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 11の2 看護学生・千代

 塀を乗り越えた浩介は、住居の敷地内に頭から転がり落ちた。庭と呼ぶには広大過ぎる樹間の向こうに、二階建ての白い鉄筋の建屋が見えた。


 浩介はためらうことなく建屋の入口に向かって走った。裏手のドアまで駆け寄った浩介は、扉の取っ手を引いて扉を開き、建屋の内に身をひるがえした。

 さらに一瞬のためらいもなく、ドアのロックを指で押し込んだ。


「キャー、誰ですか、あなたは。出てって下さい。ここは看護婦の学生寮ですよ!」

 浩介の侵入を見とがめた寮生が、悲鳴をあげて叱責した。


 廊下から見下ろす寮生に、浩介は顔面を蒼白にして頼み込んだ。

「追われちょるんじゃ。助けて、助けて欲しい。かくまって欲しいんじゃ」

 血がにじんだ胸元を学生服で隠しながら、コンクリートの床に膝を折り曲げて哀願した。


「なに言うちょるんね、ここは男子禁制の看護学校の学生寮ですよ。そんなこと出来るわけがないでしょう」

 顔中にニキビをまぶした大柄の女性が、絶対に許さないという強い口調で言い放った。


「殺されるかもしれんのじゃ。お願いじゃ、本当なんじゃ、助けて欲しい、かくまって欲しい」


 その時、ドアのすりガラスに巨漢の影が透けて見えた。思う間もなくいきなりノブが乱暴にガチャガチャとねじまわされて、施錠されたアルミのドアが軋みをあげた。


「ここを開けろ! 開けんとドアをぶち壊すぞ」

 大仏男の野太い声に、浩介の背筋は震え上がった。異常な事態を察した寮生は、対応に窮して緊張した。


「こっちへ来なさい」

 ニキビ寮生のうしろで、身を隠すようにたたずんでいた小柄な女性が、浩介に声をかけた。

「早く、こっちへ来なさい」

 浩介に廊下の奥へ来るように手招きをした。


千代ちよちゃん、あんた、どうするつもりね。だめだよ。そんなことバレたら怒られちゃうよ」

 見知らぬ男をかくまおうとする千代の意図を察したニキビ寮生は、牽制するように声を荒げて手を振った。


 慌てるニキビ寮生の脇をすり抜けた浩介は、土足のまま廊下に駆け上がり、千代と呼ばれた女性のあとに従った。


「ノコちゃん、あとはお願い!」


 千代は浩介を自分の部屋に連れ込んで、ドアを閉めると施錠した。二段ベッドの上段に浩介を上がらせて、毛布をかぶってじっとしているようにと声をひそめて指図した。

 千代は窓のカーテンを閉め切り、ことの成り行きをうかがうために、ドアの前にしゃがみこんで息を凝らして耳をすました。


 ノコちゃんと呼ばれたニキビ寮生は、すりガラスに透ける巨漢の影に向かって声を放った。

「何の用件ですか? ここは看護婦の学生寮ですよ。用事があるなら表の入口へ回って下さい」


「ここに男が逃げ込んだはずじゃ。そいつを出してくれ」

 荒々しい男の声が返ってきた。


「何を馬鹿なことを言ってるんですか。ここは男子禁制の看護学生寮ですよ。そんな人はいません。お帰り下さい」

「やかましい! さっさと開けろ! 開けんとドアをぶち壊すぞ」


 バンバンとドアを叩く騒々しい物音をいぶかしがる寮生たちが、次々と部屋から出てきて集まってきた。


「ノコちゃん、どうしたんかね? 騒々しいわねえ」


 千代が浩介をかくまった経緯を知らない寮生が、ドアに透ける男の影を興味深そうに横目で見ながら肩をすくめた。


「ここに男が逃げ込んだから、出せって叫んで騒ぎよるんよ。そんなことはありえないって言うんじゃけど、聞かんでね、開けんとドアを壊すって、このありさまなんよ」

「そしたら、開けてやったらええじゃないね。ヤクザが来たってここには入れんのじゃから、みんなで追い返しちゃろう」

「そうや、そうや。みんなで追い返しちゃろう」


 みんなの加勢を得たニキビの寮生が、施錠を解いてドアを開くと、さらしを巻いた学生服の巨漢と猫目の小男が、構えるような格好で飛び込んできた。

 さらに遅れて息を切らして飛び込んできた顎のとがった巨漢と合わせて三人の男たちは、廊下に群がる若い寮生たちの、華やいだ女の匂いに気圧されてたじろいだ。


「あんたら高校生じゃね。なんで病院の敷地内に入って来たんね?」

「そうよ、しかもここは神聖な看護婦の学生寮なんじゃから、あんたらの来るところじゃないんよ」


 猫目の小男がベルトに差していた鞘からドスを抜いた。大仏男が左手に握りしめていた鞘から長刃をすらりと引き抜いた。

 血も凍るような緊張を期待してちらつかせた日本刀の長刃もドスも、臓腑を切り裂く外科医のメスさばきを見慣れている看護学生たちにとっては、露ほどの効果も威力もなかった。


「あんたら、何でそんなもん持っちょるんね。そんなもん、いくら振り回したって寮の中には絶対に入れんよ」


「そうよそうよ、切れるもんなら切ってみなさいよ。ここが病院じゃということを忘れなさんなよ。なんぼでも治療ができるんじゃからね」


「あんたらどこの高校生か言いなさいよ。ドアを壊そうとしたり、刃物をちらつかせたり、学校に知らされたら退学どころじゃ済まんのじゃないかね」


「黙って帰れば何も言わないから、おとなしく家へ帰りなさいよ。いつまでもぐずぐずして寮長に知られたら、警察を呼ぶしかないんじゃけえね。それでもええんかね」


 看護学生たちの度胸に猫目と大仏男は毒気を抜かれた。その剣幕にひるんでかざした刃を下ろしたものの、追い詰めた獲物を捕らえそこなう悔しさは耐えがたい。

 それでも自分たちの分が悪すぎると思えば、臍を噛んで耐えるしかない。大仏男は猫目と顎男に目配せをして引き下がることに決めた。


「もしもここに男が逃げ込んじょったら、必ず殺してやるけえ、そいつにそう伝えちょってくれや」

 憎々しげに捨てぜりふを残して、大仏男と二人の男は建屋の外に出て行った。


「なによ、あの態度。男が逃げ込んだってどういうことよ」


 突然巻き起こったつむじ風が過ぎ去ったあと、騒ぎの余韻を楽しむかのように、みんなの間でざわざわと会話が交わされた。


「みんな、もう終ったから部屋に戻ろうよ。寮長さんには内緒だよ。余計なことを詮索されたらうるさいからね」


 余韻を断ち切るようにニキビ寮生が、肥満の体躯をくゆらせて会話を制した。そして、みんなの姿が廊下から消えたのを確かめて、浩介をかくまった千代の部屋に入った。


「あら、あの男の子はどこへ行ったの?」

 六畳ほどもない部屋の内を見回しながら、ニキビの寮生が千代に声をかけた。


「二段ベッドの上」

 千代が答えた。


「もう帰ったよ。だからもう降りてきなさいよ」

 ニキビ寮生に言われて浩介は、おずおずと上段のベッドから降りて床に正座して礼を言った。


「あんた、血じゃないの。隠しても駄目だわよ。ちょっと上着の前をはだけてみせてごらんなさいよ。わあひどい。出血は止まってるようだけど、傷は深そうだわ。あんた、すぐにお医者さんに行って治療を受けなさい。いいわね」


「だめよ、ノコちゃん。いま出て行ったらあの男たちが待ち伏せしてるに決まってるわ。だって、必ず殺してやるって言ってたじゃない。それに、この時間じゃあどこの病院だって診察の時間は終ってるし」


「じゃあ、うちの病院の救急病棟の先生に頼むって言うの?」


「私たち学生の分際でそんなこと頼めないわよ。それにこれは刀傷でしょう。どうしたんだって聞かれちゃうわよ。とにかく消毒だけでもしなきゃあね」

 千代は立ち上がって机の下に置いてある救急箱を取り出した。


「あんた、どこの高校生なの?」

 千代が浩介に問いかけた。


 問われて答えた高等学校が、県立の進学校であることが意外だったのか、千代の目の動きにわずかながらの機微が生じた。


「ここが看護学生の寮だということを知ってたの?」

 浩介は子犬が上目遣いで見るように、千代の目を見て首を左右に振って見せた。


「じゃあ、病院の敷地だと知ってたの?」

 浩介は、小さく首を左右に振った。


 千代の唇が小さくほころんだように思えた。桜貝のような唇だと浩介は思った。海辺の小波からすくい上げたばかりの桜貝のように、そっと淡いピンクが潤っていた。


「あんた、名前は?」

 千代が尋ねた。


「加賀見浩介」


「そう、私は榊原さかきばら千代ちよ。こちらは木村きむら典子のりこさん。愛称ノコちゃん。二人とも製鉄病院の看護学校二年生だわ」


 千代は浩介の上着に手をかけて、まず右の腕を抜き出させてから左の腕を持ち上げた。浩介の口からうめき声が漏れた。かまわず上着を脱がせて、血と汗でまだらに染まったワイシャツをゆっくりとはぎ取った。


「わっ、ひどい」


 声を上げたのは典子だった。浩介の左肩の皮膚の裂け目から、血糊の付いた上腕骨の先っぽが白くのぞけて見えた。さらに、右の乳首の上から左胸にかけて、三日月を線描きしたような傷の切り口から流れ出た血のあとが臍の下までしみていた。


「どうする?」

 典子がガラス玉のように目を丸めた。


「エタノールぶっ掛けるか」

 千代が言って、典子が頷いた。


「動いちゃだめよ」

 千代の手にした容器から流れ出た消毒液が、左肩の傷の裂け目にあふれた刹那に浩介の目は釣りあがり、失神するかと思うほどの痛みが走って悲鳴をあげた。


「シッー! だめよ、大きな声を出しちゃあ」

 人差し指を唇に当てて千代が制した。


「病院に行ったら何針も縫わなきゃいけないくらいの傷なんだから、これくらいの痛みなんか我慢しなさい。菌が入って破傷風にでもなったら死んでしまうわよ」


 薬の量が足りないと判断したのか、典子が一旦部屋を出て、薬箱を手にして戻ってきた。


「千代ちゃん、私の分も使っていいわよ」

「うん、ありがとう」


 手際よく消毒をして、薬を塗りこんで、ガーゼをあてて包帯をして、とりあえずなんとか応急処置を終えて千代は「ふーっ」と溜息をついて腰を下ろした。


「あんた、感謝しなさいよ」

 机のイスに座って処置を見守っていた典子が、力なくうなだれている浩介に声をかけた。


「飛び込んだところが病院だから良かったけど、私たちがいなかったらどうなってたか分からんかったとこでしょうが。血だらけのシャツは着れないんだから折りたたんで、さっさと上着を着て、前を隠して帰りなさいよ」


 典子の言葉にうながされ、お礼のつもりで頭を上下にコクンと頷き、おずおずと立ち上がろうとした浩介をさえぎるように千代が右手を差し上げた。


「待って! いま出て行ったらあの男たちが待ち伏せしてるに決まってるわ。せっかく治療してあげたのに、また血だらけにされてしまったら、もう面倒見切れないわよ」


「そうね。あの剣幕じゃあねえ。敷地内のどっかで見張ってるかもしれんわねえ。しばらくここでじっとしてるかい、あんた」


「しばらくじゃなくて、明日の朝まで。あの男たち、必ず殺すって言い残して出て行ったわよ。脅しじゃないよ、きっと」

 千代の言葉に典子が面食らった。


「明日の朝までったって、千代ちゃん、どうするつもり?」


「夏休みで相部屋の人が休暇取って帰省してるから、朝までここにかくまってあげられるわ。ノコちゃんの部屋の相棒も休暇中だったわよねえ。ベッドが一つ空いてるでしょう。私がノコちゃんの部屋で寝ることにすればいいじゃない」


「まあ、いいけど。まあ、いっか……」


昭和の時代、女性は看護師ではなく、看護婦と呼ばれていました。

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