向けた。

「──見せたいものがある」

その声には、怯えも怒りもなかった。

ただ、長い夜の底で消えかけていた熱が、ほんの少しだけ、戻ってきたようだった。

「ミスティは、ブラック–ショールズ方程式は知ってるよね?」

ミスティは眉をわずかに上げて頷いた。

「ええ、知ってるわ。あの年、ブラック–ショールズを“万能の錬金術”だと誤解した人間たちが、世界を破綻させたのよ」

アマネは少し笑う。

「皮肉だよね。未来を予測するはずの式が、未来を壊したんだから。

この式の基本形はこう」

挿絵(By みてみん)

「時間とともに価値がどう変化するか。

“今”の価格、ボラティリティ、金利……全部を組み合わせて、未来の価格を計算する。

でも、この式には“観測”がない。“誰がどう見るか”っていう視点が抜けてるんだ」

彼は画面を切り替えた。

「そこで俺は考えた。

ここに“波動関数”をマッチさせたらどうかと」

次に表示されたのは、ブラック–ショールズに似ているが、どこか異質な式だった。

挿絵(By みてみん)

「これは量子経済モデル。

波として未来の価格を定義し、“誰かが観測した瞬間に収束する”。

つまり、未来は確定してない。けど“見られたら決まる”。」

ミスティの目がわずかに細まる。

「それが……あなたのつくった公式ね?」

「そう。量子的アプローチを取り入れた経済モデルなんて、探せばいくつもあるよ。

でも俺のは、“価格を人間がどう信じるか”を数式化してる。

単なるノイズじゃなく、“観測されること”を構文に入れてる」

彼は指をすべらせ、式の構成要素を指し示す。

「このΨが市場の“信念関数”。

時間とともに揺れて、何度も未来を試す。

そして、人がスマホを開いてこの予言アプリを見る瞬間──その時、価格が収束する」

挿絵(By みてみん)

「ちなみにこの部分ね。

Φiが個々の期待、θi が社会的位相差。

B(t)はジョーンズ型ブラウン運動──人間の選択の“揺らぎ”を表してる。

結果、価格は“予測”じゃなく、“観測者が選びやすい未来”になるんだ」

沈黙。

ミスティは微笑むと、ふっと細く息をついた。

「……詳細は今わかったけど、初めてネットで見たとき──そのすごさは感じたの。

“これは構文だ”って、直感でわかった」

アマネはわずかに驚いたように彼女を見る。

「ミスティも……数学の素養があるね」

ミスティは笑った。

「ありがとう。でも、あんまり褒めすぎると契約内容が変わりそうね」


ミスティがソファにもたれ、熱の残るカップをゆっくりと飲み干す。

アマネは無言のままノートPCを操作し、クラウドフォルダーに再びアクセスした。

そして、ディスプレイを彼女の方へ向ける。

「──見てほしい。これが、改良したコード」

その声には、どこか静かな確信があった。

夜の底から掘り出された“未来”の断片を、今まさに差し出すかのように。

「もともとの予測アルゴリズムは、ブラック–ショールズの変形なんだ。

でも“ランダム性”が単純すぎた。

だから、波動関数を拡張して、ブラウン運動の確率密度関数に干渉項を挿入した。

“未来”を生成する揺らぎのゆらぎを数値化したかった。」

ミスティが身を乗り出す。

画面には、整然とした構文が並んでいた。

import numpy as np


def quantum_predict(t, S, V0, psi_amp=0.01):

"""

Quantum-enhanced stochastic model for short-term market price prediction.


Parameters:

t (float): Time interval (seconds).

S (float): Current market price.

V0 (float): Initial volatility coefficient.

psi_amp (float): Amplitude of quantum phase interference. Default = 0.01.


Returns:

float: Adjusted price prediction incorporating quantum-phase noise.


Notes:

This model embeds a quantum-inspired interference pattern (ψ)

into a classical Brownian motion (Wiener process) to simulate

price fluctuation influenced by observer effect.

The wave-function component ψ(S, t) modulates volatility as a latent

cognitive bias field, collapsing upon observation. Intended for

theoretical modeling of market reflexivity and phase-based anomaly detection.

"""

dW = np.random.normal(0, np.sqrt(t))

quantum_psi = psi_amp * np.sin(2 * np.pi * S / 100)

dS = V0 * S * dW + quantum_psi

return S + dS




アマネは、さらにノートPCのテキストファイルに数式を打ち込み、それをミスティに見せた。

挿絵(By みてみん)

「この ψ(S,t)が期待値の干渉波を拾う波動関数項。

ネットの量子経済学の試論“現実の価格は人間の不安定な期待の干渉波”ってやつを、定式化した」

アマネは指先で画面をトントンと叩きながら言った。

「この ψ(S,t) は、簡単に言えば“人間の恐怖とか欲望”をそのまま波として埋め込んだ項だよ。

普通のモデルなら、確率過程はただのホワイトノイズでしょ?

でも現実の市場って、妙にまとまって暴走したり、急に沈黙したりする。

あれを説明するには、もっと波動的な重なりが必要だったんだ。」

少し口角を上げて、いたずらっぽく笑う。

「つまりこれ、相場が一気に暴れるか、逆にピタッと固まるか──

そんな現象を、数式の“干渉縞”で再現できるってわけ。」


ミスティは数秒、黙ったまま画面を見つめたあと、ぽつりと呟いた。

「……これ、暴落の5秒前を検知できる」

「うん。確定予測じゃなく、“不安定さの震え”が一時的に高まるの。

価格じゃなく、未来の“転機”だけを捉える。それがこのコード」

ミスティは目を細め、静かに微笑んだ。

「あなたのコードは予言じゃない。“異常値の共鳴”を探してるのね」

アマネは無言でうなずいた。

「わかってくれて、嬉しいよ」



『富三郎との対面』

東京・赤坂、料亭「佳月」。

その夜、御園アマネはミスティに連れられ、人生で初めての「政界の空気」に足を踏み入れていた。料亭の座敷はすでに設えられ、長い一枚板の座卓には、見たことのないような高級料理が並べられている。

入り口で待っていた女将が、静かに頭を下げた。 「……島内様からのお席、確かに承っております」 その一言に、アマネは思わず姿勢を正した。 店の空気が一段、凛と引き締まる。

ミスティはアマネの隣に腰を下ろし、そっと扇子を畳む。 その動きには、どこか張り詰めた静けさがあった。

「……ここから先は、一言も無駄にしないで」 小さく囁いたその声に、アマネは黙って頷いた。

その直後── 襖が音もなく開いた。

「遅くなってすまない。前の会合が少々長引いてな」

その声の主は、大野富三郎――内閣の影の要、元・金融大臣にして元・与党幹事長。

中卒から政界の頂点を這い上がった叩き上げの伝説を持ち、裏では“銭の鬼”と囁かれる男だった。

その辣腕と資金力、何より「見えざる金融支配網」を駆使する頭脳から、次の総理は彼だという声も少なくない。

白髪混じりの頭髪は短く整えられ、無駄のない背筋。

獲物の動きを一瞬で見抜く猛禽のような眼差しが、じっとアマネを捉えている。

「本日はお忙しい中、お時間をいただきありがとうございます」

ミスティが丁重に一礼した。

しかし大野はそれを手で制し、口元を歪めて笑う。

「堅苦しい挨拶は抜きだ。腹が減っててな。まずは飯にしよう」

空気が一瞬、和らいだかに見えたその時──大野の目が御園へと鋭く戻った。

「……お前が、あの“予測式”の作者か。ふむ……顔つきは悪くない。で、その式とやら、本当に“未来”が読めるのか?」

アマネは一切目を合わせず、わずかに視線を落としながら答えた。

「未来は“読む”ものじゃない。“条件”を揃えれば、“動く”だけです」

富三郎はその言葉に、一瞬だけ目を細めた。 「……面白い」

一拍の静寂。

それは、数式によって未来を操る者と、金によって国を動かす者の初対峙だった。


アマネは何も言わず、膳の前に置かれた小さな器に視線を落とした。

「雲丹と湯葉の出汁ジュレ掛け」。器の中に、まるで工芸品のような料理が息を潜めていた。

透き通るような出汁のゼリー、その下に隠された淡い色の湯葉と雲丹。

初めて見る品だった。

「……これ、食べていいんだよな」

誰にも聞こえないほど小さく呟き、箸を手に取る。

躊躇いがちに湯葉をすくい、口に含んだ瞬間──

出汁の旨味が舌にじわりと広がった。

塩でも醤油でもない。

だが、確かに“味”がした。静かで深い味だった。

ふと隣を見ると、ミスティは何気なく器を口元へ運び、当たり前のように味わっていた。

一方の大野富三郎は、会席に慣れた動作で次の吸い物へと移っていた。

(場違いだ)

アマネはそう思った。

畳の匂い、器の重み、出汁の温度。

すべてが自分には“違う世界”だった。

だが──彼は箸を置かなかった。

無言のまま、丁寧に、少しずつ料理を口に運び続けた。

その静けさの中、富三郎がぽつりと呟いた。

「……子供のくせに、箸の使い方はまともだな」

アマネは何も言わなかった。

ただ、最後の一口をゆっくりと咀嚼し、冷えた湯呑の縁に触れた。

まるで数式のように、ひとつひとつを順番に味わいながら。

それは、彼の中に眠る“観測者”としての本能が、

目の前の料理をもまた“データ”として受け取っていたからだった。


ミスティは湯呑を一度置き、微笑んだまま言った。

「このアプリ、未来を“当てる”わけではありません。

……未来が“歪み始める瞬間”を、見つけ出すだけです」

富三郎は箸を止めた。

「歪み?」

「ええ。市場は常に揺れていますが、その揺れの中でも、“誰にも気づかれない違和”が生じるときがある。

それは、たとえば──鯉の群れの中で、ひとつだけ違う方向に泳ぎ始める鯉。

その小さな違和が、やがて全体の動きに影響し、大きな波を生む。

アプリはその“最初の違和”──つまり、“予兆の震え”を捉えるのです」

「……ふん。チャートの動きとは違うのか?」

「違います。チャートは“結果”しか見ていません。

このアプリは、結果の“手前”を狙います。

例えるなら、銃を撃つ前の引き金にかかる“指の重さ”を検知するようなものです」

富三郎はゆっくりと茶を啜った。

「面白いな。その指の重さが、本物ならな」

ミスティは目を細めて笑った。

「本物かどうか──それは、資金を賭けた者だけが知ることです」


「ほほう、理屈はともかく……わしが知りたいのは、“儲かるか”だ」 「利益が出るまで、誰も信用しない。利益が出れば、誰も検証しない」

ミスティが微笑む。 「富三郎先生、この子は“使え”ます。まだ粗削りですが、数式の力を理解している。いえ──数式を“体内化”している」

富三郎は箸をそっと置き、手元の資料に視線を落とした。

そこに並んでいるのは──御園が組み上げたアルゴリズムと、ミスティがまとめた「地方債市場を崩壊させる具体的な手順」を示すレポートだった。

「これが本物なら……国の通貨戦略にすら使える」 彼の眼に、強欲と好奇が混ざった色が灯る。

(静かな語調なのに、アマネは背骨を撫でられるような寒気が走った)

「だがな……“本物”にしなければ意味がない。次は、実際に使わせてもらうぞ。わしの“選挙ファンド”を10億で運用してみろ。1ヶ月で答えを出せ」

アマネはわずかに眉を動かしたが、口を開く前にミスティが静かに答えた。 「お受けします。条件は一つ──完全な裁量を、アマネに預けてください。途中介入は一切なし。それが、成功の最低条件です」

「……ほう。いいだろう。“子供”の実力、見せてもらおうじゃないか」

「それから、地方債の件、レポート通りに進めろ」

「はい」

その夜、契約は交わされた。 だが、アマネの背中に、なにか重たい影が落ちていた。

彼はまだ知らない。 この10億の資金が、“復讐”の幕開けであり、“国家詐欺劇場”の第一幕であることを──。



『地方自治体の、債券市場』

大野富三郎との会食から数日後──

新たに借りた御園アマネのオフィスには、次々と機材と高速データ回線が運び込まれ、まるで戦場のような様相を呈していた。

壁一面がホワイトボードになり、そこには為替、株式、仮想通貨、人口動態の回帰式──あらゆる数値と方程式が混じり合う“計算の迷宮”が広がっていた。

部屋の中央には、日本電信電話株式会社(NTT)の最新試験機である光量子コンピューティングモジュール

《NTT Q-Photonic QC-1280λ》 が鎮座していた。

これは複合光位相制御と多波長同時干渉を可能にした最先端の光量子計算ユニットであり、従来の超電導方式と異なり、

常温近傍での稼働を実現している。そのためオフィスでも運用が可能で、稼働中はレーザーパルスを調整するわずかな音と、

室温を0.1度単位で制御する小型の精密空調だけがかすかに鳴っていた。

アマネはこの環境に、独自の量子経済収束モデル ψ(St,t) を載せた。

市場を単なる株価や債券価格ではなく、確率密度の波動関数として捉え、

「群集心理(観測者)」の集合が市場そのものの波を崩壊させる現象を演算。

並列化された光量子計算が、未来の確率枝を多世界的に探索し、

どのルートがもっともトンネル効果──つまり通常は起き得ない急落・急騰を引き起こすかを弾き出した。

机上には株価ボードや金融ダッシュボードとは全く異なる、

“ψの収束プロファイル”が刻一刻と変化し続けていた。

そこにはチャートのような線はなく、

青白い光のスペクトルが脈動し、まるで市場そのものが生き物のように蠢いていた。

アマネはその光を見つめながら、小さく呟いた。

「……さあ、選べよ。どの未来に転がる?」

ミスティは、部屋の中央──無数の光ファイバーと冷却パイプが絡み合う量子ユニット群の只中で、悠然と脚を組んで座っていた。

手元の端末を、長い指でまるで恋人を弄ぶようになぞりながら、

黒光りするカップを唇へ運ぶ。

苦いブラックをひと口。

舌先でゆっくり味を転がし、赤い唇を艶やかに濡らした。

「……ああ、いい香り」

視線をタブレットから外し、

猫がネズミをいたぶるようにアマネを見つめる。

その瞳は深い夜の底みたいに暗く、

底知れない愉悦が微かに瞬いていた。

「ねえ御園くん、分かってるわよね?」

アマネは細い肩を震わせながら、神林アプリに組み込む数式の草稿を机に並べていた。

そこには血管のように複雑な線が走り、無数の変数が絡みついている。

ミスティはその隣に立ち、無言でアマネのうなじをゆっくりと撫でた。

「いい子ね。」

その声は優しくすらあった。

だが、御園の首筋をなぞるそのミスティの指には、

プレデターが獲物を確かめるときのような、

静かで、それでいて逃れられないほどの重量があった。

アマネは声を殺して息を吐く。

震えが伝わったのか、ミスティは小さく笑い、指を絡ませるようにアマネの髪を撫でた。

「あなたがこの数式を仕上げなければ、私の計画は止まる。

でも……あなたならきっとやり遂げるわ。」

獲物を絶対に逃がさない、冷たいプレデターの微笑みだった。

魔王の囁きはどこまでも甘やかで、けれど脳髄の奥を爪で抉るような冷たい棘が潜んでいた。

妖しく歪むその口元から零れた笑みは、

この世界の未来さえもただの嗜虐の玩具に過ぎないと、無言で告げていた。

「まずは“小さな経済”で試すわ。地方自治体の、債券市場ね」

アマネは頷く代わりに、まるでそれを疑うかのように眉を寄せた。

「でも……そんなローカル経済、影響がなさすぎる。

いくら俺の式でも、所詮は田舎の地方債だよ。なぜ、そこ?」

ミスティは小さく肩を竦め、わずかに口角を上げた。

「なさすぎるからよ。外から見れば“誰も見てない”。だからこそ、最初の一撃にはぴったり。」

その視線は薄氷のように冷たかった。

標的は、ある沿岸県が発行した再建型地方債。

高金利を謳い、地銀が競って買い込んでいたが──財政破綻寸前の自治体の必死の延命策に過ぎなかった。

アマネは独自のアルゴリズムを叩き込み、その地域の出生率、物流インフラ、観光流入、気象偏差をすべて変数化。

6月5日発行地方債券の30日以内の「信用不安発生ポイント」を割り出した。

「……債権発行から7日目に、微かに“揺れる”。その3日後、一部の地銀が恐怖で手放す。

そこから連鎖する。」

アマネが指差したホワイトボードには、資金の流れが赤線で蜘蛛の巣のように広がっていた。

ミスティはそれを見て、深く小さく息を吐く。

「いいわ。あなたの式、確かに世界を“引っ張る”。

それが証明できれば──この先はもっと面白いことになる。」

彼女は既に、複数のファンド経由で売り圧を準備し、空売りと破綻保険を仕込ませていた。

だが。

「……これ、本当にやる意味あるのか?」

アマネが呟く声には、どこか濁りがあった。

「俺の予測が正しいのはわかってる。でもこれは、ただの“地元潰し”じゃないのか。」

ミスティは一瞬だけ目を伏せた。

だがすぐに、その睫毛の奥の瞳は射抜くような青を取り戻す。

「……違うわ。

これは“揺らぎの証明”。

あんたの数式が、“市場を動かす”という現実を初めて示す行為よ。」

そしてその声は、まるで冷たい刃のようにアマネの心に刺さった。

アマネは小さく息を吐き、けれど胸の奥にざらついた違和感を抱えたまま、黙ってキーボードを叩いた。

── 一週間後。

最初に仕掛けたのは、どこぞの巨大ファンドだった。

地方債を集中的に叩き売り、地方経済を狙い撃つ──いわば地方潰しの狼煙。

地銀は、それを止めるために必死に買い支えた。

地元を守る最後の神輿役は、いつだって彼らだった。

だが、無慈悲な売りの奔流に対し、地銀の資金力など余りに脆弱だった。

国は資金繰りの延命を拒み、結局、彼ら自身が抱えていた地方債を担保割れの恐怖から市場へ投げざるを得なくなった。

――時は既に遅かった。

市場は冷たく、その資産価値を一気に奪い去った。

そして、その一連の暴落の影には、密やかにミスティの作戦が織り込まれていた。

彼女は大野から預かった資金を使い、表向きには地方債を買い増す“地元再建”を演出する一方、

裏ではロンドンの再保険会社を介して地方自治体向けのCDSクレジット・デフォルト・スワップを大量に取得し、破綻の瞬間に保険金が転がり込むよう仕組んでいた。

さらに国債先物市場にも並行してショートを敷き、地方債の信用不安が波及してスプレッドが拡大した瞬間に爆益が約束されるポジションを張っていた。

市場が恐慌を孕むわずか数日間で、ミスティが仕込んだポジションは何億もの含み益を生み出した。

それは単なる相場巧者の一手ではない。

地方経済を支えていた地銀を自らの手で破滅へ誘い、その瓦礫の中から利益を掬い上げる──

全て計算し尽くされた、悪魔的な金融詐術だった。

「……これが、あんたの“現実改変力”よ。」

ミスティはそう言って、アマネの手からマーカーを奪うと、新たなホワイトボードに地図を描き始めた。

そこには、国債、為替、そして──“ある政治家”の資産ルートが、真っ赤な線で浮かび上がっていた。

「ねえアマネくん。

人はね、数字であれ運命であれ、“自分が支配できる”って思いたがるの。

だからこんな世界、私たちにとっては、滑稽なくらいちょろいのよ。」

彼女はくすりと笑った。

アマネはその横顔を見つめながら、ぞわりと背筋を震わせた。

この女は、恐ろしいほど自然に、人の生死や町ひとつを壊すことを、ただの“証明式”みたいに扱っている。

(──この女に逆らったとき、自分はどこまで墜ちるのだろう)

そう思った瞬間、自分でも気付かぬうちに、喉の奥が小さく鳴った。

物語は、次の“深層”へと静かに潜っていく。



『地方銀行、静かな崩壊』

──沿岸県に拠点を置く、その地方銀行は朝から異様な空気に包まれていた。

「……昨日から、債券が売られてます。例の地方再建債です」

営業部の若手行員の声は青ざめ、ひび割れそうに震えていた。

応接テーブルには部長代理、リスク管理室の課長、資産運用を担当する融資部の面々が並んでいた。

いつもなら軽口の一つも飛ぶこの会議室が、今日は底冷えするほど重苦しい沈黙に覆われていた。

「投資家の動きは?」

部長代理が低い声で問う。

「……外資のファンドらしき売りが入ってます。直接は見えませんが、複数のブローカー経由で同じ系列からの売却が確認されています」

「何だよそれ……地方の再建債なんて、普通のヘッジファンドが触るはずがないだろ」

リスク課の課長が机を叩いた。

パソコンのモニターには、再建債のチャートが無惨に右肩下がりの赤を描いていた。

──3日で12%下落。

「クソッ……。このタイミングで金融庁の資本規制の査察が入ったら終わりだぞ」

「どうするんですか、部長。これ、下手すれば追加担保を積まされます」

会議室の空気が一段と冷たくなる。

地銀は、もともと資産体力がメガバンクとは比べものにならない。

ほんの数パーセントの下落が、そのまま健全性評価に突き刺さる。

ましてこの地銀は、地方活性化の“成功モデル”として煽られた再建債を、全体資産の四割近くまで抱え込んでいた。

──つまり、「保有資産の下落が、そのまま自己資本を直撃する」構図。

「国が助けてくれるとか、甘い期待は捨てろよ。あれは市単位の地方債だ。国は保証しない」

融資部のベテランが、誰にともなく吐き捨てた。

若手行員の顔がさらに青ざめた。

「……外資の連中、完全に分かって売ってますね」

「分かってるさ。潰す気で来てる」

部長代理は深く息を吐き、額を押さえた。

資料の端には、地元紙の記事がはさまれている。

──『沿岸県、市財政に暗雲 人口流出止まらず』

誰も言わなかったが、全員が思っていた。

《これはもう、助からないかもしれない》

薄いカーペットの上で、エアコンの送風音だけが虚しく響いていた。

──その数時間後、緊急役員会。

「……再建債、さらに売りが出ました」

テーブルに座る若手行員の声は擦れ切っていた。書類を握る指は白く強張り、湿気で端がわずかに波打っている。

「どのくらいだ」

頭取の声は低く抑えていたが、視線は机の一点を凝視し、どこか別の場所を見ているようだった。

「昨日比でマイナス4.1%……3日で累計12%の下落です」

言葉が落ちた瞬間、会議室全体が重力を増したように沈黙した。

「バカな……3日で12パーセント!? どこの誰がそんな大量に投げ売りしてやがる!」

資産運用部長が声を荒げ、机を叩く。しかし誰も答えない。

分かっているのは──これは明らかに、誰かの意図だということだけ。

「……顧問弁護士にも連絡した。最悪、法的再生の準備に入れと言われた」

副頭取の声は枯れ、椅子の背もたれに沈んだ。

「自己資本比率は……もう規制ギリギリです。あと数%下がれば、間違いなく是正命令が下ります」

――追加担保。

――格下げ。

――信用不安。

頭取の額には老いた血管が浮き、小刻みに震える手がテーブルに置かれていた。

「……私の代で潰すのか……? こんな地方銀行を……」

彼は机に突っ伏し、誰にも届かないほどの声で呻く。

「なんで……なんで、よりによってうちなんだ……」

若手行員の一人は堪えきれず、立ち上がると廊下へ走り去った。

背を丸めて震える嗚咽が、廊下越しにかすかに聞こえてきた。

「……もう終わりですか」

誰ともなく漏れた声が、会議室に置かれた灰皿の金属音のように冷たく響いた。

──その密室の外。

街路樹の並ぶ道路向こう、黒塗りの車の中で、一人の女が静かに笑っていた。

「いいわね……これくらい、底なしの絶望じゃないと」

窓に映るのは、曇った空と疲弊した銀行の看板。

ミスティの指先には、香りの抜けた紙巻きタバコ。

その煙は、まだ終わりきらない物語の始まりを、細く高く描き出していた。



『救いの手など、どこにも』

──午後。

地銀本店の会議室は、ずっと重苦しい沈黙に覆われていた。

「……もうダメです。電話じゃ秘書に門前払いでした。」

リスク管理室の課長が、声を潜めて言う。

頭取は机の上で組んだ両手を見つめたまま、微かに唇を震わせていた。

「──直接行く。話せば、分かってもらえるはずだ。」

重役たちは一様に顔を見合わせ、誰も止められなかった。

どこかで分かっていたのだ。もう、この頭取のプライドはとっくに折れている、と。


その日の夕方。

頭取は東京都心の議員会館にいた。

事前のアポなどない。廊下で要件を告げると、秘書は露骨に嫌な顔をしたが、それでも地元経済のキーマンに違いない彼を無碍にはできず、小声で議員室に通した。

「……富三郎先生、突然お時間を頂き恐縮です。」

革張りのソファに深く腰掛けた大野富三郎は、細い葉巻を転がしていた。

視線は頭取を一瞥するだけ。まるで虫を見るかのような軽い目線。

「先生、お願いです。預金流出も始まっております。このままでは、我々は……」

頭取は深々と頭を下げた。

机に額が触れそうなほど、ひどく低く。

「どうか……金融庁への査察だけは、形だけでも──先生から一言お力添えを頂ければ……」

長い沈黙が流れた。

葉巻の先から細い灰が落ち、テーブルの上で小さく弾ける。

大野はようやく視線を戻し、冷たく言った。

「君、自分が今どんなお願いをしているか分かってるのか?」

頭取は顔を上げ、声にならない声を洩らした。

「このタイミングで俺が金融庁に“手心”を頼めば、どうなるか──分かってないわけじゃないだろう?」

鋭い眼光が、頭取を真正面から射抜いた。

「週刊誌が飛びつく。検察も動くだろう。選挙は目の前だぞ?

“地銀救済の見返りに不正融資”──そう書かれれば、それだけで落選は確実だ。」

頭取の喉がわずかに上下し、声が掠れた。

「……そ、そんなつもりじゃ……ただ、地域を守りたくて……」

「ハッ、地域のため?」

大野は嘲るように鼻で笑う。

「お前らが欲しかったのは俺の名前だろう。あの劣後債のときも、“与党の大野が後ろにいる”と吹き込めば、どれだけ楽に売れた?

下手な営業なんかいらなかっただろう。」

頭取は額から顎へ汗を垂らし、か細く震えながら否定の首を振った。

「……違います……我々は、先生の地盤に融資もしてきたし……後援会にも……」

「だから切るんだよ。」

バサリ、と葉巻を灰皿に叩きつける音が、密室に乾いた衝撃を残した。

「俺まで火の粉を浴びるくらいなら、その地銀ごと切り捨てる。いい加減分かれよ。俺は政治家だ。家族でも親でもない。」

頭取はしばらく口を開けたまま、何も言えなかった。

ただ、脂汗が静かに顎先から落ちた。

大野は何の未練もない足取りで立ち上がり、振り返ることなく応接室を出て行った。



『痛飲愁嘆』

──その夜。

時計の針が深夜を指す頃。

高級なロックグラスの中で、琥珀色の液体がわずかに波打っていた。

地方銀行の頭取は、重たい吐息を吐くと、それをひと口。

アルコールの熱が喉を落ちていく。

目を閉じ、苦い笑みが浮かんだ。

(金融庁の検査か……鬼より怖ぇってのは、まさにだな。)

AMLだのFATFだの──

やれマネロン対策だコンプラだと年々締めつけが厳しくなる。

小さな地銀なんざ格好の監視対象だ。

検査だ監査だ、あいつらの視線はいつも冷たい。

(普通にやりゃあ、絶対に見つかる。……誰だってそう思うだろうさ。)

指でグラスをころがす。

氷がかすかに鳴いた。

(なのに、なんで今まで……)

喉を鳴らし、またひと口。

視線はどこか宙を泳ぐ。

(地元の不動産SPCやら、商社やら。

表向きは投資案件──でも実際は、大野や神林のファンドに流れるカネさ。

帳簿上は何も問題がない。二重帳簿、便利なもんだ。)

顎を撫で、しばし考え込む。

(それに……大野だ。

アイツとつるんでる地元の連中が、金融庁に一声かけりゃあ、検査官だって深入りはしねぇ。

この町で仕事してりゃ、誰に献金が流れるかなんて、みんな知ってる。)

ふっと鼻で笑い、窓の外の暗闇を見つめる。

(神林も抜け目がない。

シンガポールのペーパーカンパニー、SPVを噛ませりゃあ──

形式上は外資の投資家扱いだ。

金融庁の目をかいくぐるには、上等の隠れ蓑だ。)

じんわりと酒がまわる。

胸の奥がむず痒いように痛む。

(……結局は俺の懐も潤った。

私腹を肥やした、そのツケがこれか。)

グラスをぐっと傾け、残りを一息に流し込む。

(地元を守ってるつもりだった。

でも──もう限界だ。)

そのとき、テーブルのスマホが震えた。

表示された番号を見て、眉がわずかに動く。

しばし目を閉じ、ゆっくりと応答ボタンを押した。

「……ああ。」

スピーカー越しの声は、感情を置き去りにしたように冷たい。

『わかってますね。責任の取り方を。』

「……ああ。」

『ご家族に迷惑をかけるのは、本意ではないでしょう?

帳簿とスマホは、車ごと処理してください。』

頭取はしばらく口を閉ざし、やがて乾いた唇に手をやった。

苦しげに息を吐き、しわがれた声で応じる。

「──ああ。わかってるよ。」

電話が切れたあと、部屋は息を呑むほど静かだった。


頭取は再びグラスを手にしたが、中身はもう空だった。

そのまま、ふとソファの脇に置かれた小さな額に目を落とす。


そこには、娘がウェディングドレスの試着をしたときの写真が飾られていた。

白いドレスを纏い、恥ずかしそうに笑っている。

相手は、大手ゼネコンの副社長の御曹司。

これからきっと、幸せな家庭を築いていくのだろう。


「……最後にもう一度、生で見たかったな。」


唇がひくりと歪む。

悔しさとも、寂しさともつかない感情が胸の奥を静かに刺した。


娘の未来を壊すわけにはいかない。

それが、この街で生き、私腹を肥やした自分に残された、

唯一の──いや、せめてもの責任の取り方だった。


頭取はそっと額を撫で、立ち上がる。

震える足取りでスマホを手に取ると、

冷たい夜気の中へ消えていった。



『責任の取り方』

夜気は冷えていたが、車庫の中は妙に湿って重苦しい空気が滞っていた。

地方銀行の頭取は、黒塗りの高級セダンの後部座席に身を沈めた。

運転席には誰もいない。ただ自分ひとり。

助手席には分厚いファイルが積まれていた。

銀行の決算書類、裏帳簿、それに資金がどこへ流れたかを示す決定的な証拠の数々。

頭取は小さく笑った。

「――これさえ、燃えちまえば。」

後部座席の床には、赤いポリタンクが置かれている。

中身は灯油だ。

何度も口を開けては嗅ぎ、思い切りよく頭から背中へかけて振りかける。

帳簿にも、惜しげもなく浴びせた。


火のついたライターを見つめる。

小さな炎が、わずかに揺れて彼の顔を赤く染めた。

「……家族には、申し訳ないが……」

静かに目を閉じ、そのまま帳簿の上にライターを落とした。


一瞬の後、青白い火が帳簿を舐め、次いで車内に充満した灯油に引火した。

爆発的に広がった炎が、車庫の中を赤く染め上げる。

車のクラクションが悲鳴のように鳴り響いた。

だが、その中に男の声はなかった。


やがて、火災報知機が遅れて叫び出した頃には、

頭取も、すべての帳簿も――黒く焦げて、原形を留めてはいなかった。



『誰のために死ぬのか』

──沿岸県の小都市、その地銀頭取の自宅。

灰と化したガレージには、まだ焼け焦げた鉄骨が、ねじ曲がったまま突っ立っていた。

「……遺体は、ほとんど炭ですな。歯型で身元確認を進めてますが……」

「帳簿類は?」

「全焼です。金庫ごと。中は空でした。強化耐火金庫ってやつも、中から焼かれちゃ意味がない」

県警の鑑識課長はそう言うと、マスクをずらしてアイコスを口にくわえ、短く吸い込んだ。

そして、白い蒸気をゆっくり吐き捨てた。

* * *

その夜、地元県警の幹部会議室。

「……結局、事故死で処理していいんだな?」

課長は声を低く抑えた。誰の耳に入ってもいい話ではない。

「自分で灯油をかぶって火を点けた形跡があります。遺書も……あったには、ありました。

要するに──誰もこれ以上、触りたくない案件です」

部屋の奥、古びた木目の机に座った副本部長は、ゆっくり小さく頷いた。

「いいだろう。“家族を守るため、一人で背負った”って筋書きで。

報道には話を通せ。地元紙も県連も、黙らせとけ」

「はっ。」


──同じ頃、都内の会員制クラブ。

島内は黒いスーツのまま、バカラのグラスを軽く揺らしていた。

「……で?」

向かいのソファでは、地銀の資金洗浄を仲介していた小役人崩れの“ブローカー”が青ざめた顔で汗を拭いている。

「な、なんとか……議員先生には火の粉が行かずに済みました」

「当たり前だろ? あの焼け死んだ頭取に、全部なすりつける筋を俺がつくったんだ。……あの馬鹿は結局、自分の家族のために焼き死んだんだ。泣かせる話じゃねぇか?」

島内はにやりと口の端を歪めて笑った。

その目には一滴の情もなかった。


──その翌日。

「頭取、焼身自殺」のニュースは、わずかに報じられただけで消えた。

地方紙は「家庭の事情による突発的な行動」と締めくくり、テレビ局も政治家のコメントを取ることすらなかった。

頭取が管理していた裏帳簿も、資金の流れも、すべて灰と化し──

この国の金融腐敗の一頁は、こうして完璧に“焼却処理”された。

そして、島内のスマホにはミスティからの短いテキストだけが届いた。

《次は、あなたが少し踊る番よ》

島内は小さく笑った。

「上等だよ、クソ女……」

その声には、恐怖も畏敬もなく、ただ毒のような快感だけがあった。

──終わりは、まだ遠い。





─数週間後、永田町・政務クラブの一室。

「例の件は順調か?」

富三郎が低く問いかける。

ミスティは落ち着いた口調でうなずいた。

「はい、先生。順調に利益を出しております」

富三郎は一拍置き、低く呟いた。

「……ならば、今回はレバレッジをかけてみようと思う」

「どのくらいのですか?」

「100倍だ」

ミスティは一瞬だけ目を細め、すぐに表情を戻す。

「投資額は前回と同じ、10億でよろしいですね?」

「ああ。それで“神”になれるか、見せてもらおうじゃないか」

「承知しました」

ミスティは静かに頭を下げた。

──その瞬間、静かな“演出”が始動していた。

外からは誰にも見えない、極めて冷徹な計算。

この100億の“賭け”が、やがて“国家の脈”を止めるとは、まだ誰も知らなかった。



『ダーク・ライン(電話)』

東京・新橋、オフィスビルの最上階──

黒革のソファに深く腰かけた男が、窓越しに都市の夜景を見つめていた。

スマートフォンが短く震え、ディスプレイに「富三郎」の名が浮かぶ。

島内は即座に通話ボタンを押した。

「──はい、先生。島内です」

『……例の準備は、できているか?』

「ええ。いつでも稼働できます。

ケイマン諸島側のダミーファンドはすでに稼働中。

宗教法人名義の寄付ルートも開通済み。

仮想通貨への分散換金処理も、先週から回し始めております」

『上限は?』

「2,000億円まで対応可能です。

分割処理で実体化に3日。

以後は東南アジアの系列会社を通じて、日本国内の“新法人”へ戻します。

いざとなれば──現金化して“手渡し”も可能です」

電話口の向こうが一拍置き、少し低い笑い声が漏れた。

『……そうか。さすがだな。

ところで──お前の紹介の“ミスティ”と、あの小僧にも会った』

島内はわずかに眉を動かした。

『今回の地銀潰し、よくやってくれた。

ミスティからレポートを受け取ったが……いや、面白い女だ。

地銀の資金の血脈を寸断する計画、その解析図は芸術品だな。

あそこはな……地元を守るつもりか知らんが、逆に選挙前に警察や検察が突っ込んできかねん。

今回の件は、いい踏み絵だった。ちょうどアプリの良い評価試験になったな。

自分から崩れてくれるなら、それが一番手間がかからん。』

島内はゆっくりと息を吐き、唇を引き締める。

「恐縮です。……二人は、私が保証します」

『ふん。信用しているわけじゃない。

ただ──使える道具は、壊れるまで使う主義だ。

そちらは任せたぞ』

「かしこまりました」

通話が切れる。

少し離れたところで書類を整理していた若い社員が、気を利かせて声をかける。

「……社長。例の“先生”からですか?」

島内はニヤリと笑って、答えた。

「ネギの準備はできてるか、ってさ」

「ネギ……?」

「ああ。美味い“すき焼き”には、

たっぷりのネギと、適量の“火”が要る。

……忘れるな。ウチは、その火元ってわけだ。ウチが火を点けて、全てを回収に移す」

その言葉に、社員は苦笑いを浮かべたが、

彼自身、今何が行われているかを理解していたわけではない。

──だが、その“火”が、まさか最初から灯らないことになるとは、

このとき誰も想像していなかった。



『偽りの神託』

富三郎は、10億円の運用を託してから2週間後、政務官僚を伴い、再びミスティのもとを訪れていた。

目的は、すでに動き出した投資運用の「進捗報告」ではなく、ある“別件”──すなわち、「神林アプリ計画」の本格始動についてだった。

「──あの子の名前は、まだ地上に出すな。表に出れば潰される。攫われる」

「ええ、だから“別の器”を用意します。“演出用の神”として」

ミスティが取り出したのは、ある一枚のプロフィール資料。そこには、神林サトルの名があった──

彼は元々、複数の詐欺スキームに関わっていた元詐欺師で、現在はミスティの子飼いとして暗躍している。

端正な顔立ちと理知的な語り口はそのままに、一部の裏社会や金融界隈では密かに名を知られた存在だった。

ミスティは、御園アマネが生み出した数式を密かに組み込み、既に大ヒットしている「神林アプリ」に改良版リビジョンアップとして搭載させる計画を立てていた。

表向きには神林が自らの手でアップデートを行ったことにし、御園の名前も数式の出所も一切表に出さない──すべてはミスティの胸の内に収められたまま、静かに次の舞台へ進んでいく。

それは国家的な「実証実験」としてのステージであり、同時に御園アマネを「裏の予言者」として守るための偽装でもあった。

富三郎はこの案を気に入り、政治家ネットワークと共に神林のブランディングを開始する。

神林サトルの名は、投資界隈で瞬く間に広まった。 「未来を読むアプリ」──メディアはそう報じ、彼の開発した予測ツールは半ば宗教のような信奉を集めていく。 為替予測の的中率は7割を超え、SNSでは「予言ツール」や「電子の神託」と称されるようになる。

だが、その数式の根幹にあるアルゴリズムは、御園アマネのものであり、彼が一人で精緻化したものだと知る者はごくわずかだった。

ある晩、神林のラウンジには、スーツ姿の男たちが訪れていた。

「神林先生、あなたの理論、ぜひ国家レベルで活用させていただけませんか?」

その声の主は、大野富三郎──元・金融大臣にして元・与党幹事長。将来は総理大臣とも噂される人物だ。

神林は目を輝かせた。 「ついに、ここまで来たか……!」


実は大野は焦っていた。

地方銀行の連鎖破綻で地方経済は崩れ、次の選挙では間違いなく惨敗する。

「ここで失点は許されない。むしろ、この危機を利用して国民に神林のシステムを刷り込むんだ。」

周囲の官僚たちは戸惑ったが、大野は強引に特区法案を通し、神林アプリのテスト配布を開始させた。

「選挙まで残りわずか二ヶ月。国民の心理を可視化し、恐怖を経済行動に変換する。それが今の俺の唯一の勝ち筋だ。」


──御園アマネは、その報をミスティから告げられたあと、無言のままモニターを凝視していた。

液晶の奥で踊る数字と波形が、どこか異様にゆがんで見えた。


「神の真理は、人間の理性が完全に崩壊したときにのみ、その姿を顕わす。──神学者バルトの言葉よ。」

ミスティの声は、いつも通り穏やかで、逆にそれが恐ろしく思えた。

「そして……理性が粉々に砕け散ったその瞬間にしか、本物の数式は決して姿を現さない。」

その言葉に理由もなく、アマネの胸の奥が冷たく沈んだ。

背骨の内側を、氷の小片がゆっくりと転がり落ちていくような感覚だった。


アマネは疲れ切った瞳でモニターを見つめ、

頼りなくキーボードを叩いていた。

ミスティはその背後に立ち、そっと手を伸ばしてアマネの髪を梳いた。

細い髪を滑る指先が、わずかに震えている。

アマネが振り返り、困ったように笑った。

「……どうしたの?」

ミスティは何も答えず、ただそっとその髪に額を預けるように目を閉じた。

しばらくの間、言葉もなく、アマネの頭に触れ続ける。

魔王として幾重にも築いた冷たい鎧の下で、

どこか小さく痛む場所が、確かに疼いていた。

「……少しだけ、こうしていてもいい?」

その囁きは、魔王の声ではなかった。

アマネは戸惑いながらも、小さく頷いた。

ミスティは再びそっと目を閉じ、

抱きしめるようにアマネの肩を引き寄せた。

それはほんの一瞬の、けれど確かに魔王の心を癒やした、

とても小さな愛の時間だった。



『時代の寵児』

御園アマネの名前は、まだメディアには出ていなかった。 だが──彼の数式はすでに、“神林アプリ”という形で表に出ていた。

メディアは神林サトルを「未来を読む天才起業家、時代の寵児」と祭り上げ、SNSではアプリの予測精度が話題をさらっていた。だがその背後にあるロジックは、すべて御園が組み立てたものだった。

赤坂の政財界では、神林のアプリを国家予算級の金融操作に使うべく動きが始まっていた。 中心にいたのは、大野富三郎。 彼は“演出された神”を利用し、自らの経済ネットワークにレバレッジをかけていた。

──10億円を元手に、100倍の信用取引。

アプリの予測に絶対的信頼を置き、為替と株式市場に大胆なポジションを取り始めた。 「神が導くならば、国家予算すら動かせる」 そう信じて。

その日から、神林アプリは全国展開を避け、まずは選定された経済特区での限定運用が始まった。

「まずは50万人規模で十分だ。

そこで心理データを徹底的に吸い上げ、基盤を調整してから全国へ持ち込む。」

大野はそう言い、官僚や技術者を無理やり押し切った。

神林は黙って従ったが、その内心には微かな違和感があった。

ログに並ぶトランザクションは、どれも整然とした経路を辿り、むしろ過剰なほど秩序立っていた。

──理想的すぎる。

これではまるで、金融市場がひとつの巨大な生物のように、一方向へ自ら統合を望んでいるかのようだ。

神林は手のひらに汗を滲ませながら、その画面を見つめ続けた。

その時、背後に人の気配を感じて振り返った。

扉の前にはスーツ姿の政府職員が立っていた。

その顔には疲労と苛立ちが交じり、必要以上に硬い声で告げた。

「テストユーザーが予定より二日早く、60万人を突破しました。

総務省は先ほど臨時閣議で、マイナンバーの利用拡張施策に神林アプリを正式に組み込むことを決定。

追加データを取り次第、全国プラットフォームへ統合を急ぐよう通達が出ています。」

報告に来た官僚は、口元を微かに引きつらせながらも、その目には確かな期待が浮かんでいた。

経済特区での成功は、彼らにとっても自らの手柄となる大きな政治資産だった。

神林は応接用の革椅子に深く腰掛けたまま、無言で目を閉じた。

(……これで本当に、いいのか?)

心の奥に生まれたわずかな違和感は、

報告書の山に埋もれ、いつしか理屈で抑え込まれていく。


数日後、神林は総務省との契約に正式署名し、

マイナンバー拡張基盤へのアプリ統合を完了させた。

契約書にペンを走らせたその瞬間、

自分の指先が冷たく痺れるような感覚を覚えたが、

もはや後戻りなどできなかった。



『崩れる理性と最後の改変』

それから数週間。

公共料金、税、医療、年金、ポイント還元──

あらゆるサービスが神林アプリを通じて一括管理されるようになり、

人々はその便利さに我先に飛びついた。

新たに発行されたマイナンバーアプリIDの普及率は、

あっという間に80%を超え、

やがて「全国民が利用して当然」という空気が、日本を覆い尽くしていった。


アマネは無防備に寝息を立てていた。

かすかに開いた唇から漏れる息が白い肌に触れ、

その体は時折、小さく震えていた。

(……欲しい。)

ミスティは自分の中に、じわじわと滲む熱を感じた。

喉の奥が乾き、かすかにひりつく。

指先が、何もない空気を捕まえるように、ゆっくりと閉じられる。

(髪を撫でたい。頬に触れたい。唇を奪って、その小さな身体を私の中に引きずり込みたい──)

理性がすぐさま警鐘を鳴らす。

(だめ。これはただの駒。私の計画には必要ない。ただ……数式だけが欲しかったはず。)

けれどその理屈は、アマネの柔らかな寝息を聞くだけで脆く崩れ落ちていった。

呼吸の匂いさえ甘美で、

額から首、胸へと指を這わせる想像がひどく淫靡で、

それが魔王の心を狂わせた。

(おかしいわ……どうしてこんなにも、疼くの。)

耐えきれずにアマネの髪へ手を伸ばす。

指をそっと絡め、耳元へ顔を寄せた。

吐息はまるで熱に浮かされた病人のもののように乱れていた。

「……ほんとうに厄介な子。」

低く囁いた声は、理性と欲望が絡み合って濁り、

まるで自分自身に吐き捨てる呪詛のようだった。


そして、その夜。

御園アマネの部屋のモニターに、異変が走った。

ひとつのシミュレーションが、急速に“収縮”しはじめる。

アマネの作った未来予測モデルは「多数の選択」があればあるほど分岐し、その確率で未来が決まる。

だが今、アプリにログインした国民は過去最大。データは過密を超え、逆に一点に集約された。

その極端な収束は、アマネが設計した未来予測アルゴリズムに“逆回転”を起こした。

【このアプリは、多人数が一斉に使えば使うほど、未来が一点に収束しすぎて破綻する】

──そう。

それは本来ありえないはずだった。だがミスティは、アマネのアルゴリズムに“収束率を異常に増幅する外部制御コード”を密かに仕掛けていた。

誰も気づかなかった。

アマネでさえも。

(彼女はこの瞬間を計算していた──)

だがアマネはそれを知らない。

ただ、モニターに映る為替データが急激に崩壊していく様子に、震える声を漏らした。

「……そんな……なんで……」

もう一度、モデルを走らせる。

しかしどれも同じ──避けられない暴落。

アマネは慌ててキーボードに手を伸ばした。

「ならば──すべてをリセットする」

彼は最後のアルゴリズムを叩き込んだ。

金融システムの中心にあるデータベースへ向けた、たった一行の書き換え命令。

その瞬間──

世界の為替取引は、たった1秒だけ完全に停止した。

それは「ゼロ秒の氷結」と呼ばれる金融史上初の空白。

1,000億円を超えるレバレッジ取引が同時に崩れ、AIアルゴは逆指値を一斉に発火。

為替は35%暴落し、国債利回りは跳ね上がり、日銀は翌日緊急会合を開くことになる。

すべては、アマネが知らぬ間に埋め込まれた“収束プログラム”が引き金だった。

それでも彼には分からない。

自分が動かした「リセット」が、どれだけ巨大な連鎖を引き起こしたのかを。

──そして遠く六本木の夜景の中。

ミスティ・ルナバードはただ静かにグラスを傾け、

冷たい光を瞳に宿していた。



『神のいない市場』

為替は止まり、株価は凍りついた。

そして──大野富三郎の帝国もまた、その“1秒”で崩れ落ちた。

日本円は突如として“ゼロ・レート”を記録。

政府系ファンドは操作不能に陥り、大野が密かに支配していた裏ルートの資金変換システムは全て凍結された。

国際送金のハブを担っていた複数の口座が、金融庁の“疑似ブラックリスト”に自動転送されていた。

それは、あの日──アマネが叩き込んだ“リセットコード”が発火点だった。

「数値を弄ったわけじゃない。ただ計算の順序を初期化しただけだ……なのに、市場は崩壊した。……俺のせいじゃない!」

彼が口にしたこの言葉の意味を、正確に理解した者はいない。

ただ、結果は──致命的だった。


数日後、赤坂の料亭「佳月」から大野富三郎の姿は消えた。

新聞にはこう書かれた。

「与党重鎮の大野氏、体調不良により政界引退」

「神林アプリ騒動と無関係と釈明」

しかし、永田町の空気は冷えていた。

投資損失は10億円を超え、彼の選挙基盤のひとつだった地方金融団体が連鎖倒産した。

水面下で交わされた囁き──

「……最初に動かしてたのは、あの高校生だって話だ」

「神林は“見せかけ”だった。真の仕掛け人は別にいる」

「名前は残らなかった。ただ、ひとつ“ゼロのコード”が記録されていたらしい」


都心の高層マンションの一室。

ソファに座り込んだまま、スーツ姿の男が虚ろな目でテレビを見ていた。

ニュースは「金融異常の復旧」を報じていたが、彼の心に映るのは別の数字だった。

口座残高:¥0

「俺は……“見えない手”に……負けたのか」

大野富三郎は、まるで誰かに向かって話しかけるように呟いた。



『ベッドに落ちた涙』

──深夜、港区の高層マンション。

ミスティ・ルナバードは、薄暗い寝室でベッドに腰を下ろしていた。

左手に持つのは、古びた一枚の写真。

黒縁メガネの中年男性が、小さな少女の肩に手を置き、笑っている。

少女はまだ──ミスティではなかった。

彼女は、何度も写真を撫でた。

涙が落ちるたびに拭い、拭ってもまた溢れる。

嗚咽は押し殺しても、喉の奥で震えていた。


あの男──大野富三郎。

かつて地方の地方銀行と手を組み、中小企業の経営者に“劣後債”を売りつけた。

「これは安全な商品です」「政府系のルートです」「議員の後ろ盾もありますよ」

そんな言葉に騙され──信じてしまった者もいた。

ミスティの父も、その一人だった。

取引先の紹介で地銀を通じて1,000万円分の債券を購入した。

その企業の多くが、政治的に“大野に恩を売る”形になっていた。

そして、大野はその金を「政治資金」として、合法的な“寄付”名義で受け取っていた。

──結果。

リーマン・ショック。

劣後債は紙くずとなり、地銀も政府も手を差し伸べることはなかった。

会社は倒れ、父は──数週間後、自宅の物置で首を吊った。

一人娘だったミスティが、その遺体を見つけた。


彼女は、母方の親族の支援を受けて渡米する。

米国の州立大学で経済学を学び、卒業後は一度、アメリカ現地企業に就職。

社会人経験を経て、スタンフォード大学MBAコースへ進学。

在学中に、ニューヨークの大手証券会社でサマーインターンとして勤務した。

そして卒業後──ウォール街の金融機関で正式にキャリアを始める。

皮肉にも、“父を殺した世界”の中心だった。

だがその中で、彼女は初めて理解する。

金融がどう構造化され、誰が得をし、誰が切り捨てられるのかを。


ある日、彼女は机の引き出しから、かつて島内を助けた際に密かにコピーしていた顧客リストを取り出した。

そこには──「大野富三郎」の名前があった。

地銀の頭取を介し、無数の資金が流れ込む。

その行き先を辿るうち、彼女の胸に冷たい何かが落ちた。

見えてきたのは、地銀経由の劣後債、跡形もなく消えた中小企業、そして──命。

自分の父の命だった。


ミスティは、全てを捨てた。

会社も、キャリアも、過去の自分も。

戸籍も名前も変え、日本へ帰国した。

目的はただひとつ──父の仇を取ること。


──追悼の夜。

ミスティの端末には、大野が預けた“10億円”の動きが映っている。

その背後には、島内との資金洗浄計画、100倍のレバレッジ、

選挙資金への裏変換──そして、崩壊の予兆。

その金が、いま“ゼロ”になる。

彼女は、写真を胸に抱いて、声を殺して泣いた。

だが、その涙には、もう哀しみはなかった。

あるのは、決意だけだった。


大野は消えた。

神林は破れた。

御園の名前は出なかった。

だが──“あの夜”を知る者たちの間では、噂が続いていた。



『SNS投稿』

「神じゃねーってよ。

市場止めたの、ただの“論理爆弾”らしい。」

「都市伝説枠かと思ってたけどな……

あの時の基幹DB、1secだけ完全ゼロ化したコード、

まだGitHubのforkに断片残ってるっぽい。」

「作者名もIPも根こそぎパージ済み。

けどコードだけ誰かがキャッシュ拾ってて、

未だにCTF勢とか解析erが夢中。」

「例の多選択収束アルゴのやつ?」

「そ。

UX的には群衆行動トリガで未来を一点に集約→

逆にオーバーフロー起こして0点収束させたって話。」

「最後にリセット掛けたの、

この界隈で有名な“シニフィアン”じゃね説出てんだよな。」

「昔シニフィアン、ガチ意味不明な測度論数式ポストしてたしな。」

「神じゃねーよ。

ただの……狂った理数マニアだ。」

#ゼロ秒の氷結

#シニフィアン

#市場壊滅



『最終章:零構の残響レムナント・コード

2025年7月10日 午後2時32分。為替市場は、突如として"氷結"した。 日本円が対ドルで35%下落し、株式・先物・暗号通貨を含むすべての金融取引が、"1秒間だけ"完全に停止したのである。 その異常な1秒間は、後に「ゼロ秒の氷結」と呼ばれることになる。

為替市場は混乱し、国債リスクは跳ね上がり、日銀は緊急会合を招集。東証は翌日も一時閉鎖され、個人投資家の損失は1.3兆円を超えた。 その中心にいたのは──選挙資金10億円を元手に、レバレッジ100倍の"最後の勝負"を挑んだ、元・金融大臣・大野富三郎だった。

だが、御園アマネが放った“リセットコード”は、すべての市場信号をゼロに変えた。 1,000億円規模のポジションは蒸発し、信金も破綻。政府保証のない資金運用の責任は、すべて大野個人に押し付けられた。 結果、彼は13億円以上の債務を背負い、政治生命を絶たれ、姿を消した。

その頃、神林サトルは── 精神崩壊の末に強制入院。社会的信用を全喪失し、予言者の仮面は剥がれ落ちた。

一方、島内は違っていた。

御園アマネのコードとアプリが市場に生む微細な歪みをいち早く見抜き、その動きを先取りして強気にポジションを構築。

アルゴリズムが示すトレンドに順行する形で資金を注ぎ込み、為替が暴騰した瞬間に巧みにドル建てのポジションを利確した。

わずか48時間で、その利益は21億円に達する。

もっともその後、資金回収をめぐって債権者への暴力事件が発覚し、執行猶予付きの有罪判決を受ける。

景気後退とともに表舞台から一時姿を消したが、現在は名前を変え、「三次元AI開発会社」のCEOとして再び表に現れている。

御園アマネは、あの瞬間を“ゼロにする”ことで、すべての構造を書き換えた。 ただし、それは表には出ない。 彼の名前も、コードも、履歴も、ネットからは完全に削除された。 だが、彼が遺した「零構レムナント・コード」だけが、あるサーバで静かに回り続けている。 利益は生まない。 だが──世界がまた、同じ過ちを繰り返そうとしたとき、その“残響”だけが、警鐘を鳴らすだろう。

◆最終精算◆

【大野富三郎】

•運用額:10億円(選挙資金)

•レバレッジ:100倍(実質ポジション1,000億)

•結果:

o 信金破綻による追加負債 → 合計13億円以上の損失

※本来なら数百億規模の追証が発生するはずだったが、破綻した信金が債務を一部放棄し、また水面下での政治取引によって債務額は大幅に圧縮された。

o 政界引退、消息不明(実質破産)

【神林サトル】

•社会的信用:崩壊

•精神:崩壊、自殺未遂後の強制入院

•アプリ責任をすべて背負わされるスケープゴート

島内フロントヤクザ

•利得:21億円

•事件:債権者への暴行で有罪、執行猶予

•現在:改名のうえ、三次元AI開発会社のCEOに復帰

【御園アマネ】

•金銭的報酬:なし

•名誉:抹消(神林の裏にいた"影の予言者")

•行動:世界の構文を書き換え、ゼロに戻す

【ミスティ・ルナバード】

•表舞台:一切出ず

•利益:詳細不明(黒字と推測)

•状態:唯一すべてを生き残り、裏から操った女

──最終幕。 誰もが“神”を失った市場。 信仰は崩れ、論理は破れ、構文は消え、 その“無”の中心に、ひとりの少年の指だけが残った。 彼が次に書くのは──“市場”ではなく、“世界”の意味そのものである。



『エピローグ:ミスティと島内の電話』

──その日の昼過ぎ。

為替市場が凍りつく、ちょうど一時間前。

都内某所、ビル最上階の会長室。

革張りのソファに深く腰掛け、島内はモニターを眺めながら、上機嫌に笑っていた。

「──見たかよこのライン。全部踏んでる。神林のアプリ様々だな」

すでに21億円近い利益が出ていた。

誰が損をしていようと関係ない。市場とは、そういうものだ。

そこに一本の電話が入る。

「ミスティ?どうした?」

電話口から、ゆっくりとした女性の声が返ってきた。

「……あなたは旧友だから教えておく。あなた、“ネギ”を待ってるようだけど──」

「ん?」

「すき焼きは、できないわよ」

「は?」

「だって──火がつかないもの。……じゃあね」

通話が切れる。

沈黙。

一拍、二拍。

島内は、唐突に立ち上がった。

「おいッ!コンセントを調べろ!!」

社員たちが顔を見合わせた。

「……は? コンセント?」

「いいから、今すぐだ!!」

端末を確認した社員が声を上げた。

「社長! なんだこれ……いつの間にか、ルーターのコンセントに“分配器”が……」

島内はその瞬間、すべてを悟った。

慌てて立ち上がり、机の端末を操作しながら叫ぶ。

「ドル建て、全部手仕舞い! アプリ連動も切れ! いますぐ!」

「え、でも今ならもっと──」

「今やらなきゃ──ゼロになるぞ!!」

数分後。

為替市場は"凍りついた"。

アプリは暴走し、レートは1秒間の“無”を刻んだ。

だがそのとき島内は、すでにすべてのポジションから身を引いていた。

──命拾いした。

彼は椅子に腰を落とし、静かに天井を仰いだ。

「……まったく。やっぱ、おまえは敵に回すもんじゃねえ」

窓の外には、崩れゆく市場のチャートが空に焼きついていた。



『残響:愛の終わり(血のキス)』

スマートフォンが震えた。

画面には吉峰調査事務所の名前が表示されている。

通話ボタンを押すと、いつもの冷たい声が耳に届いた。

「ミスティさん、吉峰です。

御園アマネのGPSがそちらに向かっているとAIが解析しました。

それと……途中で立ち寄ったスーパーのPOSをハッキングしました。

彼のカードで“折り畳み式ナイフ”を購入しているのを確認済みです。

AIが緊急警戒を鳴らしましたので、一応ご忠告まで。」

「ありがとう」

それだけ言って通話を切ると、ミスティは机の引き出しから封筒を取り出した。

中には吉峰調査事務所が作成した報告書がぎっしり詰まっている。

次の瞬間、その封筒を乱暴に開き、机の上へぶちまけた。

紙が何枚も舞い、音を立てて散らばる。

神林サトル、島内慶一郎、地方銀行、大野富三郎、御園アマネ。

報告書の中には赤字や鉛筆のメモが無数に走り、何度も読み込まれた痕跡があった。

とくに大野富三郎の調査ファイルには、赤ペンで強く囲まれた文字が目立った。

【吉峰調査事務所 極秘報告書抜粋 大野富三郎】

・政治家としての表看板は冷静沈着。経済政策や公共事業の演説は緻密で安定感がある。

・しかし内部証言や過去行動から、極度の自尊心と被害妄想傾向が確認される。

・追い詰められた局面では第三者への依存を嫌い、必ず自分一人で賭けに出る。

 過去に資金不足で何度も「自分なら必ず増やせる」と市場へ飛び込んだ。

・料亭での発言録:

 「他人を頼るから負けるんだ。最後に勝つのは、いつだって“俺”だけだ。」

・リスク評価:

 金融資金を絞れば必ず追い詰められ、市場で一発逆転を狙う可能性90%以上。

資料に視線を走らせ、ミスティは口元に小さく笑みを浮かべた。

「これで……全部終わりね」

その時、扉が乱暴に開かれる音がした。

そこに立っていたのは御園アマネだった。

白い顔、荒い息。

小さなナイフを強く握りしめた手が、かすかに震えている。

──彼はナイフを手に入れた時から、本当は自分でも分かっていた。

復讐なのか、赦しを請いたいのか。

愛して欲しいのか、罰して欲しいのか。

全部がぐちゃぐちゃに混ざり、もう引き返せなかった。

アマネの視線が机の上を彷徨い、報告書を一つ一つ確かめるように読んでいく。

神林、島内、地方銀行、そして大野……最後に、自分の名前が書かれた紙。

読むほどに顔から血の気が失われ、やがて瞳がぐしゃぐしゃに濡れた。

「……見たんだ。コードの中まで……全部……あなたが仕組んだんだね」

かすれた声だった。

ミスティは何も言わず、静かに頷いた。

アマネの目に涙が浮かび、声が細く震えた。

「……なんで……なんで俺を騙したんだよ……

ずっと信じてたんだ……

謝ってよ……お願いだよ……謝ってくれたら……俺、全部許せるから……

そしたら……本当に、あなたを……愛せるから……」

ナイフの切っ先が小刻みに揺れる。

それは殺意ではなく、子供が母親に向ける甘えにも似たものだった。

アマネは早くに母を失い、母に「ごめんなさい」と言われることなく、愛を与えられることもなかった。

だからアマネの中では父親への愛も、母親への愛も、家庭への渇望も、他人を愛する感情も、全部がごちゃまぜだった。

謝罪さえあれば、きっと自分は愛せると信じていた。

だがミスティは小さく首を横に振った。

「ごめんなさいは言わないわ」

アマネの瞳が大きく揺れた。

その時、ミスティはそっと一歩、彼の方へ近づいた。

ナイフの刃が彼女の胸に触れた瞬間、アマネは息を飲む。

次の瞬間には、その刃は静かに肉へ沈んでいた。

アマネは目を見開き、両手がぶるぶると震える。

血が刃元から溢れ、アマネの指を伝って滴り落ちた。

アマネのナイフが肉を割り、熱い血が溢れても──

ミスティの胸は恐怖どころか、むしろ甘く熱を帯びて疼いていた。

(解放なんて、誰がするものですか。あなたは私のもの。)

血に濡れた手をアマネの頬へ滑らせると、冷たい液が白い肌を赤く染めていく。

その無惨な色が、無性に愛おしく、喉の奥で息が詰まった。

アマネは震えながら目を閉じ、涙をぽろぽろ零した。

「あなたが欲しかったのは、母親からの『ごめんなさい』だったのでしょう?」

囁きながら頬を撫で、耳の輪郭を爪でなぞる。

アマネは堪えきれずに小さく啼いた。

「でも……私は謝らない。」

低く熱を含んだ声は、魔王としての宣告だった。

この子に赦しも自由も、一切与える気はない。

「だって私は……あなたの頭の先からつま先まで、全部支配したいのよ。」

囁きが御園の耳にまとわりつき、ねっとりと蠢いた。

アマネは涙を零しながら、小さくかぶりを振った。

けれど次の瞬間、ミスティは血に濡れた両手でその顔を掴み、乱暴に唇を重ねた。

鉄の味と、アマネの息が一緒に混ざる。

アマネの体がびくりと大きく震え、次いで泣きじゃくるように縋りついてきた。

唇を離し、冷たく嗜虐的な笑みを浮かべる。

「分かったなら……言ってごらんなさい。」

アマネはぐしゃぐしゃに泣きながら、喉の奥で声を探すように震えた。

「……はい……」

涙に濡れた瞳が、縋るようにミスティを見つめる。

その姿があまりにも可愛くて、胸の奥がちくりと痛んだ。

(これでいい……これがいいの。)

理性なんてもう残っていなかった。

これ以上ないほど甘く、狂おしい支配の悦びが、

魔王の心をぎゅうっと締め上げていた。


部屋には血と紙の匂い、そして嗚咽だけが残り、

アマネは泣きながらも完全に、魔王のものになった。


挿絵(By みてみん)

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終焉













『量子経済収束モデル ψ( S, t ) による金融市場波動の解析』

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1. はじめに

本特別付録では、物語世界における架空理論として構築された「量子経済収束モデル ψ( S, t )」を解説する。これは、量子力学の観測者問題を金融市場へ応用し、人々の観測行動が市場価格を直接確率的に収束させ、突発的な価格変動(トンネル効果的跳躍)を生む構造を描いたものである。

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2. 数理構造

•ψ( S, t ): 市場参加者(観測者)の集合意識を表す波動関数

•ΔΣ(φπt): 短期的な観測干渉項(SNS、アプリ集中起動)

•log μ: マクロ信用基盤(マネーサプライ、信用創造項)

この式は、市場が単なる確率過程ではなく「量子的確率場」であり、観測行為により波動関数が収束(collapse)する仮説を表現している。

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3. 観測者問題と市場収束

3.1 観測集中による閾値現象

通常 ψ( S, t ) は0.1程度で、市場は雑音として拡散するが、短期間に同一情報へアクセスが集中すると ΔΣ(φπt) が臨界を超え、

となり市場の確率分布が一点に収束する。この現象は神林アプリを通じて、国民の大規模な観測者化を引き起こすことで発生する。

3.2 トンネル効果的価格跳躍

通常のブラック・ショールズモデルでは説明困難な、担保価値や地方債市場での急激な価格飛躍は、この波動関数の局所的崩壊(トンネル効果)によって説明される。これは金融市場が人間心理の集団干渉波で構築されているとするフィクショナルな拡張理論である。

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4. 模擬シナリオ

•対象: 地方債ポートフォリオ(10銘柄)

観測者アプリユーザー総数: 約50万人

•同時ピークアクセス: 12万人

•波動関数強度 ψ( S, t ) = 0.83(平常時は0.14)

•結果: 48時間以内に地方債平均価格 −6.8%

これにより地銀の担保資産は急減し、大量処分が連鎖し破綻を誘発した。

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5. 考察

この理論は物語世界の架空モデルでありながら、行動経済学・行動ファイナンス理論を量子論的に再定義し、「市場は人間心理の干渉波による量子的確率場である」とする革新的アプローチを提示している。

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6. 結論

ψ( S, t ) モデルは、市場が観測者によって確率的に収束し、トンネル効果的に価格が飛躍するプロセスを描く。この擬似科学モデルは、物語における大規模金融崩壊の論理的基盤を提供し、読者にリアルな錯覚を与える役割を果たす。

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(以上、特別付録)


※本作およびその世界観、登場用語(例:メモリウム™、魂経済、共感通貨 など)は、

シニフィアンアポリア委員会により創出・管理されたオリジナル作品群です。

無断での商業利用や類似作品の公開はご遠慮ください。

また、本作中に登場する団体・名称・制度・事象は、実在のものとは一切関係ありません。






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