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第9章 そして一年後

 西園寺所長の改革宣言からおよそ一年が過ぎた。


 獄舎を取り囲んでいたコンクリートの塀は撤去されて、ハマナスの垣根に変貌していた。垣根の前方にはツルアジサイの蔓がブナの高木にまとわりついて、雪解けの森に賑わいを添えている。


 獄舎の東側を見渡すと、針葉樹林の森が伐採されて整地され、手入れの行き届いた農園に変貌し、プルーンやメロンなどの果樹が植えられている。


 西の斜面にはジャガイモ畑に加えてコーンのベルトが拡がり、南面には太陽熱発電装置のパネルが地面を覆って、両端には風力発電の風車が巨大なプロペラを回転させていた。

 さらに北側には体育館が建設されて、研究棟がそれを取り囲むように建ち並んでいる。


 獄舎の廊下は床暖房で暖かく、天井下の梁にはスピーカーが設置されて、バッハのメヌエットが静かに流れている。

 監房の扉はすべて開け放たれて、明るい表情の囚人たちがコバルトブルーの衣服を身に着けて自由に出入りしている。


 大食堂の窓からは鉄格子がはずされ、壁面にスローガンが大書きされて張り出されている。囚人たちの食事風景に騒然さはなく、図書館の閲覧室のような落ち着きようであった。


 三囚合同コンパも数回開催されて、囚人同士のコミュニケーションも図られ様々な課題や目標が検討された。議論が伯仲して暴力沙汰になることもしばしばだったが、囚人たちの目はそれぞれに輝いていた。



 剣道の竹刀を手にして大食堂の様子を監察して回っていた郷田健吉が、箸を楊枝がわりに奥歯をほじくっている錦小路京麻呂のテーブルに立ち止まり声をかけた。


「おい京麻呂、食事は終ったのかい?」

「はい、ごちそうさまでした」

 咎めるような口調で健吉が一枚の皿を指差す。


「ごちそうさまじゃねえよ。その皿の上に残っている美味しそうな野菜は何だ」

「ピーマンですよ。幼少のみぎりから苦手なんですよピーマンは。薬味くさい苦味が舌にまとわりついて、どうしても喉を通らないんですよ」


「京麻呂くん、北の果ての知床の、自給自足の監獄で食料班がどれほど苦労して野菜を栽培しているか知らないようだねえ。肥料だってタダじゃあねえんだぞ。米の一粒、野菜の一片だって残すことは許されないのだ。それを何だと。薬味くせえだの、口に合わねえだの御託を並べて残しますだとう。おい京麻呂、そうやって残った残飯を、誰がどうやって始末すると思っているんだ。獄舎が生ゴミの山になってもいいと言うのかお前は、あん」


 開き直って京麻呂が言い返す。

「西の放牧場で飼育している牛や豚の餌にすればいいじゃありませんか。牧場班だって喜ぶでしょう」


「やかましい。ピーマンで牛や豚が育つと思っているのかアホウ。風紀委員の俺としては、断固として見逃すわけにはいかねえなあ。君には十日間の独房刑を命じるぞ」


「ちょっと待って下さいよ、健吉さん。獄舎のみんなが健吉さんのことを何と呼んでいるか知っていますか? 看守より恐い閻魔の健吉とあだ名されているんですよ。目こぼしとか情状酌量とかいう言葉があるではありませんか。もっと手加減して対応しないと嫌われてしまいますよ」


「余計なお世話だ。ピーマン一片を見逃すことは、規律に背いた小さな犯罪を許すことになる。小さな罪を曖昧にして見逃せば、やがて風紀が乱れて正義も倫理も失われ、この監獄は魑魅魍魎の無法地帯と化すであろう。所長がそう言ってたぜ。十日間の独房刑か、手かせ足かせ嵌められて三日間直立不動の刑とどっちが希望だ。選ばせてやるからすみやかに決めろ」


「もう食べちまいましたよ。ゲプ、ゲホ」

 やけくそに箸を放り投げた京麻呂の後ろから、背中越しに座っていた冴子が振り向いて声を掛けた。


「ちょいと、健吉さん聞いておくれよ。南側の花壇が、またエゾシカに踏み荒らされて散々ですよ。何とか対策してくれませんかねえ」


「おう、冴子姉さん、そいつあ俺の役割じゃあねえなあ。食料班に頼んで罠でも仕掛けてもらえばいいじゃねえか」

「頼んだけど無駄でしたよ。見えすいた罠に嵌るようなのろまじゃないんですよ、野生の鹿は」

 頷きながら京麻呂が相槌を打つ。


「あいつらには柵も案山子も役に立ちませんからねえ。鹿笛でおびき出してステーキにして食うしかないでしょうよ。それにしても冴子さんは眼鏡をかけて、すっかりインテリ美人になりましたねえ。煉獄公園の花園の中で仕事をしておられる冴子さんの姿を見かけて、見違えてしまいましたよ」


「私をおだてたってストーカーの相手にはならないよ。京麻呂さん、あんたのマネーゲームのおかげで、潤沢な研究費用をもらえるって皆喜んでいるよ。うちの園芸班の班長もね、ハマナスの新種を開発して七色の花を咲かせるんだと意気込んで、エゾカンゾウやルピナスの花粉を交配させてるよ」



 -追想ー


 五月を迎えても知床はまだ冷える。薪をくべたストーブに手をかざしながら、西園寺は感慨深く追想していた。


 東京大学を卒業して法務省に入省してから、民事、刑事と渡り歩いて矯正局へと辿り着くまでに、異端児と呼ばれながら多岐の局面に対応してきた。

 法にあらがい捻じ伏せられても挫けることなく、権威主義の上司に恫喝されて排他されても信念を貫いて生き抜いた。


 法の論理を探求しながら、世界を駆けずり回って犯罪事例を調査した。熾烈な内容を論文にして上司に突き付けたら、法を揺るがすような愚かなまねをすればやけどをすることになると脅された。おとなしく定年を迎えて申し分のない年金生活を送るのが、正しい官吏の生きる道だと諭された。だから私は反論してやった。


 サラリーマンの平均月給が十万円だった頃、人工透析の患者に要する費用は毎月二十五万円以上で、生存年数は五年ほどだと宣告されていた。

 親類縁者に借金して迷惑をかけたところで五年しか生きられないなら、透析を拒んで死を選ぶしかない。苦慮したあげく多くの患者たちは、生きることを諦めた。


 人口透析になった患者に死を選ばせて良いのか。良いはずがない。日本国憲法では、全国民に生きる権利を保障しているのだから。


 それに対して、極悪非道な無期懲役囚や死刑囚に、国費を費やしてまで人権を認める必要があるのか。居住費、維持費、食費、人件費などを、国民の税金で賄う義務があるのか。断じてない!


 無期懲役囚でも模範囚を装えば、たとえ稀にでも仮出所のチャンスが与えられるのはどういうことだ。日本は海外のように懲役百五十年とか二百年というような判決はないのだから、無期懲役囚は絶対に無期であるべきではないか。それとも無期の意味は、単に期限を定めないという曖昧さなのか。


 何人もの人を殺した死刑囚が、なぜ即刻死刑を執行されないのだ。もしも拘置所で寿命をまっとうしたならば、無期懲役囚と同じどころか、労役の義務が無いだけ気楽ではないか。


 全ての囚人たちにも基本的人権を当てはめるから、税金の無駄に矛盾が生じる。この矛盾を解決し、国民に示すことこそが法務省の責任ではないかと論じたら、上司は呆れてそっぽを向いて匙を投げた。

 だからこそ権謀術数の官界を、私は自由気ままに渡り歩いてこられたのかもしれない。そこから新たな思考が始まって、好奇心が疼いて新たな思考を生み出した。



 海外視察でベイルートを訪問中に、内閣情報調査室の係官と出会ったのは偶然だった。彼は東大法学部時代の先輩で、学生時代には右翼を標榜して天下国家を語っていた。

 日本領事館で飲もうと誘われて飲んでいるうちに、彼は国防について議論に熱中し、私は人権について論じていた。


 北朝鮮に拉致された日本人には、基本的人権は与えられないのか。拉致された事実を世界中の誰もが知っているのに、なぜ彼らを取り戻すことが出来ないのか。殺人犯の囚人にさえ国税を費やして与えられる人権が、なぜ彼らには冷酷なのか。

 戦争が終わったにも拘わらず、多くの日本人がシベリアで強制労働をさせられて死者も出た。なぜ日本人である彼らには、基本的人権が与えられなかったのか。

 

 私の主張する人権なんぞ、彼の論じる国防論の埒外だった。互いに論点が違うから、議論は平行線のままだった。ところがその時彼は、平行する議論に交差する一閃の光を密かに見出していたのだ。


 彼から突然呼び出されたのは、帰国してから十年以上も経ってからだった。内閣情報調査室の特別室で、途方もない極秘の国策を聞かされた。

 彼らは喫緊の事情を抱えて苛立っていたのだが、具体的な議論を重ねるうちに、ジグソーパズルの最後の一片が嵌め込まれたごとく、国家と司法の思惑がピタリと重なったのだ。



 どんなに法をこねくり回して整備をこらしたところで、犯罪が無くなるはずがない。

 裁判官は法律という定規と過去の判例にとらわれて、人間の心を凍結した無機質な機械として人を裁かなければならない。そこに人情の機微と法の不合理が横たわる。


 これまで幾多の裁判や判例を通して、事件に遭遇した多くの人たちに接してきた。親族を殺されて怒り苦しむ遺族の絶望的な表情は一律だが、犯罪者たちの事情や顛末は様々だ。


 非業な薄笑いを浮かべる殺人鬼もいるが、運命の綾に絡まれ翻弄されて、もがき苦しむ殺人犯もいる。

 非業な殺人鬼はすぐさま処刑してしまえば決着が付くが、運命の機軸がずれて殺人犯にされてしまった囚人たちには、何の為に生まれて来たのかを、教えてやらねばならないだろう。


 壁に向かって漠然と死だけを見つめ続ける囚人たちに、人間としての生きる活路を模索させる実験を、内閣情報室と結託して法務大臣を動かした。

 しかしなぜ、法務省の一介の官僚の提案を法務大臣が受け入れたのか。内閣総理大臣が直接指示を下すことのできないレベルの国策が仕組まれていたからだ。


 一年が経過して、実験は成功したと自己評価する。法に勝ったとは思わないが、人間が法を操らなければならないという本質を、知床の風が教えてくれたのではないだろうか。


 だがしかし、ここまでは実験で、これからが始まりなのだ。真の目的を達成する為の舞台を、お膳立てしたに過ぎないのだから。


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