最終章 慙愧憂憤
刑の執行を終えて所長室に戻った西園寺に、看守長の権藤がねぎらいの声をかけてお茶を差し出した。
「ご苦労さまでした。いよいよ始まりましたね。しかし、大丈夫なんでしょうかねえ、死刑囚なんかで……」
これまで西園寺の大胆な思想と行動力に啓発されて、全ての思惑を受け入れ従ってきた権藤だが、さすがに今回の企みだけは緊張を覚える。
昨日までは計画だったが、ついに実行されたと思うと、やおら鳥肌が立って戦慄が走るのだ。
法を犯してまでリスクを負って、死刑囚だけで国を救えるのか。権藤の不安を拭い去るように西園寺が言い放つ。
「戸籍も国籍も奪われて、生きる権利の保証もなければ死をも恐れぬ最強の戦士になるしかない。中途半端な愛国心で、架空の戦闘に憧れる若者よりも、彼らは本気で国を守って戦うだろう。国籍を持たない傭兵として、日本を死守する人間ドーベルマンとなればよいのだ」
いつものように説得されてうなずく権藤は、法務省から今朝がた電話連絡を受けたことを報告する。
「後任の所長が、ヘリでこちらに向かっているそうです。次の処刑の指示書を携えているそうです」
「そうか。後任の所長は法務に疎いから、よろしくフォローしてやってくれたまえ」
「法務省でなければ、てっきり防衛庁の幹部が派遣されると思っていましたが、情報局から所長が来るとは意外でした」
後任の人事が予想外だったことを権藤は気にしていたが、当然のことだと言わんばかりに西園寺が念押しをする。
「そりゃあそうだよ。あからさまに国策とは公表できない絶対極秘の秘策だからね。万が一にも防衛庁が絡んでいることが世間に知られたら、法も秩序も崩壊してしまうだろう。私自身も防衛庁の人間とは誰とも面識がない。すべては内閣情報調査室と結託して画策したことだ。その事については、君もしっかり認識しておいて欲しい」
「はい、承知しました」
西園寺は思い出す。
昭和四十八年、一年前に日中国交正常化を成し遂げた田中角栄首相は、特別の決意を持ってソ連を訪問した。そして、北方領土の四島返還を執拗に迫ったのだ。
解決済みを主張して譲らないソ連の首相と、息詰まる三日間の密談の中で、ついに田中はソ連から密約を得て、帰路の機内で密かにほくそ笑んでいたのだ。
ソ連の資源開発と経済協力の見返りに、歯舞、積丹の二島返還を確約したという話を、内閣情報局に勤務する東大時代の友人から聞いて喝采した。
しかしながら冷戦当時のアメリカは、領土返還による日ソの平和交渉や経済協力を好まなかった。また、国後、択捉を含めた四島の同時返還ではないことに野党が猛反発し、世論もこれに迎合してしまって、この話は闇に葬られることになってしまった。
この顛末を友人から極秘だと念押しされて耳にしたとき、西園寺は忸怩たる思いに失望した。失望したのは日本の内閣も同様だった。日本は平和に慣れ過ぎていると。領土の問題に鈍感すぎると。
国民の平和ボケも定着し、いまだに憲法の改正も儘ならない。
野党は自党の存続のために票集めに奔走し、国民に戦争の恐怖を煽って憲法第九条を政治の盾にしている。
国際平和を希求し、永久に戦力を放棄しますと、マッカーサーによって憲法を書き換えられた。押し付けられた第九条を真に受けて、永遠に平和だと国民は信じ込んでいる。百年たってもマッカーサーが、日本の平和を守ってくれるのか。
かつてソ連は平和条約を無視して連合軍に参戦し、無条件降伏と同時に大陸に残る日本人をシベリアに送って酷使した。さらに、樺太と北方四島を占領するだけでなく、北海道を二分して国境を塗り替えようとした。今、いずこかの国が、北海道を占拠しないと誰が言い切れるのか。
北の国は核で武装し、日本人など誘拐していないと白を切る。南の国は反日教育を進めて敵対意識を露わに示す。南シナ海の領域を勝手に広げる大国が、沖縄や九州を襲ってこないと誰が言い切れるのか。
日本国憲法は、全ての国民に生きる権利を保障している。保障されながらも、誘拐された日本人を取り戻すことができない。領海の地に侵入されても反撃できない。日本人の生きる権利と国家の平和を維持するために、敵国を威嚇できるだけの軍事力が必要なのだ。海底戦艦の建造は必須だったのだ。
世界の誰にも極秘裏に進行している計画だけに、乗組員を自衛隊から派遣させることも、国民から希望者を募るわけにもいかなかった。
この計画を情報局の友人から耳にした時、西園寺の思惑が合致したのだ。死刑囚には、死刑になるべきクズだけではなく、生かして新たな人生を歩ませたい、運命を履き違えた者もいる。
獄舎の外に鳥のさえずりも、葉ずれのささやきも聞こえないが、時は確実に動いている。その証拠に、はるか彼方からヘリの爆音が近付いてきた。
知床の清流に生まれたヤマメの稚魚は、やがて川を下って海に出る。太平洋の荒波にもまれて回遊し、立派に成長して戻って来る。そして産卵を終えた屍は、森の滋養となって蘇る。
砂上の楼閣のような監獄に、戻って来る囚人などいるはずもない。いつしか崩壊してしまうかもしれないが、屍が国を守ってくれるかもしれない。
いつの日にか、海底戦艦が戦う姿、それを見ることが西園寺正義の究極の好奇心だったのかもしれない。
パタパタと、パタパタと、獄舎の空き地に降り立ったヘリのプロペラが、アイドリングを続けて回転している。
終
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