隣の部屋の彼女
隣の部屋の彼女が姿を消した。
忽然と、部屋も荷物もそのままに。
まるで、神隠しにあったかのように・・・。
彼女と知り合ったのは今年の春だ。
僕が住むマンションの隣の部屋に引っ越してきた。
僕と彼女は、同じ大学、同じ学部の先輩と後輩ということもあり、仲良くなるのに時間は掛からなかった。
僕は、講義をうまく履修する方法や大学校内の施設案内などをしてあげた。
初めは遠慮していた彼女だが、次第に打ち解けあって、僕を頼るようになっていった。
そうして、いつしか僕と彼女は恋人となった。
互いに、実家を離れての1人暮らし。
知り合いや友人が少ない中、寂しさを補うように僕と彼女は寄り添いあった。
そんな彼女が、僕に一言もなく姿を消した。
なぜだ。
そういえば、一時期「家に帰りたい」と泣いていた時があったが・・・?
もしかしてホームシックになり実家に帰ったのだろうか。
いや、それならば荷物や財布、スマホなどを置いて出ていくなどあり得ない。彼女の実家は遠方で、新幹線か飛行機でないと帰れない所にある。
更には靴だ。
彼女の靴が玄関に置いてある。
仮に外出したのならば、靴は履いて出るはずだ。
さらに、不可解な点がひとつある。
部屋の状況だ。
先ほども言ったように、荷物や財布、スマホの類はそのまま。
それだけではない。部屋が荒らされたかのように散らかっているのだ。
まぁ、彼女は以前から片付けが苦手だったので、この状態はある意味、普通なのかもしれない。
よく、彼女は物を周りに放り投げていた。
僕は「やめてくれ」と言ったが、治ることはなかった。注意すれば不機嫌になって、より苛烈に物を辺りに投げるようになる。
一度、彼女が投げたものが僕の額に当たった事がある。
怪我はしなかったが、僕も意地になってケンカになった。結局、最後は彼女が泣きながら謝ってきて仲直りしたっけな・・・。
今となっては、彼女との良い思い出だ。
と、彼女との思い出で頭がいっぱいになりかけた所で思考を現実に戻す。
今の状況を冷静に整理してみる。
前触れもなく、隣の部屋に暮らしていた彼女が姿を消した。
それも、荷物や財布、スマホも置いたまま。靴さえ履かずに・・・。
慣れない新生活でホームシックになりかけてたから、実家へ帰ったのだろうかと思ったが、彼女の実家は身ひとつで帰れる距離にない。
部屋は散らかっているが、これが普通だ。彼女は片付けが苦手なのだから。
僕は頭を捻る。
人がこうも痕跡を残さず、消えるなどあり得るのだろうか?
そこで、ふと 気がついた。
もしや彼女は、僕を驚かすつもりで部屋に隠れているだけではないか?
それならば、荷物や靴がそのままなのも納得がいく。
僕は部屋中を探す。
リビング、寝室、クローゼットにバスルームを探すが居ない。トイレのドアを開いてみるが、やはり居ない。
まさかと思い、床下収納を見てみるが居るはずがなかった。
これだけ探して彼女の姿が見えないと、本気で不安になってくる。
彼女が消えた。
外へ出た形跡はない。
部屋に隠れている様子も皆無。
“なぜ” が僕の頭の中で大量に発生する。最悪の想像を掻き消すために。
だが、いくら必死に掻き消しても、頭によぎるのは次の考えだ。
彼女は“誰か”に攫われたのか・・・。
それならば、今の不可解な状況に説明がつく。
部屋が荒れているのは、抵抗して揉み合った跡。
荷物や靴がそのままなのは、強引に部屋から連れ出されたから。
嫌な想像がいくつも思い浮かび、まるで暗雲のごとく頭いっぱいに広がっていく。
僕は焦るように爪を噛んだ。
警察に届けるか?
いや、まだ誘拐と決まったわけではない。
だがしかし・・・。
ドンッ! と壁を拳で打つ。
部屋の中で悩んでいても仕方がない。
行動に移すんだ。
とりあえず、近所に彼女が居ないか探してみる。
彼女は少し感情的な所があったから、もしかして嫌な事があって突発的に外に出たのかも。
そう自分に言い聞かせて、僕は靴を履く。
警察に届けるのは、その後でもいいかもしれない。
正直、警察に頼るのは嫌だ。
警察が関わると大事になるかもしれない。そうなると僕も彼女も好奇の目に晒される。
それは嫌だ。
それに警察が出てくると、本当に彼女が取り返しのつかない事件に巻き込まれた感じがして、たまらなく不安になる・・・。
この状況でも現実から目を背けようとする自分に失笑しながら、僕は外へ出た。
と そこへーーー、
「すみません」
声をかけてくる2人の人物。
ピシッとしたスーツの若い男と、よれたシャツを着込んだ初老の男だ。
2人の男は、どこか警戒心を解かせるような柔和な笑顔を見せながら近づいてくる。
一瞬、セールスの類かと思ったが違った。
「警察の者です。こちらの部屋の方でしょうか?」
スーツの男が警察手帳を片手にそう言った。
僕は、心臓が握られたかのような、嫌な感覚を味わった。
ゆっくりと頷く僕。
「あぁ、そうなんですね。実はですねーーー、」
スーツの男 ーー刑事だろうーー が目を彼女の部屋に向ける。
「そちらの部屋の女性が何らかの事件に巻き込まれたようでして」
僕は心臓が凍ったかと思った。
彼女は無事なのか! と叫んでスーツの刑事に飛びつく。
「まぁまぁ、落ち着いてください」
その時、シャツを着た初老の刑事が割って入って僕を宥める。
「女性は無事です。多少、擦り傷はありますが、命に別状はありません」
その言葉を聞いて、ホッとする。
それで彼女は!? 僕の質問にニッコリと笑顔を返した初老の刑事。
「その前に、■■さんにお話がありまして」
なぜか僕の名前を知っている刑事。
彼女から聞いたのだろうか。
話とはなんだろう。彼女が居なくなった理由だろうか。それなら僕も知りたい。
「本日、ウチの署に通報が来まして。通報者は女性の母親です」
彼女の母から?
「はい。どうやらここ最近、女性と連絡が取れなかったようで・・・その事を心配されて通報してこられたんです」
どうやら彼女の母親は、少し過保護のようだ。
彼女は大学生。もう大人だ。少し親に連絡を怠ったくらいで警察に通報するとは。
「それで一応、女性が通う大学の方に連絡を入れたところ、この1ヶ月間、学校にも行ってないようでしてね。安否確認という事で、警官が女性の部屋を訪ねたんですが・・・」
僕は刑事のゆったりとした話し方にイライラした。
さっさと要点を話してくれ。
彼女は何の事件に巻き込まれたんだ。
「その途中で、逃げるように裸足で走ってきた女性を発見して保護したんです」
逃げるように裸足で?
やはり、彼女は何者かに誘拐されて逃げ出したのか。
「それで、その女性に話を聞いたところ、どうやらーーー」
いつの間にか、刑事の柔和な笑顔は消えていた。
「隣の男の部屋に監禁されていたところを窓から逃げ出した、らしいんです」
鋭い双眸で僕を睨む2人の刑事。
「つまりですね、■■さん。こちらの部屋の女性は、約1ヶ月前からアナタの部屋の寝室に監禁されていた、と言っているんです」
は? 何を言っているんだ? 監禁?
僕と彼女は恋人同士だ。
恋人同士なら同じ家に暮らしていてもおかしくないだろう。
「恋人同士ですか? でも、女性の方は■■さんと恋人になった覚えは無いと言っていますよ」
スーツの刑事に続いて、初老の刑事が口を開いた。
「■■さん。アナタ、女性にしつこく言い寄ってたらしいですね? 大学のご友人が証言して下さいましたよ。頼まれてもないのに、授業の履修方法を教えたり、大学を案内したり・・・と」
そんな!? 何を言っているんだ?
彼女は喜んでいた。僕を頼っていたはずだ。
「女性とご友人は、そうは言ってませんでしたよ。最終的には無理やり関係を迫ったとか」
「それを断られると、強引に自分の部屋に連れ込み寝室に監禁された、と言っていましたよ」
もうすでに刑事たちとの会話は尋問の様相を呈していた。
無理やり関係を迫っただとか、強引に部屋に連れ込んで監禁しただとか、ふざけるのもいい加減にしてほしい。
僕と彼女は愛し合っていた。彼女は自分の意思で僕と暮らしていたんだ。
「そうですか? 女性が “家に帰りたい” と懇願した時も聞く耳を持たなかったのに」
「それで女性が自暴自棄になってアナタに物を投げつけた際は、殴って言う事を聞かせたらしいじゃないですか。アナタ、よく手が出る性格とご友人も言ってましたよ。女性の頬にも殴られた跡がありましたし」
刑事2人に詰問される僕。
おかしい。なぜだ。
さっきまで、隣の寝室から消えた彼女を心配していた筈なのに。誘拐されたのではないかと不安だったのに。
いつの間にか、刑事から彼女に危害を加えた犯人のように扱われている。
僕は彼女と一緒に静かに暮らしていただけなのに・・・。
おかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしい。
ガッ、と両脇を刑事2人に掴まれる僕。
「申し訳ないが、続きは署の方で聞かせてもらえるかな」
「行くよ」
やめてくれ。
彼女を・・・部屋から消えた彼女を探さないと行けないんだ。
連れ戻さないと。僕の部屋の寝室に・・・!
そうして、引きずるように刑事に連れて行かれた僕。
それ以降、彼女に会う事は無かった・・・。