11の4 傷の手当て
無断で新聞の配達をさぼってしまった浩介は、店主からいやみを言われた。それを契機に店をやめた。金は欲しかったけど、学費は心配するなと胸を張る母に甘えることにした。
中学を卒業したら東京へ出稼ぎに行くと言ったのに、意地でも高等学校へ行かせてやると母の貞子が言い張るから、自分も責任を感じて学費の安い県立の高校へ合格できるように勉強に励んだ。その見返りに、新聞配達をやめてもいいだろうと思った。
本当の理由はそうではない。夕方の四時に球場へ行くためには、夕刊の配達を休まなければならない。何度も嘘の言い訳をつくろって、店主に気を使うのは面倒だと思ってやめた。
理由なんかどうでも良い。自分自身に言い訳をつくろっても仕方がない。だけど、時間に拘束されずに、いつでも千代の都合に合わせるためには新聞配達は障害なのだ。
夜遅く帰ってきた貞子の吐息に、酒精の臭いを感じて顔をそむける。八畳ほどもないバラックの住み家で、いくら顔をそむけたところで逃げようもない。
極貧の生活を生き抜くために、貞子は建設現場で働いている。屈強な男たちに交じって土埃にまみれ、稼いだ日銭が食費と学費だ。
肉体労働に疲れて流した汗をねぎらう気持ちと、今日もまた男たちと酒を酌み交わしてきたに違いないと妬む気持ちが交錯して、捨て鉢の本能に冷たい氷のトゲが突き刺さる。父の居ないバラックで、思春期も反抗期も知らないままに、いつまでも母性を求めて限りないのか。
共同の水道からバケツに汲み置いた溜め水を、貞子はコップですくって一息に飲み干すと、おやすみも言わずに布団の上に横たわった。
翌朝、洗面器に顔を突っ込みながら指で歯を磨いていた貞子が、いつまでも布団から出てこない浩介をいぶかって声をかけた。
「浩介、どうしたんかね。具合でも悪いんじゃなかろうねえ?」
「なんでもないけえ」
「学校へはちゃんと行きよるんね? しっかり勉強して、卒業だけはきっちりせんといけんよ」
「わかっちょるよ」
布団に寝転がったままの浩介は、包帯を巻きつけられた上半身を、毛布で隠してけだるげに応じた。
洞海湾のさざなみが歪んだ鏡面となって、朝の陽光をキラキラと照り返す。そのひとすじがトタン屋根の内に差し込んで、浩介の首もとから肩をあらわに照らした。
歯みがきの手を止めて、一瞬けげんな表情を見せた貞子だが、何を見たのか、それとも見なかったことにしたのか、そそくさと身支度を終えて朝の勤めに出て行った。
学校の授業は退屈だった。どうせ進学はしないのだから、教科書を開けば瞼が重く、セミの声だけがやけにけたたましい。柔道部に行く気も失せたし、陽介たちに会う気もしない。
六時限目の授業が終わると、浩介はすぐに校門を出た。大仏男の待ち伏せが怖かったけど、千代との約束の時間のほうが気になった。
腕時計を持っていないので、とにかく急いで球場へ向かうと、すでに千代と典子が入口で待っていた。
縦縞のワンピースに身を包んだ典子の横に、大きなバッグを手にした千代がいた。フリルのブラウスが涼しげで、淡いチェックのスカートが爽やかだった。
「来んかと思うちょったけど、言いつけを守ってよう来たね」
ぶっきらぼうに典子が言った。
「死ぬって脅かすから来ただけじゃ」
浩介は反抗的な口調で典子を見つめた。
「ハッハッハッ、口をとがらせるところが可愛いじゃないか。あんたよく見ると意外に男前じゃねえ。もてるんかい? クラスの女の子に」
「うるさいのう。関係ないじゃろうが」
浩介は顔をそむけて怒ってみせたが、ざっくばらんな典子の冷やかしに、肩の力が抜けて空気が和んだ。
まだ何か言いたげな典子を牽制するように、千代が典子の袖を引いて、プラタナスの木陰を指差した。
閑散とした球場には、ときおり選手らしき姿が行き交うだけで、三人の男女に気を払う者はいなかった。
千代は木陰に浩介を座らせて、下着のシャツをそろそろと脱がせると、肩から胸に幾重にも巻きつけられた包帯を丁寧に剥ぎ取った。傷口に当てていたガーゼは血に染まり、接着剤を付けたように貼り付いていた。
千代はそっと手を当てて、一気にガーゼを剥ぎ取った。。
「イテテッ! い、痛いよ」
「なによ、男の子でしょう。我慢しなさいよ、これくらい。次は肩のガーゼをはがすからね」
「そっちは傷が深いんじゃから、ゆっくりはがしてくれよ」
「喧嘩なんかして傷を負ったほうが悪いんでしょう。治療してあげてるんだから、ちょっと痛いくらい我慢しなさい。ほら動かないで、じっとしてなきゃ駄目でしょう」
からかうような千代のせりふが、じゃれあう子猫に指を噛まれた痛みのように心地良く、これまでに触れたことのないほのぼのとした温もりを感じた。
千代はバッグから薬箱を取り出すと、肩から消毒液をたれ流す。汚れた血痕を綿でふき取り、薬を傷口に塗りこんで新しいガーゼを押し当てた。
動作のたびに千代の横顔が間近にすれ違う。千代のまつ毛が二重の瞼に反ってしなやかで、肩の傷口に触れる鼻息が、春の涼風のように心地良い。初めて感じる女の匂い、この時間がいつまでも続いて欲しいと浩介は願った。
「あんたを追いかけて来た男たちは何者なんね?」
プラタナスに背中をあずけて作業を見守っていた典子が、気になっていたかのように問いかけた。
「あんたは県立高校じゃと言うたよねえ。あの男たちは刀を持っちょったけど、同じ高校じゃあないんじゃろう?」
「あいつらは日豊本線の奴らじゃ」
つっけんどんに浩介は答えた。
「なんで、刀で切られたんね? 何をしたんね?」
「なんもしちょらん」
「なんもしちょらんで、切られる訳がないじゃろうがね。あんた、どこに住んじょるんかね?」
「洞海湾……」
「洞海湾て……、なんね? まさか船の上で生活しとるわけじゃなかろうがね。それとも漁師さんかね」
「湾のそばじゃ」
「ふーん、あんなとこに住宅があったかねえ。湾のあたりは工場ばかりじゃなかったかねえ」
浩介は典子の詮索に警戒心を抱いて、鼻白むように口を閉じた。小学校でも中学校でも、同級生とその親たちは、洞海湾ぞいのバラックに住む浩介母子の生活レベルを承知していた。
極貧をあざ笑い、そこに生きる者たちを蔑み、素知らぬふりを装って仮面の顔でいたわりを演じる。そんな扱いにはとうの昔に慣れきっていた。だから、典子に詮索されてもはばかることなく事実を言えたはずだった。だが、千代にだけは知られたくないと思った。
生きる世界が違うのだから、知られたところで不都合はないけれど、せめてこの心地良い砂の楼閣が、最後の時を告げられて波にさらわれるまで、無用な詮索をされたくないと危険を察して口をつぐんだ。
「あんた、ガールフレンドおるじゃろう?」
典子はあっけらかんと話題を変えて、満面にニキビあとを残した丸顔を浩介に向けた。
「おらん。そんなもんは興味ないけえ」
「ははん、顔が赤うなったよ。うぶじゃねえ、ははは」
「うるさいのう」
すねるように顔をそむけた拍子に、薬を塗布する千代の吐息が浩介の鼻先をなでて目と目が合った。思春期の盛りをむかえた浩介の股間が、思いもかけずに勃起した。
「こら、動いちゃ駄目でしょう」
幼い弟でもいなすように、ニコリともしないで千代が叱る。学生だからと見くびっていた千代の作業は意外にも手際よく、見る間に包帯を胸に巻きつけられて処置は終った。
浩介は股間の勃起を気づかれないように、ゆっくりと立ち上がってありがとうと礼を言った。今日は素直に礼が言えた。
「浩介くん、明日また来なさい。待ってるから」
薬箱をバッグにしまいながら千代が言った。
「うん」
とがめるような千代の視線がまぶしくて、神妙な顔つきで浩介は答えた。勃起をさとられるのが恥ずかしくて、浩介はそそくさと立ち去った。