7の3 米国
銀行業務に精通し、語学が達者で国際感覚を身につけている行員なんて、当時の銀行内には限られていました。
わが京都の銀行だけではありません。大手の財閥系や都市銀行においても同様でした。ですから、そのような人材がひとたび海外駐在に決まりますと、ロンドンからニューヨークへ、香港からパリへという具合に、外地から外地へ飛ばされる海外駐在のたらい回しが当然という風潮でした。
シンガポールでお世話になった銀行の支店長さんは、溜息をつきながら嘆いておられましたよ。
「私はねえ、三十五歳を機に念願の新築一戸建てを購入しました。長期の住宅ローンを組んで購入しました。ところがねえ、いざ入居しようと思った矢先にロンドンへの赴任命令が出ましてねえ。三年間くらいの予定だからと言われて辞令を受け取りました。ところがですよ、三年たって辞令を受け取ったのはシカゴ勤務ですよ。それで終わりじゃありませんよ。さらに三年後には香港で、それからベイルートにシンガポールですよ。そのうち女房のヒステリーが爆発しましたよ。いつになったら私たちの新居に住めるのよってね。そのうち新居が廃墟になってしまわないかと私も心配になりましたよ」
当時の海外赴任だといえば、どんな企業でもエリートに思われておりましたけど、子供の教育や文化の違いに随分と悩まされていたようですよ。
僕はロサンゼルスに赴任して、事務所開設に至るまでは何かと多忙でしたから、彼女への想いを脳裏の隅に追いやっておくことが出来ましたけど、ようやく準備も整い、顧客企業への挨拶訪問を一通り終えるころには、前にも増して切ない思いがつのるようになっていました。
サンタモニカにもディズニーにも行きましたが、気がまぎれるどころか余計に一人でいることの辛さを味わう惨めな絶望感におちいりました。
ロスの街角で眼孔深い美少女の微笑とすれ違うたびに、思わず立ち止まって後姿が消えるまで見入っておりました。
ロスに長期滞在している部品メーカーの支社長さんを訪問した際に、ロスの治安は悪くなっているから注意するようにと忠告を受けました。
「エレベーターの中でもトイレの中でも、拳銃をつきつけられたら黙って財布を渡してください。背広の内ポケットに手を入れてはいけません。拳銃を出すと勘違いされて撃たれます。女性だからと油断してはいけません。うちのベテラン社員が大通りのど真ん中でやられました。地図を広げた白人の女に道をたずねられて、地図をのぞきこんで親切に道を教えていたら、突然四人の男に囲まれて財布も小銭もみんなやられてしまいました。まあ、命まで取られなかったのが幸いでしたが、街中を一人でふらふら歩いていると狙われますよ。住み慣れて気を許した頃が最も危ないので、十分に気を付けてください」
そう教えられても、すべての日本人が襲われるわけでもなし、恐れてばかりいては住むことも仕事をすることもできません。
それに西海岸の風は爽やかでした。パームツリーの匂いがします。大都会なのに喧騒さがありません。
事務所を辞してタクシーを拾う気にもならず、カリフォルニアの空を見上げながらパームツリーのアベニューを歩いておりました。
しばらく歩いているうちに、異質な静寂感に正気を取り戻してふと周囲を見回すと、いつの間にか見慣れない場所を歩いていることに気づいたのです。
右手に壁面の崩れた倉庫が建ち並び、左手には鉄条網のコンクリート塀が続いている。黒人やラテン系の男たちが、曲がり角ごとにたむろしていたのです。
僕は思わず目をふせました。慌てて駆け出してはいけない。おびえた素振りを見せてはならない。どうやら繁華街のはずれに位置するスラム街に立ち入ってしまったようだ。ならば、この道を真っ直ぐ抜ければ大通りに出られるはずだ。
僕は気を取り直し、背筋を伸ばしてゆっくりと歩を進めておりましたら、いきなり後頭部を硬い物でガツンと殴られました。
膝を崩してうずくまる寸前に、両側から抱き支えられるようにしてコンクリの壁に押し付けられました。
犯罪者の顔を見ると殺されてしまうと忠告されていたのですが、とっさのことに僕は、彼らの顔をしっかりと見すえていました。
二人の男は黒人の大男でもなく、拳銃を持った白人でもありませんでした。皮膚の色から察すれば、中米からの移民かもしれません。彼らの一人が右手でもてあそんでいたのは拳銃ではなく、折り畳まれたナイフでした。
言われた通りに財布を渡すと、一人の男が百ドル札を二枚引き抜きました。そして、十ドル札を数枚残した財布を僕の背広の内ポケットに差し込むと、白い歯をむき出してニッと笑いました。
もう一人の男が、僕の歯茎にチョコレートのような物を揉み込むように塗り付けて言いました。
「俺たちは強盗じゃあないんだよ、クックック」
それから黒い破片の入った小瓶を目の前にちらつかせて、僕の背広のポケットに入れました。二人の男は背を向けると、ラテンのリズムを口ずさみながら去って行きました。
命だけは助かったとホッと一息つきましたが、一刻も早くスラムを抜け出なければと我に返り、向こうに見える大通りへと急ぎました。ところがどうしたことでしょう、いきなり地面が揺れて波打って、まっすぐ歩行ができないのですよ。
急ごうという意識が先行し過ぎて、動作が緩慢になっているのです。いや、その逆だったかもしれません。
錯乱した意識が動作に遅れてうろたえていたとき、男が僕の耳元にささやいた言葉を思い出しました。ハシシです。そうです、歯茎に塗り込まれたのはマリファナだったのです。
僕は生まれて初めて煙草を吸いました。自動販売機にコインを入れて赤いラベルのシガレットを買いました。瞼に張り付くマハラジャの妖精を忘れるために、黒色の破片を付けて吸い込みました。何本も何本も吸いました。
それが癖になってしまった僕は、小瓶の破片が無くなるたびに、薄汚れたシャツと擦り切れのジーパンをはいて再びスラムの倉庫へ行きました。
学生時代に耳にしました。ベトナム戦争の最前線で、ベトコン兵士が勇猛果敢に米軍戦車に突進して行った。そのとき彼らは生アヘンを口に含み、ガリバーのような巨大な身体に幻覚変身していたという話です。