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 7の8 悲愴なる決意

 ニューヨークのショップで護身用に買い求めたナイフを上着のポケットに忍ばせて、覚悟を決めて家を出た時には、僕はひとかけらの恐れも、迷いもありませんでした。


 駅の改札口を出て電話ボックスに入り、男が部屋にいることを確かめるために、受話器をとってプッシュしました。


「卑怯者が、姿を見せろ、バカヤロー!」と、ヤクザ男が受話器の向こうで咆哮しました。


 聖女にたかる毒虫め、その咆哮も今日でおしまいだ。天誅の鉄槌を下してやるから覚悟しろ。そう呟いて僕は受話器をカチャリと置きました。

 ナイフを握りしめて深呼吸をして、たかぶる武者震いを鎮めました。


 駅前の商店街を通って砂利道に出ると、トラックが土煙を上げて走り抜ける。畑地が切れ切れに造成されて、新しい住宅やアパートが建ち並ぶ。

 屋根を飛び交う黒いカラスが、夕日を浴びて不吉に赤い。


 アパートの階段口を見渡せる電信柱の影にひそんで、僕は涼子さんの帰りを待ちました。

 足元の路上にミミズが干からびておりました。不快な思いで目を背けた拍子に砂利道を見ると、小柄な涼子さんの姿が目に留まりました。


 僕は大急ぎでアパートの入口まで走り、外階段を上がろうとする彼女の前に立ちはだかりました。

 彼女の表情は一瞬にしてこわばりました。僕の毅然たる決意を察して、悲愴なる勇気に感動したのです。僕は彼女に宣言しました。


「涼子さん、僕と一緒に逃げましょう。あなたを悪霊の檻から救うためにやって来ました。死をもいとわず、愛の絆の強さを信じてここまで来たのです。ささ、僕と手と手を取り合って、ささ、僕のふところに抱かれて、ささ、早く、早くここから逃げましょう」と言って、手を差し伸べました。


 彼女の頬は喜悦の笑みと、修羅の苦悶に翻弄されて紅潮し、苦渋の選択に逡巡したあげく、ああ、何ということでしょうか……。

 僕たちの愛より極道の魔手がまさるのか、彼女は黙って首を左右に振り続けます。


 ああ僕は、ヤクザ男の手から彼女を解き放つには、悪魔のいましめを断ち切るしか術のないことを確信しました。


 僕は階段を駆け上がり、「待って下さい」と叫ぶ彼女の声を尻目に二階のドアの前に立って振り向き、きっぱりと彼女に宣言しました。


「涼子さん、僕と一緒に逃げるか、この部屋に僕を入れるか、どちらかしかないのです」


 白桃のように透けた彼女の白い唇がプルプルと震えていたのは、彼女を愛する僕の決意に感動し、捕縛から解き放たれる時が来たことを知ったからです。


 鍵穴にキーを差し込んでドアを開けると、彼女は部屋に駆け込むやいなや、男の前に立ちはだかるようにして叫びました。


「ごめんなさい、錦小路さま。私たちは結婚しているのです。ですから、あれ以来電話に出るのが辛くて、ごめんなさい」


 可愛そうに、彼女は残虐なヤクザの復讐を恐れていたのです。けなげにも、僕が悪の手によって命の危険にさらされることを懸念して、いたわりの心でとっさに嘘をついたに違いないのです。

 何といとおしい、何とつつましい、何とけなげな。僕の血潮が心臓から脳天に一気に吹き上げました。


「涼子さん、いいのです。もうそんな男など怖れる必要はないのです。僕の勇気と決意を信じて、僕たちの愛だけを見つめていればいいのですよ。そのために僕は来たのですから」


 黙ってビールを飲んでいたヤクザ男は、おもむろに立ち上がって鋭い目つきで威嚇しました。

「おい涼子、何者なんだ、その男は。何しに来やがった」


 僕の心は火の玉となり、あたかもオルレアンの戦いに挑むジャンヌ・ダルクのごとく、いや、関羽の弔い合戦にのぞむ劉備玄徳のごとく、怒りと士気に奮い立ったのであります。


「おい下郎、ここはお前の住む所ではない。涼子さんを拘束してもてあそぶのも今日でおしまいだ。観念してここから出て行け! 今すぐに」

 僕は男を睨みつけて言い放ちました。


「何だとテメーこの野郎、訳の分からねえ事ばかりほざきやがって。さてはお前だな、無言電話の男は。ボウフラみたいな顔しやがって、どこから湧いてきやがったか。勝手に部屋に入るんじゃねえ! 叩きのめしてやる。どけ涼子」


 僕は落ち着き払ってふところからナイフを取り出しました。牛革のホルダーをポイッと投げ捨て、鋭利な切っ先をヤクザ男の胸元に狙いを定めて突き付けました。


 彼女は目尻を狐目に吊り上げて、男が座っていた座卓を避けてズリズリとあとずさりました。


「天誅!」

 怒号一発、両目をいっぱいに見開いた僕は、両手でしっかと握りしめたナイフを正面に突き出し、男の心臓目がけて思いっきり突進しました。


 どこで手順が狂ったのでしょうか、鉄のくさびをズンと打ち込まれたような激痛がみぞおちを貫いたかと思うと、もんどりうって倒れ込んだ僕の身体は団子虫のように丸まって転がり、ベランダ側のガラス戸にガシーンと激突しました。


 握り締めていたナイフはどこかに弾き飛ばされてしまい、頭上から鬼の形相をしたヤクザ男が見下ろしておりました。

 危険を感じた僕はガラス戸をガラリと開けながら這い上がり、よろめきながらも素早くベランダに逃げ出しました。


 ベランダから飛び降りようかと鉄柵にもたれて躊躇していた僕の背後から、興奮しきった男が両手で首を絞めるように伸しかかって来ましたので、僕はとっさに腰を落とし、男の両膝をつかんで思い切り持ち上げました。


 するとどうでしょう、火事場の馬鹿力とでも申しましょうか、男の身体は宙を舞うようにベランダの向こうに飛び出して、まっさかさまに落ちて行きました。


「あっ!」

 一声あげて彼女はベランダに飛び出すと、落下してくたばっているはずのヤクザ男に向かって呼びかけるのです。


「弥太郎さん、大丈夫なの? 弥太郎さーん」

 彼女を落ち着かせようと、僕は優しく涼子さんの肩に手を添えました。


「救急車を、早く、早く救急車を呼ばなくては」

 涼子さんが見苦しくうろたえて受話器を取ろうとするので、僕は電話器を蹴飛ばしました。


「その必要はありませんよ。凶暴な獣が一匹くたばって、ようやく涼子さんは自由の身になれたのですから」

 彼女はとても醜い表情に顔を引きつらせ、僕を睨みつけて叫びました。


「人殺し! 私の夫に何てことをするんですか。あんたは悪魔だ!」

「何を言っているのですか、涼子さん……」


「気やすく私の名を呼ばないで。あんたなんか保険の上得意だから良い顔をして付き合ってやっていただけなのに。勘違いして、のぼせ上がって、色男ぶるのもいい加減にして下さい。あんたなんか大嫌いだわ。早く救急車を呼んでちょうだい」


「涼子さん、何を言い出すんだ涼子さん。君は騙されているんだ。心配しなくてもいいんだよ。君のためにやったのだから。これで僕たちは幸せになれるのだから」


「人殺し! あんたなんか死んでしまえ! さわらないで! さわらないでよ、けがらわしい手で! あっちへ行って! 誰か、誰か警察を……」


 僕はベランダの入口に転がっていたナイフを手に取って、彼女をなだめるように言いました。


「もういいよ。もういいから叫ばないでよ、涼子さん。そんな嘘なんかついちゃいけないよ」


「来ないで! 近寄らないで! こっちへ来ないでよ。誰か、誰かー」

 彼女の叫び声がピタリと途切れて、切り裂かれた喉から真赤な血潮が噴き出しました。


「テメー、涼子に何をしやがった」


 なんと、二階からまっさかさまに転落して悶絶しているはずの男が、よろめきながら階段を上って戻って来たのです。

 男の鉄拳が僕の顔面を打ち砕こうとしましたが、一閃した僕のナイフの切っ先が、男の心臓に突き刺さるのが先でした。


「ああ、何と言う非業な運命でしょう。ああ、あああ……」


「おい京麻呂! それでおしまいか、お前の話は?」


「ああ、健吉さん。僕の苦悶はあの日以来、一時として絶えることはありません。僕は愛する人を殺し、彼女は僕を愛しながら死んでいった」


「お前なあ、そりゃあ大きな見当違いってもんじゃねえのかい?」


「何を言うのですか健吉さんまで。僕はもう、涼子さんの面影を追い続ける苦しみに耐えられなくて死にそうなのです。でも死刑囚の身ですから、勝手に死ぬことすら許されずに、このまま永遠に悶え苦しみ続けなければならないのです。健吉さん、後生ですから僕をひと思いに殺して下さい。僕を涼子さんの所へ行かせて下さい。健吉さんの手で、僕の首を一息にキュッと絞めて下さい」


「何で俺がお前の首を絞めなきゃならねえんだよ。死にたきゃ勝手に死にやがれ」


「健吉さん、さきほど自分で言ったじゃありませんか。俺は明日の生き死にも分からない死刑囚だって。どうせ死刑囚なんだから、いまさら何人殺したって同じじゃないですか。僕も死刑囚ですから殺されたって平気です。どうか後生ですから、僕を楽にして下さい。さあ、冴子さんからも是非お願いを」


「そうだねえ、京麻呂さんの話にも一理はあるし。健吉さん、ひと思いに殺してやんなよ」

「本当に一理あるのかい? しかしなあ、あっちへ行ったら又こいつは、涼子さんとやらの尻を追い回すかもしれないぜ」


「いいじゃないの。あの世でストーカーもまた乙なものかもしれないよ」

「そうかい。姉さんがそう言うなら、どうせ俺は死刑囚なんだし」


「じゃあ、あたしは足を押さえといてあげるから」

「よっしゃ。じゃあ京麻呂、達者でな。三途の川で溺れるんじゃねえぞ」

「グググ、ゲゲ、グガッ」


「やいこら! 何をやってるんだ、お前らそこで」


「あ、所長さん、調度いいところへ。あんた左足を押さえてちょうだいな」


「バカヤロー、何で私が足なんか押さえなきゃならないんだ。おいお前、もしや冴子じゃないのか? おい、私の顔をよく見ろ。覚えているだろう」

「え、あっ、あんたはマーさんじゃないか」


「おうそうだよ。西園寺正義、マーさんだ。なんでお前がこんな所にいるんだ。しかも、なんでストーカー野郎の足なんか押さえているんだ。こら、お前もいつまでも首なんか絞めてるんじゃないぞ。こんな所で人殺しなんかされてたまるか、ふざけやがって」

「グヘッ、グヘッ、ゲゲ。し、所長さま、どうかご慈悲を。どうかひと思いに」


「おい冴子、ふいてやれ、この馬鹿のよだれを。辛いだの死にたいだの、甘ったれたことを抜かしやがって馬鹿たれが。その程度しか知恵が回らないから無期だの死刑だのになっちまうんだお前らは。いいか唐変木、良く聞け、私の話を」


 成り行きをうかがっていた看守長の権藤が、西園寺の意向を察して立ち上がり、酔っぱらって盛り上がる囚人たちを制した。


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