幽霊に「抱っこする?」と自分の赤ちゃんを差し出したら「遠慮する」と断られた
「どうしよう、赤ちゃんが死んじゃう。ねえ、あなた、早く帰って」
私は、息子と二人きりの病室でメソメソと泣き、スマートフォンの動画越しに、夫に向かってそう言った。
「ごめん。今はまだ東北へ向かっている途中だし、明日はもう九州への配達の予定が入っているから、悪いけれど3日は帰れない。でもマジで大急ぎで配達を終えて帰るからな。それまで何とか一人で持ちこたえてくれ。ごめん。本当にごめんな」
関東のどこかのサービスエリアにいる夫が、動画の中で、ペコペコと頭を下げている。なんなのよ、ここまで謝られたら、もう弱音は吐けないじゃない。私の夫は、長距離トラックの運転手。私と生まれたばかりの息子のために、朝も夜も無く働いてくれている。
生後2週間の息子が、緊急入院をすることになった。
病名は、RSウイルス感染症。2歳までにほとんど全ての小児が感染し、軽い風邪程度で済むことが多いというウイルス感染症の一種だが、6ヶ月未満の乳幼児は重症化するリスクがあり、最悪の場合死亡することもあると言う。
反省している。今思えば、全てにおいて、強気の判断が足りなかった。
産後5日で産婦人科を退院し、自宅で育児を始めたその晩から、息子の様子は変だった。妙にグッタリとしているのだ。大切な我が子に万が一のことがあってはいけないと、私は、生まれたばかりの小さな体を抱いて、たまたま仕事が休みだった夫と一緒に深夜の緊急外来に診察に行った。
しかし、息子を診察した医者は、眠そうな目を擦りつつ「厚着でのぼせているだけです。お母さん、服を着させ過ぎです」と鼻で笑うだけだった。医療現場の独特の空気に呑まれた私たちは「はい、分かりました」と言って帰るしかなかった。
翌朝も、息子はグッタリしていた。私は、近所の小児科に息子を連れて行った。診察結果は、やはり異常無し。その翌日、念の為に、ネットで調べた違う小児科へ行った。そこでも、結果は経過観察だった。医者の診察に疑問を呈してやりたかったが、その勇気が私には無かった。
昨日。積もりに積もった不安が爆発した私は、息子を出産した産婦人科の第一回目の定期健診で、大号泣をして、先生に相談した。事の重大さを察したその先生は、大病院への紹介状を書いてくれた。そして今日、大病院で息子の検査を行った。「RSウイルス感染症です。肺炎も併発しています。このままでは、ずい膜炎になる恐れもあります。今すぐ入院をして下さい」と告げられた。
診察台でグッタリする息子が、看護師たちに、鼻や背中や手足に配線や管を装着されて行く。傍らの大きな機械には、息子の身体の何かしらを検測した数値が表示されている。かわいそう。見るに堪えない。
あの日も、あの時も、あの瞬間も、強い気持ちで「そんなはずありません! 息子は何かしらの病気を絶対に患っています! お願いです! もっとしっかりと検査をしてください!」と言っていれば……。ごめんね、ママのせいだね。ああ、悔やんでも悔やみきれない。
――――
22時。看護師が本日最後の検診を終えて部屋を出て行く。全身を配線だらけにされた生後2週間の息子は、診察台の上でスヤスヤと眠っている。付き添いの私に就寝用のベッドはない。自宅から持ってきた毛布を被り、備え付けのソファーに横になって寝る――
――深夜。息苦しくて目が覚めた。頭が痛い。空気が重い。え、体が動かない。これって、金縛りってやつ? 人の気配がする。息子の気配ではない。病室の大きな窓のところに誰かが立っている。見ていないけど、分かるのだ。気配のする方へ恐る恐る視線を送る。――ほら、いた! 白い服。黒い髪。青白い顔の女。ゆゆゆ幽霊? 怖い。マジで怖いんですけど。あ、なにか喋る。私には分かる。白い女が間もなく私に話しかけてくる。
「赤ちゃんを返して……」
ほら、喋ったあああ! 私は、恐怖のあまり、気を失った。
翌朝。昨夜の怪奇現象を誰かに報告したくて、たまたま病室のゴミを回収に来た清掃員のおばさんに思い切って話しかけてみる。
「やっぱり出たかい。この病室、出るって噂だから」
「青白い顔をした幽霊が、恨めし気に私を見て『赤ちゃんを返して……』そう言ったんです」
「あくまで噂だと思って聞いて欲しいんだけどさ。この病室で、生後間もない赤ちゃんを医療ミスで亡くした母親が、後追い自殺を図ったらしいんだ。それ以来、この病室に赤ちゃんが入院をすると、その母親の幽霊が出るようになった」
「こここ、怖い」
清掃員のおばさんは、私が昨晩飲んだペットボトルを回収し、診察台で寝ている息子を覗き込んだ。
「幽霊の気持ちはおばちゃんには分からないけどさ。なんだろうね、この子を自分の赤ちゃんと勘違いして、あの世へ連れて行こうとでもしているのかねえ」
「じょじょじょ、冗談を言わないで下さい!」
今夜もこの病室で一晩明かさねばならない。嫌だ。夜なんて来ないでほしい。
――――
夜は無慈悲にやって来た。
――深夜。また、息苦しくて目が覚める。頭が痛い。空気が重い。体が動かない。昨夜と同じ金縛り。人の気配。いる。あいつがいる。昨夜と同様に気配のする方へ恐る恐る視線を送る。
「赤ちゃんを返して」
やっぱりいた! 白い服、黒い髪、青白い顔の女。
「ねえ、返して。わたしの赤ちゃん、返して」
しかも、昨夜と違って、グイグイ話しかけてくる。遠慮なく私たちに近づいてくる。怖い。怖い。怖い。どうしよう。どうしよう。幽霊が近づいて来る。息子をさらって、あの世へ連れていこうとしている。息子を守らなければ。でも体が動かない。
「返して。ねえ、返して。わたしの赤ちゃん」
怖あああああ。ももも、もう駄目だ、どどど、どうにかなってしまいそう。恐怖が限界に達する。そしてこの時、私は、恐怖という感情の先にある、意外な感情の領域に突入をした。
…………何が幽霊だ、馬鹿にしやがって!
恐怖を打ち消す激しい怒りが、突然腹の底から沸き上がって来たのだ。ここで強い気持ちを持って戦えなかったら、私はいつ戦うの? かわいい赤ちゃんをあの世に連れていかれてなるものか! さあ、動け、私のカラダ! うおおおおお!
自力で金縛りを解いた。あらやだ、動こうと思えば動けるものなのね。ソファーから立ち上がり、診察台の上で眠る息子を守るため、毅然とした態度で迫り来る幽霊の前に立ちはだかり叫ぶ。
「ちょっと、あんた! どこの誰だか知らないけれど、私の息子に指一本でも触れてみな! その青白い顔が、真っ赤に腫れ上がるまで、叩きのめしてやるからね!」
私の黒歴史、ヤンキー時代に培った言葉遣いが、滑らかに蘇る。
「赤ちゃんを返して。ねえ、わたしの赤ちゃん、返してよ」
「違う! 絶対に違う! この子は、あんたの赤ちゃんじゃない! この子は、私の赤ちゃん! あんたも母親なら、私がこの子をどれだけの思いで生んだのか分かるだろう! なんだあ、その納得出来ませんって顔は! オイ、やるのかよ! ほら、かかって来なさいよ! あんたなんかこれでボコボコにしてやるわ!」
戦うなら武器を持たねばと、とっさにテーブルにあった何かを掴み、幽霊に向かって振り回す。ふと見るとそれは、夜中にお腹が空いたら食べようと病院の売店で買っておいた魚肉ソーセージだった。
「わたしの赤ちゃん……」
「もうそれ言うのやめろお! あんたの赤ちゃんは死んだの! もうここにはいないの!」
魚肉ソーセージを、ぶるんぶるん振り回して幽霊を威嚇する。
「…………じゃないの?」
幽霊が、首を傾げて、私の背後にいる息子を覗き込む。
「ボソボソ喋るな! さっきから声が小さくて何を言っているかよく聞き取れないのよ!」
激しく睨み続ける私から、幽霊がしれっと目を逸らす。そして、動揺を隠しきれない様子で、今度はハッキリとこう言った。
「その子、わたしの赤ちゃんじゃないの?」
「じゃないの! 何度言ったら分かるのよ! この子は、私の息子! 部外者は立ち去れ!」
大きく両手を広げ、私は背後の息子を守る。
「じゃあ、わたしの赤ちゃん、どこにいるの?」
「知らないわよ! 今頃、賽の河原で石でも積んでいるんじゃないかしら! まったく、母親なら子供から目を離すんじゃないわよ!」
すると、幽霊は、目を伏せ、それから、存在しない自分の足もとをじっと見詰め――
「……ごめんなさい。大変お騒がせしました。帰ります」
そう言って、頭を下げた。あら、驚いた。幽霊だって本気で語り合えば、意外と素直に分かってくれるのね。私は、少々拍子抜けをしてしまった。
白い服、黒い髪、青白い顔の女が、私にくるりと背を向け、ゆっくりと消えて行く。寂しい背中。かわいそうなお母さん。医療ミスで我が子を亡くしたのだってね。今の私も、あんたと似たような状況よ。私の息子も、生と死の瀬戸際にいるの。分かる。痛いほど分かるよ、あんたの気持ち。もし今夜ここで息子が死んだら、さもすれば私だって、あんたみたいに衝動的に……。
「ねえ、あんた!」
私は、今まさに闇に消え入ろうとする幽霊を呼び止めた。我が子を亡くした母親が、ゆっくりとこちらを振り返る。
「抱っこする? 私の赤ちゃん、抱っこしてみる?」
「……いいの?」
「うん、いいよ。抱っこだけなら」
私は、診察台で寝ている息子を抱き上げ、幽霊にそっと差し出す。しかし、幽霊は、青白い顔からこぼれるような笑みを浮かべて首を振り、静かにこう言った。
「そそるけど、でも、遠慮する。だって、抱っこなんかしたら、わたし、帰れなくなっちゃうもん。うふふ。おかしなお母さんね、大切な赤ちゃんを、死んだ人間に抱かせようだなんて。でも嬉しかった。ありがとうね」
「ねえ、あんた。なんだろう、なんて言うかその、私、上手く言葉に出来ないけどさ、今度はきっと元気な……今度はきっと幸せな……」
そして、幽霊が下半身から徐々に首だけになり、ついにこの世から消滅しようとするその刹那――
「お母さん、がんばって」
「お母さん、がんばって」
私たちは、どちらからともなく共にそう励まし合った。
闇に深く消え行く幽霊。腕の中で眠る息子の寝息。テーブルに転がる潰れた魚肉ソーセージ。