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 11の5 千代への想い

 新聞配達をやめてから放課後の時間を持て余すようになった浩介は、一人で思いにふける時間が増えた。


 洞海湾の東側を眺めると、製鉄工場の巨大な溶鉱炉が首をもたげてそそり立つ。西側を見渡せば、ぺんぺん草の広がる荒地の向こうに工場らしき建屋が点在している。

 決壊した堤防の未整備な一角を、浩介たちが住み家とするバラックが占拠している。そこから堤防の先まで歩いて行くと、はるか東側に若戸大橋が望める。


 浩介は堤防の端に腰を下ろし、コンクリートの隙間から身を乗り出している雑草をむしり取って海面に放った。沖を走る焼玉船から吐き出された排気油が、波に運ばれて打ち寄せてくる。

 梅雨雲が空をおおい隠して、潮風がうっとうしく肌にまとわりつく。背中が汗でべとつき、傷口をなめ、包帯をぬらして身体が蒸れる。


 その後、大仏男たちから陽介あてに再び呼び出しの書状でも届いてはいないのか、なにか悪い進展でもないのかと気にはなっていたのだが、傷を負っては柔道の練習もできず、武蔵や虎太郎たちと顔を合わせる機会もなかった。

 彼らもまた、わざわざ洞海湾のバラックまで浩介を訪ねて来ることもなかった。


 今日も授業に身が入らなかったと浩介は思い返した。身が入らないのはこれまでと同じだが、教科書を開いてもぼんやり眺めるだけで、始業のベルも先生の声も上の空で時間だけが経過する。

 黒板の文字がゆがんで千代の顔が透かし絵のように浮き上がる。そのくせ顔の輪郭も表情もあいまいで、目や鼻や耳たぶが福笑いの断片のように定まらない。


 千代は看護学校の二年生だと言ったから、自分よりも三つ年長だという計算になる。その千代が、ずいぶんと大人びて見える。


 斜め前の席に女生徒の背中がある。夏のブラウスに衣替えした制服の背中にブラジャーの線が透けて見える。その包みの中で息づく乳房のふくらみを想像すると、それが大人の女の証に思える。

 だけども彼女たちが自分と同じ年齢なのだと考えれば、千代がもっと手の届かない大人なのだと感じてしまう。

 千代への思いが母性を求める本能なのか、女を恋い慕うあこがれなのか、判断を下せずに拒む理性が、感情の昂ぶりにもてあそばれて思考をさえぎる。



 三日目も、四日目も、千代と典子は球場で待っていた。いつものように典子はプラタナスの幹に背中をあずけ、芝の上に脚を投げ出して浩介に冗談を言ってからかった。

 包帯を解いて消毒をして薬を塗って処置をしてくれるのが、決まって千代であることが浩介には嬉しかった。



 五日目の夕刻、球場の入口に立っていたのは千代だけで、典子の姿が見当たらなかった。


「ノコちゃんは夏休みで郷里の熊本に帰ってしまったから」

 千代は、典子のいない理由を簡単に告げると、すぐに背を向けてプラタナスの木陰へと歩き始めた。


 千代と二人きりになるという突然の成り行きを、浩介は複雑な心境で受け止めていた。ニキビ面の典子の存在が、微妙な潤滑油の役目をはたしていたことを承知していたけれど、いざいなくなってしまうと、戸惑いを覚えてぎこちなく緊張してしまう。

 話しかけてくるのはいつも典子だったから、千代が何を考えているのかを知ることはできなかった。浩介は慌てて千代の背中を追って、横に並んで歩みを合わせた。


 プラタナスの木陰に腰を下ろすと、千代はバッグから薬箱を取り出して、いつものように包帯を巻き取って処置を始めた。


 典子は熊本へ帰省したと千代は言った。典子がいなくて二人きりならば、ぎこちない会話でも恥ずかしくない。そう考えて浩介は戸惑いを振り切って、処置を始めた千代に話しかけた。


「あの……」

 初めての緊張感に、浩介の声がうわずった。

「なに?」

 千代がそれを気にしないそぶりで明るく応じた。


「学生寮にいる人たちは、みんな田舎が遠くにあるんか?」

「そうよ。九州の人たちが多いわね。ノコちゃんは熊本だけど、長崎とか鹿児島から来てる人もいるわよ」


「千代さんも、遠くに田舎があるんか?」

「山口県の大島おおしまが私の故郷だよ」

 初めて千代という名を口にすることに、少なからずのためらいを感じたが、典子という邪魔者がいない開放感が浩介の口をなめらかにした。


「大島って……、どこにあるんじゃ、その島は?」

「瀬戸内海に浮かぶ大きな島だよ。昔は島まで船で渡ってたんだけど、今は橋ができて、いつでも渡れるようになったんよ。駅からバスに乗って一時間くらいのところに実家があるんよ。山の斜面にみかん畑があってね、収穫の時期には親戚の人たちも手伝いに集まって、すごく忙しいんだよ」


「へえ、みかんが取れるんか。ここよりも空気がきれいなんか?」

「空の青さがぜんぜん違うよ。山の上から周囲を見渡したらね、小さな島まできれいに見えるよ。空気が澄み切ってる証拠だよね。夕日の沈むころにはね、空も海も真っ赤に染まって燃えるようだわ」


「ふーん」

「夏になるとね、近所のみんなで大きなゴムボートを車の屋根に載っけて、近くの海岸から小さな島へ渡って魚を捕るの。島中が海水浴場みたいなものだから、水着さえ身につければどこでも遊べるんよ。でもね、海は穏やかに見えるけど、少し沖に出ると潮の流れが速くなるから、油断すると怖いんだよ」


「千代さんも泳げるんか?」

「島の子はみんな泳げるわよ。シュノーケルで海に潜ればね、小さな熱帯魚がたくさん泳いでるよ。水族館の水槽の中みたいだよ。男の子たちはモリで突いて魚を捕ってるわ」


 浩介が相槌を入れなくとも、千代の話にはよどみがなかった。


「島の人たちはね、みんな陽気で親切でくったくがない。あっ、そうそう、島には狸が住んでてね、夜中に車を走らせてたら時々道路に飛び出してきて、轢かれてしまうことがあるんだって。島にはね、泥棒がいないから、玄関にも窓にも鍵なんか掛ける心配がないから、いつも開けっ放しなのよ。海からの風が吹き抜けるから、どこの家にも冷房なんて必要ないの」


 洞海湾の堤防から眺める風景しか知らない浩介にとって、千代が育ったという大島の話は新鮮だった。


「島にはおじいちゃんがいてね、私が帰ると喜んで海へ出てね、もう年なんだからやめろってお父さんは言うんだけど、海に潜ってサザエをいっぱい取って来るんだよ。それがすっごく美味しいんだから」


 千代の笑顔が愛らしかった。その目から、瀬戸内の青空と太陽がはじけ、笑顔から、潮の香りと波のしぶきがあふれ出た。


「千代さんも夏休みなんじゃろう? 島へは帰らんのか?」

「そりゃあ帰りたいわよ。いつもだったらとっくに帰ってるわ」


「なんで帰らんのじゃ?」

「だって、浩介くんの治療を放って帰るわけにはいかんでしょうが……」

 

 千代の手がふと止まり、浩介を見つめて目と目が合った。千代は慌てて目をそらしたが、浩介の視界で花火が撥ねた。


 帰りたいけど、帰らないと、間違いなく千代は言った。浩介のために帰らないと、確かに聞こえた。胸の奥にしまい込んでいた感情が、ホウセンカの種が弾けるようにほとばしり出た。それが恋の弾ける音だとは、無垢な浩介にはまだ分からなかった。


「浩介くんは高校を卒業したら大学へ行くんでしょう?」

 さらりと話題を変えて千代がたずねた。


「いや、大学へは行かん」

「えっ、どうして? たしか浩介くんの行きよる高校は、県立の進学校だったよねえ」

 千代は浩介の意外な返答に、顔を上げて聞き返した。


「行けんのじゃ。別に行きたくもないし。卒業したら東京へ行って働くんじゃ」

「どうして行けないの?」

 思いがけない千代のしつこさに、浩介は面食らった。面食らっても話せなかった。極貧の生活を千代には知られたくなかったから。洞海湾の海水で顔を洗って、うんこを垂れ流しているなんて知られたくなかったから。


「どうして大学へ行けないの?」

 薬を塗布したガーゼを傷口にあてたまま、包帯を巻く千代の手が止まって動かなかった。千代の眼差しを見返すと、答えをはぐらかすことは許さないと言いたげだった。


 自分が生きる影の世界と、千代が生きる希望の世界とは、決して越えることのできない高い壁で仕切られていることを、浩介はしっかりわきまえている。もしも禁断の領域を破って覗き込めば、天使の羽が黒く汚れてしまいそうで不安だった。



― 貧乏人 ―


 浩介は、貧乏人の子供であることがいかに惨めな存在かということを、小学生の時に思い知らされていたから、その記憶を、今でもはっきり思い出せる。


 入学するとすぐに、隣の席の太郎と仲良くなった。太郎の筆箱の中には赤や黄色の鉛筆や、鉛筆削りや消しゴムなどが入っていた。太郎は惜しげもなく筆箱の中身を共有させてくれたし、浩介の短くなった鉛筆を見て新しい削りたてを譲ってくれた。

 その見返りに浩介は、太郎がいじめられていれば身体を張って助けてやった。この関係が保たれている限り、浩介にとって学校は居心地の良い場所だった。


 ところがある日、太郎の態度が変わって、保たれていたバランスが突然くずれた。彼から借りていた絵本や童話集を、すぐに返して欲しいと返却を求められた。その日から、彼の筆箱はチャックを閉められたまま、浩介の机の反対側に遠ざけられた。

 自分が太郎を怒らせたのかとおもんばかったが、思い当たるふしはなかった。他人行儀なよそよそしさが二日たっても三日たっても変わらないので、やりきれない思いを我慢できずに思い切って理由を問うた。


 太郎は頑として口をつぐんで理由を明かさなかった。かたくなに意固地な太郎の態度が憎々しくなり、太郎の頬にビンタを張った。三発目のビンタを浴びせるために、右手を高く掲げたら太郎は泣き出した。しゃくりあげながら太郎が理由を話した。


 洞海湾のバラックに住んでいる子供なんかと、友達になってはいけないと母親に言われたのだ。どんな病気をうつされるかもしれないから、手や身体にふれてはいけないのだと説得されたのだ。

 あんなところで生活している人間は、どんな前科を持つ犯罪人かもしれないのだから、親も子供もまっとうな考え方をしてはいないのだと父親に教えられ、口を利くだけでも忌まわしいのだから、決して仲良しになってはいけないと釘を刺されたのだ。


 そう言われてクラスの周囲を見渡すと、先生も生徒も全員が白い目で自分を見つめていることに気がついた。

 五郎も花子もみんな浩介を蚊帳の外において、ドブネズミの子供でも見つめるように、まやかしの笑顔で冷ややかに見下していたのだ。

 生まれたときから貧乏な生活になじんでいたから、その環境に疑問を持つきっかけがなかったけれども、それ以来浩介の心が卑屈になった。貧乏たらしい母の挙動を嫌悪して反抗し、顔も知らない父を憎んだ。


 父は母を捨てて逃げたと聞かされたけど、子である自分まで捨てたとは考えていなかった。幼い頃から父に会いたいと願い慕う気持があったのだが、それ以来父を憎むようになってしまった。

 もしもどこかで父が幸福な家庭を築いていたならば、その家族を、その子供を殺してやりたいと歯がみした。


 赤茶けたりんご箱を積み重ねた食器棚の隅に、一対の夫婦みょうと茶碗が置かれていた。赤地に梅柄の茶碗で母は白湯を飲み、青地の茶碗は大切そうに布巾の上に置かれていた。いつか戻ってくる持ち主のためにあるかのように、平然と存在していた。

 生まれた時からそこにあった存在が、突然違和感をともなって許せなくなり、浩介は棚から青地の茶碗を取り出して、泥土で固めた土間にたたきつけた。粉々になった茶碗のかけらが、自分を捨てた父の骨片のように思えて吐き気を覚えた。


 母が帰ってきて、土間に散らばる茶碗のかけらが夫婦茶碗の片方であることを知り、浩介をにらみつけた。にらんだ瞳がうつろに陰り、母はだまってかけらを拾い集めた。集めたかけらを洞海湾の海に放り、しゃがんだままの母は泣いていた。



 たまたま生まれた環境が違っただけなのに、自分を見下す級友たちを憎んだ。彼らの親を憎み、学校を憎み、社会を憎んだ。その憎しみが心のひだにへばり付き、臭いものに蓋をするように、貧乏という身の上を悟られないように振舞わなければならないという卑屈さを、子供心に焼き付けられた。


 貧乏に蓋をしたところで隠し切れないと開き直ったのは、浩介が中学生になってからだった。

 自分がどんなに開き直ったところで、蔑視している他人の白い目つきや考え方が少しも変わらないことは分かっているが、貧乏を受け入れることによって、捨て鉢なふてぶてしさを身につけられるような気がして居直った。

 だから、陽介や武蔵たちを洞海湾のバラックへ連れてきて、貧乏の裏舞台を見せつけてやれた。彼らが貧乏を軽蔑し、自分を捨てて去って行っても平気だからだ。


 だけど、千代にだけは知られたくなかった。今の心地よい幸せな夢舞台が、壊されそうで怖かった。千代の表情がゆがむのが怖かった。


 また一方で、貧乏を隠して嘘をつくのは卑怯者だと見透かされそうで怖かった。瞬時の幸せな時間が嘘によって壊されそうで怖かった。どっちにしても壊れるならば、みじめに嘘をついて壊れるよりも、貧乏を知られて逃げられた方が納得がいくように思えた。だから、破れかぶれで打ち明けた。


「うちは貧乏じゃから、大学へ行く金が無いんじゃ」

「それだけの理由なの?」


「それだけって……、お金が無けりゃあ行けんじゃろう」

「本当は行きたいの?」


「考えたこともないよ、大学なんて。高校に行けること自体が奇跡なんじゃから」

「勉強したから県立の高校に入れたんでしょう?」


「そりゃあ、県立でなけりゃあ、お金が掛かるけんのう」

「そう……」

 

 千代の質問はあっけなかった。包帯を巻き終えると、「もう大丈夫ね」と言って立ち上がった。


「えっ」と言って浩介が振り向くと、「明日、また来なさい」と千代は言ってにこりと笑った。


 若い肉体の回復力は野生の動物のようにたくましく、浩介の傷はもうほとんど癒えていた。傷が癒えれば会う目的が失われ、舞い降りた天使が飛び立って行く。


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