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8.「夜更けの☆湿地ラバーズ」


 眠いのに眠れない。

 そろそろベッドに移動しなくちゃ……ああそっか、いいんだ。明日は日曜だった。


 ソファの上で電気毛布を首まで引っ張り上げながら、三日はじっと天井を見つめていた。


 最後に『IGNIS』に行った日から、ちょうど二週間。今頃、紅輝の周りには人が集まって、バースデーイベントが続いているはずだ。今日はイベント二日目。明日は最終日――。

 

 ふぅー、と今日何十回目かのため息をついて、三日は寝返りを打った。

 結局、何の覚悟も決められなかった。

 私の愛は所詮この程度だ。

 

 出会ってから毎日届いていた紅輝からの他愛もない雑談メッセージも、最後に『IGNIS』を訪れた日を境に、途絶えてしまっている。

 

 (……他の姫とのやり取りに忙しいのかな。彼女たちの売上、私の五十倍だもんね)


 三日はまた、ため息をついて目を閉じた。

 まぶたの裏に、紅輝の輪郭が白く浮かび上がる。

 その面差しは像を結ぶにつれて黒く反転し、急激に膨張した。わっと襲いかかってくるようでもあり、遠くへ消えていくようでもあって、頭がくらくらした。

 

 ――紅輝はまるで黒い太陽だ。

 あまりに強烈な引力で、身動きが取れない。

 

 彼がわずかに首を傾げただけで、

 軽く眉を寄せただけで、


 私だけが、彼の暗さに招かれている。

 私だけが、彼に特別に期待されている。

 

 そう信じるようになっていった。

 

 (これがホストにハマるってことなのかな……)

 

 急にぶるりと冷えを感じて、三日は電気毛布のコントローラを手繰った。指先の感覚で温度を上げ、ついでにソファ脇のクッションスツールに置いたスマホを手探りで引き寄せる。

 

 紅輝のバースデーイベントについて何か情報が上がってないかと、ロックを解除した。見たいような、見たくないような気持ちだ。

 

 ホーム画面を見て、三日はぱちりとまばたきをした。決済アプリのアイコンに、めずらしく通知バッジがある。アプリを開くと、入金を知らせるメッセージが表示されていた。


『日高真一さんから50,000円を受け取りました』


「五万円?!」


 思わずガバッと上体を起こし、両手でスマホを握り直した。自分の目が円マークになってやしないかと思いつつ詳細を開くと、メッセージ欄にこんな記載があった。


==================

[内訳]モニター料3万円/追加セッション料1万円/迷惑料1万円

==================


 (迷惑料??)

 

 反射的に指が動いた。入金確認のテンションそのままに、三日は時刻も気にせず、真一にメッセージを送りつけていた。



三日:『バイト代確認した!結局くれるの?助かる!』

   『次のセッションいつ?』

   『迷惑料ってなに??』



 送信するとすぐ画面が切り替わり、着信音が鳴った。真一からだ。三日は慌てて応答ボタンをタップした。

 

「もしもーし」

 

「……あ、俺」


 三日はうん、と返事をして、真一に次の言葉を促した。


「あのさ、AI紅輝の件だけど……」

 

 言い淀む気配に、三日は「うん?」と眉根を寄せた。

 

 入金の詳細をもう一度表示させると、やはり『迷惑料1万円』の文字が気になる。


 

「やっぱなしにしてくれ。だから次のセッションも……なしで」


 え――っ?!

 

「なんでっ?!なんでなんでなんで?!」

 

 思った以上の大声が出た。

 ――やっぱり。迷惑料って、そういうことか。


 耳元で叫ばれ、『うるせーな』と渋面を作っているであろう真一の姿が目に浮かぶ。苛立ちを抑えているのか、返事がない。

 

 三日のほうでもとっさに言葉が出なかった。肩からずり落ちそうになる毛布を引っ張り上げながら、窓のほうを見る。いつ降り出したのか、かすかに雨音がしていた。


 しばらくの沈黙のあと、真一の低い声が響いてきた。


「……ひとつ確認したいんだけど」


 三日は気の抜けた声で返事をした。


「なに」


「お前の希望通り、紅輝そっくりのAIがいたとしてさ――お前はそれで、あいつから離れられるの?」

 


 真一はデスクに肘をつき、スマホを耳に押し当てながらじっと三日の返事を待った。

 彼女が思いを巡らせている気配が、かすかな息遣いで伝わってくる。


 沈黙は長く感じられた。そのあいだ遊ばせた視線がモニターに流れると、そこには三日の姿をしたアバターが映っていた。

 先ほどまで行なっていた検証そのままの姿勢で、ソファに腰掛けているこの“ミカ”を作ったのは、何日前だったか。

 “彼女”が周囲を見回して首を振る様を見つめるうち、目の奥の鈍い痛みに呼び覚まされるように、この数日のことが思い返された。

 

 ――AI紅輝の不気味さが頭から離れず、即席の“AIミカ”を組み上げたのは六日前のこと。“紅輝”が三日にどう反応するかを事前に確かめておく必要があったからだ。

 “ミカ”の外見の再現度は上々だったが、それゆえに、本人らしくない言動が妙に気に障った。

 調整のつもりで会話を続けるうち、先ほど電話で発した際どい質問――『紅輝そっくりのAIがいたとして……』が口をついて出てしまった。それから、こんな余計なことも言った。

 

『お前とあいつは、ハッピーエンドにはならないぜ?』

 

 するとAIミカは驚いた素振りを見せつつ、流れるように真一の膝に乗って、両腕を首にまわしてきた。『私と真一なら、ハッピーになれるの?』と上目遣いで小首を傾げる。


 真一としては、『話が早いぜ!』と指を鳴らすでもなく、かえってどっと脱力した。さっきまで似ていた顔も、もはや別人に見える。


 空虚なその姿はかえって、頭にとどまる“紅輝”の異様さを際立たせるばかりだった。一週間前、“三日”の胸に手を沈め、心臓をまさぐるように動かしていた、あの挙動――。

 ついでに作った“ミカ”の不出来はいいとしても、“紅輝”のほうは剥き出しの危うさが妙に生々しい。片方は浅く、もう片方は偏って深い。

  

「危ないな」――考えるより先に、真一は唇だけで呟いていた。この一週間を振り返り、何が危ない、と自分に問う。


 (成果物が手に余ることが?あるいは強行突破しようとしたことが?それとも――)

 

 真一はモニターをじっと見つめた。

 

 (こんなものを三日に近づけるわけにはいかない。必要なのは再現度よりも制御か……という反省が?)

 


 うつむいた真一の耳に、ボソボソと三日の声が聞こえてきた。


「……だって」


 はっと顔を上げ、だって?と彼女の言葉を繰り返す。


「紅輝に呑み込まれそうでさ……なにかつかまるものがほしい、っていうか……」


 三日の口から出た“紅輝”の名前に、胸を引っ掻かれるような苛立ちを覚えた。いちいち過剰に反応してしまう自分にも腹が立つ。だがそれ以上に、“ミカ”にあっさり受け入れられた問いにリアルな答えが欲しくなった……いや、現実を突きつけてやりたい、そう思った。

 うつむいて髪に指を突っ込むと、真一は睨むようにモニターに目をやった。


「お前とあいつは、絶対にハッピーエンドにはならないぜ」

 

 AIに向けたときより、わずかに語気が強まったが、少しの間を置いて返ってきた声は、意外に落ち着いていた。

 

「……どうしようもなくてさ」

 

 スマホの向こうで、背中を丸めてうつむく三日の姿が目に浮かぶ。それは以前、『IGNIS』で何度か見かけた彼女の姿だった。諦めたような、寂しそうな、恥ずかしそうな、見る側に何かしら軽侮の念を起こさせる、そんな姿だった。

 

 どうしようもないから、離れられない。

 

 彼女は全身でそう語っていた。

 しかし以前なら横目でやり過ごしていたそんなつぶやきも、今は妙に響いてくる。真一は椅子の背にもたれ、電話の相手に聞こえないように、小さく息を吸い込んだ。

 

 そうだな、俺もどうしようもない。

 

 あやうく共感の言葉を吐きそうになったとき、耳元にふふ、という息遣いを感じた。吸い込んだままの息が止まる。


 ……なんだ今のは?

 

 足元に細くひびが入った気がした。


 (笑ってる……?いま、ここで?)


 視線を下げると、スマホを持つ左手がわずかに耳からずれた。

 

 ……この気配は、あのときと同じだ。


 あの夜の黎の、俺を素通りして紅輝を追ってゆく陶酔の笑い――。


 その瞬間、真一の腹の底でくすぶる燃えさしが赤くはぜた。スマホを握る手に力が入り、指先が白くなる。ヒュッと喉が鳴るのを聞いた時にはもう、口走っていた。



「俺にしとけよ」

 

 

 小さく息を呑む気配が、三日のものか、自分のものなのか、一瞬わからなかった。

 

「…………」

 

 自分の声が電話の向こうに吸い込まれたのかと思えるほど、彼女は黙り込んでいる。


 真一は額に拳を当て、会話の糸口を探すように視線をさまよわせた。床に転がったダンベル、寝起きのままのベッドのシーツ、デスクには残量の少なくなったペットボトル、壁のホログラムクロック。薄青い文字は23時05分を示していた。

 

「まだ十一時だな……」独り言のように呟いて、白い壁の時刻を見つめながら意味なく一拍待ってみる。

 彼女があの顔を向ける先に、自分はいない――そう思うと、苦く頬が引き攣った。この沈黙も長く続きそうだ。

 

「……じゃあ、またな」


 やや投げやりにそれだけ言って、通話を終えた。

 

 椅子をぐるりと回してデスクに突っ伏し、湿った砂のように重い頭を腕の中に入れると、「疲れた……」とため息が声になって出た。しばらくはジーッという耳鳴りだけが頭の中に満ちていたが、通りの雨音が少し強まってそれに重なるうち、次第に意識が体から離れていく。


 ――俺にしとけよ。


 本当に自分の口がそんなことを言ったのか……実感がない。考えるほどに、記憶もあやふやになってくる。

 

 だが、耳に残るあの息遣いは――。


 腕を動かした拍子に肘がキーボードをかすめ、スリープ中の画面がパッと明るくなって真一の顔を照らした。見れば監視モニターには、まだ稼働中のテストルームが映っている。真一のアバターは非表示のまま、AIミカだけがソファに座ってオレンジジュースのグラスに手を伸ばしていた。


 ぼんやり動きを見ていたら、手元のスマホが短く振動した。

 真一はダルそうに腕を顔の前まで持ち上げ、画面を確認した。

 

 

三日:『チッ(スタンプ)』


 チッ?

 一瞬見間違いかと思ったが、見つめるうち頭の回路が繋がってきた。ネコが毛を逆立てている。チッと舌打ちをしている。目が血走っている………不合理だ。

 

(……チッだあ?! チッじゃねーだろ!どういう神経してんだ、お前は。スタンプ買い直せ、まったく……)

 

 脳内で毒づきながら、真一はもう一度モニターを見た。テストルームでは、“ミカ”がオレンジジュースを飲んでいる。


 真一は、崩れそうになる頬杖に頭を預けて呟いた。

 

「……なぁミカさん。いったいこの世でホス狂を好きになる男なんているのかね?」

 

 一瞬口元からストローを外し、虚空に向かって微笑むAIミカを見つめたまま、真一はシステムメニューの『ログアウト』に触れた。

 


 通話を終えた三日は、ソファで毛布にくるまりながら長い間ぼんやりと固まっていた。


 

 ――俺にしとけよ。


 

 聞き違いだったろうか……いや、確かにそう言っていた気がする。けれどそれは、どういう意図だろう。記憶に留めていい言葉なんだろうか……。何度考えたところで、頭の中は洗濯機みたいにただぐるぐる回るだけだ。そもそも答えがないのだから。

 

 はぁ、と大きく寝返りを打った拍子に、壁に立てかけてあった通勤カバンが目についた。ぼんやり眺めるうち、少し強くなってきた窓の外の雨音が、記憶に触れてくる。

 

 ――あの夏の日暮れ、黒い大きな傘を差し掛けて、私を抱きしめてくれた、あの温かさ……。

 

 突然、心の奥からゆらりと声が立ち上がった。

 

 彼を見捨てちゃいけない――。

 

 ドクンと心臓が鳴る。引き寄せられるように毛布を脱いで立ち上がると、花冷えの部屋の空気が、体のまわりにたまっていた体温をやんわりと持ち去っていく。

 壁際にしゃがみ込んでカバンを開け、内ポケットから取り出したのは小さなスウェード調の巾着だった。


()()を返して、彼と決別する……?そんなのできっこない)


 三日はその小袋を両手で包み込むようにして、スウェードの手触りを確かめた。きつく引き結んだ撚り紐は、受け取ったその日から一度も開けていない。


 雨音が一瞬バラバラと強まった。振り向くと、わずかなカーテンの隙間から街灯の明かりがにじんで見える。雨に濡れたベランダの手すりが、窓越しに黒く浮かんでいた。三日はしゃがんだまま、じっと目を凝らした。


 ――彼はきっと、私が壊れるのを待っている。

 二人の間にある深い淵を越えるのは、私の役割なんだ。


 そんな焦りにも似た思いが、心の底でインクのように広がっていく。

 

 底冷えする部屋の片隅で、はあぁぁぁ……と重いため息をつき、巾着をカバンの奥に戻した。


 俺にしとけよ――


 その声がしつこく現れては、質量をもって胸に寄りかかってくる。

 三日はしゃがんだまま頭を振り、ソファに置いたスマホに手を伸ばしてメッセージアプリを開いた。動揺をごまかすように、冷たくなった指先で威嚇する猫のスタンプを送信する。

 


 そしてベッドに潜るとぎゅうっと目を閉じ、初めて『IGNIS』に足を踏み入れたあの夜に、意識を向けた。

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