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第10章 西園寺の興味と詮索

 西園寺正義は法務省に入省して、数々の難題と取り組み、業務をこなし、海外法務の視察も終えた。


 国内各地の刑務所と拘置所勤務も転々として、多くの囚人たちとも接して来た。その中で、どうしても記憶から消し去ることのできない死刑囚がいた。それは、中国地方の拘置所に、所長として勤務していた頃の話である。



 部屋には窓も机もない。カーテンをめくって敷居をまたげば、天井からロープが吊るされた絞首の刑場だ。剥き出しのコンクリートの壁面が、死刑執行を控えてすべての空気を凍らせていた。


 金蘭の法衣を纏った教戒師が、静かに立ち上がると一礼をして部屋から出て行った。待ちかねていたかのように西園寺は、大柄の身体をすくめて部屋に入ると、教誨師が座っていた椅子に腰を下ろして男と向き合った。


「私は所長の西園寺だ」

 なるべく親しげに、西園寺は男に話しかけた。


 死刑囚、加賀見かがみ浩介こうすけの顔に、苦悶の様子は微塵もなかった。唇にはわずかに微笑さえ浮かべているようで、とても死刑の執行を寸前に控えている人間とは思えないほどおだやかな表情であった。


 加賀見浩介が犯した殺人事件の、猟奇的とさえ思える異常な顛末に、西園寺は強く興味をいだいていた。その事件は、わずか一か月あまり前のことだった。



<事件の概要>

 板橋区の公団住宅に住む会社員、加賀見浩介(30歳)は、広島市で鉄工所を経営している金重直人(55歳)の自宅に侵入し、直人と妻の澄子(52歳)を殺害したのち、大阪在住の女性を殺害し、さらに病院で療養中の妻の千代(33歳)を絞殺した。

 金重夫妻はナイフで首を刺された上に顔面をめった打ちにされ、腹部からは臓器がはみ出し血だらけの悲惨な現場だったことが、翌朝の報道によって明らかにされた。

 近所の住民や会社関係の人たちの話を総合すると、金重夫妻の人柄は温厚で面倒見も良く、これほどまでに壮絶な殺され方をするような、恨みをかうようなことは考えられないということだった。

 貿易会社に勤務する加賀見浩介の評判も上々で、上司や部下ともに受けが良かった。妻の千代は近所付き合いも良く、夫婦仲は円満だった。



 西園寺は、一週間後に発売された週刊誌の記事を読んで、加賀見の犯行の動機を知ったのだ。それは復讐であると思われた。

 一審では検察側の求刑通り死刑が言い渡された。弁護側としては、被告の精神状態が著しく正常でなかったことを理由に控訴審、あるいは上告審まで持ち込んで刑をくつがえし、軽減させるべく控訴の準備を整えていた。

 しかし、加賀見は控訴を取り下げ、早急な死刑の執行を望む発言さえしているのである。


 加賀見浩介は復讐のために、なぜ、自分の妻までを殺したのか。なぜ、みずからの死刑の執行を望み、また死に急ぐのか。

 週刊誌に掲載されているのは事件の上澄みだけで、人間の心の裏側に隠された真実までは知るよしもない。


 死刑囚を取り調べる権利など拘置所の刑務官にあるはずもない。だが、死を目前にしてこそあらわになる人間の深層心理を知りたい。


 死刑執行に立会う検察事務官の到着までには一時間ほどある。西園寺はイスに深く座りなおして、両手を膝にあてながらおだやかに語りかけた。


「私は君の犯した事件の報道記事のあらかたに目を通したんだよ。でも、どうしても分からないことがあるんだよ。君が復讐すべき人物は、現在刑事訴訟で対審中ではないか。しかも、その男は死刑にも無期にもならずに、数年のうちに社会復帰することになるかもしれない。それなのに君は、その男よりも先に死のうとしている。なぜなんだ。それだけじゃない。なぜ君は妻を絞殺したのだ。どの記事を読んでも、君たちの夫婦仲は良かったと書かれている」


 コンクリートに小さなしずくがぽたりと落ちた。涙だった。死を目前にして気持が昂ぶったのか。うつむいたままの表情を見ることはできなかったが、入所以来はじめて見せる加賀見の感情の変化であった。


「君の命は間もなく消える。今ここで何を吐露しても、何もくつがえることはありえない。話してみないかね。死を覚悟した一人の人間の真実を。私は刑務官としてではなく、生きのびる一人の人間として、真摯に受け止めて記憶にとどめたい」

 

 加賀見はおもむろに顔をあげて、西園寺の瞳を見つめた。


「私はこの一か月の間、自分の運命と犯した罪の重大さを、天秤に掛けてずっと反芻しておりました。結論はいつも同じです。薄っぺらな幻の中で、人間はみんな生きているんだって。生まれてこなければ良かったなんて思いません。私は幸せでしたから」


「幸せと犯した罪の、帳尻が合ったということかね?」

「はい……」

 加賀見浩介は静かに語り始めた。



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