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 1の4 思惑

 暦の上ではとっくに春なのに、オホーツクから流れくる名残りの雪が、所長室の窓に吹きつけられて舞っている。

 

 獄舎を囲む低くて簡素な塀囲みでは、いまだ零下の寒風をさえぎる役には立たないようで、軒先のツララにまとわりつく粉雪が、回転木馬のように踊っている。


「雪は白くてすがすがしいが、こうも長々と降り続けると鬱陶しくて、春の花の艶やかな彩りが恋しくなるねえ」

 所長室の窓から雪景色を眺めながら西園寺が溜め息をつく。

 

 デスクの前のソファーに腰を下ろした看守長の権藤が、足を組んだまま背筋を伸ばして言葉を返す。


「もうすぐ知床にも春が訪れますよ。もっとも、春が来たって夏が来たって、ここだけは何も変わりません。白い雪が緑の森に変化するだけで、他に何の色彩もありませんよ。私は旭川に赴任したことがありますが、最果ての獄舎に似合う花なんてあるはずもない。私はすっかり無彩色な世界に慣れてしまいましたよ」

 

 変化のない日常こそが、最果ての獄裡にふさわしい日課だと思わせぶりな口調であった。


「変えようとしなければ、何も変わりはしないだけさ」

「はあ、まあそうでしょうね。ところで西園寺所長、先日、看守たちにお話になりました三囚合同コンパの件なのですがねえ……」

 

 承知していると言わんばかりに西園寺は手の平をかざし、憂慮して心に含む権藤の言葉を黙らせた。


「権藤くん、この監獄を設立した目的を知っているのは君と私だけだ。その目的だけを遂行する為ならば、私がここにいる必要はない。私はね、法務大臣や、内閣情報調査室の連中とは少し思惑が違うんだよ。三囚合コンなどは、ほんの手始めの序幕にすぎない」


「しかし所長、このようなことが噂となって上層部に伝わりますと、はなはだまずい事になるのではないでしょうか」


「この知床特殊監獄が、法務省直轄の特別管区であることを忘れないでくれたまえ。ここでの出来事が、他の管区に知られることはない」

 言葉を継げない権藤に、西園寺は畳みかける。


「君は囚人たちの運命について考えたことがあるかね?」

 とんでもないという思いで権藤は口をすぼめ、西園寺の続く言葉を待ち受ける。


「人は生まれて生かされる……。死を怖れながらも目をそむけて、命の尽きるまで生かされ続ける。思い思いの煩悩に死をまぎらわせ、薄氷のような幸福を踏みしめながら生かされる。すべての人間に課せられた宿命に沿って生かされる……。囚人たちは塀の内に閉じ込められたまま死を迎えるが、生きている間の時の流れは塀の内でも外でも同じなのだ。同じ時空に流されながら、シャバの人間に許されて、囚人たちに許されないものがある。それは何だと思うかね、権藤くん」


「それはもちろん自由でしょう。囚人たちには行動の自由も言論の自由もありませんから」


「自由を与えれば、彼らが変われると思うかね?」

「また極悪非道の罪を犯すことでしょう」


「そうさ。そんなものは彼らにとって、屁の突っ張りにもなりはしないのさ。彼らにとって必要なのは、束縛された煩悩なのだよ。それは劇薬と同じだ。良薬にもなるし猛毒にもなる。君が何を心配し、何を言いたいかはよく分かる。だが、何も言わずに私の実験に参画してもらいたいのだ」


「分かりました所長。看守たちには私から厳しく通達しておきましょう。録音可能な盗聴器も用意しておりますので、当日は大食堂の各テーブルに設置しておきましょう」

 西園寺の性格をわきまえている権藤は、温順な笑みでうなずききびすを返した。


「権藤くん、まあ、コーヒーでも飲んで行かないかね」

 退室しようと背を向けた権藤を呼び止めた西園寺は、デスクから立ち上がってインスタントコーヒーの瓶を棚から取り出した。


「所長、私がやりますよ」

 事務室からやかんを持ってきた権藤が、テーブルに揃えられたコーヒーカップに湯を注ぎ、西園寺と向かい合ってソファーに腰を下ろした。

 

 西園寺は黙ってコーヒーを飲んでいるのだが、何かを語ろうとして思いめぐらしている。そんな気配を察した権藤もまた、黙ってコーヒーをすすっている。

 やがて思考がまとまったのか、おもむろに西園寺の口が開いた。


「まだ幼い頃だった、学校の裏山の藪道を仲間と一緒に駆け回り、一人の男の子が草笛を作るんだと自慢げに小刀を振り回していた。靴を脱ぎ捨て、裸足になって夢中で遊んでいるうちに、足の裏から血をにじませていたんだよ。藪の切れ端で傷ついたのかもしれないなあ。数日後、その男の子は破傷風で死んでしまった」

 

 思いがけない話の切り口に、権藤は飲みかけのカップをテーブルに置き、相槌も打てずに西園寺の口元を見つめるしかなかった。


「私はそれ以来、ケガをして血を流すたびに破傷風に怯えたよ。だけど考えてみれば、たまたま小さな傷口に破傷風菌が紛れ込んで死に至る人間なんて、百万人に一人か、十億人に一人もいないのかもしれないじゃないか。それでもその男の子は死んだ。私はそれから数十年も長く生きて、様々な経験を積み重ねてきたというのに、彼は幼い子供のまま青年にも大人にもなれず、わずか七年で人生を終えた」

 

 西園寺は窓外に目を移してコーヒーをすする。これで話は終わったのかと権藤はおもんばかったが、いやそんなはずはないと否定した。かつて西園寺の話に中途半端な終わり方などあり得なかった。権藤もコーヒーを喉に流し込んで言葉を待った。

 

 雪の厚みに傾ぐ松の梢が、重さに耐えきれずにしなって雪の塊をボソリと落とす。隣の枝が連鎖して、凍り付いた雪を枝先から振りほどく。

 

 窓外に視線を据えたまま西園寺は、雪でも梢でもない何かを見ているようだった。そうしてしみじみと権藤に語りかけた。


「その時は子供だったから何も感じなかったが、法務省に入って海外を回っているうちに、運命のからくりを感じたんだよ」

「運命の、からくり……ですか」

「そうだ。運命は天命だけではないだろうってね」

 

 小学生の頃から権藤は、学校から帰れば机に向かって勉強するのが習慣だった。疑問も不平もなしに親のしつけに従っていた。

 常に優等生であることが当たり前だと認識していたから、苦もなく東京大学に入学して法務省に勤務した。上司の西園寺もそうだったかもしれない。しかし権藤には、彼ほどの狂気がなかったから、言葉の真意を汲み取ることはできなかった。


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