point of no return
point of no return = 帰還不能点
飛行機などが燃料等の諸条件でそこを越えると帰れなくなるポイントのこと
「こちらパトロール車4号。現着。
これより捜索開始する。現在時刻11時13分」
『司令室、了解』
「ほんじゃ、田所。行くぞ」
美海巡査は助手席に座る相棒に目配せをする。それを合図に田所巡査はパトカーから降りると正面に立ちはだかる建物を見上げた。
完璧な対称性をした4階建ての洋館。大玄関には半分朽ちかけた木製の看板がかけられてる。真っ黒に汚れていたがなんとか『瑞亀荘』と読めた。
造りは立派だが、壁面は看板同様黒く煤け、窓も半分近く割れて放置されていた。旅館として機能していたのは20年ほど前の話で、火事を起こしてそのまま閉館。撤去されることもなく放置されていた。
ドアノブには鎖が幾重にも巻きつき重くて頑丈そうな南京錠で止められていた。
割れたガラスから田所は中を覗いてみる。
ドア板一枚隔てた先はロビーの残骸だった。
半分燃え崩れた下足箱と受付。敷き詰められていただろう絨毯も今はなくコンクリートの床が剥き出しになっていた。
「お~い、誰かいるか~」
田所は声を張り上げ、返事を待つように耳を澄ませた。しかし、返事はなかった。
もう一度、中を覗く。
どれもこれも煤けて暗闇と一体化したようで輪郭がぼやけてはっきりしない。光が入るのを嫌がっているのか、それともなにか見えないものが光を拒絶しているのか。表はこんなにも明るい光に溢れているのになぜかこの朽ち果てた建物は夜のように暗かった。
田所は腰のライトを取ると中を照らす。人の気配はおろか最近人が入った形跡もなかった。念のためにもう一度呼んでみようかと思った時、肩を叩かれた。振り返ると美海巡査が無言で指差すゼスチャーをしていた。指の先を見ると少し先の草原にワンボックスカーが見えた。
美海と田所は車の中、および周辺を手早く確認した。
「こちらパトロール車4号。ワンボックスカーを発見。車のナンバーは捜索願いが出ているものと合致した。回りに人はいない。捜索を続ける」
指令部への報告を終えると 美海は田所を促した。
「立ち入り禁止の廃墟に勝手に入って行方不明になった馬鹿どもなんてほっとけばいいんですよ」
「気持ちは分かるがそれは言っちゃだめだよ」
ぼやく田所を美海がなだめる。二人の巡査は深夜にここに来て帰ってこないので探してくれという通報があったため調査に来ていた。この瑞亀荘は廃業した後、建物がそのまま放置されていたため若者たちの格好の暇つぶしの場所になっていたのだ。
「そうかもしれませんがね。行方不明になったのは小学生とかじゃなくて、いい年した連中なんでしょう。すくなくとも運転免許もってるんなら立派な大人じゃないですか。そんなのが1日行方不明になったからって俺たちがわざわざ出向くことはないでしょう」
それでも田所は納得いかない、という風に反論をした。この廃墟に行こうと言い出したのが昨夜なので、まだ消息を絶って24時間経過していなかった。
「まあ、いろいろあるんだよ」
美海は少し言いにくそうに言葉を濁した。それが余計に田所を刺激することになった。
「いろいろってなんですか?」
「ここはいろいろいわくつきなんだよ」
「いわく……?」
「お前さんは配属されたばかりで良く知らないだろうけどな、この建物はいろいろ事故が多いんだ。
ここにきて実際に死んじまったやつとか行方不明になったやつが実際にいるんだ。地域じゃ有名な本当に出る心霊スポットとか言われている。だから上の方もこの建物に関しては神経使っているんだよ」
「……マジですか? 先輩はここに来たことあるんですか?」
「ああ、何度かあるぞ。気分のいい場所ではないのはまちがいない」
美海の言葉に田所は薄気味悪そうな表情で建物を見返した。
「だからさ、さっさと済ませようぜ」
美海はワンボックスが止まっていた方へあごをしゃくる。そこでようやく田所は木立の奥に建物が建っているのに気がついた。
「最近は本館じゃなくてこっちの別館の方が人気なんだよ。調べるならこっちが先だ」
本館が黒く煤けていたのに対して別館は赤黒く染まっていた。まるで頭から血をぶっかけたような感じだった。田所は昔見たホラー映画を思い出した。主人公が悪戯で頭から豚の血を浴びせられるシーンだ。真っ赤に染まった顔のうち目だけが白く穿つ穴のようにみえたのが記憶に残っていたが、この離れが正にそれだった。3階にある覗き窓がドクロの眼窩のように2人を見下ろしていた。
「確かに薄気味悪いですね。なんでこんな塗装なんです?」
田所は少し気押されように声を絞り出す。
「元は白かったらしいぜ。
錆かなぁ。それとも塗料の加減かね。数年前からこんな血みたいな色になったそうだ。
俺がこの辺の担当になった時にはもうこんな感じだった。
な、気色悪いだろ」
美海も同意すると顔をしかめてその建物を見上げた。
正面の玄関は本館同様に鎖で封鎖されていたが、美海は玄関を素通りして裏手に回っていく。
「ここから入るんじゃないんですか?」
「ちがう。裏手から入れるんだ。
おそらく連中もそこから入ってる」
美海は慣れた感じで生い茂る雑草を踏み分けて進んでいった。田所は無言で後に続く。良く見ると雑草が踏み固められてうっすらと獣道みたいになっていることに気がついた。
スッと視界が開けたと思ったら裏庭に出た。
昔ならばちょっとおしゃれな日本庭園だったのか、灯籠のようなものや石やら池があったが、灯籠や石には苔や植物の蔓が無造作に絡まり、池は緑色に濁っていた。
「行くぞ」
美海は元は木戸で硬く閉ざされていたのだろうが今は完全に朽ち果てて大きく口を開けた穴から中に入っていった。
「ま、待ってくださいよ。先輩」
1人取り残された田所は慌てて中に入る。
「先輩。先輩! どこですか?!」
別館の中は暗かった。ここもまた光が入ってくることを嫌がっているかのようだった。明るいところから暗いところに入ったため田所は一時的に視力を失い、美海の姿を見失う。軽いパニックに陥り田所は思わず美海を求め大声を上げた。次の瞬間、目映い光が田所の眼を鋭く刺した。鈍痛の不意打ちに田所は小さく呻いた。
「なにやってんだ? ライト使えよ。
ここは昼でも妙に暗いんだよ」
「あ、はい。すんません」
美海にライトでまともに顔を照らされ、田所は目をしばたたかせながら慌てて腰のライトを取り出した。
「お前はこのフロワーを頼む。奥に6つ部屋があるからな、そこをよく調べてくれ。俺は上を見てくる」
美海はそう言うと暗闇の中に消えていった。
1人残された田所はしばらく立ったまま周囲をライトで照らす。ライトは打ち捨てられた机や椅子の他、ペットボトルやたばこの吸い殻、空き缶、スナック菓子の袋など床に散らかったゴミを浮き上がらせたが、ライトが作る光の輪から少しでも離れるとたちまち闇に包まれ見えなくなった。
この暗さは異常だ
建物の中に入って田所は実感する。
闇が重いのだ。空気自体が黒く粘りをもっていて体に纏わりついてくる、そんな感覚が重石になって田所を動けなくしていた。しばらく足下に転がっていたペットボトルを所在無げに眺めていたがやがて意を決すると言われた通り、奥の部屋を確認するために歩き始めた。
「誰かいるか~?」
1階の最後の部屋を開けながら声をかける。が、返事はなかった。
田所は息を吐き出す。
ただ単に部屋を見て回っているだけなのにひどく体力を削られた気がした。
1階を全て見て、だれも居ないのを確認した田所は入ってきたところまで戻った。美海の姿はなかった。しばらく待ったが一向に帰ってくる気配がない。気が進まなかったが田所は美海と合流するために階上に向かった。
「先輩~、美海先輩~~」
2階につくと大声で美海を呼んだが返事はやはり返ってこなかった。
3階なのか?
田所は上に続く階段を見やりながら、2階を探すか3階へ行くべきか少し悩んだが結局、3階を先に見ることにした。
3階に居なければ戻る途中で2階に立ち寄れば良いし、よしんばまだ美海が2階を捜索中だったとしても自分が先に3階を捜索できるので合流すれば任務は完了。そうなれば早くここから出ることができる。そう考えた。
3階は一層闇が増したように思えた。
田所は真っ暗な廊下をライトで照らす。
長く続く廊下が浮かび上がったが、廊下の先はすぐに闇に閉ざされてしまう。まるでライトの光さえこの暗闇に長く留まりたくないといわんばかりだった。わずかに届く光の領域に4つの扉が見えた。
「美海先輩~。美海さん、聞こえますか?」
声をかけながら一番手前のドアを開けてみた。
洋風の客間だった。奥にベッドが1つ見える。人の気配はなかった。
次も次の部屋も誰も居なかった。
捜索ターゲットの若者達が居ないのはともかく美海の姿が見えないのに田所は胸騒ぎを覚えた。
肝試しの悪ふざけに、脅かし役だけを残してみんなで帰ってしまうというのがあるが、田所は自分がその脅かし役になった気分だった。
もしかしたら入れ違いになったのかもしれない
そう思った田所は無線機で署に連絡を通ろうとした。ところがどうしたことか通信が繋がらなかった。
どういうことだ?
さっきまではちゃんと通話ができていたのに
もしかしたら建物に邪魔されているのか?
田所は怪訝そうに無線機を腰に戻すと、仕方なしにもう一度廊下を照らし出した。と、ついに廊下の行き止まりが視界に現れた。廊下の行き止まりにはドアがひとつあった。
「誰かいますか? 美海さん、いませんか?」
そのドアを開けながら、建物に入ってから何度も繰り返してきた言葉をもう一度口にする。
ライトのか細い光が何度も部屋を往復する。
他の部屋が客室であったのに対して、この部屋はどうやら旅館の施設のひとつのようだ。他の部屋より大きく細長い。両方の壁には棚が幾つも設置され中央にはテーブルと椅子が取り散らかっていた。
全てのテーブルと椅子が転がっていた。その乱雑ぶりに田所は少し違和感を覚えた。幾ら見捨てられた廃墟で、毎夜若者達の溜まり場になっていたとしても少々取り散らかり過ぎていた。
まるでここで誰かが大暴れしたかのようだ……
うん?!
田所は床にライトが転がっているのに気がついた。自分が持っているのと同じ物。すなわちそれは美海の物と考えるべきだろう。
「先輩……美海先輩」
田所は美海の姿を求めて部屋の中をあちらこちら照らしてみたが美海の姿はなかった。その代わり、真新しいビデオカメラと携帯電話を見つけた。どちらも美海のライトの近くに同じように転がっていた。埃がついていないところを見ると最近の落とし物のようだ。ここを訪れた行方不明の若者達の持ち物なのだろう。
携帯電話は圏外。おまけにパスワードロックもかかっていたので取りあえず電話は放置してカメラの方のスイッチをいれてみた。
メニュー画面が立ち上がり、暗闇をぼんやりと照らし出した。
たくさんの記録ファイルがあったが、その内で昨日から今日にかけてのファイルが3つあった。バッテリーの残量は残り少なく今すぐ電池切れになってもおかしくない状態だ。
田所は少し悩んだが一番新しいファイルをクリックした。
タイムスタンプは今日の2時頃になっていた。
あけちゃダメなの あけちゃダメ
あいつがいるの
そこからあいつがでてくるの
タクヤもマサルもミキもみんなやられちゃった
でれない どこにもいけない
突然画面一杯に女がアップになったかと思うと女は泣きじゃくりながら一気に捲し立てた。
あけちゃダメ?
空ける、開ける、明ける……?
どういう意味だ
あいつって、どこからでてくるっていってる?
田所の頭の中に次々と疑問が浮かんでは消えていった。
捜索依頼の名簿に遠山卓也と言う名前があったのを思い出した。優、美樹と言う名前もあった。もう1人の名前は確か、戸塚聡美だ。
すると、今映っているこの女が聡美なのか……?
にげれないの
ドアあけるとあいつがでてくる
でんわ けんがいだし れんらくとれない
こわい こわい こわい
どうやら『あける』とは『開ける』の意味らしい、と田所は思った。
だが『あいつ』とはなんだろう?
この聡美や卓也達はここに来た時になんらかの犯罪に巻き込まれたのかもしれない、と田所は推測する。
暴漢に襲われ、ここに逃げ込んだ。
携帯電話は圏外だからせめて証拠としてこのビデオを残そうとしている、と言う事だろうか。
考えられない事ではないが……
ピロン
電子音が部屋に響いた。ビデオからの音だった。
あれ メール
けんがいなのに なんでメール?
画面では聡美がうつむいた状態でぶつぶつと呟いていた。
えっ だれ? しらないアドレス
てんぷファイル なにこれ いみわかんない
うつ向いたままの聡美の声がビデオから流れてきた。どうやら携帯電話を見ているようだ。
えっ? えっ? いや、なにこれ!
いや、きゃあ
突然、聡美が悲鳴を上げて顔をのけぞらせる。次の瞬間、聡美が画面から消えた。
なんだ? なにが起きたんだ
田所はビデオの画面を食い入るように見入ったが聡美が再び画面に現れることはなく、悲鳴だけが聞こえてきた。
しばらくすると悲鳴はくぐもったものになりすぐに止んだ。続いて衣擦れのような音が微かに聞こえたが、それも長くはなかった。
そして、全くの静寂が訪れた。
1分程そのまま見続けたが画面に変化はなかった。
田所はビデオを聡美が消える手前まで巻き戻した。そこからコマ送りに変える。
画面下から黒い影が現れると聡美の顔を掴み引き下ろした……ように見えた。
その間僅か3コマ。目にも止まらぬ早業だ。
あまりに早くてビデオもその全容を捉えることができていない。ぶれぶれで聡美を掴んだものがなんなのか良く分からない。
なにか手のように見えるが……
聡美が言っていた『あいつ』と言う言葉が田所の脳裏に浮かんだ。
彼女も正体不明の『あいつ』とやらに捕まったのだろうか?
しかし、いくら携帯電話に気を取られていたとしても、そんなに近づかれるまで気づかないものだろうか?
仮に気づかなかったとしても、そもそも手の出てくる角度がおかしい
後ろではなく下から伸びてきたように見えたが……
手が床から生えてきたとでも言うのだろうか、と田所は首を捻った。
それとも携帯電話……?!
田所はぶるぶると首を振ると馬鹿げた妄想を振り払った。
なんにしてもこれではなにが起きたか知るどころか謎が増えるばかりだ
どうしようか、と田所は悩んだ。
バッテリーの残量を示すアイコンが点滅し始めた。もう後1つファイルを見れるかどうかだった。
田所は意を決すると再びファイルを開くことにした。昨日の零時直前の、2番目に新しいファイルを選択した。
え――、あたしたちは でるってゆーめいな しんれいスポットにきています
ほんと ふんいきあって あたし ひびりまくってます
聡美が再び画面に現れた。
ひびっている、と言うわりにはその表情はにやけていて余裕が見て取れた。
さっきのパニック状態とはまるで別人だな
なにか起きたとしたら、たぶんこの後か……
そのなんらかが写っていてくれることを期待しながら田所はカメラを見つめた。
えっとですね いまいるここは べっかんのおくのへや です
ものおきみたいでーす
聡美の言葉にカメラがぐるりと部屋を映し出す。
フレームの中に聡美以外に男と女が1人ずつ映った。部屋の大きさ、形。壁に並んだ棚の様子から撮影しているのは今、田所の居る場所だと分かった。
ここは えっと でるらしいです
ひとが じっさい ゆくえふめいに なってる……
えっ? ほんと? マジ……?
あたしら ヤバくね?
ヤバくない、ヤバくない。と男の声が画面の外から聞こえてきた。カメラ役の声なのだろう。
それで むかし テレビのとくばんで
れーのーしゃさんが れーし したら
なにか へんなおバーさんが いるっていわれたそうです
おバーさ~ん いますかぁ~?
聡美はこれ見よがしに声をかける。
うっすらと笑いを浮かべ、まるで信じていないと言わんばかりの軽いノリだった。
と、画面外から手が映り込んできた。
え? なに これ?
聡美は映り込んで来た手から紙切れを受けとる。
いま タッくんたいちょう から かみをうけとりました
なに? ネットにころがっていた ゆーれいをよびだす じゅもん?
また~ かなりうさんくさいね
え? いいから よみあげろ?
はい はい よみます よみます ……
エ、エクレザム ノイス ア、アハメナム……
聡美はたどたどしく意味不明の呪文を唱え始めた。田所はなにか異常なことが起きないかと画面を食い入るように見つめていた。
やがて、聡美が呪文を唱え終えた、その瞬間。
ゾクリ
田所は周囲の温度が一気に下がったかのような悪寒に襲われた。
え? なにかきゅうに さむくなってない?
カメラの中の聡美も同じようなことを言った。
ね ぜったい さむくなったよね
カメラのフレームが移動してさっき一瞬映し出された男女を捉える。二人は聡美の問いに同意を示すように、首を縦に振っていた。口許に笑みを浮かべてはいたが、少し強張って見えた。
キィ~~~
軋む音がした。画面の中からだ。聡美も名が定まらない二人の男女もあらぬ方向を向いていた。カメラフレームが移動し、音の発生した場所をフォーカスした。
壁に並ぶ棚の一つの扉が一人でに開いたようだった。
キィ~ キィ~
扉はまるで誘うように耳障りな音を立てて揺れ動いた。風もない屋内でだ。その動きに田所は言いようのない違和感と不安感を感じた。
まさる ちょっと みてこいよ
カメラ役の声がした。消去法でカメラ役が卓也、今映っている男が優で、女が美樹ということになりそうだ、と田所は理解した。
え? なんで おれ?
いや、おまえしかいねーだろ ほら、ちょっとみてこいよ
卓也、聡美からタックン隊長と呼ばれれていることからおそらくはこのグループのリーダーなのだろう、に言われて優はしぶしぶと棚のところへ歩いて行った。ぶらぶらと揺れる棚を手にして、しばらく見ていたが、特に異常を見つけられないようで、今度は棚の中へ顔を向けた。
うわ
ドタン!
突然、優が棚の中に入った。いや、棚に引きずりこまれた、ようだった。
きゃあ
なんだ
まさる なに、なんなの
里美の悲鳴と卓也達の驚きの声が同時に聞こえた。画面がめちゃくちゃに揺れる。
いない いないぞ! おい まさる どこいったんだ!
画面が安定した。棚の中を映している。さっき優が引き込まれた棚の画面のようだ。棚の中には古びたエプロンやら制服やらがぶら下がっていたが、それだけだった。優の姿はどこにもなかった。
なんでよ まさる いま ここにはいったよね はいったよね なんでいないの?
あいつ どこいったのよ!
しらねーよ おれにわかるか!
ちょっと やばいよ これ でたんじゃないの れいのばーさんっての? さっきのじゅもんのせい?
ばっか うんなことあるわけねーだろ しゃれだぞ あんなのは
じゃあ、なんでいないのよ
だから しらねーっていってんだろ
ねぇねぇ やばいよ ちょっと そと でようよ
なにいっての まさる ほうっておくき?!
だっていないじゃん けーさつよんで さがせばいいじゃん ここだとけんがいだし よべないでしょ とりあえず そとでて よぼうよ
さっきまでの余裕の空気は吹き飛んでいた。三人が三人とも銘々喚き散らかしていた。
再び画面が揺れる。どうやら入り口に向かって走り出したようだ。一瞬、ドアノブをつかむ卓也の手が画面に映った。
ドアが開く。
老婆がぶら下がっていた。
ドアの向こう側、老婆の上半身がぶらんと逆さに垂れ下がっていたのだ。
白濁した両の目。染みで斑になった肌。歯のない口を大きく開けて笑っているように見えた。
画面がものすごい勢いでぐるぐると回り、ガンツという音とともに90度横倒しになった部屋を映した状態で画面が止まった。カメラが放り出されて床に転がったようだ。
バタン!
キャアアアーーー
ドアが閉まる音と同時に美樹だか聡美だかの絶叫が響き渡った。
たくやが たくやが
そとになんかいた なんかいた
ばーさん だよ ばーさん あたし みたから ばーさん そとに ばーさんがぶらさがってて
たくやを つれていったよ
画面の外で聡美と美樹の会話が聞こえた。田所は茫然となった。一瞬だったが確かに聡美たちが言うように画面に異様な婆さんの姿が映っていた。
あの婆さんが卓也をつれていったというのか?
棚に消えた優も
それに最初に見たファイルの聡美も
あの婆さんにつれていかれたのか?
連れていかれたってどこにだ?
田所は全身が震えるのを感じた。
けんがいだよ なんて? さっきまでつながってたよね なんでつながんなくなったのよ
ちょっと おちつこう みずでものんで えっと ばっくにペットボトルあったよね
カメラの録画は続いているようだった。二人の姿は画面の外でみれなかったが、会話は記録されている。とりあえず二人は無事のようだ。
あ こんなところにあった
画面に美樹が入ってきた。美樹は床に転がっているバックを拾い上げ、中を開いた。
バッグの中からぬるりとなにかが姿を現した。
あの婆さんだと田所は直感する。
婆さんは美樹をつかみ、そのままバックの中に引きずりこんだ
きゃあ みき みき!
上半身をバックの中に突っ込んだまま、美樹の下半身がじたばたと床を蹴っている。聡美が慌ててバックへ駆け寄ってきて、美樹をバックから助け出そうとするが、美樹の体はずるずるとバックの中へと引きづりこまれていく。
いや、物理的におかしいだろう
信じられない光景に画面から目を離せないままの田所であったが、頭の片隅では冷静な突っ込みをいれていた。肩に下げる程度のバックなのだ。頭から被ったら肩ぐらいまでしか入らないはずなのに、美樹の体はもう腰のところまで飲み込まれていた。引きずりだそうと聡美が美樹の両足をもって引っ張るが引き出すどころが飲み込まれる速度を止めることすらできずにいた。
あっ?!
美樹の足がびくんと痙攣した弾みで聡美の体はカメラのところまで弾き飛ばされた。
ガツンという音とともに録画が切れた。ぶつかった拍子にスイッチがきれたのだろう。
もう一度見直そうと思ったが、カメラの画面から暗転した。
『no battery』と表示がでた。
田所は大きく息を吐いた。
一体これはどう解釈すればいいんだろうと考える。
幽霊が現れるという呪文を唱えた後、一人が棚の中に入って消え、もう一人はドアを開けたとたんに襲われた。もう一人はバックに喰われた。最後の1人は良く分からない。
『あけちゃダメなの あけちゃダメ
あいつがいるの』
最初の聡美の言葉が蘇ってきた。
なにかしら『開ける』という行為をすると襲われるということなのか?
しかし、と田所は思う。ここまで来る間に何度自分はドアとかを開けただろうか。その時には何も起きていない。
彼女たちとの違いはなんだ?
他にどんな条件がいる?
幽霊を呼び出すという呪文!
それがもう一つの発動条件なのか…… だとすると、もしかしたらすでに……
キィ~~~
軋んだ嫌な音が耳をついた。
見ると壁の棚の戸がゆっくりと揺れていた。どこかで見たような既視感。
意識するしないに関わらずビデオを見ることですでに条件は成立してしまっているのではないのか
もしかしたら、美海先輩も同じように……
田所はごくりと唾を飲み込むとゆっくりと腰の拳銃のカバーを外す。
外に出るにしてもまずはあの棚を確認してからだ。と田所は自分に言い聞かせる。何もないことを確認して、それから外へでて、応援を呼ぶ。簡単なことだ、と自分に何度も言い聞かせた。
よし、行くぞ
肚を決めると銃を構えて棚を確認しに行こうとする。
銃を構えようと腕を……腕が動かない??
田所はなぜか動かない右手へ目を落とす。銃を握った右の手首をがっちりと握る別の手が目に入った。しわしわで染みで汚れた老人の手。
俺はなにをした?
銃をとりだすためにホルスターの蓋を開けた
そうだ、蓋を『開けた』んだ
田所はゆっくりとホルスターの中を覗いてみた。
ホルスターの小さな隙間の中で老婆が嬉しそうに笑っているのが見えた。
「こちらパトロール車2号。現場には4号車と捜索願いがでていた遠山卓也さん所有の車を確認。
建物内を捜索したが発見者なし。くりかえす発見者なし。
美海、田所両巡査の姿も見つけられず。
ただし美海巡査のライトを離れの奥の部屋で発見。同じ部屋でバックやカメラ、携帯も発見した。
こちらは多分捜索願が出ているグループの持ち物だと思う。携帯電話はパスかかかっていて確認できない。カメラの方はバッテリー切れだ。どちらもいったん署にもってかえる。そっちで解析をしてほしい。
捜索は継続するが、応援を乞う。繰り返す、応援を乞う」
『指令室 了解。応援を送る。遺留品はすみやかに回収して調査する
応援が現着したら渡してくれ』
連絡を終えると相棒へと目を向けた。
「それじゃ、もう少し調べるか。今度は本館の方へ行ってみよう」
「はい。でもそのカメラ気になりますね。何が録画されているんでしょう」
「さあな、うまい具合に事件の決定的瞬間でも映っていると手間がないんだがね」
「ですねぇ。でも実は映っちゃいけないものが映っていたりして」
「映っちゃいけないものってなんだよ」
「えー、そりゃそういう感じのやつですよ。髪の長い女とか、白目のない子供とか。ここ有名な心霊スポットなんでしょう」
「そう言うのは冗談でもぞっとしないな。
真面目にいわくありまくりなところだ。俺は今すぐにでも帰りたいよ。
ま、これは鑑識の奴らにお任せってことで……っと」
後輩の警察官にそう言い放つと、先輩警察官はカメラと携帯をパトカーの後部座席に無造作に放り込み、本館へ向かって歩き始めた。
2023/07/04 初稿
突然帰れないことに気づく瞬間が一番怖くないですか?