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 7の5 生保の講演会

 大食堂の正面で、椅子に胡坐あぐらをかいて座っている看守長の権藤は、懲戒棒をテーブルの上に放り投げて三囚合同コンパの酒盛りを監視している。

 なにしろ看守たちは女囚を相手に酒を酌み交わして頼りにならないので、自分だけは気を緩める訳にはいかないと酒を控えている。



 西の窓際のテーブル席では、西日の照り返しのせいかそれとも酒のせいか、額も頬も真っ赤に染めた三人の囚人の会話がはずんでいる。


「国際金融だか何だかよく分からねえが、とにかく日本に帰って、女房も息子も京都の実家に預けたんだろう? それでどうしたんだ、お前の前に現れた女ってのは?」

 ビールの泡を飛ばして一息ついている京麻呂に、じれったそうに話の先をかせるのは健吉だった。


「はい、僕は帰国を命じられて東京本店の国際部門に配属されたのですが、ニューヨークと比して緩慢な業務が厭わしく、忸怩たる思いのさなかに彼女は僕の前に現れたのですよ。どんな女かですって? まあ聞いて下さい、感動的な愛のメルヘンを……」



*****

 月曜日の朝礼の後に、僕は部長に呼ばれました。

 君はアメリカで国際金融業務を実践してきたのだから、生命保険会社の研修会に行って、講師として一席ぶって来いと言われたのです。


 講演なんて苦手だからと断ろうとしたのですが、生保の役員に頼まれて、やむなく引き受けてきたのだから行けと命令されて、僕は仕方なく一週間後の月曜日に、生保会社の研修センターを訪れたのです。


 なんと、生保の研修センターは広大な緑地内にあり、うちの本店よりも立派なビルでした。案内されて講演会場である研修室に入りますと、三百人余りの女性たちの香水の匂いに圧倒されてたじろぎました。


 演壇に上がって会場を見渡すと、女性たちの眼差しが一斉に突き刺さる。気を静めるために僕はコップの水を一口飲んで、ニッコリ微笑んで講師の威厳を保って見せました。


 講演の受講者は保険の外交員たちだと聞いておりましたので、複雑な金融の実務よりも、海外で体験したエピソードなどを、面白おかしく聞かせてやれば良いだろうと準備して参りました。


 女性外交員たちは一人残らず僕の語らいに心酔し、催眠術にかかったように熱い視線で僕を見つめておりました。

 とりわけ最前列の小柄な美少女は、いえ、少女のごとき可憐なショートヘアの黒い瞳は、天使ガブリエルにひざまずく聖女マリアのごとく輝いておりました。


 講演が終わりますと、講師の僕も立食の昼食会に招かれました。


 ホテルのような広い宴会場に案内されて、小皿に取り分けたローストビーフを頬張っておりますと、先ほどのショートヘアの女性が目をうるませて近づいて来たのです。そして、上目遣いにそっと名刺を差し出してきました。

 名刺には、望月もちづき涼子りょうこと記されておりました。


 彼女が何を求めていたかは明快です。僕に名前を知って欲しかっただけではありません。シャインマスカットの初々しい恥じらいの眼差しが証明です。


 感動したのだと、彼女はあけすけに白状しました。女が金融の世界で生きることの意義に目覚めたと言って、僕の手を握り締めました。彼女の瞳はマンハッタンの夜景のごとく、紅蓮の炎に燃えていたのです。


 彼女は、いや、涼子さんは、名刺に添えて一枚のテレホンカードを僕に寄越したのです。ジャーマンアイリスの花が印刷されたそのカードには、彼女の電話番号が記されていました。


 アイリスの花ことばは愛です。あなたへの愛です。僕の心臓の鼓動が瞬時停止したことは言うまでもありません。この瞬間に、運命の赤い糸に火が付いたことを知りました。


 真っ赤な糸にからまれて、僕の魂がシャインマスカットの瞳に吸い込まれていきました。僕の熱き心が炎上し、深い奈落の淵まで溶けていく。それは生まれて初めて知った、恋することの奇跡と感動でした。


 シンガポールのガンダーラの赤い糸はどこへ消えたかと? あれは虚妄の愛でした。輪廻の揺らぎに幻の愛を追い求めてさまようまどろみの錯覚だったのです。その歪められた愚かな間違いを、涼子さんは、真実の愛を示して気づかせてくれたのです。


 翌日、さっそくカードに記された番号に電話をしました。それが紳士としての礼儀というものでしょう。

 はじけるように爽やかな声が飛び出しました。受話器から耳に入る周囲の騒音から察すると、その番号は事務所のダイヤルインのようでした。


 涼子さんは、僕からの電話を待ち望んでいたのです。その証拠に、大喜びで再会の約束をしてくれました。



 ーレストランにてー


 その日は花の金曜日でした。ちなみに大安吉日でもありました。

 僕はきっちり定時で仕事を投げ出し、地下鉄に乗って約束の駅に着きますと、ロングワンピースの涼子さんが改札口で手を振ってくれました。


 駅の階段を上がって通りに出ると、雨上がりの夕闇がほのかに霞んでおりました。僕は涼子さんをエスコートして、予約しておいたイタリア料理の店に入りました。もちろんフルコースの料理をオーダーし、ドンペリのシャンパンを頼みました。


 僕たちは人生を論じ、愛について語り合いました。彼女は僕の論理に心酔し、僕の情熱を受け止めてくれました。

 時も舞台も永遠だと思っていました。ほとばしる彼女の愛の炎をいつまでも感じていたかった。だけど無情にも、至福の時間は意地悪なほどの速さで経過します。


 残さず料理を食べ終えて、僕が最後のシャンパンを飲み干したとき、彼女は改まったように姿勢を正し、僕に生命保険を勧めてきたのです。


 僕はかねてから生命保険というものを蔑視しておりましたので、これまでどんな勧誘にも応じた事はありません。


 他人の生命を天秤にかけて、危険を煽って舌先三寸で目くらまし、血と汗で稼いだ金を情け容赦なく巻き上げていく。これが生命保険会社の戦術でしょう。

 当時は外資との競合もない金融鎖国の状態でしたから、どこの保険会社も高額な金額を押し付けて、法外な利益に潤っていたのです。


 賢明なる僕は、保険料を支払うつもりの金額を、銀行に積み立て預金をしていたのです。

 風邪や歯の治療なんかに保険金は出ない。病気で入院した際には、自分で積み立てた預金で支払った方が早いし無駄がない。

 保険会社からわずかなベッド代を貰って、得した気分で喜んでいるのは錯覚に過ぎない。保険に入って本当に喜ぶのは、保険金詐欺の殺人犯くらいのものですよ。


 だから保険会社なんて、あくどい詐欺師の集団みたいなもんだと見くびっていた。その僕が、彼女の勧める最上級の生命保険に、喜んで加入してあげたのですよ。


 保険会社に雇われた若き女性外交員たちは、長良川の鵜匠に首を繋がれた鵜のように、叱咤され、ノルマを課せられ、安い給料でこき使われている。そんな現実を知っている僕だからこそ、今の彼女を救ってあげる使命があったのです。


 いつか結ばれる日のために、彼女は僕の健康を心から心配していたのです。だから最上の保険を勧めてくれたのです。

 愛を捧げてくれる彼女だからこそ、僕は感謝の気持を証にして示したにすぎないのです。


 それは婚約指輪のようなものだと言われるのですか? とんでもありません。結婚届に捺印して棺桶に片足突っ込んだようなものですよ。だってそうではありませんか。最上級の足かせによって、僕の生命を彼女にあずけたことになるのですから。


 シャンパンを一息に飲み干す涼子さんの、愛くるしい天使の微笑みを見ているだけで僕は満足でした。


携帯電話が普及する以前は、テレホンカードが便利で必携でした。

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