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 3の1 乱吉

 看守長の権藤からマイクを手渡されて、高齢と呼ぶにはまだ早過ぎる細面の囚人が、おもむろに腰を持ち上げて立ち上がった。


「あー、えー、無期懲役の田尾たお乱吉らんきちと申しやす。合同コンパの発表があって今日までの三か月、人生のうちでこれほど胸がときめき、充実した日々はありやせんでした。ワシの身体の中に、このような熱き感動の情が残っておったとは知らなんだ」


「うるせー、前置きなんかいらねえから、とっとと挨拶を終わらせろ!」

「お前の感動なんか、どうでもいいぞー!」

 

 乱吉はヤジを無視してマイクに語りかける。


「ワシは満州で医院を開業しておった。医師免許など持ってはおらんが、そこいらのヤブ医者よりもよっぽど腕は良かったぞ。爆弾で飛ばされた兵隊の腕を、元通りに身体に縫い付けてやるくらいは朝飯前だ。漢方薬の調合だってできた。ワシは北京語を喋れたし広東語も理解できたから、軍に呼び出されて陸軍中野学校へ行けと命じられた。そこで福建語も修得して上海に飛ばされ、中国人の医者を装って情報を集めた。そのうち終戦を迎えて、日本人が殺されたり捕まったりしたにもかかわらず、ワシは中国人になり切って引き上げ船まで辿り着けた。舞鶴の港に着いて、行く当てもなく彷徨っていたら、一匹の野良犬がワシをにらんで襲いかかってきやがった。ワシも栄養失調だったが、その犬も栄養失調だったに違いない。ワシの腕に噛みついたそいつの首をへし折ってやった。そのぐらいの技は中野学校で訓練済みだったからのう」


「何だ、中野学校てのは。犬の栄養失調なんかどうでもいいから早く挨拶を終わらせろ!」

 ヤジを無視して乱吉は、思いの全てを吐き出すように話を続ける。


「ワシは引揚列車に乗って九州へ行き、炭鉱の鉱夫として雇われた。陽の当たることのない坑内で毎日石炭を掘っていた。戦地から引き揚げて、職にあぶれて流れて来る若者がたくさんおった。食うだけが精いっぱいで、娯楽なんて何もない。ある日みんなで酒を飲んでいる時に、一人の男の言葉に怒りが込み上げた。その男は中国人だと言った。日本人に成りすまして軍の情報を連合軍に流し続けて報酬を得て、そのおかげで戦争は終わったんだと粋がっていた。ワシは日本のために中国人になり切って、必死の諜報活動をした結果日本は負けた。ところがこいつは、日本国を裏切るためにスパイをしていた。奴の話を聞いているうちに沸々と怒りが込み上げて、自分の中に眠る中野学校の教えが蘇った。酔っぱらった勢いでワシはそいつをツルハシで殺っちまった。そいつを恨むのは筋違いだったかもしれないが、そいつを見ていると鏡を見ているような気がして、ワシは自分を抹殺するつもりでそいつを殺ってしまったんじゃ」

 

 乱吉の長広舌に、会場の誰もがイラつき始めてヤジが飛び交う。


「やいジジイ、いい加減にしろよ。戦争なんてとっくの昔に終わってるんだ。辛気くさい話をいつまでもしてんじゃねえよ。とっとと話を終わらせろ」

「そうだそうだ。いい加減にやめねえとぶち殺すぞ、老いぼれ。婆あの小便みたいに、だらだら与太話を垂れ流してんじゃねえぞボケ」

「早く酒を飲ませろ! 乾杯の音頭を取れよ看守! いつまでも焦らせてると火いつけるぞ、オンドレ」

 

 ヤジに混じって女囚の罵声が飛び交う。

「あー、やめてよ! どさくさに手を握るんじゃないよ、キャー」

「どこ触ってんだよ、いやらしいねえ。ちょっと看守さん、この死刑囚のバカが……、キャー、キャー、キャー」

 

 看守長の権藤は、この程度のヤジなど予測のうちだと見切りながらも、マイクに向かって皆を制した。


「えー、皆さん静粛に、静粛にー! スピーチが終わり次第乾杯の音頭を取りまして、食事を始めますので静かにしてくださーい。あー、皆さん静粛にー……。静かにしねえかテメーら! 懲戒棒でしばかれたいのか、このヤロー! いつまでもヤジ飛ばしてる奴は、しょっ引いて独房にぶち込むぞ!」

 

 看守長の怒号を励ましと受け止めた乱吉は、ヤジに臆することなく熱弁は佳境に入って勢いを得た。


「務めを終えて刑務所の門を出て、大通りの交差点に出てワシは一瞬目を疑った。若い女の子たちが下着同然の姿で外を歩いているではないか。シャツの背中に下着の線が浮き上がり、短いスカートからは膝まで剥き出しにさらしている。ワシは興奮して、しばらく歩くことさえままならなんだ」


 高度成長の波に乗り、昭和の世相の変化は急速だったから、服役中に多くの囚人たちは、時代の流れに取り残されて、タイムスリップして面食らうのだ。特に女性のスカートの長さは、世情の流れの象徴だったのかもしれない。


「まさか交差点で痴漢してパクられたんじゃねえだろうなあ」

 

 大食堂はざわざわと、乱吉の長話にヤジもそこそこの白け気味で、次第に無視黙殺の空気が満ち溢れてきた。そんな気配にかかわりもなく、乱吉は自分の語りに酔いしれていた。


「ワシはすでに四十歳だった。医者を始める資金は無いし、ムショ帰りを雇ってくれる会社なんかありゃあしねえ。ムショで知り合った仲間の紹介で、組の世話になるしかなかった。ある日、親分に連れられてキャバレーに行ったら、若い女が横に座ってピタリと寄り添ってきた。幼い頃、孤児院でモンペを穿いたお姉さんがワシらの世話をしてくれた。女とはそういうもんじゃと思うとった。ワシは促されるままに、隣りの若い女の膝に手を触れた」

 

 思い出の幻想を追うように乱吉は目をつむる。


「しびれるような興奮が脳味噌を貫いてめまいを覚えた。女は気にする風もなく、ワシの手を握りしめておしゃべりを続けてくれた。一か月後、親分の代わりに鉄砲玉となって人を殺めてまた刑務所のお世話になったけど、初めて親しく女とお話をした、あの時の感動を忘れることはできません。あの興奮と感動をもう一度……。そうじゃ、ワシはこの三か月の間、夢見る思いで一日一日指折り数えて今日が来るのを待ちわびた。ワシはもうすぐ還暦を迎える。女囚の皆さま方と、親しくお話ができるだけで幸せ一杯なのであります。シャバでも望めなかった合コンを、まさか獄舎の中で体験できるとは、生きてて良かった。実に生きてて良かった、ウッウッ。無期懲役囚、田尾乱吉、打ち寄せる感動の衝撃に胸が張り裂ける思いであります、へい。ウッウッ」

 

 乱吉の感動にむせぶスピーチをまっとうに聞いている者など、ただの一人もいなかった。勝手に酒宴は始まり、看守たちの中には、女囚たちと乾杯している者もいた。

 看守長の権藤は、乾杯の音頭を諦めて、場の成り行きに無視を決め込んでいる。


 大食堂には長いテーブルが三列に並べられ、およそ二十人のテーブル席に女囚が二人という按配だった。

 看守や事務員はもっぱらおもてなしの役割で、ビールとお湯割りの焼酎をお盆に乗せて運んでいる。


 大食堂はあたかも大衆酒場の雰囲気で、囚人たちの会話のやり取りは、おおむね尋常な内容であるはずはない。その中で、西の窓際のテーブル席で、三人の男女が盛り上がっていた。


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