7.「君は運命の初恋☆」
初めて『IGNIS』に足を踏み入れたとき、三日は強烈なストレスを覚えた。
普段なら近寄りもしないS駅にハルと20時に待ち合わせ、そこからネオンやライトが明るく輝く大通りを抜ける。
人間臭い喧騒が濃くなる路地を五分か十分歩いたところで、入り組んだ通りの角に現れたのは『IGNIS』と白く彫刻された観音開きのガラス扉だった。
タイル張りの地面はうっすら湿っていて、ライトアップされたガラス越しに見えるオレンジ色の照明は、三日を歓迎する迎え火のように揺れている。
ハルと二人、並んで通れるほどの階段を下りてフロアに案内されると、そこは思ったより広く、思ったより騒々しく、思ったより整っていて、思った通り暴力的に煌びやかな空間だった。
三十ほどの席は七割くらいが埋まっていた。空席の方が少ない。
三日は見える範囲をザッとチェックし、自分と同じようなファストファッションにスニーカー、通勤カバンの客を探した。
何人かはいるようだ。少しホッとするものの、居心地の悪さは変わらない。
入り口近くの席に通されると、黒服の説明はすべてハルに任せて、三日は落ち着きなく視線をあちこちにさまよわせた。
ほどなくホストが二人現れて、穏やかに会話を始める。十分ほど話すと、また別の二人が現れ、入れ替わり立ち替わり四回ほど繰り返された。
三日にとって意外だったのは、ハルと自分に対する接客の差があからさまだったことだ。
ホストたちの笑顔と会話のほとんどがハルに向けられ、三日は自分の存在が接客テストの課題のようだと思った。
自分がハルのおまけなのは分かるが、こんなにも扱いに差をつけては、ハルの不評を買ってしまうのが彼らには分からないのだろうか。
それに私が覆面調査員だったらどうするのだろう。ファストファッションに身をやつした富豪の可能性だってゼロとは言い切れない。
……いや、そんな「可能性ゼロの空想にすぐ走るような客は、売上げが見込めないから早めに切り捨てること」みたいなホスト接客マニュアルがあって、彼らはコスパにとても忠実な頭脳派、ということかも。
そんな理屈はともかく、ハルの美貌は三日の目にも際立って見えた。
金髪ボブにロシア人形のような顔立ち。それをオフホワイトのノースリーブワンピとコバルトブルーのサマーストールが引き立てている。
グラスを持つ細く長い指先にはダークモーブのネイルが艶やかに光って、その指先に視線を落とすホストたちの会話のきっかけになっていた。
三日は、次々とやって来るホストの全員がハルの美貌に目を奪われていく様を「うんw」とか「そうw」とか言いながら観察し、そうすることで身の置き場のない、自分の居心地の悪さが随分解消されることに気がついた。
よーく観察していれば、不意に無神経な攻撃を受けてもその出来事はあとで漫画の資料になる。
一応「俯瞰してます」というポジションを取っているのだから、気持ちの上では負けてないし、家に帰っても引きずらなくて済むだろう。
この調子で意識を外に向けてここを乗り切ろう。時間よ、早く過ぎておくれ。お願いします。
上目遣いで一人一人の顔を眺め、店の内装や響いて来るコール、客の様子をチェックする。
ハルと二人になった短い時間に、あーだこーだと小声で話しながら、最後の二人組を待っていた、そのとき。
黒い人影が三日の横を通り過ぎた。
「初めまして」
似たような黒っぽいシャツとジャケット姿のその男たちは露骨にハルの正面に立ち、明るい笑顔で挨拶を済ませる。そのうちの一人が「紅輝です」と名乗った。
その紅輝はもう一人のキャストにハルの正面の丸椅子を譲ると、自分は三日のそばにある丸椅子が目に入らないかのような素振りで反対側に回り込み、ハルの右隣に座った。
これには他の二人も少し驚いた様子で何か言いかけたが、紅輝のすました薄笑いに妙な圧を感じたのか、結局ハルも三日も、もう一人のキャストも「まあいっか」とスルーしてしまった。
相手の機嫌を取るような明るく優しいホストたちの笑顔は、主に彼らの近くに座るハルに注がれていたため、三日は無遠慮に彼らの様子を観察することができた。
(露骨で安っぽい接待場。逆に来た甲斐あったw)
ヒヒ、と笑う自分の顔を隠すように三日は両手でタンブラーを持ち、上目遣いで自分に一瞥もよこさないホストの愛想笑いを改めて眺めた。
そのとき、なにか小さな違和感を覚えた。
紅輝と名乗ったホスト。
ハルの向こう側に座って、穏やかにハルと話している彼の笑顔。
彼の顔には、何かもう一つ別の表情がある——。
三日はハッとした。
彼はこっちを見ている。視界の端で私を捉えて、「彼を観察している私」を見つめている。
「私を見ない」という視線で。「表情を変えない」という表情で。
三日は思わずタンブラーから顔を上げた。
そして、三日のその様子に紅輝が気づいたことを、三日はまた確認する。
彼が視線を合わせてこないのをいいことに、三日は気の済むまで彼の顔を凝視し観察した。
一方、隣でピッタリ動きを止めて紅輝を見つめる三日の様子に、ハルは意外な表情を浮かべた。
ふっと意味ありげな流し目で三日に合図を送り、「なるほど」と小さく頷くと、ひとり合点したように、ニコッと三日に笑いかける。
三日が、ん?と表情だけで応答すると、「ちょっと外すね」と耳打ちしてポンと肩を叩き、ハルは席を立った。
ハルの動きに間髪を入れず、紅輝はもう一人のキャストに目くばせをする。男はすっと立ち上がり、笑顔でハルの先に回ると、案内するように歩き出した。
(え、なに?!ちょっと待って。どこ行くの、私は……?!)
一瞬のことに立ち上がるタイミングも勇気もなく、三日は二人が手洗いのある方へ歩いていくのをいつまでもいつまでも……といっても十秒ほど、縋るように首を伸ばして見送っていた。
(ヤバい……)
やがて三日は見送りを諦めて、紅輝と目を合わせないように、自然な角度でうつむいた。
そしてゆっくりと体勢を元に戻そうとしてぎょっとした。
視界のすぐ右端に人影がある。
反射的にパッと身を引いてそちらを向くと、さっきまで二人分以上の間隔を空けて座っていた紅輝が、自分のすぐ隣に腰掛けていた。
ハルを見送っていた数秒の隙に、音も気配もなく移動して、紅輝は今、ぴったりと三日の右隣りに座を占めている。まるで、最初からそこにいたように。
彼は不機嫌そうな顔で腕を伸ばし、自分のグラスを手に取ると、中身を水のように飲み干した。
そしてほとんど減っていない三日の二杯目のジャスミンティーを、空になった自分のグラスに半分注いだ。
「さっきからうるさい蠅みたいに僕のことじろじろ見てるけど、値踏みは終わった?」
正面を向いたまま紅輝がそう言うのを聞いて、三日がしがみついていた俯瞰ポジションは爆風で吹き飛ばされてしまった。
(まずいまずいまずい……!!)
心臓がどっどっ、と音を立て始める。
(なにか言わなきゃ、なにか上手く返さなきゃ)
焦り過ぎて、声も出ない。まして名案など浮かぶはずもない。どうしよう……!
とりあえず勇気を振り絞って、半分になったジャスミンティーのグラスに震える手を伸ばした、その瞬間。
三日の手がパシッと捉えられた。
え、と横を見るより早く、紅輝は掴んだ彼女の手をそのままソファに押さえつける。
——?!
三日は緊張で全身が固まった。頭が真っ白だ。恐ろしすぎて「すみません」という言葉しか思いつかない。
(グラス間違えた? 恫喝始まる? どういう状況? 相手の出方が分からない。意図が読めない……)
身体を強張らせつつも、ギチギチ音が鳴りそうなくらいぎこちなく、やっとの思いで隣の紅輝の顔を見た。
「まったく、傷ついたよ」
そう言って紅輝は微笑んだ。
始めて目が合った。
吸い込まれそうだった。
自分の顔が真っ赤になっていくのを感じて、三日は視線を逸らした。
そしてプルプルと震えながら、今度は左手を伸ばしてタンブラーを取り、口元へ運ぶ。
隣でじっと自分を見つめる紅輝の視線が、冷たく熱く鋭く、突き刺さる。
グラスを握りしめたまま固まっていると、紅輝は慣れた手つきでそっと三日の手からそれを取り上げ、「連絡したいんだけど、いいかな……」と三日の顔を覗き込んだ。
紅輝の切なげな眼差しに完全に捕えられ、パチンと一つタガが弾け飛ぶ音がした。
世界の何も気にならない。
そんな感覚だった。
紅輝は握り締めていた三日の手を自分の顔の前に持ち上げ、彼女の小さな丸い爪を親指でなぞった。
「毎日、返事くれる?」無表情にそう呟く。
(これが、完全ホストマニュアル……。すごい、全然嘘に聞こえない……)
子どものような小さめの手と丸い爪がコンプレックスの三日は、見られるのが恥ずかしくなって少し手を引いた。しかし紅輝は手を離さず、一層強く力を込める。
「連絡先教えて」
気づけば三日の指先を無心に見つめ、呟くようにそう言う紅輝を、三日は少し怪訝に思った。
(私の?なんで……)
簡単に落とせると確信したのだろうか。それは当たりだ。
でも落としてどうするのだろう。付き纏われて刺されるかもよ。それとも、後腐れなくお金を引っ張っれる典型的なタイプだ、とホスト事典にでも載っているのだろうか。
「小さい手だね」
紅輝の指が三日の手を撫でる。そして不意に幼児を見るように笑う彼の意図が、三日にはまったく読めなかった。
でも、と三日は思う。
(嘘って何が悪いんだっけ……)
仮に誰かが本心で同じことを言ったとしても、小さなきっかけで心は変わる。
心変わりする癖をだれも直そうとしないまま、「あの時は本気でそう言った」いう検証が済めば、「心変わりはお互いさまだから仕方ない」と着地する。
じゃあこの人の嘘は?
初めから嘘だと知ってる。
嘘は楽しくて、お金がなくなれば「もう会えない、さようなら」と着地する。
結果は同じだ。なにか問題があるだろうか。……多分あるんだろう。
でも……。と再び三日は思う。
(この人の嘘を行き止まりまで見たい。その言葉の軽さを知りたい)
そうだ。
もし、この人を軽薄な嘘つきだと見切ることができたら——。
きっと、私の勝ち逃げだ。
これは数万円の入場料で、騙されないように嘘をすり抜け、相手の駆け引きを見破る体験型アトラクションなんだ。ミステリー要素もあってきっと楽しい。
もし騙されたら?
貯金が減って、ひーんってなるだけ。
惨めな思い出を胸に、明日からまた頑張ろう。
バカな失敗談も、きっと何かの役には立つ。
三日の上目遣いにためらいの光が揺れるのを確認して、紅輝は目を細めた。
三日から視線を外さず、ハルが席に戻ってくる姿を視界の端に捉えると、小さく笑い「じゃあ最後にね」と次の卓へ行ってしまった。
「最後に」と彼が言ったのは「送り指名」という制度のことを指す。
これに指名されたホストは、お客さまが帰る際に店の出口までエスコートし、二人きりで話したり連絡先を交換したりするのだそうだ。あとで黒服にそう説明を受けた。
そして後に三日はこの日のことを、何度となく思い返す。
「この人の言葉の軽さを知りたい」だってさ。我ながら悶絶しそうなキモさだ。
とにかくもう一度会いたかった。あの時にはもう離れられなくなってたんだ……そう思ってため息をつく。そしてそのあとは必ず、「会うんじゃなかった」と呟いて笑った。