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 11の8 千代の提案

 南大東島から九州を縦断して通り過ぎた台風が、工場の煤煙をすっきりと吹き飛ばして青空をもたらしていた。

 葉を飛ばされて裸にされた柿の木が、日差しを浴びたススキの荒地に渋色の実を光らせていた。


 洞海湾のバラックも台風一過の被害を受けた。強風にあおられたトタンの屋根に亀裂が入って雨を漏らせる。ベニヤの壁が雨水にしみて剥がれ、部屋の四隅がゆがんで見える。


 浩介が屋根の補修をしていると、郵便配達の自転車が止まって一通の封書を手渡された。バラックの宛先に不似合いな絹目の封書の裏側には、榊原千代の名前と看護学生寮の住所が記されていた。


 さよならを言って別れたはずの千代から手紙が届いた。浩介の中で千代はすでに懐かしい記憶の化石となって大切に葬られていた。それなのに何故という疑問があったけれども、封印された化石に熱い息吹きを与えられたようで嬉しさがまさった。


 封書を開いて便箋を広げると、千代の近況が詳しく綴られていた。大島の実家から取れたてのみかんが箱詰めで送られてきて、寮長や仲間におすそ分けして食べたことや、典子や寮友たちと消灯の規則を犯して夜食を作り、資格試験の勉強のために頑張っていることなどが、ていねいな女文字で綴られていた。


 浩介は返事をしたためるために、生まれて初めて封筒と便箋を買い求めた。封筒に宛先を書き、便箋の一枚目を開いて書き出しを思案した。


 拝啓と書こうとして、よそよそしく思えてやめた。こんにちわと書いて、次の文案を模索した。一時間ほど便箋とにらめっこしていたけれど、何をどのように書けば良いのかが分からない。

 ここ数日間の行動を振り返ってみたが、便箋に書くほどの出来事もなし、先月も先々月も別段変わったことなど思いつかない。


 千代からの便りを繰り返し読み直すことこそ楽しいが、返事をしたためるのが煩わしい。

 筆不精というよりも、日常的に感動がないから、煩悩や思考に対して無策なのだということが、高校生の浩介にはまだ理解できていなかった。


 鼻先のニキビを針でつついて膿みを出し、毎朝海水に浸して消毒しているとか、数学の授業で答えたら、間違えて恥をかいたとか、たわいのない出来事を記憶の底から絞り出し、三日三晩を要してようやく便箋の半分ほどの文章をしたためた。


 浩介が返事を書いた封書を投函すると、すぐまた千代からの手紙が届いた。一か月ほど文案を練って返事を出すと、また千代からの便りが届く。


 千代からの便りはいつも、日常の様子を知らせるものだったが、年の瀬近くに受け取った手紙の内容は少し違っていた。

 本文の後に追伸が記されており、その内容は近況を知らせる本文よりも、緊急で重要で思いがけないものだった。



追伸 浩介くんに提案があります。決して気を悪くしないで受け止めて下さいね。

 私の叔母は大阪の病院で婦長さんをしていました。島に帰ると普通のおばさんだけど、白衣を着ると近寄りがたい威厳がありました。

 幼い頃に大阪の病院で働く叔母の姿を見て、私も看護婦になろうと決心しました。ナイチンゲールのように清らかな心で看護婦を目指すわけではないけれど、自分の将来の夢のために国家資格という勉強と戦っています。


 浩介くんも、将来を真剣に考えて欲しいのです。いま考えて戦わなければ、いま目標を定めて勉強に励まなければ、一度通り過ぎた人生を後戻りはできませんから。

 浩介くん、大学へ行って学んで下さい。東京へ行けば、夢が見つけられるかもしれないって浩介くんは言ったよね。東京の大学へ行けば、きっと大きな夢を見つけられるかもしれないわ。


 私は来春卒業して病院に勤めます。二年間勤務すれば看護学校の授業料が免除になります。浩介くんの大学入試の受験料は私が出してあげる。入学の費用と授業料と下宿代は貸してあげます。就職してから働いて返してくれれば良いです。食費や生活費はアルバイトをしてでもしのいで下さい。これが私の提案です。本当に、真剣に考えてね。



 あまりにも唐突すぎる提案に意表を突かれた浩介は、千代の真意を推し量ることすらできずにあっけにとられて呆然とした。


 考えたことすらもない大学という幻影。それが夢だ、目標だといわれて突きつけられても戸惑うばかりで現実感がない。たとえ千代といえども、他人から金を借りることには抵抗がある。いや、千代だからこそ気後れがある。


 いくら貧乏しても、他人様から施しを受けてはならない、金を借りてはならないというのが常からの母の口癖だった。だが浩介は、施しを受けるのは貧乏人の特権だと信じて平気だった。だから陽介たちに極貧のバラックを見せつけて施しを促したのだ。だが、さすがに返す当てのない借金をするほどの度胸はなかった。


 いくら考えても答えを出せない浩介は、考えることを放棄して千代への返事を怠った。

 返事を出せないまま時間の過ぎ去ることが無性に気になっていたが、そのまま終業式を終えて、師走の喧騒を横目に見ながら新たな年を迎えた。



 ― 千代の訪問 ―


 洞海湾のバラック小屋にも正月は訪れる。新年の夜明けの光は新鮮で眩しい。どんなに極貧のバラックだって、新たな時間の始まりは透明だから。


「大宰府の天満宮に行かんね?」

 年が明けて三日目の朝、年末に買い込んだ餅を七輪にのせ、指でつまんで伸び上がった餅を口に運びながら貞子が誘った。

「何しに行くんじゃ」と浩介が応じる。


「初詣に決まっちょろうがね。新年のお参りに行くんじゃから、一緒におみくじを引きに行かんね?」

「電車賃がもったいないけえ、行かん」


「何を言いよるんかね。一年に一回の贅沢じゃからええんよ」

「面倒くさいけえ、一人で行けよ」


「なら、母ちゃん一人で行ってくるよ。名物の梅ヶ枝餅をみやげに買うて来ちゃげるけえ、勉強でもしながら待っちょきいや」


 貞子は同じ建設現場で働くバラック住まいの女性二人と連れ立って、楽しげに嬌声を上げながら出かけて行った。



 正月といえども溶鉱炉の火は落とされず、製鉄工場はいつものように稼動していた。煙突の煙は垂直に幾条もの線を描き、数羽のカラスが工場の屋根に群がる。

 堤防の先まで歩いて行くと、若戸大橋の橋桁の朱色がいつもよりも鮮やかに感じられた。湾を走る小船がいないから油も浮かない。テトラポッドに群れる魚が透けて見える。


 浩介は堤防の端に腰を下ろして両手の拳を握りしめた。あれ以来柔道部に顔を出していないので、筋力のゆるみや腹筋のたるみが気になっていた。行けない理由は何もないのだが、千代と出会ってからというもの、すっかりやる気が萎えていただけだ。


 大学へ行けと千代の手紙に綴られていた。金を貸してくれるとも書いてある。千代は、高等学校に通っている自分を並の貧乏人の息子だと考えているに違いないのだ。このバラックの住居と、すさんだ生活を目の当たりにすれば、どんな人間だって身をすくめてたじろぐはずだ。

 うわついた心構えで感謝の気持を表せば、あとになって自分も千代も惨めな思いで後悔するのは目に見えている。やさしい千代の思いやりの心を傷つけたくはない。


 母の貞子にこんな話などできるはずもない。呆れるよりも怒るだろう。浮かれた義侠心で軽々しく貧乏人を馬鹿にするのもいい加減にしろと、心の底から千代を憎むかもしれない。


 医療の世界に生きる千代と、貧乏という鍋の底から這い上がることのできない自分とは、しょせん生きる舞台が違うのだから、夢だって目標だって、舵を取り違えて進む難破船のように馬鹿馬鹿しく思えてむなしくなる。


 千代のおせっかいが情を引きずり、つのった分だけ別れを辛くする。あの日、さよならを言って握手した。あの手の温もりが大切な千代との思い出だから、このまま便りが途絶えてしまえば良いのだと、浩介は拳を堤防のコンクリに当てて嘆息した。



 圧延工場の屋根から、カラスがいっせいに舞い上がってギャーギャーとけたたましく鳴きわめく。白いカモメは無風の空を優雅に旋回し、決して黒いカラスと交わることはない。

 浩介は立ち上がり、堤防の淵に穂をたれている枯れススキを引きちぎって湾に放った。


 湾を背にして堤防沿いに歩いていると、バラックの前の路上に赤いコートを着た女性がたたずんでいるのが見えた。

 まさかと思い目をこらすと、ポニーテールを左右に弾ませてこちらを振り返ったのは千代だった。浩介は一瞬立ち止まり、そして駆け寄った。


 千代の瞳が浩介の瞳を見すえた。笑ってはいないから怒っているのか。返事を出さなかったから、怒っているのか。冷たくはないが、毅然とした鋭気があった。


「浩介くんの家はどこ?」

 家庭訪問の先生が生徒の家を尋ねるように、千代はバラックの群れを見回して浩介に問うた。


「あそこじゃ……」

 青いトタン屋根のバラックを指差して、ぶっきらぼうに浩介は答えた。


「お母さんはいらっしゃるの?」

「大宰府天満宮に初詣に出かけたからおらんよ」

 うつむきかげんに浩介が答えると、しばしの間の後、意を決したように千代が言った。


「お邪魔してもいいかしら?」

 浩介は、「えっ」と、目を見開いて千代の顔を見た。

「入るんか? こんな汚いところへ」


「浩介くんが住んでいるところでしょう。迷惑かしら」

「べ、べつに……、かまわんけど」


 浩介は、やけくそな気持になって家の前まで行くと、変形して立て付けの悪いベニヤの扉を手前に開いて千代の表情をうかがった。


「お邪魔します」と言って、千代はコートを脱いで土間に入ると、板張りの床の上にペタリとしゃがみ込んだので、浩介はあわててシミだらけの座布団を差し出した。


 段ボールの衣服ダンスやみかん箱の机、折りたたまれた煎餅布団を覆い隠したシーツのふくらみと、プラスチックの質素な食器入れ。

 入り江側の窓から差し込む光が、薄暗い室内に据えられたそれらの存在をぼんやりと浮き立たせる。この閉塞された暗闇のなかに、千代の息づきを感じて胸が高まる。


「浩介くん、私の手紙、読んでくれたよね」

 向かい合わせに座った浩介の目をとらえて千代が問い詰めた。


「うん……」

 浩介は頷くだけで、言葉を継げずに千代の目を見つめ続けた。


「私は本気だよ。だから、浩介くんも本気になって考えて欲しいの」

「俺、こんなとこに生まれて、こんなとこに住んどるんじゃ。大学なんて行けるような身分じゃないけえ」


「身分なんて関係ないわ。浩介くんは、今の生活から抜け出すために東京へ行くんでしょう? 大学へ行けば、うんと視野が広がるし、働く環境だって違ってくる。今努力するかどうかで浩介くんの運命が決まるのよ。浩介くんはお母さんに励まされて勉強したから、県立の進学校へ合格できたんでしょう? だから、もっと勉強すれば大学へ行ける力があるのよ。私は来春から病院に勤務するからお給料がもらえるわ。だから、今なら支援ができるのよ」


 信じられないような千代の厚意が嬉しかったが、真意をつかめないもどかしさに、重い荷物を背負わされるような漠然とした不安を感じて浩介は苛立った。


「なんで千代さんはそんなに、俺のために……。今から勉強したって、合格するかどうかも分からんし、合格したって、もしお金を返せなかったらどうするんじゃ」


「合格するかどうかは浩介くんの決意の問題だわ。きちんと計画を立てて勉強すれば、まだ一年もあるんだから必ずできる。都会者に馬鹿にされないように、高等学校の卒業証書を持って行けってお母さんに言われて高校へ進学したんでしょう? 大学の卒業証書があれば、もっと都会者に負けない武器になるわ。私はね、浩介くんの将来に賭けてみたくなったのよ」


 浩介は、己の胸に淀んでいるもどかしさの原因を知っていた。それを引きずったまま、千代の提案を受け入れられないことを自覚していた。

 自分の惨めさをさらすようで逡巡したが、自分の将来に賭けるという千代の言葉に誘発されて、思い切って千代に問うた。


「千代さんは、無医村の僻地に行って、医者と一緒になって、生涯医療の道を歩めることが看護婦としての本望だし夢だって言うたよなあ。千代さんの賭ける相手は、その医学生じゃあないんか? それが生きがいじゃあなかったんか?」


 千代の答えはいともあっさりと屈託がなく、手にした爆弾が一瞬にして消滅してしまったような肩すかしであった。


「そんなこと言ったっけ。私だって青春だから、いろんな人と出会っていろんな話をして、たまたま出会った医学生さんの夢物語に乗せられて、空想したり憧れたりすることだって看護学生ならみんなあるわよ。そんなこと、もうすっかり忘れたわ」


 医学生と千代とのあいだに、亀裂が生じて夢が飛び散ったのか。それとも、そもそも架空の夢だったのか。いずれにしても、絶対堅固に立ちはだかっていた医療という隔壁が、千代の中から消え去ったことを浩介は確信した。


 その瞬間に胸奥で幻を見た。霧が晴れた大海原に海賊船が現れて、青い瞳の妖精がマストの上から一直線に舞い降りた。金色の呼気を残してつんと澄まして飛び去った。


 あらためて浩介は千代に問うた。

「俺に賭けるって、どういうことじゃ?」


 千代は鼻と鼻がくっつくほどに顔を近づけ、浩介の目を見つめて呟いた。

「賭けるってことは、賭けるのよ」


 確実な生活が保証されるはずの医学生に見切りをつけて、根無し草の自分に将来を賭す。そんなことがあるかどうかの分別もつかないが、新たなサイコロを振り直すために、千代は極貧のうす汚れたバラックを訪れたのだ。その覚悟に、信じられない愛おしさを感じる。


 バラックの暗闇のなかに千代がいて、わずかに吐き出された千代の呼気が、浩介の唇に触れて口中に吸い込まれた。


「好きじゃ、千代さんが好きじゃ」

 千代の唇にむしゃぶりついた浩介は、肩を抱きしめたまま千代を押し倒した。千代が目をつむったように浩介には思えた。


 儀式を終えて千代は、身づくろいを整えて髪をほぐすと、バッグから一冊の分厚い書籍を取り出して浩介に手渡した。


「全国の大学の受験要領が載ってるわ。どこを目指すかは浩介くんの自由だけど、東京に行って胸を張って生きていけるかどうかを真剣に自分の頭で考えて、目標を定めて頑張って欲しいのよ。二月には看護婦の国家資格を取得するための試験がある。そのために私は一生懸命勉強してきたわ。きっと合格して看護婦になる。そして病院で働いて、その給料で浩介くんの未来に賭けるのよ。だから浩介くん、中途半端な気持じゃ許さないから。分かったわよね。ちゃんと聞いてるの? 私の話を」


 燃え上がった千代との想いに、なお火照りを残す浩介の頼りげのない瞳にまつ毛を寄せて、拒むことを許さぬ勢いで千代は諭した。


 浩介の頭は茫洋として定まらず、現実感のないうつろな思考の回路の中でさまよっていた。さまよいながらも千代の勢いに呑まれて、「考えてみるよ」と返答すると、畳み掛けるように千代の厳しい言葉が続いた。


「考えなくてもいいのよ、浩介くんは。どんなに考えたって頑張るか、頑張らないかの二者択一しかないでしょうよ。頑張れば必ず夢を見られるって、私が言ってるんだから信じなさいよ。頑張れない浩介くんなんて大嫌い。もしも来年、目指す大学に合格できなかったら、私は浩介くんの前から消えるわ。とっても悲しいけど、その時は本当にお別れね」


 千代は桜貝のような唇を浩介の唇に当てると、「帰るわ」と言って立ち上がった。


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