11の6 最後の治療
梅雨明けの青空に、突然黒雲が現われて驟雨をもたらす。遠雷を聞いたかと思う間もなく、バラックのトタン屋根に雨粒がバチバチと叩き付ける。
ドラムの響きのような激しいリズムが呪文のようにのしかかり、目を閉じると千代の顔がぼんやりと浮かび上がる。
その表情は怒ったような仏頂面で、いたずらな弟をたしなめる姉のような目付きであった。やさしく微笑みかける千代の表情を、まだ見たことがないように思えて浩介は萎縮した。
典子には平気で冗談を言えるのに、千代と二人きりになると顔が火照って思いの言葉が浮かんでこない。
浩介は千代のことを好きだと思った。二人でいられる時間が心地よくて幸せだった。だけど、その時間はすぐに終ってしまうと覚悟していた。
それは、治療が終って会える理由がなくなるからか? それもあるが、そうではない。では千代が、年上の姉のように三つも年齢が離れているからか? 医療を志す看護学生だからか? そうかもしれないが、もっと違う理由があった。
穢れのない千代の清純な美しさが、貧乏で陰湿な浩介の世界に存在してはならなかったからだ。自分の孤独が千代の明るさを奪い、貧乏という惨めさが美しさを破壊するからだ。
千代の幸福を守るためには、恋人とか結婚とか考えて、バラックの世界に引きずり込むなんて許されないことだった。
それが自分の幸福をつかむための矛盾であったとしても、極貧はどんな矛盾をも凌駕するのだ。暗闇に住まい、孤独を安らぎとして生きてきたから、辛いとも悲しいとも思わない。
思わないけど……、現実は理解しているのだが……、自棄と憧れとがせめぎ合うなかで、不意に湧き上がる甘美なときめきをどのように処理すれば良いのか。
もしも誰かに打ち明けようにも、どのように描いて説明すべきか分からない。陽介や武蔵や虎太郎に悟られたら、たちまち偏見の苦笑いで蔑むだろう。
「明日また来なさい」と千代は言ったけど、「もう大丈夫ね」とも呟いた。明日が最後の治療になるかもしれない。そう考えると浩介は焦った。
何かを話さなければ、何かを吐き出しておかなければ一生の悔いが残ってしまいそうだ。そう考えて言葉を捜し求めるのだが、気の利いた言葉のひとつも思いつかない。ささくれ立った孤独の影が、言葉を奪ってあざ笑う。
翌日の夕方、いつものように球場の入口で千代は待っていた。いつもと違うのは、千代が笑顔で迎えてくれたことだった。気のせいか、千代の声音がいつもよりもはずんで快かった。
プラタナスの木陰で包帯を解いてガーゼを取ると、千代は浩介の背中をピシャリと叩いてニコリと笑った。
「もう薬を塗る必要はなさそうね」
「えっ、もう傷は治ったんか?」
「ほっとけば治るわ。でも、無茶をしたらまた傷口が開くんだから、喧嘩なんかしちゃ駄目だよ」
「もう、柔道やってもええんか?」
「だめだめ、駄目に決まってるでしょう、バカちんねえ」
たしなめるように眉を寄せて千代がにらんだ。そのまなざしを浩介が受け止めた。千代は視線をそらすことなく、瞳が見つめ合わさったまま時間が止まった。桜貝の口が開くように、千代の唇がわずかにほころんだ。
「あさって、大島に帰るつもりだわ……」
思わず頬を赤らめて目を伏せた浩介に、千代は独り言のように呟いた。
「そうか、帰るんか……」
何かを言わなければと焦るほど言葉を失ってしまう浩介は、ただ鸚鵡返しに答えるしかなかった。
「浩介くん、もし良かったら、明日、皿倉山へ行かない?」
遠慮がちに千代が誘った。
浩介の目から火が噴き出した。いかなる創意もすべもなく、今日でお別れだと覚悟していた浩介の心臓に、千代のほうから炎の矢じりを突き刺してくれたではないか。
「うん、行く」
浩介の即答に、こわばりかけた千代の頬がほころんだ。
「じゃあ、明日のお昼前に、病院の前で待ち合わせましょう。私、おにぎりを作っていくから」
「うん、あした晴れるかのう」
「そう祈ってるわ」
スカートの裾を払って立ち上がりざまに、ポニーテールの先っぽが浩介の鼻先で跳ねた。硬直した胸のほてりが血を昂ぶらせ、千代の身体を背中から抱きしめたい衝動に襲われる。それが恋なのか欲望なのか、浩介には分からなかった。
― 翌日の朝 ―
浩介は朝早く目覚めた。夢を見ていたような気がするのだが、朝日の眩さが夢の記憶を消してしまった。寝息を立てている母を避けて外に出た浩介は、湾の海水で顔を洗って空を見上げた。
夏だというのにセミの声も聞こえない。対岸に林立する工場の煙突から幾条もの白煙が立ち上る。はぐれカラスが舞い降りて、汚物をあさってギャーギャーと鳴きわめく。
浩介はカバンから教科書を取り出して、みかん箱の机に広げた。頁をめくって文字を眺める。頭は冴えているのに、読む気にはならない。
湾に漂う汚物の腐臭と、教科書の紙の匂いが混ざり合う。そのうち貞子が目を覚まし、けだるげに大きなあくびをして起き上がる。
「勉強しよるんかね、えらいねえ」
教科書をのぞき込むようにして貞子が言った。
「口が臭いけえ、向こうへ行けや」
浩介が邪険に言うと、貞子はしきりに頷きながら外へ出た。口が臭いことに頷いたのではなく、勉強に励んでいる息子の姿を見て満足したのだ。だから浩介は、母を満足させる為に、たまに勉強を装っている。
あくびをしながら海水で洗顔した貞子は、りんご箱の食器棚から食パンの残りを取り出して、コップにうつしたバケツの水にひたして頬張った。
日雇いの身づくろいをしながら、洗剤のような白粉と、いびつに歪んだ口紅で、形だけの化粧を施して出て行った。
隣のバラックもまたその隣も、日雇いの主が出て行けば音をたてるものは何もない。未来もなければ希望もない、時間だけが崩れた堤防の脇をすり抜けていく。
浩介はふと目をつむり、千代の面影をバラックの中に据えてみた。浩介がいて、千代がいて、その隣に貞子がいる。
言葉もなく笑顔もなく感情もない。寒さにふるえてボロ着をはおり、天井を這うナメクジを手で払いのけ、白湯のようなお粥をなめて飢えをしのぐ。それはモノクロ映画の淫靡なシーンを見るようで、とてつもなく忌まわしい情景だった。
浩介は、貧乏だから不幸だと感じたことは一度もない。卑下されることに慣れ、お金が無いことが当たり前だと思って生きれば、その感覚が肌に馴染み、甲冑の鱗となって身をかばう。
その感覚を裏返せば裕福に対する卑屈さであり、太陽の光を避けて土中に巣食うモグラが、月の明かりを頼りに夜の世界を徘徊する姿に似ている。
土中のモグラが希望を求め、旭日の光を浴びれば目をくらませて干からびる。太陽の恵みに憩う可憐な花を、夜陰に閉じ込めれば息を詰まらせて死に果てる。
太陽の光を浴びて咲く花は、日没とともに花弁を閉じて月の影を知らない。月の明かりで夜陰を徘徊するモグラは、太陽の恵みを知らずに一生を送る。
太陽の世界の生き物と、月の世界の生き物が、ともに交わることなどありえないのだ。互いの宿命が生きる世界を隔てているのだからと、浩介は達観するようになっていた。
貧乏と裕福のどこに境界線があるのか知らないが、貧乏はドブ川で、裕福は渓谷の清流だから、紅色のバラの花を、白色の天使の羽を、ドブの流れに引きずり込めば毒色に染まる。
夢とか希望とか幸せとか、病葉のように空虚な言葉など、宿命というドブの川には縁がない。毒虫が見る幻の夢のような錯覚にすぎない。自分は毒色の虫だから。
仕掛けておいた目覚まし時計がチリチリチリと、壊れかけの音を響かせて午前十一時を知らせた。なにを無駄なことを考えているのだと、浩介は自嘲して教科書を閉じた。
海水で顔を洗って、うがいをして、口中を清め、タオルで背中や腕や股間をぬぐった。外出の際にこれほど神経を使って身を清めることなどかつてなかったことである。
服装はといえば、くたびれた丸首の半袖シャツを頭からかぶり、折りのとれた学生ズボンをはき、踵のつぶれた安物のスニーカーに素足を突っ込んでいる。
貧乏ゆえの身支度だけれど、そもそも衣服や装飾品で身を飾るという素養も神経も持ち合わせてはいなかった。