7.「い・け・な・い衝動☆闇を駆ける!」
エアコンのモーターが低く唸り続けている。
照明を落とした部屋で、卓上ライトの淡い光がキーボードに曖昧な影をつくっている。
部屋の乾燥がひどく、喉の奥がヒリついている。
それでも、水を取りに行く気力すら湧かない。
重力が二倍になったかのように、真一は深く椅子に沈み込んでいた。
(今、何時だ……)
スリープモードのモニターの前で、同じ姿勢のまますでに数時間は経っている。
だが時間を確認することもなく、真一は再び目を閉じた。
彼の頭の中では、先ほどの黎とのセッションが飽きることなく再生され続けていた。
――あの、恍惚とした表情。
イメージするたびに、色彩も体温も増していく。
雨の中に、待ち人を見つけて上気した頬。
破綻を知りながら、悦びに拘束されて狂った瞳。
虚しさを認めまいとする強情さの奥で、抑圧を陶酔に変えて笑う、艶やかな唇――。
心の奥を掴んで離さない何かが、真一の鼓動に合わせて静かに脈を打ち始めていた。
(もう一度あの顔が見たい……)
情景を何度も思い返すうち、雨の中に黒い影が姿を現した。それは黎に近づき、じっと見下ろしていた。
黎はその影に震える指でつかみかかり、縋るように何かを訴えた。
(紅輝……)
真一の唇が、無意識にそう呟いた。
やがて黎の姿は三日へ、黒い影は紅輝へと姿を転じ、その実体を露わにしてゆく。
二人は息をひそめるように抱き合っていた。
三日の顔は、こちらを向いている。
真一はじっと目を凝らした。
(よく見えないな……)
じれる思いで意識を集中するが、三日の顔は溶けた樹脂が流れて冷えて、固まったように歪んで見えた。
口元には笑ったような肌色の痕が残っているだけで、そこに表情と呼べるものは見当たらない。
もどかしさに耐えきれず、真一はソファから身を起こした。
重い身体をわずかに動かした一瞬の隙に、気がつけば彼女は、自分の腕の中にいた。
(三日……)
喉まで出かけた名前は声にならず、焦りを感じた真一は彼女の頬に手をかけた。
その瞬間、彼女はハッと目を見開き、身を固くして後ずさった。
逃げ出そうとする彼女の腕を真一は反射的に掴んでそのまま、躊躇なく頬へ指を伸ばす。
するとたちまち、彼女は土塊のように床へ崩れ落ち、その形は跡形もなく消え去った。
乾燥した自室へ意識が戻ると、マウスの横で、指先が知らずにコツ、コツと机を打っていた。
顔を見せないまま消えた彼女の感触が、腕の中に残っているようなこの錯覚――
滲むような願いと焦燥が、臓腑の奥から突き上げてくる。
(紅輝を転写した存在を作れば……それを彼女にテストさせれば――)
密かな願望が形を取るにつれ、自分の中に育ってくるのが恋情なのか欲情なのか、庇護欲なのか支配欲なのか、真一にはもはや区別がつかなくなっていた。
俺の創ったAIがあいつを導く――。
彼女の自由な選択を損なわず、
彼女の依存心を満たし、
彼女の願いを叶える“存在”として。
いつしか、そんな考えが頭を離れなくなっていた。
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# raise DoubtError
# ――待て。彼女の最善を知らない自分が、一体どこへ彼女を “導く” というのか
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些細なバグが、頭の中でエラーを引き起こした。
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# except DoubtError as bug:
patch = self.justify(desire)
# ――少なくとも今よりはマシなはずだ
# apply(patch)
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修正コードは即座に実行された。
準備が整った真一は、強張った身体を軋ませながら、ゆっくりと身を起こした。
時計に目をやると、午前四時を少し回っている。
真っ暗な窓の外が、あと数分もすれば濃い紺色に変わる頃だ。
真一はマウスに手を伸ばし、スマートバーに『IGNIS 紅輝』と入力した。
パソコンの冷却ファンが、再び風切り音を立てて回り出す。
データ収集時のいつもの癖で、“ソーシャルマイニングAI” のアイコンに目を向けてしまう。
視線トラッキングが反応して、インターフェースが自動展開されると同時に、警告が表示された。
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『⚠︎ このリクエストは規制されています。
実在個人「IGNIS 紅輝」は、デジタル人格保護法第16条に基づき、AIプロファイリング処理が禁止されています。本人の明示的な認証がない限り、本機能はご利用いただけません。』
――――――――――――
真一は視線トラッキングをオフにして警告画面を閉じると、ネットに転がる紅輝関連のデータを片っ端から漁り始めた。
彼のSNS、動画アーカイブ、写真、ファンアート、イベント体験談――全て手動でローカルPCの暗号化ボリュームに保存していく。
そしてネット接続を切り、”ニューラルコア作成ツール” を起動した。それは旧式のオープンソース製人格モデル構築ツールなのだが、慣れの問題で、真一は今でも好んで使用していた。
保存したすべてのデータをツールに取り込むと、解析が始まり、表情、発話、感情、外装――それぞれに細かなタグが付けられ、階層ごとに分類された。
こうして、AI紅輝のベースとなる基本データセットが完成した。
真一はそのまま眠気も空腹も感じないまま、作業を続けた。
そのデータセットを ”3Dモデリングツール” にインポートして、一通りレンダリングされたアバターが出来上がる。さらに細かなリアルタイムレンダリングを経て、そこへニューラルコアを統合。
次に起動した瞬間――モニターの中には、真一をじっと見つめ返す“紅輝”がいた。




