7の7 上野広小路の事務所
フランス料理の店内は、若い男女の会話と笑い声で賑わっておりました。その中で僕たちは、山奥の無人駅のベンチで睦み合っているかのごとく、静かに目と目を見つめ合わせておりました。
そして僕はゆっくりと、妻とのことを語りました。父と喧嘩して勘当されたことなどを、丁寧に語って聞かせたのです。
語り終えて彼女の瞳をしっかと見つめ、僕の決意を告げました。断じて心配しなくても良いのだと。実家と縁を切り妻とも別れるから、君の願っている通り、僕たち二人の愛の世界を築きましょうと。
彼女の瞼は最大限に見開き、感動に視線は宙を舞い、両の肩と肘がワナワナと小刻みにふるえ始めました。
当然でありましょう。彼女にとって一足飛びの朗報ですから、はち切れんばかりの歓喜をおさえることなどできなかったのです。
光明の幸を射止めて息をつまらせ、フォアグラを突き刺したフォークを持つ手がピタリと止まったほどでした。僕はニッコリ笑っていつまでも、彼女の黒い瞳を見つめておりました。
それ以来、彼女に電話をかけるといつも別の女性の声で、外勤に出かけて不在だと告げられるのです。百回かけても彼女は不在です。
僕は思い余って、彼女が勤務している上野広小路の事務所を訪れたのですが、上司だという年増の女性が現われて、やはり不在だと慇懃に告げられました。
仕方がないので彼女の自宅の住所を尋ねたのですが、個人の秘密だから教えられませんとすげなく拒絶されました。
確かに当然の対応かもしれません。だから僕は、決して怪しい者ではない証拠に名刺を差し出し、彼女と将来を誓い合った婚約者だから、どうしても住所を知りたいのだと問いつめましたらば、それほどの関係ならば、どうして住所を知らされていないのですかと、それは意地悪そうな目付きで眉をしかめて睨むのですよ。
これはもしや、彼女の身辺に重大な異変が生じたのではないかと、僕は不安になりました。
彼女が僕からの電話に出られない、よんどころない深い事情が生じたに違いないのだ。両親の介護か、家族の金銭的ないざこざか、そのわけを、どうしても彼女に直接会って確認しなければならないと考えたのです。
翌日の夕刻前に銀行を早退した僕は、大通りのタクシーを拾って上野広小路へと向かいました。
事務所の前でタクシーを降りて、通りを隔てた喫茶店に入りました。窓際の席を陣取ってアメリカンコーヒーを飲みながら、これまでの彼女との会話のやり取りを事細かく反芻しておりました。
だけど、どんなに思案を巡らせても、理由が見当たりません。そして僕は、それこそが理由だと理解しました。
誰にも打ち明けることのできない秘密の苦悶に呻吟して、僕に助けを求めているに違いない。僕からの電話に出ないのは、暗黙のSOSなのだと。
上野界隈は下町風情がいまだに残り、丸の内を職場とする者には、よそ者を疎外するような垢抜けなさを感じるのです。
深くため息をついて三杯目のコーヒーを口に含んでおりましたらば、清楚なスーツに身を包んだ涼子さんが、ほのかに灯り始めた街路灯に照り出されて、軽やかな歩みでこちらに向かっておりました。
涼子さんの姿はとてもいじらしく、初めて出会った胸のときめきを思い起こして僕はしばし目がくらみました。
はやる心を抑え込み、彼女が事務所に入るのを確かめて、仕事を終えて事務所を出るまで待ちました。長い時間のように感じましたが、わずか三十分ほどのことでした。
僕は素早くコーヒーの支払いを済ませると、気づかれないように彼女のあとをつけました。山手線に乗って池袋駅で乗り換え、十五分あまりの駅で彼女は降りました。
駅前の商店が並ぶ通りを抜けて、およそ十分も歩くと空き地や小さな畑地が目立ちました。
砂利道沿いに二階建てのアパートがあり、階段口から彼女は二階に上がって行きました。僕は急いでベランダ側の畑地に回り、どの部屋の窓に明かりが灯されるのかを見上げて待ちました。
アパートの二階には五つの窓がありましたが、そのうち三つの窓にはすでに明かりが灯されていたのです。ところが、残された二つの窓のいずれにも、いっこうに明かりが灯される気配がありません。
僕はいぶかしく思い、足音をしのばせて外階段を上りました。そして二階のドアの表札を確かめたところ、望月と記されたドアが一つありました。ところがどういうことでしょうか、そのドアの部屋の窓には、彼女が帰宅する前から電灯が灯されていたのです。
もはや謎は解けました。涼子さんはこの狭いアパートの一室で、病弱な母上と同居しているのです。金銭的な問題と介護とで、彼女は沈黙を守っていたのです。何と健気で痛ましい。
これからはこの僕が、涼子さんをお守りするのだと、母上様に伝えなければならないが、確かな証を見せねばなりません。そう考えて、その日は引き上げました。
翌日僕は、仮病をつかって銀行を欠勤したことは言うまでもありません。僕の内ポケットには、百万円の札束が入っておりました。母上様の介護の費用として、また結納金として。
僕は駅前の交番でアパートの番地を教えてもらい、電話帳で望月姓の電話番号を探してもらいました。
一件の番号が見つかったのですが、望月涼子ではなく望月弥太郎と記されていました。僕は苦笑いをしてしまいました。床にふせって病弱なのは、母上ではなく父上だったのですから。
そう思うと堪えきれずに、電話の番号を押していました。そうしたらどうでしょう、受話器から飛び出す声は、荒々しい男の声でした。
僕は逡巡しながら無言でいますと、男の声はしびれを切らしたのか、ドスの効いた巻き舌に変わりました。
「誰だ、お前は、なんで黙っていやがるんだ! いたずら電話なんかしやがって、ただじゃ済まさねえぞこのヤロー!」と、ヤクザのような男の怒声にうろたえた僕は、思わず電話を切りました。
僕は考えを改めました。彼女の部屋に住み着いていたのは、父上でも母上でもなく、凶暴なヤクザだったのです。そんないかがわしい男にまとわりつかれて、僕たちの逢瀬の邪魔をされていたのです。
翌日もまた翌日も、僕は無言電話をかけ続けました。受話器に出るのはいつも、凶暴なヤクザの唸り声でした。
もう間違いありません。この男は彼女の兄弟でもなく客人でもなく、成敗しなければならない凶兆のウジ虫なのです。
卑劣なヤクザの恐喝に、自由を奪われた涼子さんの呪縛を解かない限り、僕たちの幸せも未来もありえない。
さりとて、武道や格闘の術さえわきまえぬ非力な自分に、ヤクザを成敗するなどできません。日々悶々とするばかりで、嫉妬と憎悪が早鐘となり、胸の鼓動を打ち鳴らしておりました。
だが、一寸の虫にも五分の魂と申します。ついに堪忍袋に火がついたのです。