*閑話:ガゼル*
(一体何を企んでいるのか)
ガゼルは自分を見つめる美しい伯爵令嬢を見下ろし思案した。
「……」
こちらは睨み付けるような目しかしていないというのに、何がそんなに嬉しいのか伯爵令嬢はにこにことしている。まるで平民の素朴な娘のように、はにかんで照れたように、頬を染める。
アザリア・ドマ。
伯爵令嬢。
平民の間では「公爵家の聖女」という呼び方の方が知れ渡っている。
神の奇跡を身に宿した娘。
他人の傷や病を癒すことのできる娘。
悪名高いドマの一族に生まれながら、正義の心に目覚めた女。
国の忠臣であるロークリフォロ家の保護を受けて、市井の人々を救う聖女。
物静かで従順な女だと、そういう噂。
(噂なんてものはアテにならない。自分で見て来たものさえ、間違っていたんだ)
この数か月、ガゼルは自分がこれまで見てきた世界、思ってきたこと、感じていた価値感の何もかもが間違いだったと突きつけられた。
他国の平民ながら、一代で貴族以上の財を築きのし上がった父。常に家族と使用人たちのことを考え、商売も「そこに暮らす人たちの生活が豊かになるために」行うという信念があった。
尊敬すべき父、成り上がりと言われようと「成り上がれない者が多いから、俺が目立つんだ」と豪快に笑い飛ばす度量のある父。
それが、自分の娘と変わらない、貴族の女にのぼせて入れ込んで、散々金を貢いで、利用されるだけ利用され、破滅した。
自分だけでなく、家族や商会の人間、取引先にまで及ぶ被害の甚大さ。どうして想像しなかったのかと、ガゼルは憤り、失望した。これまで自分が見ていた父はなんだったのか。こんな愚かな事をしでかした父に、これまでの思い出も憧れも何もかも、色褪せた。
王家の忠臣と呼ばれ、高位貴族として貴族の手本になるようにと貧しい平民たちへ手を差し伸べていたロークリフォロ公爵家が、自分たちに何をしたか。
「それでは、折角こうしてドマ家へいらしてくださったので……父に紹介させてくださいね」
にこにこと、アザリア・ドマが手を叩いて提案する。
「あ、ご心配なく。本日中に、ご希望頂いたご内容につきまして処理しますので」
「……できるのか?」
自分で提案しておいてなんだが、ガゼルはやや驚いた。
本日中、というのは半分嫌がらせだ。無理だとわかり切っている事。あちらが「今日中は難しいのですが……」と交渉してくるのを待つつもりだった。
通常、商会を立ち上げるのには商人組合への登録と認可で、最短でも二週間、長ければひと月はかかる。従業員の移動に関しても、別の商会へとなれば一度ハヴェル商会との契約・雇用を打ち切る手続き、アザリアの立ち上げる商会への雇用手続きで、単純に一週間はかかる。その上、一人二人というものでもなく、ハヴェル商会は国内に支店が複数あるのだ。
一人一人に退職届を書かせ、新たな商会への「新規の契約」手続きを一人一人に行わせる。
膨大な時間と人員が必要になるのは当然だ。
それがどこまで「ドマ伯爵」の名で短くできるのか、それをガゼルは探るつもりでもあった。
揶揄っているのかと、一瞬疑う。だが隣で歩く伯爵令嬢はそうした様子がない。
「話は聞かせて貰った!娘よ!!商会立ち上げの手続きならこの父が今まさに終えたところだ。お茶の一杯でも飲んでいる内に承認されるだろう!」
ドマ家の屋敷に入るなり、黒ずくめに黒いあごひげを生やした中年の男が両腕を広げて近づいて来た。
「お父様!」
「話は聞かせて貰った……?」
「あ、ドマ家の門の前の会話ですので、基本的に筒抜けです」
訝るガゼルに伯爵令嬢の説明。
音と風の魔法で門の前の様子は映像と音声で屋敷の管理室で確認できるのだと言う。
「さて、娘よ。次はどうする?ハヴェル商会の職員の数をざっと調べてみたが、三千人はいるぞ?」
「はい。この街はもちろん、国内のハヴェル商会の支店がある全ての場所には……当然ドマ家の商会の支店もありますので、まずこれから本人希望による契約解除の書類と、雇用契約書を用意してください。通信魔法で各支店へ送信、印刷して頂き、ハヴェル商会の支店の従業員の方々に手続きを行って頂くよう説明をお願いします。先ほどの私たちのやり取りの映像を流して頂ければ従業員の方々の混乱もないかと思います」
その方法であれば、支店にいる人間たちの手続きなら、例えば十人に対して一人いれば問題なく、既に帰宅している者、休みを取って自宅にいる者、どこかへ出かけている者のみ、人を使って探して行えばいい。だがそれでも、ドマ商会の通常業務の片手間には行えないのではないか。
「全ての業務を停止し、最優先でことにあたらせよう」
「ありがとうございます、お父さま」
どれほどの利益が失われるのか、その為にどれだけの人件費や費用が掛かるのか、ガゼルが計算している間に、にこにこと父娘のやり取りは終わる。
……なぜこんなに、気軽に考えることができるのか。
何でもないこと、それよりも次の食事のメインディッシュにかけるソースをどうするかの方が重要だと、ドマ伯爵は真剣な顔で娘の意見を聞いている。
「……本当に、可能なのか?」
応接間に通され、茶を前にしながらガゼルは問うというより「どうやったら可能なのか」自分では答えが見つけられず、呟いた。
「なぜ不可能だと思うのかね?」
と、ドマ伯爵。
「関わる人間が商会の人間だけではなく、商人組合や役所も関係してくるはずだ。組合や役所のあいている時間はあと一時間程、それまでに全ての人間の書類を集めて届け出をすることは不可能ではありませんか」
「セバスチャン、今何時かね?」
ドマ伯爵はふいに、斜め後ろに立つ背筋の真っ直ぐに伸びた執事に声をかけた。
「はい、旦那様。丁度、正午を回ったところでございます」
「なんだ、まだ閉まるまで六時間は猶予があるじゃないか」
「……いや、今は……」
窓の外から見える空は茜色だ。すっかり日も落ちてきて、うっすら星さえ見えてきている。だというのにドマ家の人間たちは「まだ明るいな」と頷き合っている。
黒いものも白にする!ドマ!!