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第12章 処刑

 天井梁のスピーカーから、ニニ・ロッソのトランペットが高らかに響き渡る。

「おはようございます」と、爽やかな女囚のアナウンスが流れて、囚人たちの一日が始まる。


 洗面、清掃を終えてから大食堂での朝食が始まる。食事班が薬缶やかんを抱えてかいがいしく動き回り、囚人たちにお茶やコーヒーを注ぎ足している。


 所長室では東側の窓が開け放たれて朝日が眩い。西園寺と看守長の権藤が、テーブルを挟んで法務省から届いた一通の書類を前に向き合っていた。


「あっと言う間の一年だったなあ」

 西園寺の感慨深い言葉の意味を察して権藤が即答する。


「はい、本当にあっと言う間でした。囚人たちの心はすさみ、看守の対応も荒れまくっていた最果ての監獄が、わずか一年でこのように変貌するなんて、私にはいまだに信じられません」


「私は確信していたよ。かつて日本のいしずえとしてたくましく生きようとしながら落ちこぼれ、すべての望みを絶たれ、未来を失い、極寒の流刑地に隔離された団塊の監獄だからこそ可能だとね」

「あらためて団塊世代の底力を見たように思います」


「ここに収監された囚人たちは、単に極悪非道なだけじゃないから」

「はい、そうですね。ところで所長、この書類の件ですが……」


「うむ、七日後の金曜日に決めよう」

「えっ、しかし所長、その日は……」


「いいのだ。そういう事にしてくれないか」

「は、はい。承知しました」

 権藤が退室すると西園寺は窓辺に立ち、雪を残した硫黄山のてっぺんを、木立の合間から眺めながら静かに目をつむった。



 獄舎の外壁は淡いベージュに塗装され、内装も外装も見違えるような明るさに変貌していた。ところが獄舎から渡り廊下で繋がっている北のはずれの棟だけは、灰色のコンクリートが剥き出しのまま、ひっそりと静まり返っている。


 一度も使われたことのないその棟には、小さな部屋があるようだが、周囲の壁面に窓は無い。囚人たちの清掃班もそこだけは立ち入り禁止になっていたから、看守以外に近付く者はいなかったが、おおよその見当はついていた。



 まだ夜明け前だというのに、ヒヨドリのさえずりがやけに騒がしい。すっかり目を覚ましてしまった郷田健吉は、起床には早いのでそのまま毛布にくるまっていた。すると、監房の廊下にかすかな靴音が響いて聞こえた。


 近付いてくる音が間違いなく看守の靴音だと確信した健吉は、びくりと身をこわばらせて耳を澄ました。


 かつて拘置所にいたころには、幾度か聞いたことがある。ここに来て一度も聞くことのなかった、初めて耳にする靴音に身を震わせた。

 暗闇の監房のあちこちから、衣類のこすれる音がざわざわと耳に付く。すでにみんな目を覚まして、死神の靴音の行方を確かめるべく、耳をそばだてているのだ。


 平穏で活気にあふれた毎日に慣れきってしまった死刑囚監房の囚人たちは、自分が死刑囚であったことを改めて気付かされているに違いない。それにしてもなぜ、こんな早朝なのだ。靴音は一人か、二人か、三人か……。間違いない。間違いないのだ。

 誰もが戦慄を覚えながら息をひそめて待つ。そして靴音が己の居室の前を通り過ぎた瞬間に、死を免れたことを知り、ようやく胸をなでおろす。


 靴音はどんどん大きくなる。どこまで行くのだ、どこで止まるのだ。耳を澄まして毛布にくるまっていた健吉の居室の前で、ピタリと靴音が止まった。獄舎の空気がいきなり張り詰めて凍りついた。


 二人の看守が扉の前に立哨して身じろぎもせず、健吉が動き出すのを待っている。彼らもまた、随分と緊張しているのか表情は硬く冷たい。


 毛布をはねのけて立ち上がろうとする健吉の膝が震えてよろめいた。看守が扉を開けて手を差し伸べるが、健吉はその手を振り払って立ち上がり、姿勢を正してようやく凛とした気迫を取り戻してみせる。


 時間が止まったかのように、うやむやな視界に幻が見える。昨日があり今日があり、明日へと繋がる橋が確実に見えていた。その橋は幻なんだと、分かっていながら夢を見ていた。とっくに覚悟していたはずなのに、いま目の前で橋を奪われ虹を消されて、夢に代わって突然の恐怖がじわりと蘇る。


 監房から出された健吉は捕縄されることもなく、廊下を右へ行くようにと看守に促された。

 死刑囚監房の通路をゆっくりと進んで突き当りの扉が開かれると、一度も通ったことのない渡り廊下が続いてその先に灰色の棟が見える。

 窓の無い剥き出しのコンクリートの壁面が、生きようとする命のすべてを遮断するかのように沈黙する。廊下に踏み出す足先が震えて足がもつれた。



 所長が赴任して一年が経ち、知床監獄は著しく変わったと健吉は思う。いつの間にか教誨師の姿が消えて、お祈りや法話の代わりに西園寺所長の訓示が定例となった。

 囚人たちによる選挙によって委員が選任され、計画や目標が示されて班ごとに討論が行われた。生きる目的も意欲もない囚人たちにそれぞれの役割が与えられ、厳しい規律を強いられる代わりに人間扱いされるようになった。


 寒々しいブタ箱だった監房に光が差し込み、獄舎の環境は見違えるように変わっていった。無期懲役囚は明日の喜びを見出すようになり、死刑囚は明日の存在を疑わなくなっていた。誰もが希望を抱き、生きがいを感じ始めていたのだ。


 そうやって生きる目的を示され役割を与えられてしまったら、死刑囚だって死ぬことが怖くなるではないか。

 この監獄に来る前ならば、死刑なんて怖くはなかった。一年前なら死ぬことなんて怖くはなかった。いつ処刑されても構うものかと覚悟を決めて待ち受けていた。


 こんな世の中に命も魂もかき捨ててやると、やけくその腹を括っていた。それなのにどうして今は、こんなに足が、肩が、胸が震えるのか。

 死に直面したからか。違う。見てはいけない夢を見たからだ。生きる希望が死への恐怖を呼び起こしたのだ。こんなことなら生きる希望なんか持ちたくなかった。こんなことなら一年前に殺してくれていれば苦しむことなく天国でも地獄へでも行けたではないか。健吉は胸のうちで絶叫し、絶句した。


 北の棟までの渡り廊下は長く思えた。いつまで続く廊下なのだと思うくらい長く思えた。暗かったのか、明るかったのか、それすらも分からなかった。


 やがて棟の扉が開かれ香の匂いが鼻孔をついて、促されるまま建屋に入り、殺風景な空間にぽつんと置かれた白木の椅子に座らされた。

 看守が立ち去ると間もなく一人の僧侶が現れて、小さなテーブル越しに向き合った。


 いまさら教誨師が何しに来やがったと、健吉は舌打ちをした。いまさら押し付けがましい説教を聞いたところで、癒されるどころかむかっ腹が立つだけだ。

 この僧侶がこれまで何人の死刑囚と対峙してきたか知らないが、坊主を見れば瀬戸内の実家を思い出す。欲に塗れた住職夫妻を撲殺した、あの忌まわしい記憶がよみがえる。


 不快な思いを露わにそっぽを向いて、あからさまに眉をひそめる死刑囚の心を汲み取ったのか見放したのか、僧侶はおもむろに念仏を唱え始めた。健吉もまた黙想し、この一年を回顧してみた。



 西園寺正義と名乗る所長が赴任してきて、三囚合同コンパを開催したと思ったら、いきなり改革を始めると叫んで拳を掲げた。

 何が始まるのかと思っていたら、俺のような男にも役割と目的が与えられて、その役割には責任と権利があると言われた。

 責任とか権利とか、これまで聞いた事もない言葉をいくつも押し付けられて、どんな意味があるのか分からずに戸惑った。


 分からなくとも良いから、とにかくやれと言われて与えられた仕事を始めてみたら、まるでヤクザの用心棒みたいな役割りだった。


 新しいルールが作成されたけど、それを全囚人に守らせることが俺の責任で、守らない奴や逆らう奴には、しごいても引っぱたいても、どんな制裁を加えても良いと所長は言った。それが権利の行使だと教えられた。


 だまされたつもりで実行してみた。ルールの内容が判らずにブツブツと不平を言う奴がいた。何もしたくないと背を向ける怠惰な奴がいた。所長の傲慢だ、急進的だと叫んで反抗する奴もいた。お前はいつから所長のイヌになったのだとあざける奴もいた。

 俺は片っ端からそいつらを張り倒してやった。徹底的に威圧してルールを守らせてやった。


 俺は小学生のころ、近所の小生意気な同級生をいじめて泣かせてお袋にひどく叱られたことがある。いじめている時は胸がスッとして小気味良かったが、その行為には陰惨な不快さが残って気分は晴れなかった。

 ところがどうだ。責任と権利という大義名分を与えられて、肩で風を切るようにして獄舎の廊下を闊歩していれば、自分が警察署長か大統領にでもなったみたいで気分が良かった。


 ルールを守らせるためにルールを学んだ。学ぶという行為を教えられて初めて鉛筆を握った。京麻呂や冴子姉さんにも意見を求めてやり方を工夫した。目的なんて分からないけど、初めて生きがいを見つけた気がして心がはずんだ。


 囚人はみんな俺同様の馬鹿だとばかり思っていたら、建築士や電気技師などの資格を持ったインテリがたくさんいやがった。一流の頭脳を持ち、最高学府を出た医者や教授や学者たちが、いったいどんな理由でこんな地の果てまで流されて来たのか。

 頭が良過ぎて気が短くて、堪忍袋が切れて人を殺して腑抜けになって、抜け殻の魂を檻の中でくすぶらせていやがるのか。

 奴らはみんな俺の制裁にいやみな顔をして見下していやがったけど、痛いとか苦しいとか肉体的な体罰にはまるで弱かった。だから究極の苦痛と恐怖を味あわせてやった。


 根負けした奴らはしぶしぶ眠っていた脳味噌を働かせ始めた。そのうち目が輝き士気が上がって雄叫びを始めやがった。

 寡黙で存在感のなかった奴らの頭脳が動き始めると、何かに取りつかれたような鋭い目つきと迫力で、烏合の囚人たちに向かって指示を始めた。周囲の森林を伐採させて、クラブ活動や研究のためのハウスの設計を企画した。


 囚人たちが動き始めた。刃物を取り上げられていた料理人が、包丁を握って料理クラブを立ち上げた。農作物の品種改良を試みて収穫物を出荷した。ヒグマとキタキツネに曲芸を仕込んでサーカス団を結成した。


 死刑囚も無期懲役囚も女囚も一緒になって、汗を流し成果を求めて労働に励むうちに、強制労働から強制が消えて生きがいとなった。

 明日は死ぬのか生かされるのかと、夜ごと思い悩む死刑囚などいなくなった。無期懲役囚の淀んだ瞳に光が射した。囚人たちの顔から陰りが消えて、生き生きと目を輝かせるようになった。


 そもそも生まれた時から人殺しなんていやしないのだ。生まれた環境が平等ならば、世の中を恨むことも卑屈になることもなかったのさ。俺たちみんな、うぶで素直な人間だったと俺は思う。

 

 金が貧富の差を示し、地位が人間の格差をつける。ここには金も地位もないし、年齢の自覚さえもない。区別があるとすれば男女の風呂場と便所くらいだ。


 規律とか勤勉とか、希望とか夢だとか、自分たちには縁のない他人の寝言と決め付けていた。それがほのかな幻影となって虹となって、輪郭を帯びて霞みの向こうに見えてきた。

 そんな時に無慈悲にも無情にも、死刑執行の命令書が知床の果てまで飛んで来た。



 健吉の瞼に涙が浮かんだ。赤ん坊のとき以来流したことのない涙を、忸怩たる悔しさのあまり堰が切れたように頬を伝ってこぼれて落ちた。

 死んでも良いと思っている時に生かされて、生きる喜びを知らされた時に死ねと言う。この不条理がこの世の中の摂理なのか。


 どうせ死ぬならこんなうらぶれた密室で、妬みも憎しみもない他人の手によって命を奪われて果てるよりも、林や畑地で汗を流している際に、ヒグマに襲われて死んだほうがましだと思った。


 いつのまにか僧侶の念仏は終わっていた。芳しい香の匂いがこの世との別れをいざなうように、生きたいと願う最後の煩悩をたしなめるように、目から鼻へ、鼻から喉へ、喉から臓腑へと沁み込んだ。


 看守に腕を支えられて健吉は立ち上がった。カーテンは開かれている。敷居をまたいで仕切られた床の真上に直立した。縄目の輪が喉仏に触れて覚悟を決めた。

 恐怖は無い、いや、ある。いや、あるか無いかすら分からない。恨む者は一人としていない。これが俺の宿命なのだと腹を括って目を閉じた。

 


 西園寺所長の右手がガラスの向こうでゆっくりと上げられた。三人の刑務官の指が動いてスイッチが押された。健吉の姿は一瞬にして床下へと消えてしまった。


 刑に立ち会った検察官がふと首をかしげ、これまでの刑場にはない微妙な異音を耳にして、席を立って覗き込もうとした。


 西園寺は素早く検察官の胸に手をやり、ここから先は我々の仕事ですから、速やかにお引き取り願いたい、と、有無を言わさぬ口調で機先を制した。



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