11の11 破壊の残像
加賀見浩介が事件を知らされたのは、ジャカルタに出張中のホテルの部屋だった。東京の本社から電話を受けた時には、にわかに信じることができず呆然とした。
身体の芯から血の気が引いて、立っていることさえできずに、知らせが誤報であることを切に願うだけだった。
<報道の概要>
瀬戸内海の周防大島で、十八歳の男が無施錠の民家に侵入した。台所に立っていた女性を引き倒して襲いかかった。激しく抵抗されたため首を絞めて失神させた。その時、赤ん坊が大声で泣きだしたので、首を掴んで床にたたきつけて殺害した。半狂乱になった女性は起き上がり、赤ん坊を抱きあげて石垣側のベランダから飛び降りた。その際に頭蓋骨を骨折し、昏睡状態のまま入院中である。隣に住む人の通報により県警は、バス停にいた男を補導した。
身じろぎも出来ない飛行機の中で浩介は、凄まじい慟哭の念が臓腑を抉り、逆上する怒りの狂気に身体が引き裂かれてしまいそうだった。
病院に駆けつけるとベッドに千代は寝かされていた。脳幹の機能は残存しているが植物状態で、意識が回復することはないだろうと医師から告げられた。
娘の千夏は検視の後、司法解剖はされずに警察病院の遺体安置室で眠っている。
テレビの画面で連行されていく犯人の姿を見た。不貞腐れた顔の裏側に、獣が見せる無邪気な殺意が覗けて見えた。未成年だからと罪の重さをあなどっている風だった。
浩介は包丁を胸元に隠して拘置所に向かった。十八歳の男が罪を犯したところで少年院に送り込まれて、一年もすれば解放されるに違いない。
そんな事は絶対に許さない。司法が裁けないなら俺がそいつを死刑にしてやる。そう決意して拘置所に押しかけて、犯人に会わせろと叫んだら帰れと言われた。
押し問答のうえ包丁を振り回したら銃刀法違反で逮捕された。この騒ぎをマスコミが取り上げて世間が同情した。
浩介の異常な行動に好奇心を掻き立てられた週刊誌の記者が取材に訪れた。浩介はその記者と取引をした。これまでの経緯と自分の心情を洗いざらい話す代わりに、犯人の身辺を調べて情報を欲しいと。週刊誌の記者は承知してくれた。
未成年だからと伏せられていた犯人の名前が鮫島鉄也だと分かった。広島に実家があって父親の資産と母の愛情に支えられて生きていると知った。幸子という女が何度も面会に訪れて、身元引受人になると申し出ている事を知った。
浩介は鮫島鉄也の実家に向かった。被害者の突然の来訪に両親は戸惑ったが、謝罪を求めて来たのだろうと憶測して警戒しながらも迎え入れた。
テーブルを挟んで両親と対峙した浩介は、一人娘が殺され妻は植物人間になり、自分は生きる目的を失ったので責任を取れと訴えた。
ひたすら謝辞を繰り返しながらも、慰謝料の金額は如何ほどだろうかと窺う目つきの両親に、浩介は十億円を要求した。
金額の多寡に絶句して、目をひん剥いて仰け反る両親に浩介は静かに言葉を継いだ。
父親の資産が息子を悪行に走らせて、未成年だからと高を括って人さえ殺す。息子が釈放されて帰って来れば、父親の金を当てにしてまた強盗や殺人を繰り返す。たとえ両親が死んだって、一人息子の自分に遺産が入ると考えているから、真っ当に仕事なんかする意欲がない。
「息子の罪はあんたたちの責任だ。その責任を取ってくれるなら、慰謝料はいらない」
そう言って浩介は、テーブルの上に白紙を広げた。
「遺書を書け」と、浩介は命じた。
自分が死んだら土地、金銭、財産の全てを息子の鉄也には譲らず、療養施設に寄付をすると書けと命じた。犯罪者の息子の罪を恥じて、死者への供養と社会の為に、全ての財産を寄付すると書けと命じた。
もし書かないならば、お前たち夫婦を殺して、自分も自殺する覚悟で今日は来たのだと凄んだ。妻も子も殺されて、生きる希望を失ったからだと絶叫して、胸元から取り出した包丁を一閃してテーブルにドンと突き立てた。
殺されるのは嫌だし、遺書などいつでも破棄できるだろうと考えた父親は、浩介の命ずるままに書きしたためて印鑑を押して拇印も押した。
文面を確認した浩介は、遺書と書かせた封筒に収めて封をして、仏壇の位牌の後ろに立て掛けさせた。
すぐさま浩介はテーブルから包丁を引き抜いて、父親の首を切り裂き、腰を抜かした母親の首を突き刺した。
その足で浩介は大阪に向かい、鉄也の釈放を待っているという女のアパートを見つけて幸子を刺し殺した。そして浩介は、拘置所の鮫島鉄也に宛てて手紙を書いた。
お前の両親を殺して財産を全て奪った事。お前を慕って待ち受ける幸子を殺した事。だから、お前が釈放されたところで、どこにも生きる場所は無いし、金も無いから、絶望して自暴自棄となって、自分で自分の命を絶って暴行殺人の責任を取れ。悔しかったら俺を殺して見ろと、憤怒の怒張をけしかけた。
病院に戻った浩介は、永遠に植物人間となった千代の首を絞めて殺した。
― 絶対の絶望 ―
冷え切ったコンクリートの空間を遮断する白いカーテンを西園寺は見つめていた。サッと開けば命が尽きる絞首台を前にして、冷や汗を流しているのは加賀見ではなくて自分の方ではないのかと、勘違いさえするほど死刑囚は落ち着いている。
加賀見浩介の話を聞き終えた西園寺は、いくつかの疑問が残って納得がいかなかった。罪と罰とが入り組み過ぎているせいか、彼の死に急ぐ理由が判然としないのだ。
西園寺は加賀見を正視して穏やかに問いかけた。
「被告の両親に罪はないはずだが、彼らを殺害することに躊躇はなかったのかね?」
微塵も表情を変えずに加賀見は答える。
「奴への恨みを晴らすために、私は計画を立てました。実行するにあたって、どんな躊躇いもありませんでした。決して目覚めることのない千代の寝顔と、いたいけだった娘の笑顔が、きっぱりと迷いを掻き消してくれました。私を鬼畜にしてくれました。私自身の逃げ道を絶つためにも、私は人間であることを捨てました」
「君は妻の千代さんを絞め殺して、自分も死ぬことを覚悟したのかね?」
膝元から視線を上げて答える加賀見の声は、一瞬のうわずりを隠して上気していた。
「植物人間となった千代の首を絞めながら、狂気する自分が見えました。突然次元が狂って時間が戻り、記憶の限りが走馬灯になってめくるめき、千代の笑った顔や怒った顔が一万回も重なりました。私は千代に救われ千代と一緒に生きてきた。そして娘の千夏を授かり、千代と千夏が私の全てだった。瀬戸内の海で、みかんの山で、花を愛でて、風に吹かれて、振り向けば屈託のない笑顔を見せる千代の爽やかさが私の幸せの全てだった。一瞬にして妻が、娘が、家族が、全ての存在が消滅する。人は甘いものを食べて初めて甘さを知り、苦い物を食べて初めて苦さを知るように、愛しい人を失った人でなければその悲しみの重さを理解できないでしょう。どんな言葉でつくろっても、絶対に元通りにならない命の価値と、絶望的な苦しみの深さを表現できないでしょう。孤独感と閉塞感に押し潰されて、私は気が狂いそうになりました。だから自分も死にたいと思った。だけど、今すぐに死んでしまったら、私のすべてを奪った男への復讐が成立しない。だから死ねなかった」
「なぜ死ねなかったのかね?」
加賀見の表情がわずかに歪んだように思えたのは、生死を越えた復讐の真意を裁くことのできない、西園寺の忸怩たる無念さかもしれない。
「鮫島鉄也という男に最高の怨念をたきつけ、絶対の絶望を思い知らせる為には、生きた私の存在が必要だったからです。両親も財産も女も、何もかもを奪った私を憎み、殺してやりたいともがけば良いのです。その為に私は奴に手紙を書きました。そのとき私が自殺してしまっていたら、奴はあっけなく私を嘲笑い、憎悪が帳消しになってしまうでしょう」
ならば何故、控訴して死刑を免れようとしなかったのか、少しでも生き延びようとしなかったのかを、納得がいかずに西園寺が問いかける。加賀見は穏やかな笑みを取り戻して答えを返す。
「赤ん坊を殺したくらいで奴は死刑になんかなりはしない。未成年という保護観察のもとに、いずれ釈放されるでしょう。奴は私を恨んでいるうえに根っから凶暴な性格だから、どんな手を使ってでも私を殺したいと考えるでしょう。人を殺してでも拘置所に入り、私の首を絞めに来るかもしれない。ところがその時に、私が処刑されてこの世にいなくなれば目標を失い、永遠に憎しみと絶望にまとわりつかれて生き続けなければならないでしょう。これが私の復讐です……。私の力で奴を死刑にはできないのですから、死よりも辛い、不毛で殺伐な人生を奴に味合わせてやるのです。絶対の絶望を味合わせてやるのです。悔いも迷いもありません。すべては今日、完結するのです。私は千代のもとへ行き……、初めて出会った時に戻りたい」
清々しい表情で語り終えて、瞳を輝かせているように見えるが、本当にこの男は心の底から清々しいのだろうか。そんなことなどあろうはずがないと西園寺は嘆息し、この死刑囚を救えないものかと考えた。
彼は殺人を犯したけれど、その原因を作ったのは凶暴な十八歳の少年で、その少年は何年かの懲役を終えて、その後はのうのうと生き続けることになるだろう。論理的にも感情的にも不公平ではないか。
日本の司法のもとでは被告の権利が頑なに守られる。たとえ裁判長の家族が殺されたところでこの原則は変わらないだろう。
加賀見浩介は、間接的な被害者であり直接的な加害者である。直接的な被害者ではないから死刑を宣告されたのか。はたしてどちらの権利が優先されるのか。この難解な矛盾を司法がどのように解き明かし、断を下せば正解なのか。
正解などありはしない。この世の中には不条理な矛盾が多過ぎる。だけど誰かがメスを入れて、憂いのない正義を取り戻さなければ国が滅んでしまうと西園寺は義憤した。
西園寺が憤ったのは、死刑囚の加賀見をかわいそうだと憐れんだからではない。並外れた彼の行動力と能力が、無為に失われてしまうという無念さだった。
日本人はかつて武士の時代から、不屈の大和魂が連綿と培われてきた。小国ながら日清日露の戦争に勝利し、アジアを席巻した日本人の血の源なのだ。
極悪非道の死刑囚の中に、加賀見のような不撓不屈の男が稀にいるのをこれまでに幾人も見てきた。
事件の概要が掲載された新聞紙面の裏側には、泥沼のような真実の膿みが隠されている。どろどろの膿みの中身を覗き込みたくて新聞記者を志した西園寺が、父親に諭されてあっさり司法の道に鞍替えしたのは、上澄みを記事にしただけで立ち去る新聞記者の虚しさに、好奇を満たす限界を知ったからだ。
人間の本質や真実を突きつめたいならば、当事者とじかに接することだ。事件の裏側まで知りたければ、裁判官になるしかないと父に諭された。
法務省に就職した西園寺は、多様な事件に遭遇して囚人たちとも接した。海外も視察してついに一つの結論を導き出すに至った。すべては法に縛られているのだと。だから、法を超越すれば良いのだと。