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第11章 加賀見浩介の追憶

 昭和二十二年、日本海に面した九州の工業都市の薄汚れた一角で、加賀見浩介は出生した。生まれた時から父はいなかった。死別したわけではない。浩介を身ごもった母の貞子さだこを捨てて逃げたのだ。


 洞海湾どうかいわんぞいのバラック群に、電信柱から電線が引き込まれていた。トタンを張り合わせただけのどの家にも、暖房器具や冷蔵庫は無く、トイレは海に垂れ流しだった。


 浩介は小学校でも中学校でも、決して親しい友人を作らなかった。ドブネズミの巣のようなバラックに住んでいることを、誰にも知られたくなかったからだ。

 だから、早くここから抜け出すために、中学を卒業したら大都会の東京に行って働きたいと考えていた。


 だけど母の貞子は、意地でも浩介を高等学校へ行かせたかった。学歴が大切だからと何度も言い聞かされて、渋々浩介は勉強をした。そのために貞子は工場の建設現場で働き、夜も飲み屋で遅くまで働いていた。



 夏が終わると洞海湾沿いに彼岸花が色づき始める。鮮やかな一輪を摘み取って、コップに挿して段ボールの上に飾るのが貞子のいつもの行事だった。


 小学生の頃でも、中学生の頃でも、たまに貞子が帰らない日があった。空腹のうえに不安がつのり、そのうちひどく腹が立ってきた。

 翌朝早く帰ってきた貞子は、ごめんねと言って小銭を置いて、いつものように勤めに出て行く。


 浩介が大人になった時に、そのことの意味が分かった。生活だって苦しいうえに学費も必要だった。男の援助も欲しかったのかもしれない。翌朝帰ってきた母の顔には、うっすらと化粧がほどこされていたようにも思える。



 高等学校に入学するとアルバイトが禁じられていたが、新聞配達だけは黙認された。柔道部に入部して友達もできた。できたけれども彼らとは、本質的に生きる意識がずれていた。

 親の脛をかじって大学進学を当然のように受け入れている生徒たちと、極貧のバラックで引け目を感じながら息をしている自分とは、そもそも歯車が合わないのだ。


 陽介ようすけは歯医者の息子だった。プライドは高いのだが偉ぶる素振りはない。背は高いが腕力がないので、柔道よりも合気道のねじり技を楽しんでいた。


 武蔵むさしの家は典型的な中流で、親父は信用金庫に勤務していた。胸の筋肉は頑健で腕力も強いので、背負い投げを得意としていた。


 虎太郎とらたろうの容貌は厳つくニキビにまみれ、意識して無頼を気取っているのか、学校でも街中でも肩を怒らせて歩いていた。


 彼らをバラック小屋に連れてきたことがある。中へ入れと勧めたが、覗き込むだけで腰が引けるのか、敷居をまたぐ者はいなかった。

 浩介に悪意はなかったが、極貧を目の当たりにしてどんな顔をするのかを確かめたかった。気まぐれの同情心など必要ない。さげすみやあざけりなどにも慣れっこだ。せめて友達として付き合うのなら、貧乏を逆手にとって、からかって、不浄の思いをさせてみたかった。



 九州の東岸を走る日豊にっぽう本線は、洞海湾をかすめて走る鹿児島かごしま本線と同様に基幹路線であるにもかかわらず、ほとんどの区間が単線だった。そのせいか、沿線のイメージにどこか暗さがただよっていた。


 この路線に学生服で乗り込むと、地元の凶悪な高校生たちから因縁をつけられて、リンチを受けるぞというまことしやかな噂が流れていた。

 ならば真偽を確かめる為に、乗ってみようじゃないかと陽介が言い出し、他の三人に異存はなかった。


 梅雨明け直前の日曜日、使い捨てのビニール傘をかざしながら、浩介が八幡やはた駅に着いた時にはすでに三人は集まっていた。


「おっす、待たせたかのう」

 傘を畳んで右手を上げる浩介に陽介が応じる。

「おう、俺たちもいま着いたばかりじゃけん」


小倉こくらまでの切符を買おうや。小倉から日豊本線の新田原しんでんばるまで無賃乗車して、そのまま折り返したらええじゃろう」

 下駄履きの武蔵が駅の窓口へ向かう。


「おまえ、左手に何を持っちょるんじゃ?」

 虎太郎の学生服の袖口から、何かがはみ出しているのを見とがめて浩介がたずねた。

「鉄のバールを腕に巻きつけとるんじゃ。護身用じゃけんのう」


「戦う気満々じゃのう、おまえ」

 あきれ顔で陽介が言った。武蔵が四人分の切符を買ってホームに出ると、雨雲が途切れて青空がのぞいていた。

 

 鹿児島本線の八幡駅から西小倉駅まで行き、日豊本線の新田原行き鈍行に乗り換える。なんとなく武者ぶるいのような緊張をおぼえる。


 ガラガラの車内には、剣呑な雰囲気はどこにもなかった。買い物袋のおばさんたちや、結婚式の引き出物を持った人たちがいるだけだ。

 他の乗客にしてみれば、衣替えの時期も過ぎたというのに、第一ボタンをはずしてだらしない学生服姿の四人が、よほど剣呑に見えたであろう。

 三十分あまりで終着駅の新田原に到着すると、電車は折り返し下関しものせき行きの鈍行となった。

 

「あっけなく着いてしもうたのう。やっぱり日曜じゃ駄目かのう。通学時間帯じゃないと」

 陽介が大きな身体を伸ばして、いかにも残念そうに溜息をつく。


「馬鹿を言うな。通学の満員電車じゃ、どこの学生かも見分けがつかんじゃろうが。土曜日の放課後が良かったかもしれんのう……、のう、浩介」


 バールを巻き付けた腕を邪魔くさそうに振り回しながら、虎太郎が浩介に相槌を求める。

「ああ……」と、浩介は答えるしかない。

 

 他校の高校生と鉢合わせになろうがなるまいが、どうでも良いと浩介は考えていた。柔道部でいきがる彼らに誘われて、バラックから抜け出して、非日常の世界に触れてみたかっただけだから。

 もしも喧嘩にでもなれば、自分も痛みを覚えて傷を負う。学校に知られて退学にでもなれば、母が悲しむだけだから。



 発車のベルが鳴り終えて、電車はゆっくりと動き始めた。すっかり緊張が解けて気が抜けた四人は、斜め向かいの座席に座っている女高生たちに向かってヤジを飛ばした。

 女高生たちもまんざらでもない様子で、クスクス笑いながらぶっきらぼうに声を返した。

 武蔵が下駄を床に打ち付けてはやし立てると、その音が不謹慎だと言ってブーイングの嬌声をあげる。虎太郎が話しかけると、そのニキビヅラが面白いと言って大笑いする。


 浩介は女高生たちの視線を感じても、黙ってたじろぎうつむくだけで、彼らの会話に口を挟むことなどできなかった。

 幼い頃からバラックの外は異世界だったから、隣の家も、その隣もトタン張りのバラックだったから、ためらいもなしに女性と会話ができる術など学んでいるはずもない。

 自分ひとりだけが疎外されているようで居心地が悪かったけど、陽介や武蔵を羨ましいとは思わなかった。生きる歯車が違うのだから。



 電車がゴトリと止まってドアが開いた。女高生たちの口が突然つぐんだ。

 小柄な坊主頭の男が車内を見回すように入ってきた。続いて二人の巨漢が乗り込んできた。学生服の裾が膝のあたりまでだらりと垂れて、胸の金ボタンは全てはずされていた。ぺちゃんこに潰れた学生帽が、坊主頭にちょこんと被さっていた。


 パタリとドアが閉まって電車がゴトゴト動き始めると、小柄な男が四人を交互にねめ回すようにして言った。


「お前ら、どこから来やがった?」

 猫の眼をして男は凄んだ。


「どこから来ようが、よけいなお世話じゃ。向こうへ行け! 目ざわりじゃ」

 陽介が猫目を睨みつけて言い返した。


 猫目の小男は反発を予想していなかったのか目をむいて、巨漢の二人を見上げて視線を預けた。

 巨漢の一人は尖った顎の細身だった。頬骨に走る三日月の傷痕が男の凶暴さを感じさせる。

 もう一人の巨漢は大仏様のようにふくよかで、開いているのかいないのか分からないような細い眼が、男の感情を隠して不気味だった。


 三日月男が陽介の胸ぐらを掴んだ。掴まれた手首をねじり技で倒そうとした陽介の顔面に男の拳が打ち込まれた。陽介の視界に火花が飛んで鼻血が流れた。

 隣りに座っていた虎太郎が、男のすねを蹴り飛ばした。体勢を崩した男の首筋にバールの腕を打ち下ろした。


 その瞬間に大仏男の蹴りが虎太郎の下腹に突き刺さった。悲鳴を上げる虎太郎を押しのけて武蔵が立ち上がり、大仏男の胸元を掴んで背負い投げを仕掛けた。

 大仏男はびくともしなかった。必殺技の武蔵の投げが、幼児のようにあしらわれている姿を見て浩介は、並みの強敵ではないことを知り畏怖を覚えた。


 陽介が鼻血を流し、虎太郎が悲鳴を上げて、武蔵までが戦いあぐねている。このまま座視すれば四人ともリンチにされて殺されるかもしれない。火事場の奇跡を信じて恐怖を蛮勇に変えるしかない。

 浩介は大仏男の股間を思い切り蹴り上げて、両膝に抱き付いて押し倒そうと試みた。わずかによろめいた大仏男は、雨に濡れた床に靴底を滑らせて仰向けに転んだ。


 猫目の小男は意外な展開に立ち尽くしている。気を取り直した陽介は、三日月男の手首をねじ上げている。武蔵は大仏男を組み伏せようとするが力負けしているので、破れかぶれに浩介が、右足のかかとを男のみぞおちに打ち下ろした。


 その瞬間に電車のドアが開いたのは、よほどタイミングが良かったと言わざるを得ない。駅のホームに巨漢を放り出し、飛び散っていた学生帽と一緒に、猫目の小男を蹴り出してドアが閉まった。


 女高生たちの表情は能面のようにかたまっていた。すくなくとも勝者をたたえる顔ではなかった。チンピラヤクザのような暴漢とは関わりたくないというように、顔をそむけて口を閉ざして無視をよそおっていた。



 陽介の顔が青ざめたのは、電車が小倉駅に着いた時だった。

「やばい、やばいぞ! な、なんでじゃあ……!」

「どうしたんじゃ、陽介。すっとんきょうな声をあげんなよ。びっくりするじゃねえか」


「帽子が違うんじゃ。これは俺の帽子じゃないんじゃ」

「なにい……?」

 武蔵は陽介の手から帽子を取り上げた。ぺちゃんこに潰れた学生帽の前部にねじ込まれた校章バッジは、間違いなく他校のものだった。


「あのとき間違えたんじゃ。駅のホームに三人を放り出したとき、奴らに投げつけた学生帽が俺のものだったんじゃ。これは、あの大男の帽子に違いない。まずいよ、俺の帽子の裏側には名前が書いてあるけえ、校章を見りゃあどこの誰かがすぐに分かる。奴ら、仕返しに来るかもしれん……」


 今回は、相手の油断で勝利したが、まともに立ち向かえばどうなるか分からない。二人の巨漢を思い浮かべて、四人そろって身ぶるいをした。


「慌てるな。そん時はそん時じゃ。しょうがなかろうが」

 他人事のように浩介が言い捨てた。

「まあ、そうじゃのう。いまさらどうにもならんし。そん時はわしらも一心同体じゃけえ、心配すんなよ」

 陽介をなぐさめるように武蔵が言った。


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