11の1 果たし状
終業式の日、式が終わって浩介が柔道部の部室に行くと、すでに陽介と武蔵と虎太郎の三人が集まって、何やらこそこそ話し込んでいた。
「どうしたんじゃ?」
割り込むように声をかけた浩介に武蔵が応じた。
「奴らから果たし状が届いたんじゃ。終業式が終ってのう、陽介が帰ろうとして靴を履こうとしたら、靴の中に入っとったんじゃと。明日の午後三時、河内貯水池で待つと書いてある」
「どこじゃ、それは?」
「皿倉山のふもとに決まっちょろうが。おまえ知らんのか、皿倉の下に貯水池があって遊歩道があるのを。時々アベックが歩きよる。貯水池の北側に池があって、そこへ来いと書いてある」
「相手はあの三人だけかのう?」
「分からん」
「どうするんじゃ?」
「がん首そろえて来ない場合には、陽介を半殺しにして洞海湾に沈ませると書いてある。行くしかなかろう」
陽介の足元がプルプルと震えているように思えた。浩介も身震いするような不安を覚える。
呼び出す以上はそれなりの準備を整えて来るはずである。今度はこちらが不意を襲われるかもしれない。大勢の仲間を引き連れて来るかもしれない。半殺しという響きが妙に空恐ろしくて胃がうずく。
関わりたくないと浩介は思ったが、自分が抜ければ三人だけになる。柔道部に応援を求めるわけにはいかない。お前ひとりで何とかしろよと腹の中では舌打ちしても、青ざめて救いを求める陽介を見捨てられるほど冷血にはなれない。
翌日、四人は八幡駅前に集合した。
浩介は武蔵から借り受けたナックルを両手の指にはめ、ズボンの右ポケットには塩をたっぷり詰め込んでいた。
陽介は学生ズボンに柔道着を羽織り、腹にさらしを巻きつけ、金属製のメリケンサックを右手の指に差し込んでいた。
武蔵は学生服の上着を肩にひっかけ下駄履きで、剣道部から借りてきた竹刀を左手でぶらぶらと振りまわし、いかにも余裕のふうであった。
虎太郎は学生服の内側にチェーンを巻きつけ、木製のヌンチャクを腰のベルトに差していた。
浩介は武蔵の自転車の後ろにまたがった。三台の自転車が皿倉山の麓に着くと、貯水池の駐車場に置いて歩道に入った。
歩道の両サイドは落葉の樹木が密集して、梢を縦横に広げているので木漏れ日もまばらだ。足もとのシダ類が湿気を含んでいるせいか、地面を踏む足音が土になじんでじわりと消される。
深閑とした小道を黙々と歩を進めていたところ、思い出したように武蔵が口を開いた。
「虎太郎、例の新聞記事のこと、覚えちょるか?」
「おう、俺も昨日からその事ばっかり考えて眠れんかった。でも、まさかあいつらじゃなかろう」
「仲間じゃないとは言い切れまいが」
「あいつらの仲間が、助太刀に来ちょるかもしれんちゅうことか」
「一度や二度補導されたくらいでおとなしくなる連中じゃあなかろうよ」
「おい、何の話じゃ?」
後ろを歩いていた陽介が、二人の会話に割り込んだ。
「日豊本線沿線に住む高校生の自宅の部屋からのう、拳銃が十丁と日本刀とドスが床下から大量に摘発されたんじゃ。そいつは警察に補導されたけど、おおかた誰かの垂れ込みじゃろう。その二日後じゃ、別のグループの自宅からも拳銃と刀が押収されたんじゃ。やっぱり日豊本線沿線の高校生でのう、それが先月の新聞に載っとったんじゃ」
武蔵が浩介にも聞こえるように、記事のあらましを説明した。
「ヤクザ顔負けじゃのう。高校生がどうやってそんなに集められたんかのう」
浩介が誰に言うともなしに呟いて、もっともらしく武蔵が返す。
「だからじゃ、資金もあるし、ルートも知っとる。ヤクザも絡んどるかもしれん。怖いのはのう、持っとりゃあ使いたくなるっちゅうこっちゃ」
「それが、あいつらと関係があるんか?」
「だからじゃ、仲間じゃないとは言い切れんと言うとるんじゃ。この前は拳銃も日本刀も持っちょらんかったけど、あの傲慢なふるまいは、日豊本線を仕切るグループの端くれじゃとしてもおかしゅうはなかろうが」
武蔵の話を受けて、聞きかじりの流言を虎太郎がかぶせた。
「そいつらは日豊本線を縄張りにしてのう、車内で乗客に迷惑をかける訳じゃないけど、よそ者を見つけたら引きずり出して半殺しにする。学校にまで押しかけて、刀やドスを振り回すから、校長も先生も手に負えんらしいぞ」
先刻承知で四人はそれぞれに武装して来たのだが、戦いの流れを勝手に想像したところで、現実は安易に受け入れてはくれない。
浩介の瞼の裏には、武蔵の投げ技にびくともしなかった大仏男の巨漢の姿が焼き付いていた。覚悟を決めても身震いがして、指にはめたナックルを舐め、ズボンの上からポケットの塩のふくらみを確かめた。
緊張の度合いは三人も同じであろう、再び寡黙になって小道を進む。
藪の道が途絶えて小道を曲がり、陽光が降り注ぐ岩場の斜面に差し掛かった時、緊迫した空気をなぎ払うように、樹木の梢から鳥が羽ばたき地面に伏した。
よく見定めると、それは鳥ではなくて、ぺちゃんこに潰れた陽介の学生帽だった。
― 日本刀 ―
高い樹木に絡まる藪の影から、猫目の小男と二人の巨漢が姿を現した。
浩介は木立の周囲を見渡して、三人の他に気配のないことを確信して胸をなでおろした。猫目の小男を戦力外と考えれば、四対二の戦いならば勝算がある。
だが、なぜ奴らは分の悪い喧嘩を挑んできたのか。何人を相手にしてでも、絶対に勝てるという自信が二人の巨漢にはあるのか。それは単に過剰な自信なのか、それとも俺たちが、どこかで計算違いをしているのか、浩介は答えを見つけられずに訝るだけだった。
「がん首そろえてよう来たのう。ここがお前らの墓場じゃけえ、覚悟せえや。生きて帰れると思うなよ、おんどれらー」
猫目の男が威嚇するように声を荒げた。三人とも学生服の金ボタンをはずし、下腹にはさらしの帯がきっちりと巻かれていた。
巨漢がじわりと左右に別れると、事前に打ち合わせをしていたわけではないけれど、武蔵と虎太郎が大仏男に対峙して、陽介と浩介は顎の尖った三日月男に向き合った。
浩介はハッとして固唾を呑んだ。巨漢の右手が首筋に伸びて、同時に二人の背中から日本刀がスラリと引き抜かれたからだ。
「覚悟せえや!」
猫目の恫喝がこけおどしとは思えなかった。恐れをなして浩介が後ずさると、日本刀を両手に握り直した三日月頬の巨漢は、正面に向き合う陽介に切りかかった。
陽介は後ろに飛び退り、メリケンサックをかざして身構えたが、しゃにむに切りつけて来る刃先をよけきれず、背中を向けた刹那に肩口から柔道着が切り裂かれて鮮血がほとばしった。
ただ茫然と静観していた浩介は、両手の指にはめたナックルの非力をさとった。日本刀を振りかざす巨漢に近付いて、頬骨を打ち砕くことなどできはしない。無用な重りをつけているようなものだ。逃げるしかない、と思った。
しかし、自分が逃げれば陽介が殺される。ならば、どうすれば巨漢を倒せるのか。日本刀を奪うしかない。そうすれば陽介が合気道のねじり技で、男を倒して抑え込むだろう。この前の電車での再現だ。
浩介は右手の指にはめていたナックルを抜き取って、大上段に構え直した三日月男の両眼に投げつけた。
男がまばたきをして立ちすくんだ隙に、股間を狙って蹴り上げた。蹴りは無残に空を切り、踵を持ち上げられて腰から地面に打ち付けられた。
三日月男は顔色も変えずに、日本刀の柄を両手で握りしめて上段に構えた。
恐怖と死の戦慄が脳裏をよぎり、助けを求めるように武蔵と虎太郎のほうを見やったが、すでに戦いは終っていた。
武蔵の履いていた下駄は血に染まり、竹刀は真ん中からへし折られて樹木の枝に引っかかっていた。
岩肌の斜面に追いやられた武蔵の息づかいは荒く、仲間を助ける余裕どころか、追い詰められた狸のような悲壮さであった。
虎太郎の学生服はずたずたに切り裂かれ、胸元にはだけた下着のシャツがところどころ血に染まって痛ましく、柔道で鍛えたはずの体躯が痩犬のように縮こまって哀れだった。
長尺の日本刀を片方の手で軽々と振りかざして立ちはだかる大仏男の威容は、あたかも本物の大仏様が大魔神に変身したかのような猛々しさであった。
猫目の小男はベルトに挟んでいたドスを抜いて居丈高に、日本刀の乱舞に狂喜して咆哮していた。
「早くやっちまえ! 徹底的に切り刻んでぶち殺せ! ワシらをなめやがって、クソヤロー! 三途の川を血だらけにしてやれ! クソッ、クソッ、クソヤロー」
その時、一羽のヒヨドリがピピュッと鳴いて頭上を駆けた。飛翔の間際にヒヨドリの糞が落下して、日本刀の柄を握る大仏男の手の甲にピシャリとはじけた。
大仏男の殺気が一瞬そがれた。糞を振り払うようにして手の甲をねじった拍子に刀の長刃がゆらめいた。
「逃げろ!」
叫んだのは武蔵だった。陽介が逃げ出して虎太郎が続いた。
「待て! 逃げやがるのか、腰抜けブタヤロー! 待ちやがれ、オンドレらあー」
猫目の小男がドスを振り回して追いかけた。巨漢の視線がそちらに向いた。そのすきに浩介は、三人が逃げた反対側の小道に向かってダッシュした。
四人が団子になって逃げ惑うより、一人の方が逃げやすいと判断した浩介の賭けが裏目に出た。
鈍重そうに見えた巨漢の動きは思いがけず機敏だった。三日月男が素早く斜面を駆けて小道をふさいだ。刀の刃先を突き付けられて反対の小道を振り返れば、三人を追うのを諦めた猫目の小男と大仏男が、こちらを睨んで目を吊り上げている。
生まれて初めて恐怖を感じた。殺されるかもしれないという現実的な恐怖だ。
浩介は中学生の頃、極貧という環境が絶望しかない運命ならば、早く死んでしまいたいと自暴自棄に考えたことがある。それが今、貧乏を言い訳にした卑怯者だったと初めて気付かされた。
死の恐怖を初めて感じて背筋が凍った。小道の周囲は深閑として、鳥の羽ばたきも、人が近付く気配もない。
大仏男が不敵に笑った。大仏様のような細い薄目が小さく瞬きをして、唇を嗜虐的にゆがめて薄笑いをうかべた。その脇で、猫目の男が肩を怒らせて近付いて来る。
大仏男が日本刀を頭上に高く振りかざす。刃先が木漏れ日をなぞって銀色に光る。
一か八かの逃げ道は、小男を倒してその隙に、三日月男の脇をすり抜けるしかない。他に選択はないと覚悟を決めた浩介は、ズボンの右のポケットに手を差し込んで、指を丸めて塩を握りしめた。
猫目男のドスが振り下ろされて、浩介の胸の金ボタンがはじけて飛んだ。浩介は男の胸元に飛び込んで、動きを封じて抱きかかえるように、ズルズル引きずって三日月男に体当たりした。すかさず巨漢の男の目頭に、握り締めていた塩の塊を叩きつけた。
「クワッー」という叫びと同時に男の刀が振り回されて、浩介の胸に袈裟懸けの血筋が走って痛みを覚えた。
考えている暇などない。男の脇をすり抜けようとして足を絡ませたとき、再び刀が振り下ろされて肩口の肉がわずかに切り裂かれた。
浩介は急いで姿勢を戻して立ち上がり、後ろも振り向かずに必死で逃げた。追ってくる三人の足音が小道の樹木にこだまして、すぐ真後ろからおおいかぶさるように聞こえてくる。
― 逃走 ―
逃げ足なら自信があった。樹林の隧道を抜けてしまえば陽のあたる路上に出る。路上に出れば人もいる。日本刀をあらわに携えた男たちが、陽のあたる路上を堂々と追っては来れまい。そこまで走れば逃げおおせるだろうと、浩介は高を括って見くびっていた。
ようやく小道の切れ間が見えた。アスファルトの路面を踏みしめて、これで逃げおおせると安堵して胸をなでおろした。
気がゆるんで痛みを覚え、胸に手をやると泥のようなぬめりを感じる。白いワイシャツがピンクに染まり、汗に粘ってズボンからはみ出している。
路上に人の姿はなく、乗用車や大型のダンプカーが通過する。歩道をひた走りながらちらりと後方を振り返り見ると、鞘に収めた日本刀を左の手に携えた大仏男の姿を認めた。すぐ後ろに猫目の小男が続き、三日月男の姿はさらに後方に引き離されていた。
体重が百キロを超えているはずの大仏男が、息も荒げずひたひたと追いかけてくる。大股で迫り来るその意外な持久力に、浩介は気のゆるみを自戒して冷や汗を浮かべた。
アスファルトがとぎれて畑地の合間に家屋が点在する。地面を覆うように分厚くうねる雨雲が、太陽の光も影も閉じ込めて、すべての色彩を視界から奪い取るようにたれ込めている。
住民の姿を求めて浩介は住宅地へと走りこんだ。夕餉の匂いが生暖かい湿気にまじって鼻をくすぐる。軒下に老婆がしゃがんで梅雨空を見上げていた。家の中に居場所がないのだろうか。道ばたで子どもが一人で遊んでいた。仲良しの友達はいないのだろうか。
玄関先に傘立てがあり、赤い傘や黒い傘が収まっている。家族分の数だけあるのだろうか。どの家のなかにも両親がいて、兄弟がいて会話があって食卓があって、それを幸せな家庭と呼ぶのだろうか。どんなに考えたって答えは出ない。
陽介と武蔵と虎太郎の顔が浮かんだ。自分を生け贄にして逃げ出したあいつらは、今ごろ何をしているのだろうか。
陽介は飄々として驕りを見せない。見せない驕りがプライドなのか。歯医者の後継ぎというレッテルが気恥ずかしくて、柔道をやりながら合気道を楽しんでいるのか。
柔道が黒帯の武蔵は、焼き肉こそが筋力を頑強にする源だと豪語している。だから月に一度は、家族で近所の焼肉屋へ行くという。
虎太郎は怖いもの知らずというよりも無謀で、喧嘩してケガして白いシャツを血で汚す。それでも父親は保護者会の一員として、容赦なく学校へ物申す。
粋がって髪を染めてタバコを吸って酒を飲み、小倉の街でチンピラに眼を飛ばして因縁をつけられて殴り合って怪我をして、どんなに不良の真似事に狂奔して血を流しても、最後には家庭という不可侵な領域に逃げ込めば、どんな傷口も舐めて癒してくれるのだろうか。
あいつらは束の間の恐怖から逃げ延びて、家庭の温もりに守られまどろんで、安堵して欠伸でもしているのだろうか。
浩介はクソッ食らえと舌打ちをして、鼻をつまんで夕餉の匂いを拒絶した。あいつらのせいでこんな羽目におちいったのに、自分を捨ててさっさと逃げやがってと、唾を路辺に吐き捨てた。
大仏男の鼻息を背中に感じながら、ひたすら住宅地を走り抜けて市街に出た。その頃にはさすがの浩介も息が切れはじめて苦しくなった。
通りを歩く人たちの態度は空々しくて、学生同士の喧嘩の巻き添えには絶対にならないという無関心な薄情さであった。
標的を一人に定めた彼らの執拗な追跡が、気まぐれの尋常さではないことをはっきりと認識した。復讐にたぎる大仏男の決意が、どんなに凄まじいかを思い知らされた浩介の背筋に、逃れようのない恐怖がじわじわと上塗りされて湧き上がる。
浩介は必死で逃げ場を捜し求めた。見通しの良い大通りを避けて脇道へそれた。どこをどう走っているのか分からないまま、やみくもに脇道から脇道を求めて逃げ惑った。
このまま走り続けていれば息が上がって追いつかれてしまう。鍛えられた大仏男の持久力に太刀打ちできないと観念した浩介は、樹木に囲われた塀を乗り越えて住居の敷地内に転がり込んだ。