11の9 受験勉強
千代が帰ったあと浩介は、全国大学入試要覧と表紙に書かれた分厚い書籍を開いてみると、大学名が地域別に掲載され、理工系と文系に区分されて受験要領や難易度のレベルが表記されていた。
東京都内に校舎がある大学のページを繰っているうちに、学校や学部による受験科目の違いに気がついた。理工系は数学を含む主要五科目の受験が必須となっているが、私立の文系には数学がない。
はなから大学など考えてもいなかった浩介は、方程式だとか関数だとか、謎めいた数式を強いられる数学など、自分の人生にかけらほども必要はないと切り捨てていた。
いまさら受験勉強に取り組んだところで、全ての数式を理解することなどできやしない。ましてや数Ⅲまでと考えるだけで気が遠くなる。
浩介は幸いにして英語にだけは肌が合うというのか、勉強という概念もなく受け入れていたので、進学を目指す級友も羨むほどに成績が良かった。
国語など勉強したことなど一度もないが、教科書に掲載された短編の物語などは、小説本など購入できない浩介にとって唯一の読書の対象だったから、その熱心さが文章の読解力を培っていた。
社会は歴史と地理の選択だったが、小学生のころからマンガ本のかわりに地図帳を眺めて空想するのが好きだったから、本気になって勉強すれば地理で何とかなるかもしれないと考えてみた。
そう考えて見ると、異次元の世界であった大学という存在が、いきなり現実の生々しさで浩介の野心をとらえて佇立した。
浩介にとって千代との出会いが初恋だった。そう断じられるほどに千代のことが好きだったけど、千代が同じ基準で自分を好いているかどうかと自問すれば否だった。
傷ついた子犬がかわいそうだから手当てをほどこして、かりそめの弟をいたわるつもりで手紙を綴る。千代にとってはそれだけのことではないかと冷ややかに判じればこそ、初恋の終わりに未練はなかった。
ところが千代は、頑張れない浩介くんなんて大嫌いと言った。大学に合格できなかったら、自分の前から消えると言った。そして悲しいけどお別れだと言った。
千代の言葉を裏返せば、大学に合格するという事実が千代を得るための切り札となり、その保証として、薄汚れたバラックの暗闇で身体をまかせてくれたのではないか。
千代との出会いのなかで、小判鮫のように張り付いていた医学生の姿が泡沫のごとく消えうせて、医療という絶対不可侵の隔壁がきっぱりと取り払われた。
千代にバラックの生活を覗かれて、垂れ流しのトイレをひた隠しにする必要がなくなった。
バラックの腐臭のなかで千代の決意を知り、柔らかな肌の温もりを感じたときに、赤いりんごをかじったアダムになれた。片思いの初恋だからと、憧れも夢も幻も、思い出という小箱に全てを封じ込めていた熱情が、堰を切ったようにうずき始めた。
短い冬休みが終わって三学期の授業が始まった。
三学年を迎えるにあたって、クラス分けの進路面談が行われ、浩介は母に内緒で文系大学への進学を担任の先生に申告した。
浩介はみかん箱の上に教科書を並べてパラパラと頁をめくり、受験勉強のための計画を構想してみた。
得意な英語は一学年からこれまでの復習を綿密にして、これからの授業では予習と復習を怠らず、単語と熟語を完璧に把握する。
国語は漢字を憶えることにとどめて特に勉強はしない。地理に関しては教科書に記載された内容、欄外の小さな補足も含めた全ての記述と地名を暗記して、海外の独立国の誕生などの報道を漏らさず収集する。
白紙の上に横線を引き、残された一年間の日数を四等分して区切りを入れた。各教科書の頁数をそれぞれ四等分し、さらに細かく等分して、一日に勉強すべき頁数を計算した。
割り出した頁数を教科書で確認した浩介は、これからでも充分に戦えるではないかと冷静に判断したのだ。
学期ごとに行われる実力試験の成績結果が、上位から順に学内掲示板に張り出される。ねばつくような視線で順位を見入る学友たちの目つきは、汚物に群がる飢えた野良犬たちの殺気のようで、掲示が出るたびに浩介は反吐の出る思いでその様子を一瞥していた。
妬みやあざけりや不安が、彼らのまなじりにありありと見て取れるから、殺伐とした空気が不快であった。
千代の申し出に少しの抵抗もなかったわけではない。授業の最中にも、深夜に教科書を開いている時にも、本当にこれで良いのだろうかという迷いが不安を伴って、筆を休めることがあった。
それが夢なのか幻想なのか、その時の浩介には良く分からなかったから、いつも堂々巡りをするしかなかったのだ。ただ一つ見えていたのは、千代から学費の援助を受けて借金を続けている限りは、千代との関係が継続するということだけだ。
幻の世界が大学入試という形を成して目の前に立ちはだかり、その城壁がどれほど高いのか堅固なのか予測もつかないが、壁の向こうに千代がいる。
努力とか闘魂とかクソ喰らえだが、それをよじ登って粉々に打ち砕けば、新しい世界が手に入るような気がする。希望でも夢でも何でも良い、千代を得るための、欲望を満たすためのゲームだと浩介は考えることにした。
そう決心すると、これまでのように授業時間が退屈ではなくなった。入試に関係のない科目については家で予習も復習もせず、もっぱら先生の講義に耳を傾けて、授業時間内に勉強を終えて学期の試験に備えることにした。
落第点さえ免れれば良いのだから。そうして他の時間をすべて受験の科目に当てた。
四月の新学期を迎えた三年生は、理工系と文系にクラスが大別されて、浩介は文系クラスに組み入れられた。
おっとりとして和やかな文系クラスに比して、理系の校舎が殺伐と感じられたのは、数式に支配されて情緒が壊れた生徒たちの、無情な空気が粘ついているせいではないのかと浩介は思って唾を吐き捨てた。
千代からは、月に一度の頻度で手紙が届いた。浩介が学校から帰ってくると、入口のドアの下に絹目の白い封筒が差し込まれている。ていねいに封を切って文章を読む。
学生寮に新入生が入って卒業生が出て行ったとか、いよいよ国家試験の時期が迫って身が引き締まるとか、久々に帰省した大島で風邪を引いて寝込んでしまったとか、いかにも千代らしい、明るい文面で綴られていた。
しかしそれは爽やかでありながら、心を熱くするような抑揚はない。男女の文通でありながら恋文ではない。
秋空にトンビがピーヒョロと鳴いて舞うような、日常的で刺激のない文面だと浩介は物足りなく思えた。
受験の壁に直面し、暗記していたはずの用語や意味を忘れてしまい、新たな記憶ができずに足踏みをすることがある。
得意だったはずの英語の学習が、強制されているようで苦痛になる。ゲームだと思って始めた受験勉強にストレスが生じる。ともすればそんな時、千代の申し出が本当に本気なのだろうかと、いぶかしく考え込むことがある。
金のない貧乏人が、一介の看護学生の冗談話に乗せられて、自分が途方もなく無駄な努力をしているのではないのかという疑念がよぎる。大学なんてまるで幻で、打ち上げ花火のように実体がない。
それでも千代からの手紙は嬉しかったし、常に記される励ましの言葉が浩介の不安を癒してくれた。千代に騙されるのならそれでも良いと浩介は考えた。
そうしてあっと言う間に一年が過ぎ、浩介は東京の大学に合格して入学を決めた。約束通り千代からの援助を受け、私鉄沿線に四畳半の下宿を見つけて上京した。
母の貞子には東京で働くのだと偽って、アルバイト先の会社名を告げてごまかした。
***
剥き出しのコンクリートの壁面を背にして語る加賀見浩介の頬には、笑みがこぼれて微塵の憂いも感じられなかった。
微動もせずに聞き入っていた所長の西園寺は、彼の話が事件の本質にまでなかなか至らないことに焦れていた。だが、急かすことなく待つことにした。
彼の濃密な一生の軌跡が、今の瞬間に凝縮されているのだから。事件の根底に息づく人間の運命の糸くずのほつれを知らねばならないからと、死刑を目前にした加賀見浩介の、乾いた唇を見つめながら待つことにした。