11の10 天と地
剥き出しのコンクリートに色も音も封じ込められて、抑揚もなく語られる加賀見浩介の声だけが、震えながら群れる小魚のように壁面を這う。
腕組みのままじっと聞き入っていた西園寺は、それまで穏やかだった加賀見の表情がわずかに陰り、眉間が剣呑に変化していくのを見逃さなかった。
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東京の大学に合格した加賀見浩介は、約束通り千代の援助を受けて上京することにした。夏休みになると九州に帰省して千代と会い、誰もいない静かな木陰でくちづけをした。
「わたしも東京へ行くわ」
と、千代は断言した通り、看護婦の資格を取って病院で二年間勤務した後、都内の病院への紹介状を携えて上京してきた。それから二人の同棲生活が始まった。
この期に及んでようやく浩介は気づいたのだ。皿倉山でおにぎりを食べながら、看護婦として僻地医療に取り組みたいと話してくれた医学生の存在は、浩介の真意を測るための仕掛けだったのだ。
入学の費用と授業料と下宿代を貸してくれると言ったのも、結婚すれば帳消しになるという計算ずくだったことを。
千代の仕掛けがなかったら、東京へ出てきたところで貧民癖は拭われず、いずれ洞海湾へ舞い戻って藻屑となっていたかもしれない。
浩介にとって千代の存在は、ただの天使ではない、絶対的な希望であり愛だった。失う事の許されない命の炎だった。
千代が大島の両親に浩介を引き合わせ、結婚の段取りを付けたのは大学を卒業してすぐだった。
大島の親族たちはみんな大らかだった。浩介の出自を詮索する者など一人もいなかった。なにしろ浩介は東京の大学卒という履歴を得たのだから。
同時に浩介は母の貞子に結婚話を打ち明けた。
入学資金の援助の話はきっちり避けて、千代の人柄を紹介する浩介の拙劣な言い回しを貞子が苦笑ってさえぎった。
「千代さんがどんな人か、よう分かっちょるよ。どんな縁があって知り合うたんか知らんけど、腐り果てたうちらの生活を知りながら、ようあんたのことを見初めてくれたもんじゃねえ。悪いけど、みかん箱の机の下にしまってあった、千代さんからの手紙を全部読ませてもろうたよ。あんたには勿体ないくらいに心の優しい、しっかりした人じゃから、どんなことがあっても裏切ったり苦しめたりして泣かしちゃあいけんよ。一生幸せにしてあげんといけんよ」
そう言って貞子は祝福してくれた。
大学を卒業して小さな貿易会社に就職した浩介と、三交代で勤務する看護婦の千代とはすれ違いも多かったが、一緒に住んでいるというだけで幸せだった。ただひとつ、二人に子供が恵まれなかったことだけが相互に無言のわだかまりとなっていた。
病院で検査を受けたが共に異常はなく、そのうち妊娠の兆しが現れることでしょうと、投げやりで無責任な医者の言葉に納得できず、ヨガ体操を試してみたり、漢方薬を煎じて飲んだが効果はなかった。
千代は勤めから帰るとすぐに近くの神社に詣で、毎日欠かさず受胎の祈願をした。休みの日には浩介も一緒に神社に出掛けて、お袋の命と引き換えでも良いから赤ん坊を与えて欲しいと神を相手に願掛けをした。
そうして諦めかけていた六年後、医者から千代の懐妊を告げられた時、浩介は初めて神を信じて感謝した。
千代はすでに三十路を過ぎて、ようやく手にした一人娘の千夏を溺愛して可愛がった。それまでは浩介の面倒をあれこれと見ていた作業が、全て千夏のことに時間がさかれ、あらゆることが千夏中心に動き始めた。
その年の秋、千夏の誕生と引き換えに、肺炎をこじらせて母の貞子が死んだ。夕刻に知らせを受けた浩介は、夜行寝台で九州に戻って早朝病院に駆けつけたとき、貞子はすでに霊安室に入れられていた。
簡単に葬式を済ませて火葬場へ行き、母の遺骨を拾い集めて骨壷に入れると、母と二人で住んでいた洞海湾ぞいの堤防へと向かった。
「俺が東京へ出てから、ずっと母ちゃんのことほっといて悪かったのう。母ちゃんは強いけえ、ほっといても大丈夫じゃと思うちょったんじゃ。ごめんなあ。俺は母ちゃんの命と引き換えに赤ん坊が欲しいって、神社で願掛けをしたよ。だからって、神様が母ちゃんの命を奪うなんて、あこぎな悪戯をするはずはないよなあ。絶対に違うよなあ母ちゃん。だって俺は母ちゃんに、俺と千代の赤ん坊を見せたかったんじゃけえ。母ちゃんに、千夏を抱っこして欲しかったんじゃけえ」
浩介は白磁の骨壺にこぼれる涙を拭うと、若戸大橋の朱色の橋梁が見える堤防の先から遺骨を散らし、貞子の面影もろとも洞海湾の海に沈めた。そして、鮮やかに色づいた彼岸花の一輪を波間に放った。
割れたガラスコップに挿した彼岸花を、積み重ねた段ボールのタンスの上に飾るのが貞子のいつもの行事だったから。無彩色のトタン壁の住み家に点描される唯一の煌めきだったから。
堤防の決壊した一角を占拠して、浩介たちの住居としていたバラック群はすでに撤去されて無くなっていた。
こんなちっぽけなところにも、時間が流れて過去が消される。これで故郷との絆がなくなったのだと浩介は、油の臭いの含んだ洞海湾の潮風に別れを告げた。
― 鮫島鉄也 ―
鮫島鉄也はたぐいまれなる凶暴な性格だった。小学校でも中学校でも授業中に暴れて先生と格闘するし、上級生でも下級生でも理由もなしに殴る蹴るの毎日で、保健室は傷だらけの生徒たちでいっぱいだった。
鉛筆の芯で額を抉られたうえにメガネを潰された生徒の母親が、どうしてくれるんだと職員室に怒鳴り込む。
死ねと脅されて線路をふらついていた生徒の父親が、怒り狂って教頭先生の胸ぐらを掴む。
このままでは学校も家庭も崩壊してしまうと危惧した校長は、教育委員会を通して両親に苦情を申し入れたが糠に釘で、警察に相談しても埒が明かない。脳細胞の突然変異か遺伝子のせいだろうかと、校長も匙を投げる始末であった。
鮫島鉄也は広島で生まれた。両親の生活はそこそこに裕福だったから、一人息子の鉄也を大学まで行かせたいと望んでいた。
ところが肝心の本人は勉強が嫌いだったから、中学を卒業したらすぐに、大阪の建設会社に就職して土木現場で働き始めた。しかし、生来の凶暴な性格の故か、職場の仲間に馴染めず一年を経ずして広島の実家に舞い戻って来た。
そしてまた大阪へ行き、窃盗、恐喝、暴行で補導されてまた舞い戻るの繰り返しだった。
友人もできないし仲間もいないが、母親だけは鉄也を庇い、労り、見守った。実家に戻れば生活費をいくらでも出してくれたから、職にあぶれても酒は飲めるしパチンコもできる。どんな悪行の後始末も親父が金で解決してくれた。
父親の金と母親の愛情が後ろ盾だったから、両親に対してだけは従順だった。その従順さが、やさぐれの女には優しさに見えたのかもしれない。
鉄也がその女と出会ったのは大阪新地のキャバクラだった。
冗談を言うでもなく啜るようにビールを飲む寡黙な鉄也に、男臭さと優しさを感じてキャバ嬢の幸子は強く惹かれた。
気性は強いがあけっぴろげで童顔の幸子に鉄也も惚れて、店に行くたびに必ず彼女を指名した。
やがて二人は意気投合して同棲を始めたのだが、度重なる鉄也の暴力沙汰に堪忍袋の緒を切らした幸子は、一か月と持たずに鉄也をアパートから追い出した。
幸子に未練を残しつつも不貞腐れて広島に戻った鉄也は、気晴らしに瀬戸の大島にでも行って、新鮮な魚でも食って来いと親父に勧められて電車に乗った。
大畠駅で降りてバスに乗り換え窓外を眺めると、夏の陽射しに跳ねて眩い島嶼が瀬戸の内海に散らばっていた。
そのころ千代は、赤ん坊の千夏を連れて瀬戸の大島に帰省していた。初孫を迎えたお盆の法要に両親は大喜びで、父は海に潜りたくさんのサザエを獲って庭でバーベキューを催してくれた。
親戚の人たちも集まり賑わしく、浜辺に打ち寄せる細波の耳打ちが故郷の匂いを懐かしくときめかしてくれる。
島は悠揚としてたおやかな時間が流れ、山上にはみかん畑が広がり、海岸通りのあちこちに鮮魚の店が点在している。物盗りの気遣いなど無縁な島だから、無防備に開け放たれた民家の土間から奥の間を浜風が自在に吹き抜ける。
昼食を終えるとすぐに両親は、西瓜を栽培している山裾の畑地へと出かけて行った。千代は千夏を寝かしつけると、一人で浜通りのスーパーまで夕食の買い出しに出かけることにした。
鮫島鉄也はバスを降りると、目の前に広がる海岸へと向かった。道路端から海辺へ降りて砂浜に立つと、防波堤が突き出た先に小島が浮かぶ。
じっと見つめていると、こんもりと盛り上がった小島の山肌が幸子の姿に見えてくる。
鉄也はあまりに凶暴だったがゆえに親しい友人ができなかった。中学校でもそこそこのワルはいたが、鉄也を怖れて近付く者などいなかった。
大阪の土木現場でも同様だったから、遊び仲間もできないので女を知らなかった。
大阪新地を一人でふらついていたら客引きに誘導されて、飛び込んだキャバクラで巡り合ったのが幸子だった。中卒の鉄也にとって高卒で年上の幸子が、翼を広げたカモメに見えた。
幸子は姉のような存在だった。幸子の記憶が山肌に似て狂おしく、唾液が滲んで唇を浸す。風が潮気を帯びて、むしゃくしゃとして喉の渇きを無性に覚える。
バス停まで戻って脇道を覗くと、商店らしき軒先に人影が見える。ゆっくり歩いて近付くと、思った通りのスーパーだった。
缶ビールを買おうと店内をうかがうと、さすがに島の店らしく海産物や干物などが、陳列棚からはみ出すほどに並べられていた。
ビールを探して店の中程をふと見ると、島の女にしては垢抜けた風情の女が一人、精肉売り場のショーケースを覗き込んでいる。
鉄也の視線がその女の姿を釘付けにした。
缶ビールを買った鉄也はスーパーを出て、買い物を済ませた女のあとをつけた。