11の3 海賊船の夢
浩介は、言われるがままに千代の部屋にいすわった。夕食としてあてがわれたインスタントの炒飯と、玉ねぎを煮込んだスープを飲んだ。
千代の布団だからと指定されて、上段のベッドに横になって瞼を閉じた。必死で逃げ回ったつい先ほどの出来事が、幻覚であったかのごとく遠く消え失せ、千代の姿だけが心の瞳に張り付いた。
目をつむって眠りにおちた浩介は、大海原にトンボが舞う夢を見た。トンボの群れを追い散らすように、真っ黒な海賊船が姿を現す。
ノルマンディーのヴァイキングのように、黒地にドクロの描かれた海賊旗が、メインマストの先端にはためいている。
空は青く、海も青く、太陽の恥じらいと月の憂いが、水平線を失った果てしのない蒼のはざまに混じり合う。
オーロラの海にゆらめく海賊船が、夢の中の浩介の眼前にせまり来る。オウムを肩に乗せた片腕義足の船長さんが、肉太のサーベルを振りかざして威嚇する。
突然サーベルが悪魔に豹変し、鋭い牙をむいて襲いかかる。逃げ場を失った浩介の眉間に、サーベルの牙が突き刺さる。いや、突き刺さる寸前に、牙は折られて粉々になり、青い海原に散らされたところで目が覚めた。
目を覚ます直前の、しばしの間に浩介は見た。夢の中でサーベルの牙から自分を救ってくれた正体を。
風に乗って飛翔する青い瞳の妖精が、悪魔の牙に金色の息を吹きかけて、サーベルを粉々にしてしまったのだ。
マストの上から一直線に舞い降りて、生暖かい金色の呼気を吹きかけて、妖精はつんとすまして飛び去った。
浩介は目覚めてもなお、鮮明に残る夢の情景にまどろんでいた。
自分がこれまでに見た夢は、いつもモノクロ映画のように墨色で、暗くて寂しくて陰湿だった。
河童になった自分の身体が縄でしばられ、ドブ板に覆われた排水溝の中に横たわっている。頭の皿や背中の甲羅を、小さな鼠たちにかじられている。
顔のない人たちが信号機のない交差点をぞろぞろと、ぞろぞろと、ナメクジのようにぎこちなく、ただ生きている証であるかのように歩んでいる。いつの間にか、顔のない自分がその歩みの中に埋もれてたたずんでいる。
こんな夢ばかりだったから、どの夢にも色彩がないことや抑揚のないことに不自然さを感じることはなかったのだと浩介は初めて気付いた。
鮮やかによみがえる夢の余韻に動悸がたかぶり、夢の意味を予感して恥らう自分にたじろいでいた。
悪魔の牙の攻撃にあらがうことを諦めて、夢の中で死を覚悟していた浩介の眼前に、突如として舞い降りて命を救ってくれた妖精は誰だったのか。金色の香気をふりまいて、飛び去った妖精の顔に見覚えはない。
突然引きずり込まれた夢のなかに、見たこともない大海原が広がり、時代錯誤の海賊船が登場することだけでも異様であったが、浩介の胸の高まりが、そんなことを意に介するゆとりを与えなかった。
夢は無骨な眼前の事実や無気力な感触を凌駕して印象的で、より生々しい存在感をもって臨場感にあふれている。現実よりも真に迫って現実的で、まざまざと息づく夢幻の肌触りが、深々とした余韻を残して目覚めとともに興奮を高める。
青い瞳の妖精は、榊原千代と名乗った看護学生ではなかったのか。瞳の青を黒くぬりかえ、天使の羽をポニーテールに結いなおし、金色の呼気を白いため息にすり替えてみる。
はだけた胸に包帯を巻きつけられた時、千代の頬が浩介の鼻先とすれ違った。薄絹のような千代の頬にうっすらと化粧の匂いが漂っていた。母の匂いとは違う、すがすがしい女の香りを初めて嗅いだ。そのとき浩介はまだ、小さな恋の琴線に触れていたことに気づいてはいなかった。
千代の布団の上で浩介は、まどろみながら目を覚まし、目覚めてはまたまどろんだ。そうして一晩中寝返りをうっているうちに夜が明けた。
ピンクのカーテンで遮蔽された窓のすき間から、梅雨明けを思わせるような明るい光が差し込んでいた。とぎすまされた朝の光の眩しさが、大仏男の忌まわしい日本刀の長刃を思い出させた。
思わず浩介はベッドから身を起こし、窓辺のカーテンをそっとめくった。芝と樹木の広がる敷地のどこかに男たちが潜んではいないかと、藪の隅までしっかりと見渡したが、静かな朝の気配の中に、男たちの姿はどこにもなかった。
視線を室内にもどして見回すと、千代の物なのか、同室の女性の物なのか、白衣の制服がベッドの横枠からハンガーに吊るされていた。
ベッドの向かいの机の上には、解剖生理学とか臨床看護だとか、背表紙に黒文字で印刷された書物がブックエンドで支えられていた。
何も考えるゆとりもなく無我夢中で飛び込んできたけれど、ここはナイチンゲールを夢見て学ぶ白衣の天使たちの聖域なのだと思い直すと、自分が何かとんでもないタブーを犯しているような気がして胸が騒いだ。
そう思って振り返ると、ベッドの上に柔らかい布団があって小さな枕があり、異性の温もりに触れてドキリとした。
そのうち部屋のドア越しに、看護学生たちの華やいだ声が響きわたり、廊下を歩く足音がしげくなる。いっときの賑わしい気配が落ち着いて、再び静寂を取り戻したころ、ドアをノックする音が聞こえた。
「おはよう。お腹すいたでしょう?」
お盆の上に大皿とコップをのせた千代が、足音をしのばせるようにして入るとその後ろから、典子が廊下に人の姿のないことを確かめてすばやくドアを閉めた。
「炒飯とスープ作ったから食べなさい。食べ終わったら薬をつけるから」
千代が小声で言うと、お盆を浩介の前に差し出した。
「うん」
浩介は、ありがとうという言葉がなぜか気恥ずかしくて言えなかった。千代のまばゆいまなざしに、心臓を射すくめられたかのように胸がときめき、野良の子犬のように言葉の自由を縛られていた。
「あんた、部屋のなかの物、物色したりしちょらんじゃろうね?」
ぐるりと室内を見回した典子が、勘ぐるような目付きで浩介をにらんだ。
「なんも、さわっちょらんけえ」
ニキビ面の典子にいくら詰問されても、愛嬌のある表情に親しみを感じるだけで、浩介の心はなごんだ。
浩介は大皿の炒飯をスプーンに盛って口に運びつつ、自分を見つめる千代の視線のおもはゆい眩しさを感じて頬を赤らめた。
典子は二段ベッドの下段に腰を下ろして、手持ち無沙汰げに大きなあくびを繰り返して間を持たせていた。
一粒残らず炒飯をたいらげてスープの残りを飲み干すと、待ちかねていたように千代は、浩介の左肩から胸部にかけて幾重にも巻かれた包帯の結び目をほどいた。
傷口にかさばる血痕と塗り薬を消毒薬で洗い流すと、新たな塗布剤をガーゼにたっぷりと塗りこんですばやく傷口にあてた。
千代が治療を終えて、手際よく包帯を巻きなおしたのを見定めた典子が、セーターの下に隠し持っていたビニール包みを取り出して浩介に差し出した。
「私のシャツはエルサイズじゃから、あんたにあげるから着て行きなさいよ。あんたの血だらけのシャツは、もう着られんから捨てたよ」
典子のシャツに窮屈そうに袖を通し、学生服に身を整えた浩介は、千代と典子に挟まれるようにして学生寮の廊下を小走りに駆け抜けた。
芝生の敷きつめられた庭に出ると、看護婦寮の壁際を通って病院の裏口へ回り、通路に入って正面ロビーへ出た。受付時間を待ちかねた外来の患者が、すでにロビーの長イスにちらほらと姿を見せていた。
「浩介くん、明日の夕方、ここへ来なさい」
学生寮を出る際に、きびしいまなざしで千代が言った。
「ここへって、俺、病院はいやじゃけん」
通院する費用など持たない浩介は、千代のいたわりの親切とはいえ、かたくなに拒むしかなかった。
「病院じゃなくても、寮に来ればいいわよ。薬を塗ってあげるから」
典子が慌てて口を添える。
「千代ちゃん、寮はまずいよ。だって、病院の裏手の庭は看護婦寮と学生寮しかないんじゃから、男が一人でうろついちょったら咎められるよ」
「そうかあ、どうしたらいいかなあ」
「球場がいいよ。あそこなら木陰が多いし、男が上半身裸になっても変に思う人はいないわよ」
敷地内に体育館を擁する球場は病院の南側に位置しており、学生寮からは徒歩で五分とかからない場所にある。
「そうだわね。浩介くん、明日の夕方四時に球場へ来なさい。その傷を毎日消毒しないで放っておいたら、菌が入って死んでしまうから。脅かしじゃないよ。だから、必ず来なきゃ駄目よ。いいわね」
浩介は千代のまなざしを受け入れて小さく頷いた。朝露に浸された黒水晶のように潤む千代の瞳の中に、姉のような温もりを感じて嬉しかった。