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第2章 西園寺少年の好奇心

 中学生の頃から西園寺は、新聞記者になりたいと憧れていた。それも、政治部や経済部で活躍する表舞台のエリートではなくて、社会部の泥臭い事件記者に憧れていた。


 毎朝配達される新聞の社会面に、ときおり血なまぐさい事件が小さな記事で掲載される。さっと見過ごしてしまいそうなちっぽけな事件の内側にも、人間の一生をくつがえすような悲惨な筋書きが隠されている。その内面に、土足でずかずかと踏み込めるのは警察官と事件記者だけだ。


 警察官は義務を負っているから、事件解決のための深掘り捜査に納得できる。その一方で事件記者は、報道の自由という権利を振りかざし、他人の人生を容赦なく覗き込んでいるではないか。

 人一倍好奇心旺盛な西園寺少年は、その権利に強く魅力を感じていたのだ。生きた人間のいびつな不条理に対して、好奇心の対象は向けられていた。


 アマチュアのカメラマンが専門用語を学んで技術を習得しようとするけれども、決してプロになろうとは考えない。そこを西園寺はわきまえていた。

 犯罪を分析する専門家を目指すのではなく、ひたすら趣味の究極を追い求める高度なアマチュアのごとく、好奇心が異常に強い野次馬だったのである。


 西園寺が新聞記者になろうと考えるようになるに至って、一つの出来事が起因していた。それは朝刊の社会面に掲載された、わずか数行の記事だった。

 山手線の新宿駅のプラットホームから、若い男がふらふらと線路に吸い寄せられるように飛び降りて、入線してきた電車に轢かれて死んだという、何の変哲もないありふれた自殺者の記事だった。


 白く降り積もった新雪の上に、ポトリと落ちた南天の実の赤い色が、目に焼きついて離れないことがある。その小さな自殺者の記事が、中学生だった西園寺の心の襞に、割り切れない疑念の傷痕を残して刻まれた。



― 命 ―


 つがいの文鳥に餌を与え忘れて死なせてしまったことがある。学校から帰って鳥籠を覗いた時に、身動きもせず横たわっている二羽の文鳥を目にして絶句した。

 慌てて扉を開けて手の平に載せた文鳥の死骸に、まだ生の温もりがまざまざと残っていた。餌入れを人差し指でまさぐると、実のない粟の殻だけがカサカサと触れるだけだった。

 

 水を取り替え、餌入れをチェックして学校へ行くのが西園寺少年に任されていた毎朝の務めだった。その日の朝も水を取り替えて餌入れを確かめたつもりだったが、殻を吹き飛ばす作業を怠ってしまったので、実のない殻の嵩にだまされた。

 

 たったそれだけのミスによって、自分の責任によって生かされていた二つの小さな命が失われた。悔しくて、悲しくて胸が震えた。

 両の手で二羽の文鳥を手の平に包んでひざまずき、呼吸をする気力さえも失くして瞑目していた。


 何に対してそれほどまでに悔しく悲しかったのか。奪ったものが命だからだ。西園寺少年にとって、小鳥の生命も人間の生命も、命という意味で同一だった。


 幼少の頃でさえも、仲間たちが蝶やトンボの羽をちぎり、芋虫になったぞとはやし立てて喝采したり、解剖の実験だと称してトカゲや蛙の臓腑をもてあそんで喜んでいるさまを見るに耐えられなかった。

 

 あらゆる生物に天から与えられた生命があり、永遠の終焉を迎えるまで生きる姿こそが正道であり、価値であり、美であると信じていた。他の生物の生命を奪う行為は、天に対する冒涜だと考えて畏怖していた。


 輪廻だとか転生だとかを西園寺は信じなかった。天国とか地獄とか通俗的な空想世界などありえないのだと確信していた。死とは闇であり、生命の永遠の消滅だった。

 死への恐怖が生きることへの確執となり、自らの命を絶つには余程の理由がなければならなかったから、駅のプラットホームからふらっと飛び降りて死ねるという行為に、西園寺少年の好奇心が新鮮な衝撃をもって反応したのだ。

 

 死を決意するほどの勇気があれば、生きる為にどんな努力でもできるはずではないかと、単純に怒りを覚えた。

 現実に挫折し、努力することを否定し、社会から逃避するために死をもって清算するという行為は、これから生きようとする少年にとって、失望という泥水を頭から浴びせかけられたようなものではないか。


 自宅に父の友人が訪ねて来たのは、その記事が掲載された数日後のことであった。



― 自殺 ―


 当時、西園寺の父は検察官をしており、その友人は大手新聞社の社会部に勤務していた。父とは大学時代からの友人らしく、西園寺の幼少の頃から度々自宅に訪れてきた。

 酒に酔って泊っていくこともしばしばだったから気兼ねもなく、少年の西園寺が酒席に立ち入ろうが摘まみ食いをしようが、猫がうろついているくらいの煩わしさでしかなかったものと思われる。

 

 西園寺少年は酒席のかたわらで、聞くとはなしに聞こえてきた話に耳をそばだてていた。


「新宿駅での飛込み自殺の件だが、同和問題がからんでいるそうじゃないか。詳しく調べてみたのかね?」


「ああ、些細な自殺事件の裏側に、あれほど複雑な背景があろうとはねえ。調べてはみたんだけど、同和がからむと安易に記事にはできんのでなあ」


「自殺の動機はなんだい?」


「厭世の糸を断ち切るために人を殺し、なお絶望の淵から抜け出せず、殺人の罪をみずから罰して自殺したというところかな」

 新聞記者である父の友人の話を総括すると次のようになる。


 自殺をした若者は兵庫県を本籍としていた。その場所は同和地区として差別され、若者は部落民への差別解放問題に取り組む団体のメンバーとして活動していた。

 ところが、団体役員の不正行為やイデオロギーの差異による内部対立などを目の当たりにして、戦うことに疑問を感じた若者は、部落民というレッテルを拭い去ることを決意して、新天地を求めて同和地区を抜け出し東京へ逃げてきた。


 東京という大都会は、若者の存在を寛大に受け入れてくれた。どこの企業の面接でも部落という認識がまるでなかったので、職種や待遇さえ問わなければ比較的容易に就職が決まった。

 

 若者は下町の印刷工場に就職した。真面目に勤務しているうちに、好意を寄せる女性が現われた。互いに想いを寄せ合って、いよいよ結婚の段へと話が進んだ頃に、部落の差別解放運動を共に戦っていた親戚の男が追ってきた。

 

 若者を卑怯者と揶揄して糾弾するその男は、手製のチラシを作って工場の人たちにばらまいた。工場の経営者は若者と面談し、勤勉に働く者に差別や解雇などしないから安心しろといって励ましてくれた。


 さらに男は婚約者につきまとい、若者の父親が部落で屠殺場を営んでいるのだと告げた。婚約者の態度があからさまに変わった。それ以来若者は、工場で働く仲間から白眼視されているような気がして食欲が萎えた。激しい怒りに血が逆巻いた。

 

 部落民という烙印を生涯消すことができないという現実を思い知らされ疲弊して、生きることに絶望した若者が最後の戦いに挑んだ。

 蜜蜂は、攻撃してくる敵を毒針で刺して自らも死ぬ。蛆虫でいるよりも蜜蜂でありたいと若者は願った。

 

 木賃宿をねぐらにしていた男をたずねて、若者は包丁で男を刺し殺した。戻る場所もなく、行くあてもなく、差別という烙印に加えて殺人という罪まで背負い、ふらふらとさまよった末に新宿駅のプラットホームから身を投げた。


 朝刊の些細な記事の裏側に、これほど複雑な社会的事情がひそんでいることに西園寺少年は感動を覚えた。

 わずか数行の活字の背面に、読者には知り得ない泥まみれの現実が隠されている。新聞記者だけが特別の権利であるかのごとく、事件の裏側を享受しているではないか。

 

 酵母で発酵されたワインの原酒の芳香に似て、秘密は常に甘美な謎を秘めている。泥沼のような他人の不幸を覗き見る事こそが、西園寺正義の求める好奇の極みであったのだ。


 それ以来、社会面に掲載された事件の記事を見つけては飛びついて、自分なりに事件の真相を解き明かしてやろうと足掻あがくのだが、やっぱり虚しい思いをするだけだ。

 読者は常に紙面の表側に締め出され、藪の向こうの野次馬として、事件を眺めることしかできないのだ。

 

 時折新聞記事を切り抜いて、父に事件の真相を問いただしてみたが、辟易として相手にしてはくれなかった。その度に少年の心には、深く掘り下げずにはいられない焦りに似た使命感が背筋を走る。

 

 とりわけ並外れた好奇心が、深層心理を求めて泥沼に蠢く血の臭いを嗅ぎ出そうとする。桑の葉っぱを食いつくす蚕のように、宿命の薄ひだを噛み砕くのだ。


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