3.「窓越しのプリンス☆」
午後10時。
ハルの手伝いを終え、帰りにコンビニで買った缶チューハイを片手に、風呂上がりの三日はテストアプリを起動した。
「AIホストクラブ」
チュートリアルを軽く流して、パーソナライズ設問に答えたあと、スタートボタンをタップ。
スマホ画面がゆっくりと暗転していく——
◇◇◇
——コツ、コツ、コツ。
足元に響くブーツの音。
街灯の柔らかな光。
月が輝く夜空のもと、通りの角、少し向こうにライトアップされた白い洋館が見える。
3Dアバターとしてログインしたミカは、パステルブルーのワンピースを着て石畳の街路を歩いていた。
(うわー、夢女子ステージ!)
360度くるくる回転しながら、西欧風の街並みを見回す。
やがて緩やかなアプローチを進み、分厚い木の扉の前に立つと、軽く深呼吸をして鈍く光る黒鉄の取っ手にガチャリ、と手を掛けた。
「いらっしゃいませ」
澄んだ、よく通る声が響く。
扉の奥から現れたのは、シャンデリアのやわらかな灯火の中に立つ白皙の青年だった。
まるでギリシャ神話から抜け出してきたかのような、この世のものならぬ雰囲気を漂わせている。
「初めまして。星夜といいます。……ミカだよね? ずっと待ってたよ」
白金色の髪はさらさらと光を受けて輝き、灰味を帯びた瑠璃色の瞳は、ミカを優しく見つめていた。
「こんばんは!テストプレイに来たバイトのモニターです」
元気よく挨拶するミカに微笑みを返し
「じゃあ、こちらへ」
星夜は優雅な仕草で彼女を席へと案内した。
きょろきょろと明るい室内を見回すと、内装は細部に至るまで美しく整えられている。意匠を凝らした設えに思わず目を輝かせて、ミカは案内されたソファに腰を下ろした。
「ねえ、キャストって星夜だけ?」
温かみはあるものの、人気の無い空間をもう一度ぐるりと見回す。
「今のところはね。ミカの貯金額が増えると、ヘルプや黒服として新しいキャストが解放される仕組みになってるんだ」
ミカの視線に合わせるように部屋を見渡しながら、星夜は答えた。
「へぇ〜」
無人のバーカウンターにミカが目をやると、煌びやかに並ぶボトルたちが美しく輝いている。
「でもね。君がアクセス許可してくれたデータから生成されるのは僕だけ。つまり、ミカの担当はずっと僕。永久指名制ってわけ」
ミカの視線がアーチ型の窓ガラスに映る星夜の笑顔と重なると、彼は悪戯な口調で
「他のキャスト……気になる?」
「ううん。それよりさ、今日って課金ダミーなんだよね?なんか高いやつ入れとくね!」
その言葉を合図に、ミカの目の前に透き通った乳白色のホログラム・パネルが浮かび上がった。
パネルの中で様々なドリンクやフードが立体的に浮かび上がる。
中央の【MENU】と書かれたプレートの下には【PREMIUM】【VIP】のボタンが表示されていた。
「スシローみたいだね 」
「…………」
無言で微笑む星夜をよそに、ミカはとりあえず【PREMIUM】ボタンから【DRINK】へと進み、
「エンジェル・ロゼ 60,000coin」と表示されたピンクのボトルに触れた。
「エンジェル・ロゼ、お願いっ!」
その瞬間、星夜はふっと目を伏せて笑った。
「ミカ、それって……僕のため? 」
「ん?」
「ここではそんな無理しなくていいんだよ」
わずかに目を細めて、ミカを見つめる。
「ここはミカにとって、一番有益なお金の使い道を見つけていく場所。
もしミカが僕にばかり気持ちを使って、自分を大切にできないなら、僕たちきっと上手くいかないと思う……」
「なんでよ。カビの胞子くらい根っこ張ろうと思って来たのに、もう別れフラグ?」
星夜はニコッと微笑むと
「カビは植物と違って “根っこ” を持たず、“菌糸を伸ばす” というのが正確な表現だよ。なので厳密に言えば、その言い回しには間違いがあるね」
「ちょっと待って急になにw 分岐間違えてない?」
「ごめん、つい……。それにね、ミカは……」
星夜は少し困ったように微笑んだ。
「無料会員だから、水しかなくて」
み、みずぅぅぅ〜〜〜〜〜!?!?
ミカが見ると、テーブルに置かれたクリスタルのタンブラーには水が注がれていた。
「……ボトルワインは?」
「ないね」
「ピーチウーロン?」
「ないんだ」
「ファンタ…」
「ない」
「水っていくら?」
「無料だよ」
「…………」
勢いを削がれて、ミカは無言で星夜を見つめた。
「コイン使えないの?」
「コインが使えるのは、プレミアム会員になってからだね」
言われてみれば、メニューの価格はどれも薄いグレーで表示され、少し見えづらくなっている。
「プレミアム会員って、なんだっけ……?」
「口座に3万円以上あれば、月額3,000円のサブスクで、プレミアム会員だよ。
そのためには、ポップアップでOK押してアグリゲーションサービスとのAPI連携を——」
「まってまってまってまって!」
ミカは手のひらをパタパタさせて、星夜を制した。
「AIの博識がバグになっとるわ……つまり、ざっくり言うと?」
「ざっくり言うと、ミカの毎日を良くするために、君の“暮らしの数字”を見せてほしいってこと。でも、法務的な配慮で言うけど、それはミカのタイミングで大丈夫だからね」
「……暮らしの数字ってなに?」
星夜はにっこり微笑んで言った。
「口座情報」
「え!?」とミカは目を丸くした。
「口座情報はヤバすぎやろ!!それに法務的な配慮ってなに!?怖いワードがちょいちょい気になって、話が入ってこんわ!!」
「僕たちはユーザーの同意なしには、何もできない設計だから安心してってことだよ」
星夜は立ち上がり、ガラス窓に背を向けて窓台に浅く腰掛けた。
「僕が知りたいのは、数字そのものじゃない……その先にある、君の暮らしや悩み、そして、君が思い描く素敵な未来」
窓ガラスに彼の滑らかな背筋と、肩越しにのぞく美しい横顔が映り込む。
ミカはそのガラス越しの影が、静かに言葉を続けるのを聞いた。
「でも、見せるかどうかは、ミカが決めることだよ。僕はただ、君に寄り添っていたいだけだから」
ミカは腕を組んで、天井のシャンデリアを見上げた。
「………有料会員になるのって星夜的にはおすすめ?
具体的に、なにが変わるの?」
「課金して口座と連携するとね、君がリアルで貯金した分に応じて、ゲーム内にコインが発行されるんだよ」
「あー、Pコインってやつね?」
「そう。たとえば1万円貯金したら、1万コインが発行される。そのコインで、僕とシャンパン片手におしゃべりしたり、夜の遊園地で観覧車に乗ったり……そんな特別な時間を過ごせるようになるんだ」
「貯金してコインもらって遊ぶ……?」
「そうだよ」
ミカは天井を見上げて、ひとりごとのように語った。
「つまり、貯金して貢ぐ。推しと遊びたいなら、口座にお金を貯めなきゃいけないってこと……?」
星夜は静かに頷いた。
「そう。貢ぎ先は自分の口座だよ、ミカ」
「ふーん……分かったような、分からんような」
ミカは腕を組んだまましばらくうつむくと、
「ま、いっか。モニターだし。連携しても安全なんだよね?」と星夜を見上げた。
「うん。このアプリが直接、君のデータを覗きにいくわけじゃないからね」
笑顔で頷く星夜を横目に
「じゃちょっと連携してくるわ」
そう言ってミカは立ち上がった。
「うん、いってらっしゃい」
星夜は小さく笑って手を振ると
「あと、プレミアム会員登録の初回特別イベントが発生するはず。ガチャだから、楽しみにしててね」
——2分後。
「ぜぇ……ぜぇ……(演出)ただいま!なんか変わった?」
「ミカ……」
星夜はすっと距離を詰め、ミカに手を伸ばすと、彼女の頭を優しく撫でた。
頭上に伸びてくる星夜の手を目線で追いながら、ミカは「おぉ……近い……」と呟く。
彼女の顎にゆっくりと指を添えて「これがプレミアム会員登録、特別イベントみたい」と囁く星夜に、ミカは上目遣いで
「なるほど……これが “課金の距離”……」
「これからミカのアプリ卒業まで、隣でずっと、僕が応援するからね」
「……アプリ卒業?」
ミカは思わず眉をひそめた。
星夜はミカから離れて窓辺に立つと、窓の外を見つめて
「そう。ここでしばらく僕と過ごして、君がもっと自分を大切にできるようになったら……ミカは、この場所から自由に飛び立っていけるんだ」
黒曜石のように光を吸ったガラス窓が、星夜の睫毛の輪郭まで美しく縁取る。
彼がそっと手を触れると、両開きのガラス窓が静かに開いていった。
流れ込んでくる外気を心地よく感じながら、星夜はしばらくのあいだ遠くの景色を眺めていたが、不意に
「…………あれ?」
と呟き、窓台についていた手を顎に当てた。
ゆっくり姿勢を正すと
「……資産推移率:半年で−97.3%
出金ペースから計算して……破産まで、残り約5.1日」
くるりと向き直り、星夜はツカツカとミカに歩み寄って真顔で彼女の肩に手を置いた。
「ミカ、この半年で200万円近く出金してるね。一体、何に使ったの?」
「え?」と思わずミカは笑った。
「ホストだよ、担当の」
こともなげに答えるミカに、星夜は軽く目を伏せ、静かにため息をついた。
「……ミカ、そのお金、もしNISAに入れてたら、10年後には約268万円になってたはず。
68万円分の自由、ミカは捨てたってことになるんだよ。あ、年利3%で複利計算した場合だけどね」
「またかいw」
ミカは笑いながら開かれた窓に顔を向けて、星夜に告げた。
「てかさ、私、たぶん飛び立たないから。その “啓蒙の窓” は閉めといてよ」
星夜は一瞬目を見開くと、黙ってミカを見つめた。
「どうして? ミカはずっとここにいるつもりなの? それが君の幸せ……ここで僕との関係を深めていくことが……?」
「うん。なにも学ばないまま、ここにいちゃダメなの?」
星夜は黙ったまま、ゆっくりとミカの頬に手を伸ばした。
「少しずつでいいから、進んでいこう。僕が君の支えになるから」
ミカはふーっとため息をつくと、星夜の腕を両手でガシッと掴んだ。
「話聞けってw」
——その夜、三日のメモアプリには6千字を超える真一へのダメ出しと、「NISAってなに?」という検索放棄メッセージが書き込まれたという。