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【零構の魔王】 Act.1

挿絵(By みてみん)

【零構の魔王】 Act.1

シニフィアン・グノーソス


『始まりの構造』

高層ビルのラウンジ。

薄暗い席に並んで座る二人の前には、氷が静かに沈むグラスが置かれていた。

「ミスティさん、お世話になります。」

吉峰は背筋を伸ばし、形だけ軽く頭を下げた。

だがその視線は、無意識に彼女の輪郭をなぞっていた。

──年齢は三十前後だろうか。

その佇まいには年齢の数字では測れない、もっと深い夜の匂いがあった。

身体にぴたりと沿う漆黒のワンピース。

柔らかそうな生地は胸元から腰にかけて緩やかな陰影をつくり、そこからすらりと伸びる脚へと自然に視線を誘う。

わずかに開いた襟元からは、ほのかに白い肌と、金細工のネックレスが覗いていた。

香りは冷たく甘い。

シトラスでもローズでもない、もっと複雑に調香された白ワインのような香水。

理知的なのに妖しく、鼻腔の奥をかすかに痺れさせる。

そして──

長い淡金色の髪を細い指でゆっくりと耳に掛けたその瞬間、

吉峰は自分の呼吸が少しだけ遅れたことに気づく。

ミスティは口元だけで薄く笑った。

瞳は涼やかで、そこには色気よりも冷たい知性が先に立っていた。

だが逆に、それが抗いがたい妖艶さとなって胸に刺さる。

「吉峰さんとお会いするのは……はじめてね。」

その声は低く柔らかで、微かに喉を転がる音が残る。

それだけで、彼女がこの場の空気ごと支配していることを吉峰は理解した。

「ええ、いつもは電話や暗号通信だけですから。

直接こうしてお会いできて光栄です。」

ミスティは微かに唇の端を持ち上げただけだったが、それだけで胸の奥が妙にざわついた。

彼女の瞳はまるで氷を透かしたように冷たく澄んでいるのに、

そこから覗く理知的な光は、逆にひどく艶やかで、理屈を超えて神経を刺激した。

冷たいはずの背中を、なぜかひどく熱い汗が一筋流れ落ちた。

吉峰はそっと息を整える。

目の前に座るこの女が、ただ美しいだけの存在ではなく──

「資金」と「人間」の生殺与奪を無表情に計算する存在であることを、彼は嫌というほど知っていた。

「APIの件はどう?」

「はい。言われたとおりに専門家を押さえてコードを組ませました。

こちらの管理下で常時監視しています。

ユーザーがどのデータを選んでも、結局は同じ収束先に行く構造です。」

「そう……それで?」

ミスティは視線をテーブルに落としながらも、その瞳は吉峰をまっすぐ射抜いていた。

「そのほかの情報は?」

「はい、この封筒にすべて入っています。──特に、神林はユニークでした。」

「ユニーク? どういうこと?」

「実力は確かです。

ただ、社会構造の壁に阻まれ、才能を正しく発揮できずにいる。

その鬱憤を、結局は詐欺に向けて発散しているような……そんな人間です。」

ミスティは小さく目を細め、静かに封筒を撫でた。

「……そういう人間は、とても使い道があるわ。」

ミスティは、氷の溶けかけたグラスを持ち上げた。

「それじゃ、また口座に振り込んでおくわね。」

「ありがとうございます。」

吉峰は無表情のまま小さく頭を下げた。



『罠』

ノートPCの画面には複数の暗号ログと、リアルタイムで更新される資金トレースのダッシュボード。

暗い部屋に、その小さな光だけが浮かび上がっていた。

吉峰からのメッセージが端にポップアップする。

【神林が暗号送信APIにアクセスしました。解析モジュール稼働中】

ミスティは唇の端をわずかに吊り上げ、

指先で画面を軽くタップする。

瞬間、複雑な資金フローのグラフが広がり、

神林のウォレットから流れたデータがどこに向かい、いくら送金されているのかを示すログが次々と描画されていく。

「……引っかかったか。」

ワイングラスを持ち上げ、薄いルビー色の液体を静かに口に含む。

「これで、あいつがどのくらいの金額を──

そして、どこへ送金しているか、全部わかる。」

グラスを置く音が、冷たい机の上にわずかに響く。

「さあ神林。次はあなたが、どれだけ美味しく“狩れる”人間か、見せてもらおうじゃない。」

夜景のビル群は、相変わらず無関心に光を放っていた。



『依頼』

夜景が漆黒の海のように広がる窓辺。

薄く光るダウンライトの下、ミスティは細長いグラスに淡く琥珀色の液体を注いでいた。

革張りのソファには、小太りで額の禿げた中国人実業家が座っている。

仕立ての良いスーツに汗の輪が滲んでいるのが、逆にこの部屋の温度を感じさせた。

「……やはり、公安の目が気になるのです。」

低く搾り出すような声。

落ち着かない手つきでハンカチが何度も額を往復する。

「それでも、私に頼みたいと?」

ミスティは琥珀の液体を軽く回しながら、涼しい瞳で男を見据えた。

「ええ……やるなら徹底的に。

追跡もトレースも不可能にしてください。

北京からの資産を二重三重に洗い、最終的にはカリブのファンドに。

あとはその利回りで“香港の慈善財団”を運営する形にしてほしい。」

「つまり──資金源を完全にクリーンに見せかけたい、と。」

「そうです。公安には絶対に見抜かれたくない。」

男は唇を噛む。

「資金はすぐにでも動かせます。

報酬は三割増しで構いません。

ただ……失敗は、私の一族にとって破滅を意味する。」

ミスティはそっと椅子から身を乗り出した。

長い指がテーブルの上を滑るように動き、そこに置かれた契約書を軽く叩く。

「大丈夫。私の手に渡ったものは誰にも見つからないわ。」

そしてふっと唇だけで笑う。

「ただし──

裏切れば、全ては私のものになる。

そのルールだけは、あなたもよく知っているでしょう?」

「……はい。」

依頼人の声は恐怖に震えたが、それでも頷くしかなかった。

彼にとって今、公安より恐ろしいのは目の前の女だった。



『スマートレイヤー』

夜。

六本木のプライベートオフィス。

薄暗いデスクの上に並んだ複数のノートPCが、それぞれ別のネットワークに繋がり静かに光を放っている。

スクリーンには、暗号化された資金ルート、ペーパーカンパニー群のバランスシート、DAOのスマートコントラクトコードが交錯していた。

ミスティは細い指でタッチパッドを操作し、淡い青い光が指先を照らす。

「──まずはマカオ経由の資金を複層ファンドに入れて、レイヤーを最低でも七層。

タイミングはAIに任せる。AIには逆にミスを仕込んで公安を誤誘導させる。」

冷たい声で独白しながら、別の画面を開く。

「香港は既に贖罪型のファンドで動かしてるから問題ない。

問題はシンガポール……ここを少しだけ遅延させて公安の嗅覚をそちらに向ける。」

小さく笑った。

唇の端だけが上がり、香水が空気にわずかに広がる。

「公安は早いけど……そういう追跡をする組織ほど、最初に掴んだ“兆候”に固執するものよ。」


デスクの上で、暗号通話用の小型デバイスが短く震える。

「……ミスティさん、吉峰です。公安がAPI群に照会を掛け始めました。恐らく四十八時間以内に、あなたが先月溶かした資金のトレイルを突き止めます。」

「問題ないわ。そのために新しいDAOを準備させたわ。

これで資金はスマートコントラクトを介して分散管理される。

誰が管理しているのか?

そんなもの、コードが決める。」

「神林の件も含めて?」

「ええ、彼には心理トラッキングのテストとして、別件の詐欺スキームを食わせてある。

公安がそちらに神経を割けば、本件の追跡は数日遅れる。」

「了解です。……それにしても、完璧ですね。」

ミスティはタッチパッドを止め、髪をゆっくり耳に掛けた。

「完璧じゃないわ。完璧になるよう、こうして動いてるだけ。」

わずかに笑うその顔には、恐怖も焦燥もなかった。

ただ夜景を背景にした、冷たく妖しいプロフェッショナルの顔。

別のスクリーンには、中国公安の国際チームがリアルタイムで取得しているはずの照会ログが映っている。

「あなたたちの嗅覚は優秀よ──でも、残念ね。」

タッチパッドをもう一度叩く。

瞬間、資金のトレースラインは何重にも枝分かれし、ダミーアドレスが公安のネットワークへ矢継ぎ早に送られていく。

ミスティはふっと吐息を漏らすように笑った。

「これでまた、少しだけ遠回りをしてもらえるわね。」



『公安部:北京 国際経済犯罪捜査室』

薄暗い部屋に大型モニターがいくつも並び、

中央には資金フローをリアルタイムで解析する3Dグラフが空間投影されていた。

灰色のスーツに身を包んだ公安の若手捜査官が、小さく息を呑む。

「……チーム長、これを。香港からマカオを経由した資金が今、複数のトンネルでシンガポールへ向かってます。」

「よし……捕まえろ。

照会要求をシンガポール当局へ、コードレッド優先で打て。」

チーム長の声は冷たく乾いていた。

別の捜査員が画面を睨みながら声を上げる。

「しかし奇妙です。枝分かれが異常に多い。

通常のマネロン構造なら三、四層で十分なのに、これは七層以上あります。」

「逆に分かりやすい。

そこまで複雑に組むのは、焦ってる証拠だ。」

「いえ……チーム長、むしろ不自然です。

まるで“追わせるために構築された”ルートみたいだ。」

「──何?」

一瞬だけ空気が凍る。

その時、画面の資金フローのいくつかが急にノイズを発し、バラバラに崩れた。

「……消えた!?」

公安の捜査官たちはモニターに目を凝らしたが、資金ルートは一瞬で見えなくなり、代わりに数十個のダミー口座が無数に散っていった。

「しまった……ダミーだ。

これは囮の資金フローだ!」

「追わされた……。まさかここまで我々の探知反応を計算して……」

誰かの額から冷たい汗が一滴落ちた。


東京のオフィス。

ミスティは暗い部屋の中で一人、静かにモニターを見つめていた。

公安のシステムが次々に誤誘導されていくログが、

脈打つように画面に刻まれる。

「……これで三日。

あなたたちは最低でも三日は私に追いつけない。」

細い指で髪をかき上げ、わずかに微笑む。

香水の匂いが冷たい空気に甘く溶け、

その瞳には、公安の追跡すら楽しむかのような危険な光が宿っていた。


『解放された詐欺師』

神林は、自分が公安に摘発された理由を死ぬほど悔やんでいた。

あのとき、もう少しリスクの少ないルートに切り替えていれば。

あるいは、もっと小さな額で動いていれば。

だが──

最初から、彼には選択肢などなかった。

なぜなら、神林の国際送金ネットワークは、

最初から 「公安に潰されるために設計された」スキーム だったからだ。

神林は知らない。

自分が扱った金のすべてが、見えない誰かに計画され、

公安が確実に飛びつくよう数字を配置されていたことを。

神林は知らない。

その誰か──六本木の高層階でグラスを傾ける女が、

神林の小さな送金システムを一度も名前にすら出さずに、

ただ「撒き餌」として組み込んだことを。

神林が知らないことは、もうひとつある。

公安が彼に張り付いているわずかな間に、

数百倍の資金が世界を駆け抜け、跡形もなく霧散していったことを──。


「……結局さ、中国公安に捕まったんだぜ、俺。」

神林サトルは、小さな中華料理屋のテーブルの上で、

青いビール瓶を指先でくるくると回していた。

瓶の底が卓上の染みだらけのクロスを擦るたび、

かすかな音が乾いた空気に滲んだ。

向かいに座る昔の仲間は、その様子に眉をひそめる。

「マジで? 拉致されたのかよ。」

「ははっ、拉致なんて大げさな。」

神林は力なく笑った。

「向こうの公安に“参考人”として招かれただけさ。

でもまぁ、実質は軽い監禁みたいなもんだったな。」

その目の奥には、妙な安堵があった。

「向こうもさ、俺が老人騙して投資詐欺やってたのは全部わかってんだよ。

金融口座も洗われて、証拠なんざ山ほどあったろうな。」

「で……どうなったんだ?」

「どうもなんねぇよ。」

神林は鼻で短く笑った。

「“こいつを潰しても中国の国家利益にならない”って思われたんだろ。

わざわざ公にして外交問題になるより、黙って解放した方が楽だ。

あいつらは国家の面子と計算で動く。

俺みたいなチンケな詐欺師、裁く価値もなかったんだ。」

そう言ってビール瓶をグラスに注ぐ。

泡が小さく弾け、すぐに静まった。

「俺が詐欺師だったのは変わらねぇよ。

年寄り相手に夢を見せて、金を吸い上げて。

でも──命は取られなかった。」

神林はそう言って、静かに笑った。

「中国から帰ってきたってだけで、上等だろ?」

その顔は、ひどく乾いていた。



『上首尾』

夜。

東京タワーの光が滲む高層階のオフィス。

ミスティはデスクに腰掛け、指先で細長いグラスを静かに回していた。

琥珀色の液体がゆらりと揺れ、そこに夜景の光が細い筋を描く。

その時、スマホが短く振動する。

暗号通信を通じた発信元は、中国語の簡体字で匿名のコードだけを表示していた。

そっと画面をスワイプし、応答。

「──ええ。ミスティ・ルナバードです。」

受話口からは低く沈んだ男の声が流れた。

この数週間、彼女に巨額の資金移動を依頼していた中国の富裕層ファミリーの代理人だ。

「……この度は誠にありがとうございました。

 おかげで我々の資産は、いかなる国家の監査からも完全に守られました。」

「ご満足いただけたのなら、何よりですわ。」

ミスティは口元だけで微かに笑みを浮かべた。

その声には一切の情感がなく、完璧に整った冷たいプロの音。

「公安の動きもすっかり鈍り、すべてが予定通りです。

 改めて貴女の技術には感服いたしました。」

「そう。お役に立てて光栄です。」

「また近いうちにお願いすることがあるでしょう。」

「その際は──いつもの条件で。」

「もちろんです。

 ……では、また。」

通信が切れた。

ミスティはスマホを静かに置き、もう一度グラスを揺らす。

琥珀の波紋に映るのは、誰にも捕らえられない瞳。

香水の残り香が、夜景の冷たい光に溶けていった。



『国家の力』

六本木の高層階。

窓の外は雨だった。

摩天楼の灯りが細かな雫を透かし、

暗い街を、幾筋もの光が鋭く切り裂いていく。

部屋の中は静かだった。

冷えた空気を満たしているのは、ほのかに甘い香水の匂いと、

テーブルの上に置かれたグラスの中で氷が小さく鳴る音だけ。

ミスティ・ルナバードは窓辺のソファに腰掛け、

細長いグラスを手に、淡く琥珀色の液体を口に含んだ。

「……完璧。」

自分で自分に呟くように、微かに息を吐く。

資金はとっくにダミーを含む七層以上のルートに散っている。

香港、マカオ、シンガポール、カリブ──

そのすべてのファンドが別々の顔を持ち、

誰にも全貌は見えない。

公安がどれほど優秀でも、

せいぜい神林のような小さな撒き餌を捕まえるのが関の山だ。

そう、完璧。

ミスティはグラスをテーブルに戻し、

香水の匂いが少しだけ濃くなるのを感じながら、

細い指で髪を耳に掛けた。

その時──


リビングの壁に設置された小さな監視モニターが、

わずかにノイズを走らせた。

「……?」

ミスティは眉をわずかに動かし、

モニターの画面に目を移す。

そこには、マンションの共用廊下を歩く二人の男の姿が映っていた。

見慣れない顔。

無言で歩を進めるその様子は、どう見ても住人には見えない。

何より──

そのうちの一人の腰には、黒く角ばったホルスターが覗いていた。

そこに収まっていたのは、中国公安部の制式拳銃、**QSZ-92(92式手枪)**だった。

「……甘いのは、私のほうだった……」

かすかに唇の端を持ち上げる。

自嘲とも、興味ともつかないその笑みを浮かべたまま、

ミスティは窓辺から立ち上がろうとはしなかった。


監視映像の中で、公安部員たちはマンションのオートロックの前に立つ。

そして一人がポケットから取り出したのは、

普通の車のキーに見える小さなリモコンだった。

それを軽く押すと、わずか数秒後──

マンションのオートロックは、何の抵抗もなく低い電子音を立てて解錠された。

きっと正規の装置ではない。

日本の公安に知られれば、一瞬で外交問題になる代物だった。

ミスティは短く息を吐き、

テーブルのグラスへ、少しだけ冷めた目を落とした。

薄く溶けかけた氷が、また一つ小さな音を立てた。



『衛星電話』

監視画面の中、公安部員は無言のまま廊下を進んでくる。

拳銃に軽く触れながら、廊下の曲がり角で何度か立ち止まり、

確認するように慎重に動いていた。

──これが国家の力。

それでもミスティは動かなかった。

ソファに腰掛けたまま、細い指で髪を弄り、

涼しい瞳でモニターをじっと見つめていた。

次の瞬間。

公安部員の耳につけられた小さなイヤピースが、かすかなノイズを立てた。

男はそれを無言で押さえ、短く何かを確認するように応答した。

やがて、もう一人の公安部員と視線を交わす。

その瞳には、わずかに読み取れる苛立ちと落胆。

「……チッ。」

小さく舌打ちをすると、

悔しげに唇を歪めたまま、腰のホルスターに触れていた指をそっと離す。

そこに収まるのは黒く角ばった92式──引き金を引く機会は、もうない。

そして二人は、何も言わずに静かに踵を返した。

画面の中で、公安部員たちの背中は廊下の奥へと遠ざかり、

やがて雨の音だけが残った。


西川口の雑居ビル。

表向きは中国系貿易会社の倉庫として契約されていたが、

実際には中国公安部直属の特別調査チームが日本国内で秘密活動を行うための拠点だった。

室内は無機質な会議テーブルとモニターだけ。

コードネームで呼び合う複数の男たちが静かに座っている。

課長格の男が押印済みの命令書を部下に渡した瞬間、

テーブルの上の衛星電話が鋭く震えた。

男はそれを手に取ると、重く息を吐いてから受信スイッチを押した。

「……はい、はい。

……しかし──

……は……はい。了解しました。」

受信を終えると、顔色はみるみる青ざめていった。

小さく息を吐き、衛星電話をテーブルに戻す。

部下たちが不安げに覗き込む。

「課長……?」

「……中止だ。

全部取り下げろ。

ルナバードには手を出すなということだ。」

室内にいた全員が、一瞬目を見交わした。

「……中央から、直接の指示だ。」

部屋はしんと静まり返った。



『静かな余韻』

ミスティは小さく笑い、ソファへ体を預けた。

氷の溶けかけたグラスを指先でつまむと、

ほのかに甘い香水の匂いが空気に再び広がった。

危険は去った。

マンションに侵入しようとした公安部の人間たちは、

中央からの突然の命令で撤退した。


その時だった。

テーブルのスマホが小さく震え、

画面には中国語の簡体字でコードだけが表示された。

ミスティはわずかに瞳を細め、指先でスワイプして通話を繋げる。

「……久しぶりね。」

受話口から低い声が聞こえてきた。

それは、中国共産党の上層部にいる No6──

かつてミスティが、その男の“裏金”を娘のアメリカ留学資金に見せかけて、きれいに洗い流してやった相手だった。

「こちらも面倒が多い。……今回も頼む。」

要するに、こういうことだ。

もし公安がこのまま動き続ければ、

No6 自身のマネーロンダリングの事実まで明るみに出かねない。

だから彼は、自分を守るために公安に中止命令を出したのだ。

ミスティは短く息を吐くと、

冷たい瞳のまま静かに応えた。

「ありがとう。……安心して。

あなたの娘さんの未来は、私の手でちゃんと守ってる。」

それは脅しでも、取引でもない。

ただ事実としての、ミスティからの言葉だった。

そしてもう一度、グラスを傾ける。

外はまだ雨。

氷が溶ける音だけが、その夜を支配していた。


そして、神林サトルという男

その頃、同じ東京の片隅で、

神林サトルはまだ、自分の人生を少しだけ信じていた。



『弱者の記憶』

神林は、普通の家庭に育ったと信じていた。

真っ直ぐに、大きな疑いもなく。

――十四の夏、あの日までは。

祖父の仏壇の前で、母が絞り出すように言った。

「サトル、お前は……母さんの妹が東京で産んだ子だよ」

生みの親は母の妹。

東京で不倫してできた子供だという。

産んだ妹は泣き崩れ、親戚に言われるまま、生まれたばかりの赤ん坊をこの家に置いていった。

そして、その子を引き取ったのが母――妹の姉だった。

神林は、その家で“息子”として育った。

恥の上塗りみたいな話だ。

その夜、初めて家族の寝顔が気持ち悪いと思った。

血は繋がっていない。

笑って食卓を囲むあの光景は、すべて作り物だ。

そう気づいた瞬間、この家の空気が一気に薄汚く見えた。


家庭は静かに歪んでいた。

父は短気で、職場の上司とすぐ衝突しては会社を辞めた。

仕事は長続きせず、家計はいつも細く頼りない。

夜になると、その苛立ちは母へ向かった。

晩酌を終えると、同じ小言を何度も繰り返す。

母は俯いたまま黙っていたが、肩はずっと小さく震えていた。

神林はその光景を廊下の暗がりから何度も見ていた。

そして気づいたのだ。

――弱い者は、黙って耐えるしかない。


高校はただ流されるままに卒業した。

卒業式のころには、両親はもう形ばかりの夫婦だった。

結局、その春には離婚した。

母は一応「大学に行ってみたらどう?」と言ったが、

それは空気の抜けた風船みたいな言葉だった。

神林は地元を離れ、東京へ出た。

派遣会社に登録し、IT現場を転々とした。

数字や構造には強かったから、現場では重宝された。

だが派遣は所詮、使い捨ての道具だった。

ある日、昼休み。

神林の弁当にゴミが入れられていた。

「気にすんなよ、派遣さんw」

そう笑う上司を、神林はじっと睨んだ。

翌日、休憩室で神林はカッターを取り出した。

無言で刃を出し入れする金属音が、パチンパチンと響く。

上司は顔色を変え、それ以来パワハラは止んだ。


神林は悟った。

それは単純な話だった。

人間は、痛みか恐怖でしか従わない。

それは驚くほどスッと腹に落ちる真理だった。

なぜなら、自分がそのアンダークラスにいることを、痛いほど知っていたからだ。

派遣の首輪をつけ、日給で計算され、簡単に切られる側。

それは一生、搾取される階層──自分が「殴られる側」で終わる場所。


金が必要だと気づくのに時間はかからなかった。

金は痛みを覆い隠し、恐怖を買収する。

アンダークラスの呪いから抜け出すには、それしかない。

計算と構造を扱えるなら、あとはターゲットを探せばいい。

神林は小規模な老人向けの投資詐欺を始めた。

ネット広告を使い、最初は少額から。

必ず一度は儲けさせた。老人は笑い、さらに金を入れた。

二度目、三度目。

数字が増えるたびに、老人の目は輝いた。

そしてある日、アカウントは消え、電話は繋がらなくなる。

サーバは跡形もなく消えていた。

神林は数百万円を抜いたデータを眺め、静かに笑った。

「やっぱり、人間なんて簡単だ」

そう思ったとき、自然に笑みがこぼれた。



『卵とスマホと、そして金』

 朝の霧が残る山間の町。小さな公民館の前には、杖をついた高齢者たちがちらほらと集まり始めていた。

「スマホの使い方を教えてくれるんだってよ。しかも卵が一ダースもらえるってさ」 「わしんとこも孫がスマホ教えろってうるさくてな。ちょうどよかった」

 張り紙にはこうあった。 《スマホ無料教室&AI健康チェック相談会 参加者全員に卵1ダース進呈》 主催は「ライフ・プロビデンス合同会社」。

 

 ライフ・プロビデンス合同会社、代表 神林サトル。

 ――と聞いても、誰もピンとこない。

 ただの零細企業だと思うだろう。

 それも無理はない。

 神林自身、東京で派遣ITを転々としてきただけの男だ。

 プログラムの構造を組むのは得意だった。

 でも、どこの会社でも正社員にはなれなかった。

 そんな神林に、ある時偶然、AIベンチャーの現場が回ってきた。

 神林は貪るように学んだ。

 機械学習? ニューラルネット?

 表面をなぞるだけでも十分だった。

 そして手に入れたのは、技術じゃなく“履歴書”だ。

「○○テクノロジーズ プロジェクトリーダー」

「△△AIソリューション テクニカルリード」

「××データラボ プロジェクトマネージャー」

 そう、自分で勝手に書いた。

 実態は、ただの派遣の一兵卒。

 テスト用のダミーデータをせっせと入力してただけ。

 でも――業界は人手不足だった。


「人間って、肩書きとカタカナに弱いんだよな」

 神林は履歴書を眺めて、薄く笑った。

 たった一枚の紙。

 数字と専門用語を並べるだけで、人間は簡単に信じる。

 AI業界をいくつも渡り歩き、金を吸い上げる算段が見えた。


 そして今。

 ライフ・プロビデンス合同会社を立ち上げた神林は、

 自分が仕掛ける詐欺アプリの設計図を前に、確信していた。

「結局、人生で必要なのはこれだけだ。

 肩書き。数字。そして……金だ。」


 彼は今、詐欺師としての第二の人生を歩み始めていた。



『詐欺の巣へようこそ』

「皆さん、ようこそお越しくださいました。スマホはね、怖くないんですよ。“押す場所”さえ分かれば、AIが全部教えてくれます」

 壇上でマイクを握った神林は、誠実そうな笑顔を浮かべながら語った。目の前には30人ほどの老人たち。その中に、仕込みの“桜”が二人混じっている。

「先週、ここのサプリ試したらさ、朝の血圧が下がってねえ」 「私なんか、最近よく眠れるようになったんですよ」

 自然な声に、周囲の老人たちもうなずき始める。

「へえ……ほんとかい?」

 神林はそれを見て笑みを深くし、個別ブースへと誘導した。

 そこでは、スタッフが一人ひとりにアンケートを手渡していた。だが、その実態は“個人情報の搾取”だった。

「お一人暮らしですか?」 「はい。息子夫婦は東京で、私はずっとこっち」

 それを聞いたスタッフがタブレットに「Aランク」と記録する。彼らは、老人を3つの等級に分けていた。

 Aランク:持ち家、単身、資産あり。  Bランク:団地・軽度認知。  Cランク:家族同居、判断力あり。

 Cランクは使えない。彼らの名簿は後に名簿業者へと転売される運命だ。

「この名簿、健康布団とかシロアリ駆除の業者に売られるんでしょうね」 「まあな。どこかで“金に変わる命”はある」

 神林は静かに答えた。


 イベントから数日後。Aランク老人たちには、丁寧な封筒で“お礼状”が届く。

 その手紙の中には、こう書かれていた。 《無料資産相談会のお知らせ》

 自宅に電話がかかってくる。 「お元気ですか?先日はありがとうございました。実は、年金資産の守り方についての説明会を……」

 断る理由はなかった。彼らは“良い人に出会った”と思っていたのだ。

 数日後、市内のホテルの会議室。そこでは、年金資産を守るという名目の“詐欺セミナー”が行われていた。

「AIが寿命と支出を予測して、最適な資産運用を導き出すんです」

 神林は、未来を見通すかのような口ぶりで語った。

「年金だけでは不安でしょう?今ある資産を“守る”ための方法が、ここにあるんです」

 資料には《元本保証》《年利10%》の文字。信じてしまえば、あとは簡単だった。

「じゃあ……100万円だけ、お願いしてみようかしら」 「ね、私も……少し」

 申込書に震える手でサインを書く。

 一部の老人には、数週間後に「配当」として3万円が返ってくる。

「ちゃんと戻ってきたよ……この人、本物だわ」

 次は200万、300万と額が増えていく。

神林は、定期的に“運用報告書”という名の偽PDFをメールで送っていた。

 ある日、会社の登記代表がひっそりと別人へと変わる。  神林の名は、書類上から消えた。



『終焉の惨事』

──この国の片隅に、テルという名の老婦人がいた。

七十四歳。夫に先立たれ、ひとり郊外の古い一軒家に暮らしていた。かつては中小製造業の現場でパートとして働き、若き日のミスティの父が経営していた町工場で数年間勤めていた。

「テルさんは本当によく働いてくれる」

そう語ったのは、ミスティの父だった。まだミスティが中学生の頃、彼女が工場に遊びに行くと、テルはいつもポケットから飴を取り出してくれた。笑顔を絶やさぬ、あたたかな女性だった。

ミスティの父が自殺し、会社が破綻したとき、テルは無言で工場を去った。 その後すぐ、テルの夫も病で他界。年金とわずかな保険金での生活が始まった。

──テルが60歳、ミスティが18歳のことだった。

それから15年。 アメリカで経済学を学び、投資銀行で経験を積んだミスティは、日本に帰ってきた。 テルはそのとき75歳。

そして──76歳で、神林の詐欺にかかった。


ある日、新聞の折込チラシに目を留めた。「スマホ教室&無料健康相談」「参加者全員に卵1ダース進呈」。

友人に誘われ、テルさんは地元の公民館へ向かった。そこにいたのが──神林の社員たちだった。

「こんな簡単にスマホが使えるんですね」「目が見やすくなるサプリもあるんですって」

巧妙に仕込まれた“桜”の声。やがて彼女は、“無料お試し”の健康食品を購入し、そのまま“サブスク型健康維持プラン”に誘導された。

それは氷山の一角だった。

担当社員は、彼女との何気ない会話の中で、 「ご家族は一緒に住まわれてないんですか?」 「庭に畑があるんですね。手入れ、大変じゃないですか?」 などと、巧みに資産状況を聞き出した。

テルはその後、神林の会社の“上級向け特別投資説明会”に招かれる。 「信頼できる方だけにご案内してるんです」 そう言われたとき、彼女は少し誇らしく感じていた。

──そして、運命の一言を聞いた。 「未来の技術に投資しませんか? 国の後ろ盾がある、新しい“善行通貨”です」

500万円。いや、700万円。最後は、夫の遺した保険金1000万円のほとんどを、“神アプリ”に投入していた。

だが、配当は一度も届かなかった。

仮想通貨による配当制度──配当と称されたのは、ウォレットに表示されるデジタル数値のみ。 「今は円に換金すると損です」「せっかく10%の利回りが出てるんですから、もう少し追加投資しませんか?」

円に戻させない口実だけが、彼女の周囲を埋め尽くしていた。

最初に担当した社員の番号は繋がらず、会社に電話をしても「現在の担当者に代わりました」の一点張り。 神林の会社は、第三者的な体裁を取った幾つものペーパーカンパニーに資金を移し、テルのような老人たちの痕跡を消していった。

数ヶ月後、彼女の姿は近所で見られなくなった。 庭の花は枯れ、郵便物だけがポストに溜まり続けた。

──彼女の本名は報道されなかった。 ──だが、ミスティはその死を知っていた。

「テルさん……」 ミスティにとって、テルは父と同じ存在だった。

ミスティは、神林の手の届かない深淵から、“地獄への片道切符”を用意し始めたのだった。



『詐欺師の黄昏』

早朝5時30分。

 まるで誰かが、背後からそっと覗き込んでいるかのような──

ぞくり、とした悪寒が背骨を駆け上がり、神林は呼吸が浅くなるのを感じた。

だが振り返っても、薄暗い事務所には散らかった書類と稼働中のモニターが光を放つだけ。

「……気味が悪ぃ」

無理やり肩を回してその感覚を振り払うと、机の上のカップに手を伸ばした。

──ちょうどその頃。

神林のオフィスビルを取り囲むように、複数の覆面車両がゆっくりと滑り込んでいた。

黒い服に身を包んだ刑事たちが無線で小声をやり取りし、各階段、非常口、裏口へと散っていく。

神林はふと、胸騒ぎを覚え、隣のモニターへ目をやった。

そこには防犯カメラの映像が並んでいる。

──このビルの防犯カメラは、神林が自ら設置したものだった。

わざと目立つ位置に1台据え付け、警察や探偵まがいの視線を釣る。その陰で、本命の4台を死角に忍ばせていた。

だが。

カメラに映ったのは、制服姿の男。

4台中、3台の映像に警察らしき影が映っている。

「……がさ入れか。」

神林は低く息を吐いた。

逃げようにも、もう出口はない。非常階段も、裏口も、プロらしくすべて押さえられている。

「さすが……手際がいいな。……俺もここまでか。」

そう観念し、椅子に深く腰掛け直した。

──だが、時間だけが過ぎていく。

神林のオフィスは静まり返っていた。


 午前5時過ぎ。

 まだ街が眠る時間帯に、東京都内のある署の捜査会議室では刑事たちが慌ただしく動いていた。

 机の上には分厚い捜査資料。そこには「特殊詐欺」「資金洗浄」「合同会社ライフ・プロビデンス」──そして大きく赤字で囲われた名前。

 《神林サトル》

 「裁判所から家宅捜索令状、出ました。」

 若い刑事が息を切らしながら報告した。

 「6時ちょうどを目処に突入します。」

刑事部長は黙って一度だけ頷くと、低く重々しい声で無線に告げた。

「くれぐれも派手にやるな。……いいか、対象はただの詐欺屋だが、その向こうに“大者”が控えている可能性がある。

もし何か一つでも証拠を押さえれば──その先は公安の仕事だ。俺たちの役目は、そこまでだ。」


「……いいか、下手に刺激すりゃ、本命に証拠を潰される。まずは確保だ。ただし……荒事だけは絶対に起こすなよ。」

無線越しに低く押し殺した声が響く。刑事課の課長だった。

その場にいた捜査員たちは、一瞬だけ顔を上げる。小さな電波音が、緊張を孕んだ空気を細かく震わせた。

「まずは神林だ。地銀への不正送金を探る名目があれば、任意でいくらでも入り込める。……あいつを落とせば──地銀は勝手に崩れる。」

課長は言葉を切ると、一拍の静寂を置いてから、指先で机をコツコツと軽く叩いた。

小さな音が、緊張に沈んだ部屋の空気に鋭く響いた。

その声は、すでに獲物を仕留める算段をつけている者のものだった。

誰も軽く返事をしない。ただ、隊列の中に張り詰めた緊張だけが走っていた。

 令状には、捜査員の署名と裁判所の許可印がしっかりと押されていた。

 日本では、原則として家宅捜索は裁判官が発付する令状なしには踏み込めない。だからこそ、刑事たちはこの紙一枚に全てを預けていた。



『霞が関』

夜、霞が関。

合同庁舎第4号館の9階。

廊下には無機質な蛍光灯が並び、深夜にも関わらずスーツ姿の職員が静かに行き交っていた。

司法記録部電子記録審査課。

ここは、警察や検察からの令状請求や差押申請を電子管理する部署だ。

数年前に導入されたシステムによって、

こうした申請は紙から完全にオンライン化され、電子署名で処理されるようになった。

狭い事務室にはデスクトップが何台も並び、

ファンの小さな音が夜の静寂を埋めている。

女性事務官は無言でモニターをスクロールしていた。

画面には、警視庁から送られてきた家宅捜索差押の請求データが映し出されている。

請求番号、資金ログ、関係人物コード──

白い数字と文字が整然と並ぶだけだが、

そこには人間の生活を破壊する決定が詰まっていた。

彼女は静かに承認ボタンをクリックした。

画面に緑色の電子印が灯る。

一瞬だけ瞳が揺れたが、その感情はすぐに沈む。

そっと脇に置いていた私用スマホを手に取る。

打ち込むのは、ただの数字列。

だがそれは、この国の司法を先読みし、

資金を動かす者たちにとって、最も価値のある情報だった。

窓の外の霞が関は、夜でも淡い光を放ち続けていた。

誰が何を失おうと、何も変わらない顔で。



 『吉峰調査事務所』

がさ入れ前日19時。

吉峰は椅子を回転させながら、受け取った通知を見て細い笑みを浮かべる。

「やはり、来たな。神林サトル……」

机の上の電話機に手を伸ばす。

短いプッシュで繋がった先は、シンと静かなマンションの一室。

「──ミスティさん。吉峰です。警視庁が動きます。司法記録部から出た確定情報です。

おそらく家宅捜索は48時間以内。令状は明日朝6時に実行段取りでしょう」

しばしの沈黙。

電話の向こうで、紅茶のカップを置くかすかな音がした。

「……ありがとう。いつもの口座に、成功報酬を入れておくわ。」

声はいつも通り、やさしく滑らかだった。



『島内の苛立ち』

がさ入れ前日19時30分。

繁華街の奥暗いビルの最上階にある応接室で、島内は一本の電話を受けていた。

「……ミスティか、今度は何だ?」


電話を切ると、島内はソファに投げ出した体をゆっくり起こし、重々しく吐息をついた。

「……地銀が崩れりゃ、こっちに火の粉が飛んでくる。」

立ち上がってスーツの皺を整えると、スマホを取り出し画面を睨む。

「チッ、大野のツケ払いが回ってくるとはな……選挙前に何やってくれてんだよ」

画面には “大野選挙管理担当” の名前。

ワンコールも鳴らぬうちに、電話は繋がった。

「……ああ、オレだ。例の地銀の件だがな。

警視庁が本格的に狙ってる。

向こうが持ってる証拠がどこまでか分からねえが……マネロンの迂回資金にまで火の粉が飛びかねねえ」

一瞬の間。

「──分かりました。伝えます。」

電話の向こうの男は、低く短くそう答えた。

かくして、神林サトルを捕えるために進められた警視庁の捜査線は、

知らぬ間に別の巨大な手によって迂回され、

それは次の段階──もっと深く、もっと危険な領域へと流れ込んでいく。

物語は、誰も知らない場所で音もなく動いていた。


『別途検討』

 午前6時を数分過ぎた頃。

神林のオフィス近くに、覆面のクラウンが数台、静かに路肩へ寄せた。

そのさらに1時間ほど前──

実働部隊はすでに別所に集合し、装備点検と最終確認を終えていた。

付近に点在する張り込み班が、現場の出入りを監視しながら突入のタイミングを待っている。


「よし……6時ちょうどを狙うぞ。」

班長格の刑事が低く指示を出し、無線が短く応答する。

 ──だが、その瞬間。

 署に詰めていた担当班の刑事に一本の電話が入る。

 「……はい? 捜査の延期ですか?」

 青ざめた表情で電話を切った刑事が、上司に振り返る。

 「……本部から指示が下りました。『この件は、別途検討するため一旦待機せよ』と。」

 その場に、気まずい沈黙が落ちた。

 令状はある。証拠も揃っている。それでも──警察は引いた。



『閉幕』

もし突入してきたら、一瞬で首根っこを掴まれる。

──それは神林自身、よく分かっていた。

だが──

どれだけ待っても、誰も上がってこない。

壁時計の秒針が、やけに大きく響く。

「……何を……待ってやがる……?」

唇を湿らせるように呟いたそのとき、

モニターのひとつに映っていた覆面車両が、ゆっくりと動き出した。

一台。

また一台。

裏口に配置されていた刑事たちも、

何事もなかったかのように順々に散っていく。

やがて、どのカメラにも、誰一人映らなくなった。

「……撤退……?」

神林は額に滲んだ汗を拭った。

思わず大きく吐いた息が、肺の奥をひどく焼く。

──助かったのか?

そう思いかけた瞬間、ぞくり──と背筋を走る悪寒に襲われた。

背骨を冷たい爪で撫でられたような感覚。

がらんとした外。

そこに誰もいないという、それだけで異様に恐ろしかった。

「……気味が悪ぃ……」

無理に首を回し、肩をぐっと何度も上げ下げして悪寒を追い払おうとする。

──そして、時計の針が7を指した。

静まり返ったビルに、コツ……コツ……と、

ハイヒールの音が響いた。

神林は即座に机の上に手を伸ばし──

そこに置かれた銃に指先が触れた。

だが、その手を止めた。

刹那の逡巡。

次の瞬間には、ゆっくりとドアが開いていた。

そこに立っていたのは──

長いブロンドの髪を持つ女。

ミスティ・ルナバード。

「おはよう、神林サトルさん。」

その声は驚くほど柔らかかった。

しかし同時に、吐息に似た冷たさを含んでいる。

背筋をそっと撫で上げてくるような、不気味な涼しさ。

神林は声を失ったまま、硬直して彼女を見つめた。

──警察は何も掴めずに帰ったわけじゃない。

いや、最初からこいつに“引き渡す”つもりだったのか……!

そう悟った瞬間、神林の全身から血の気が引いていく。

脈が遠くなる。

鼓動がどくりどくりと重く鳴る。

ミスティはふっと唇に小さな笑みを浮かべた。

「良かったわ。ちょうど、あなたとお話ししたかったの。」

そのハイヒールが、一歩。

さらに一歩。

静かにこちらへ近づいてくる。

──ぴしり、と事務所の空気が張り詰めた。



『魔王降臨』

神林にとっては、まさに魔王の降臨だった。

もう神林に味方などいない。

ただ冷たく、背後からそっと肩を押してくる闇があるだけだった。

長いブロンドの髪、薄く笑う唇、透き通るような白い肌、そして何より、知性を宿しながらも凍えるほど冷たい青い瞳。

「……あ、あんた、誰だ?」

神林は喉をひくつかせながら問いかけた。

「ミスティ・ルナバード。投資家──そう呼んでくれて構わないわ。」

その声は驚くほど柔らかい。

だがその視線は、神林の胸の奥を刃物のように撫でていく。

「……俺に、何の用だ?」

「“逮捕は解決した”って思ってるでしょう?」

「……っ」

神林は喉を鳴らした。

確かに警察は去った。だが、誰がどう動いたのか、神林にはまるで見当がつかない。ただ、背後に何か恐ろしく巨大なものが蠢いている気配だけがあった。

「安心していいわよ。今回の件は──全部、私が処理したの。」

「……は?」

「あなたが警察に捕まらなかったのは、全部、私の計画通り。」

神林の顔色が、みるみるうちに青ざめる。

「な、なんだそれは……冗談じゃ──」

「冗談じゃないわ。」

ミスティはふわりと歩み寄り、神林の顎にそっと指を添えると、ためらいもなくその顔を上へと向かせた。

「あなたはこれから、私の“駒”になるの。」

神林の瞳が恐怖で見開かれる。

「嫌?──でも、もう遅いのよ。今から電話が来るわ。出て」

神林は息を呑んだ。

机の上に置かれたスマホが、小さく震えている。

「……?」

画面には“未接続”の表示。どうやら着信は既に切れていた。

神林は恐る恐るスマホを手に取り、

指紋でロックを外す。

通知欄には、一つの着信履歴。

 ──【地銀頭取】

神林の心臓が一拍遅れて脈打つ。

(……どうなっているんだ……)

手が勝手に留守電アイコンをタップした。

 《……もう連絡はするな。俺たちは全部切った。分かるな?》

短く、吐き捨てるような声。

その一言に、神林の体から血の気が一気に引いていった。

スマホを握る手が震え、そのまま膝から崩れ落ちそうになる。

肩が小刻みに震え、額に滲んだ汗がぽたりと落ちた。

「これで分かったでしょ。……あなたには、もう私しかいないの。」

ミスティは微笑みながら、まるで愛おしむように神林の髪をそっと撫でた。

「これからは、私の望む通りに動いて。……そうすれば、生き残れるわ。」

その声は蜜のように甘かった。

だが、底には氷のような冷たさが潜んでいる。

神林は何も返せなかった。

ただ息を荒くし、恐怖に濡れた額を手で覆う。

(……もし俺がこいつを裏切れば、次は即座に逮捕だ……)

その夜から、彼は自由を失い、別の意味での“終身刑”を生きることになる。

そしてミスティは──

何もなかったかのように、薄い笑みを残し、朝の街へと静かに溶けていった。



『邪神の覚醒』

神林は、今度こそ本気だった。

 これまでの老人向け詐欺や、ガチャ課金の寄せ集めとは違う。

 自分の強み――AIのロジック、予測、構造化、その全てを注ぎ込み、まるで狂気のように研ぎ澄ませていた。

 小さな会議室に、複数のスーツ姿の投資家が静かに並んでいた。

 机上には水のグラスと配布資料だけが置かれ、息苦しいほどの緊張が空気を支配している。

 その前に立つ神林サトルは、タブレットを片手にゆっくりと口を開いた。

「いいですか?」

 声は穏やかだが、その奥には奇妙な熱があった。

「このアプリはただの仮想コインアプリではありません。

 人間が夢中になる仕組みを、徹底的に詰め込んであります。」

 神林はタブレットを操作し、スクリーンに複数のグラフやシミュレーション動画を次々と映し出す。

「まずは、小さな目標を設定し、すぐに達成できる課題を並べる。

 これだけで利用者は簡単に達成感を得られる。

 さらに、不定期なボーナスを組み込むことで、次の報酬を常に待ち望む心理が働くんです。」

 階段状に進む進度ゲージを指でなぞる。

「進捗は視覚化されています。目に見える形で階段を上るように達成感を積ませ、

 難易度は少しずつ上がるから、決して飽きることはありません。」

 そこまで言うと、一拍置き、薄い笑みを浮かべた。

「……重要なのは、決してすべてを完了させないこと。

 常に“未完了”を残すことで、利用者の脳は続きを求め続けるんです。」

 スクリーンには“ツァイガルニック効果”の文字が映し出された。

 次のスライドに切り替わると、SNS型の画面が広がった。

 利用者同士がメッセージを交わし、ランキングが並ぶ。

「極めつけは、社会的な繋がりです。

 他人の視線があるだけで、人の行動はまるで別物になる。

 仲間やライバルを可視化するだけで、もう止まらない。」

 最後にタブレットを軽くタップし、マイナンバーと連携した未来構想のシンプルな図を示した。

「そして――

 将来的には、このプラットフォームをマイナンバーに紐付ける。

 そうすれば、国民一億二千五百万人が、自分からデータを預け続ける構造が完成するんです。」

 神林は目を細め、小さく息を吐いた。

「自分の“未来”を知りたい――ただそれだけで、誰もが行動ログを提供し続ける。

 これは単なるアプリじゃない。

 社会インフラです。間違いなく、次の時代を築く中核になる。」

 つまり、これは――

 「人間が、自分で選んだと錯覚する依存。」

 神林は詐欺師という皮を脱ぎ捨て、いよいよ別の怪物になろうとしていた。


「……愚かね、神林サトル。」

 ミスティ・ルナバードは、高級ホテルのラウンジで一人、薄いワインレッドの液面を静かに揺らしていた。

 外には夜景。ビル群の光は小さく瞬き、まるで彼女の瞳の奥に潜む冷たい計算を模しているかのようだった。

 テーブルの上のノートPCには、神林のPCに仕掛けた遠隔監視のデータが、無機質に、淡々と流れている。

「人は、自分で選んでいると思い込みたい生き物。

 でも実際は、用意された選択肢の中を徘徊してるだけ。」

 その声には、ぞっとするほどの冷たさと愉悦が入り混じっていた。

「……ねえ、神林。あなたが作ったのは“自由”じゃない。

 それは“檻”よ。」

 ワイングラスをゆっくりと回すと、液面に反射した光が、冷たい青い瞳を一層冷たく見せた。

 そこには、すべてを理解しきった者だけが見せる薄い微笑があった。











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