小さな手
出会いは最悪だった、そしてどこにでもありふれた、何の特別性もないくだらない出来事だった。
そんなわけだったので、あの女ことは多分大嫌いだったのだろう。
いっそ憎んでいたと言ってもいい。
とはいってもあいつにはおそらく一切そんな感情は伝わっていなかったのだろう。
大馬鹿で阿呆でど間抜けで鈍感で、欠陥だらけの駄目人間。弱っちいくせに危機感や警戒感というものをかけら一つも持っていない大馬鹿女。
空気も読まずに思ったことはずけずけ言う、人の心を思いやるとかそういう心遣いも一切ない、愛想も愛嬌も一切ない、本当に本当に可愛げのない女。
それでも、あれは天才だった。
自分の人生の中で唯一、正しく天才と称されるべき人間はあの女だけだった。
あれは知識欲の塊だ、自身の興味、好奇心を満たすためには貪欲な獣のようになんだってやる。
そんな怪物の前では、努力なんかで身につけた程度のものなんてゴミ屑程度の価値しかない。
まだ幼い子供だった頃、自分は自分のことを天才だと思っていた、そうでなければならないという自尊心が、自分がそうでなくなることを許さなかった。
けれど、本物の天才を目の当たりにすれば、自分がそんな存在なんかではないことは一目瞭然だった。
それがどうしても許せなかったので、どうしても耐え難かったので、俺はあいつを一方的に完膚なきまでに叩き潰してやろうと思った。
あいつ以上の知識を身につけ、あいつ以上の何かになれば、少しだけ自分のことが許せるようになる気がした。
それ以上に、単純にあの女を負かしたかった。
自分は自分よりもより上の存在を知って、気が狂うような屈辱を受けた。
だからそれと同等かそれ以上の苦痛をあの女に、あのぼーっとした顔が悔しさと屈辱で歪むのを、あいつが苦しむところを、見たくて仕方がない。
怒りに歪むだろうか、それとも泣くだろうか、泣けばいいと思った、その前で綺麗に笑ってやろうと思った。
けれど結局、家の書庫に忍び込み禁書を漁ってまで得た知識、あいつが絶対に知り得ない知識を語ってみたところで、あの女は悔しがったりしなかった。
むしろ逆だった、目をキラキラに輝かせて質問攻めしてきやがった、その上でありがとう、とか。
全く悔しそうでもなんでもなかった、一番に見たかったものとは真逆の顔を見せつけられた。
それは今思うと当然の結果だった、競争心や自尊心に関しては本当にかけらどころかチリ一つない馬鹿なのだから。
だから、あいつを負かすことなんて永遠に不可能だと、あの日俺は悟ったのだ。
惨めだった、一人で勝手に自棄になっていた自分がただひたすらに滑稽であまりの敗北感に死にたいとすら思った。
それでも何故か妙に清々しくて、一人になった瞬間に馬鹿みたいに大笑いして、とまらなくなった。
最悪な気分だった、それでもあれは多分気分のいい負け方だった。
何もかもがおかしくて仕方なかった、自分の行動があまりにも愚かすぎて、あんまりにも報われなくて……それでも憎悪や敗北感に勝る何かを感じている自分がおかしくておかしくて。
……それで、生まれてから今までも自分が、死にたくなるほど馬鹿らしく思えた。
一番であることに固執して、誰よりも優秀であるという思い込みにしがみついて、ただそれだけのために生きてきた。
満たされるのは自尊心だけで、他人は見下すだけの存在で、見下している癖に猫をかぶって愛想の良い良い子ちゃんを演じて……
なんて、くだらない。
それで、それまであまり好きではなかった自分のことが大嫌いになった。
それでも、それすらどうでもいいと、そう思った。
自分が馬鹿らしい、こんなのにあっさりと騙される何もかもが馬鹿らしい。
ならもう全部どうでもいいじゃないかとは思ったが、生まれた頃からの習慣と自尊心は中々強烈なものだったので、見栄を張るのも相変わらず。
落ちぶれたと思われるのがどうしようもなく嫌だったのも変わらない。
結局、あれだけの敗北を味わったところで、大したことは変わらなかった。
それでも、それ以降は、少しだけ気楽に生きられるようになった。
一生勝てないことなんてわかっていたのに、それでも俺はお前の元に通い続けた。
あからさまに突っかかることをやめて、それでも傍に居続けた俺のことをお前がどう思っていたのは知らない、わざわざ聞こうとも思わない。
多分、というか絶対になんとも思っていない、お前はそういう薄情な奴だから。
きっとお前の人生において、俺はいてもいなくてもどうでもいい道端の石ころと何一つ変わらない。
それが随分と心地よかった。
余計なことを何も聞いてこないし、だからといって邪険にしてくることもない。
そういうふうにどうでもいいと思われていたから、俺はお前の前でだけは本性を晒していた。
自分が勇者候補であることは伝えなかったけど、伝えたところでどうせお前は気にしないんだろうな。
だって、名前すら知らない、名乗ろうともしない男を信じ切って、その腕の中で呑気に眠りこけられるのだから。
馬鹿、大馬鹿、ド間抜け、阿呆。
愚かで可愛い俺の女、人を疑わず、人の悪性や危険性に目を向けられない、駄目人間。
そんなにも愚かだから、こんなどうしようもない男に捕まった。
こんなにも愚かだから、俺はこいつにだけは心を許せた。
お前だけだった、お前の前でだけ、俺は自分を偽るのをやめていた、やめられた。
どうせお前は『お前の前だけだった』と知ったところでそんなこと気にもかけないのだろうけど。
本当に腹が立つ。
元々、こういう関係になるつもりは一切なかった。
だって、いくら天才で自分が唯一心が許せる存在であるとして、こんなにも馬鹿な女とどうにかなろうとは、到底。
というか、元々そういった事柄には一切興味がなかった、両親がああなので無意識に避けていたのだろうと今となっては思う。
それでもこういう関係に無理矢理にでもなろうと思ったのは、この馬鹿の警戒心と危機感があまりにも欠如していたからだった。
小さくて愛らしい容姿をしているのに、この馬鹿は自分のことを低身長でチビのちんちくりん、その上で無愛想だから誰からもそういう目で見られないと思い込んでいる、自分みたいなのを襲うような悪趣味な男はいないだろうと、油断し切っている。
だから、変態に絡まれても反応しない、怖いとか気持ち悪いとか思うよりも驚きがまさって何にもできずに無防備に棒立ちするだけ。
ロリコン趣味の変態に話しかけられて胸を触られても棒立ち、露出狂に遭遇しても棒立ち、身体目当てのナンパ男に引っかかってもわけがわからずぼーっとしてるだけ。
ロリコンの変態に関しては偶然自分が触られてるところを発見できたから即座に引き剥がして急所を蹴り潰した上で警察に突き出せたけど、他の二件については「これこれこういうことがあったんだ、お前妹いただろう? 気をつけろよ」という事後報告を受けただけ。
そうやって事後報告してくる奴は、何事もなかったからだろうけど非常に呑気で、危ない目に遭ったという自覚がほとんど見受けられなかった。
それに、ゾッとした、この女はいつか絶対、酷い目に遭わされる、と。
それで、そうなったこの女のことを考えた、自分以外の誰かに肌を暴かれ、尊厳も何もかもを踏み躙られたその姿を。
考えただけで脳が沸騰しそうになった、どうして自分がそんなふうに怒り狂うのか、その理由はその時はまだわからなかった。
一度想像するとそれはどうしても離れてくれなかった、それでもその時はそれだけでかろうじて踏みとどまれていた。
決定打はこいつの誕生日の少し前、図書館であいつが同級生らしき少年と話をしているのを聞いた時。
後々聞いた話によると普通に溺愛している恋人がいるから絶対にそれはないという話だったけど、その時の俺の目には、その少年がどう足掻いてもこいつに好意を抱いているようにしか見えなかった。
それで、思った。
通りすがりの悪い男に蹂躙されるわけでも犯されるわけでもなく、自分以外の誰かにこの女が心と身体を許した、その時のことを。
脳だけでなく全身の血が沸騰するような怒りを感じた。
その怒りが、どんな感情によるものなのかその時は理解できなかったけど、それでももう放置することはできなかった。
この女を、他人に触れさせたくない。
自分以外のあらゆる存在から、この女を遠ざけたい。
どうすればこの願望が正当化できるのか、どうすれば達成しやすいのか。
まずは呪いの首輪を作った、他人が触れないように、近付かないように、怨念じみた感情をたっぷり込めて作った呪いは、自分でもどうかと思うくらい真っ黒でドロドロとしていた。
次にその首輪を嵌める理由を考える、それと、自分だけがこの女に触れられる正当な理由を考えた。
色々考えて、最終的に思いついたのが『結婚を前提に付き合う』だった。
結婚すれば他の男にそういう関係になるのはいけないことになる、自分だけが触れていいと誰の目から見ても明らかになる。
それならそれでいい、好きでもなんでもない、ただこれが自分以外の有象無象のものになるのがただひたすらに腹立たしい。
そう思って無理矢理首輪を嵌めてみたけれど、それほど立たずに自分がどうしようもなくこの女に惚れ込んでいたから誰にも触られたくなくて怒り狂っていただけだった、ということに気付いた。
それに気付いて、一人で乾いた笑い声を立てたのは人生で一番恥ずかしい思い出かもしれない。
だって馬鹿みたいだ、あんなにあからさまなのに、好きでもなんでもないって。
背中から抱きしめたい小さな身体は温くて柔らかい、無防備な手を掴んでみると、小さくて柔らかい。
この女を自分の部屋にあげるようになってしばらく経つ、その度にベッドに引き摺り込んで抱き枕にしているけど、こっちが何もしないのをいいことに今日も馬鹿は呑気にぐーすか眠っている。
警戒心というやつが欠片一つも存在しないのだろう、毎度毎度ブチ犯してやろうかと思うけど、本気で拒絶されたら嫌なので今のところはまだ手を出していない。
小さな手のひらを握って、手のひらの柔らかさを堪能していたら起こしてしまったらしい、寝ぼけた声を上げた彼女の両手が逃げようとする。
「こら、逃げるな」
握り直して、起きたのならもう気を使う必要もないとその小さな手をいじくり回す。
手は諦めたように大人しくなって、されるがまま。
「…………お前、なんでこんな不格好なのが好きなの?」
左手の薬指の根本あたりを指先で摘んでいたら、ボソリとそんなことを言われた。
「なんでって、どうしてそんなことを?」
「不恰好だろう? これ。私はチビだけど、それでもこれは小さすぎる。お前にはわからないかもだけど、結構不便だし。……自分の容姿とか姿格好って別にどうでもいいんだけど……これだけは嫌いなんだ」
「へえ」
そんなふうに思っていたのが意外だった、容姿に頓着していないのは知っていたし、だからこそ何も気にしていないのだと思っていた。
とはいえこいつ、割と自分がチビなこと気にしているけどな。
それでもそれは見た目の問題ではなく単純に不便だからだ、電車の吊り革に掴まれなかったり、台に乗っても本棚の高いところにある本が取れなかったり、そういうところ。
けれど手に関しては見た目が嫌であるらしい。
また手が逃げようとしたので、押さえ込む。
「……だから、お前がこんな不恰好なのを掴み込んで離そうとしないのが不思議で仕方ない。お前、こんなのが好きなのか?」
「……別に、小さい手が好きだから触ってるわけじゃない。単純にお前の手だから握ってるだけ。どれだけ不恰好だろうが小さかろうが指が欠けていようが、逆に不恰好なほど大きかったとしてもこうしてるよ。…………ああでも本当に小さいから簡単に壊れそうで不安で……だからこそ触ってはいけないもののように思えて……だから触れてると…………その」
後半は余計だった、言葉を詰まらせていると何かを察したのか、胡乱げな声を上げる。
「…………それって、ちょっとろりこ」
「違う!! 何度も言ったけど俺はお前が小さかったからこういう関係になったわけじゃない、こういう関係になりたくなった女がたまたま小さかっただけ」
「言葉だけ聞くとすごい言い訳っぽいな」
その通りだけど、本当に言い訳とかそういうのではなく、単純に惚れた女がたまたま小柄で可愛い女の子だったというだけなんだ。
それだけ、それだけなんだ、もしも俺の性癖がおかしいというのなら、それは全部こいつのせい。
「この……」
「実際どうなんだ? 私の容姿に不満とかってある? もっとセクシーな美女の方がいいとか」
なんとかこの馬鹿を納得させられるような理由をなんとか絞り出そうとしていたら、そんなことを聞かれた。
見た目は別にどうでもいい、俺のことをどうでもよさそうにしつつそれでも受け入れて離れないでいてくれれば、それでいい。
「別に。お前の見た目に惚れたわけじゃないから別にどうでも。……というかまだ時間あるから、寝てろ」
いい感じに納得してもらいそうな言葉も思いつかなかったし、逆に言い募ってもさらに疑われるだけな気がしたので、有耶無耶にするために寝かしつけることにした。
実際眠いようで、声はずっとぼんやりしている。
ひょっとしたら今の話も、目覚めた頃には全部忘れているかもしれない、それならそれで都合がいい。
手を繋いだまま黙り込むと、こちらに話す意思がないことが伝わったのか、諦めたような気配が伝わってきた。
小さな手のひらが握り返してくる、その弱々しい力を感じながら目を閉じた。
多分、こういうのを幸せとかいうのだろうと思う。




